クリスマスⅢ
「美味しかったですね」
「ああ。人気になるのも分かるよ」
隠れ家的なレストランで食事を終えた俺たちは、料理の感想を口にしながら店を出る。ふと時計を見れば、すでに九時近くになっていた。
「独創的なお料理が多くて、すごく刺激を受けた気がします。今度、あのメインディッシュを再現してみますね」
「ああ、ビーフシチューに見えて全然違ったアレか。それは楽しみだな。……というか、再現できるのか? 凄いな」
「完全に再現できるか分かりませんけれど、近い味は出せると思います」
霞は自信を持って請け合う。目にする料理の一品一品に目を輝かせていたし、よっぽど興味を引かれたのだろう。そう告げると、彼女はにっこりと微笑んだ。
「こうしてレシピを考えるの、とても楽しいんです。……京弥さん、ありがとうございます。このお店、予約を取るのが難しいんですよね?」
「運が良かったんだろう」
俺は言葉少なに答える。実際には、霞がとても行きたがっていると美幸に聞いた時点で予約を入れていたのだ。その時はまだ秋の終わりだったため、なんとか空いた枠に潜り込めた格好だった。
「霞がそんなに喜ぶなら、もう少し外食を増やしてもいいかもな」
ごまかしも兼ねてそんな提案を口にする。個人的には霞の料理に勝るものはないが、俺の喜びのために彼女の楽しみを奪うわけにはいかないだろう。
「悩ましいですね……京弥さんに私の料理を食べてもらいたい気持ちと、一緒に新しい発見をしたい気持ちがせめぎ合ってます」
「いっそ夕食を二回食べるのもありだな」
「ふふっ、京弥さんはよく食べますからね。作る側としては嬉しいです」
そんな会話をしながら歩いていた俺たちは、やがて海に面した公園へ辿り着いた。孝祐情報では穴場の公園らしいのだが、クリスマスの夜だけあってか、至る所にカップルが点在している。
「わぁ……! 夜の海も素敵ですね」
公園の手すりから海を見た霞は、はしゃぐように歓声を上げた。あえて光源を絞った公園のイルミネーションや、たまに行き交う船の装飾光が、たゆたう海面に光を投げかける。
「夜ならではの輝きだな」
陽光が水面で乱反射する光景が好きな霞のことだ。この光景も気に入るだろうと考えていたものの、やはり本人が喜んでいる様子を見るとほっとする。
「船が通ると光の加減が変わって……全然飽きませんね」
「いい感じに水面を揺らしてくれるんだな」
「あ! 京弥さん、あっちの船が動きそうですよ」
「これはまた、大きな豪華客船だな」
「いつまででも眺めていられそうです」
そうしてどれほど堪能しただろうか。やがて、霞ははっとした様子で周りを見回した。
「どうした?」
問いかければ、彼女は恥ずかしそうに口を開く。
「私、ちょっとはしゃぎ過ぎたような気がします」
なるほど、そういうことか。顰蹙を買うほど騒がしくはなかったし、気にするほどのことではないだろう。普段は周囲の耳目を集める霞だが、さすがにこの空間での注目度は高くないようだった。
「周りはカップルばかりだろうからな。どうせお互いしか見えてないさ」
俺は茶化すように肩をすくめる。そして、冗談の一つも言おうとして――。
「それって……私たちもですか?」
「え――?」
思わぬ切り返しに、俺の頭の中は真っ白になった。冷静になれと自分に言い聞かせているうちに、霞はぐっと顔を寄せて囁く。
「私には……京弥さんしか見えません」
それは、普段の彼女らしからぬ蠱惑的な響きだった。清楚な雰囲気の霞から漂う、妖しげな色香。その威力は甚大で、なんとか紡ぎ出そうとした言葉がまた霧散していく。
「京弥さんには、何が見えていますか?」
俺の頬に手を伸ばして、そう問いかけてくる。イルミネーションだけを光源としている公園は薄暗く、その光量が霞の魅力をいっそう引き立てていた。
