クリスマスⅠ
「クリスマスですか?」
めっきり寒くなった十二月のとある日。ある決意を胸に秘めた俺は、霞の予定を聞き出していた。
「ああ。ちょうど水曜日だからな。それで……」
どうにも照れて言葉に詰まる。だが、霞の期待に満ちた瞳を見てしまっては、今さら言葉を引っ込めるわけにはいかなかった。
「よかったら一緒に出掛けな――」
「はい! 楽しみです……!」
霞は笑顔で即答する。ややフライング気味だったのは、その言葉を予想していて、なおかつそう望んでいたからだと思っていいのだろうか。
「それはよかった。……あ、仕事は大丈夫か? ホライゾンカフェは稼ぎ時だろう」
「クリスマスイブはきちんとシフトを入れてますし、いつも水曜日はお休みですから大丈夫です」
それに、と彼女は続ける。
「私も、その……同じことを考えていましたから」
「そ、そうか」
はにかみながら言われては、こっちまで照れてしまう。
「京弥さんから誘ってくれるなんて、本当に嬉しいです」
そう告げる霞は本当に幸せそうで、この顔を見られただけでも誘った甲斐はあったというものだ。
「じゃあ、当日のプランを考えるよ」
「よかったら、一緒に考えませんか? 京弥さんと二人であれこれ考えるの、きっと楽しいと思います」
満面の笑みでなされた提案を、俺は即座に可決した。
◆◆◆
透き通った輪郭が、光を反射して白くきらめく。海を模した雄大で精緻な造形に、俺たちは目を奪われていた。
「この作品、とても素敵ですね……!」
「海底に差し込む光の表現が凄いな。ガラスでここまで表現できるのか……」
感動している霞に同意を示す。ここは、ガラス細工やガラスアートを集めた展示会場だ。今年の冬限定の特設会場らしいが、素人の俺でもレベルの高い催事だと分かる。クリスマスということもあってか、なかなかの込み具合だった。
今、俺たちが見ているのは、数メートルはある巨大な海底のオブジェだ。パンフレットの表紙にもなっている作品だが、それも