そんな彼女を見ているうちに、自然と口から言葉がこぼれる。
「霞しか見えないな。……ずっと前から」
「……!」
霞ははっと息を飲んだ。硬直したせいか、それとも我に返ったのか。彼女がまとっていた蠱惑的な空気が霧散する。
「そんなに驚かなくても分かっていたことだろう?」
ようやく軽口を叩く余裕を手に入れた俺は、照れ隠しに口を開いた。すると、霞は嬉しそうな顔で首を横に振る。
「それでも、言葉でもらうことには意味がありますから」
「そんなものか……?」
「はい。そんなものです」
霞は楽しそうに言葉を返してくる。だが、やがてばつの悪そうな表情を浮かべると、周囲を見回した。
「どうした?」
「いえ……皆さんの雰囲気に当てられて、ちょっと暴走しちゃったなって」
「霞の新しい一面を見られて、俺は嬉しかったけどな」
「え?」
俺の回答が予想外だったのか、彼女はぽかんとした表情でこちらを見つめる。だが、やがて気を取り直したのだろう。霞は悪戯っぽい表情で口を開いた。
「あんな一面もお好きですか?」
「ああ。好きだよ」
真顔で答えれば、「……もう」と照れた様子で視線を逸らす。その間にと、俺は鞄に手を入れて目当ての品を取り出した。
「霞。受け取ってくれるか?」
俺が差し出したのは、手のひらサイズのクリスマスプレゼントだった。霞は一瞬驚いた後で、大切そうに両手で贈り物を抱きしめる。
「京弥さん、ありがとうございます。あの……開けてもいいですか?」
「もちろん」
俺が頷きを返すと、彼女は丁寧な手つきで包装を開いていく。やがて出てきたのは、プラチナ製のペンダントだ。プラチナで作られた鎖に、捻りの入ったリングがペンダントトップとして通されている。
ペンダントトップには極小のダイヤモンドが使われているが、そこまで高いものではない。あまり高いものだと、普段使いしにくいと美幸にアドバイスを受けたからだ。
「……!」
霞は言葉を発することもなく、一心に贈り物を見つめている。だが、その瞳は輝いていて、その心情を不安に思う必要はなさそうだった。
「こんなに素敵なものを、本当に私がもらっていいんですか……!?」
やがて彼女の口から発せられたのは、そんな確認の言葉だった。
「ああ。霞のために選んだプレゼントだからな」
そんな言葉でようやく決心がついたのか、霞はペンダントを手に取った。コートを脱いだということは、この場で着けてくれるつもりなのだろう。だが、その途中でふとその動きが止まる。
「どうした?」
何か不具合があったのだろうか。そう心配していると、彼女はペンダントを俺へと差し出した。
「……よかったら、着けてもらえますか?」
そして、はにかみながら告げる。そんな表情を見せつけられて、断れる男は存在しない。そう思わせるに足る、とても魅力的な表情だった。
「分かった」
俺はペンダントを受け取ると、正面から彼女の首の後ろへ手を回した。半ば抱きしめるような姿勢になることや、留め具の小ささに戸惑って少し時間がかかったが、なんとかペンダントを着ることに成功する。
「よし、着けられた」
後ろへ一歩下がった俺は、改めて霞の姿を眺めた。彼女はその特殊な経緯から、ほとんど装飾品を持っていない。そんなこともあって、汎用性が高く、彼女に似合うものを選んだつもりだった。
「……似合ってる」
そして、その判断は間違っていなかった。贈ったペンダントは霞の首もとで控えめに輝いていて、彼女の服装とよく調和しているように思えた。
「ありがとうございます。……ずっと大切にしますね」
霞はそっとペンダントに触れると、幸せそうに微笑んだ。
◆◆◆
「――少し寄りたい場所があるんですけど、いいですか?」
「ああ。どこに寄ればいい?」
クリスマスデートの帰り道。車の助手席に座っていた霞が口を開いたのは、家の近所まで帰ってきた時だった。
「公園なんですけど、名前は分からなくて……私が道案内します」
霞の先導に従って、俺は車を生活道路へ進める。やがて辿り着いたのは、初めて見る小さな公園だった。
「こんな公園があったのか……」
車を降りると、きょろきょろと周りを見回す。ここから家まで徒歩で二、三十分ほどだろうか。公園には年季の入ったベンチが二つあるだけで、遊具の類も見られなかった。
なぜ、霞はこの公園に来たがったのか。不思議に思って霞を見つめていると、彼女は奥にあるベンチの背に触れた。
「この公園……ちょっと似てるんです」
「似てるって、何のことだ?」
そう問いかければ、霞は懐かしむような表情で答える。
「今の私が目を覚ました公園です」
「え――」
突然の告白に、俺は目を瞬かせた。
「はっと気付いたら、ベンチに横たわっていたんです。自分のことが思い出せないと気付いた時には、本当に愕然としました」
そして、唯一の手掛かりだった健康食品店『トワイライト』の住所が書かれたメモを頼りに、俺の前に現れたのだ。
「そうだったのか……」
「普通なら、私は不安や悲嘆に押し潰されていたはずです。……でも、私には京弥さんがいてくれました」
そう語る霞の表情は張り詰めていた。話がどこに向かうのか分からず、俺は黙って彼女の言葉を待つ。
「今日は本当に楽しかったです。私にとって最高の思い出になりましたし、それは京弥さんのおかげです。だから――」
何かを案じるような瞳で、霞はまっすぐ俺を見つめる。そして、ためらいがちに口を開いた。
「京弥さんが隠していることを、私に教えてください」
「――!」
俺はその言葉に目を見開いた。だが……何事もなかったかのように、わざと首を傾げてみせる。
「なんの話だ?」
「今日の京弥さんは、とても素敵でした。いつも通りに優しくて、でも、いつになく積極的で……」
「それなら嬉しいな。俺も楽しかったし、今日のことはずっと忘れない」
それは衷心からの言葉だ。その言葉には一片の嘘もないし、これからも何度だって思い出すだろう。それは俺の確信だった。
「――じゃあ、どうしてそんな顔をしてるんですか?」
「え……?」
俺は思わず自分の顔に手を当てた。だが、それで何かが分かることもなく、ただ動揺が深まっていく。そんな俺を、霞は気遣わしげな顔で見つめていた。
「ほんの一瞬ですけど……京弥さんは、何度か今みたいな顔をしていました。まるで、何か辛いことを覚悟しているみたいに」
その言葉に俺は沈黙する。すると、霞はそっと俺の手を取った。
「京弥さん。その辛さを分け合うことはできませんか? たとえ何を言われたとしても、今日が幸せだった事実は変わりません。ずっと私の大切な記憶です」
「霞……」
その言葉で、彼女が察しを付けていることを悟る。そして……それならもう隠す意味もない。そう観念した俺はようやく口を開く。だが、その口調は自分でも驚くほど弱々しいものだった。
「……せめて、今日は幸せな一日を過ごしてほしかったんだ。霞にとっても、俺にとっても」
だからこそ今日という日を選んだし、自分に正直に振る舞ったのだ。そのほうがお互いに幸せだろうし、記憶にも残る。そう思って。
「京弥さんの気持ちは本当に嬉しいです。でも、大切な人が辛い思いをしているのに、自分だけ幸せを享受できるほど、私は器用じゃないです」
「……悪かった」
霞の言葉を受けて、俺はようやく覚悟を固めた。そして……できるだけ負の感情を乗せないように、淡々と彼女に事実を告げた。
「記憶の封印を解く準備ができた。――いつでも、君は記憶を取り戻せる」




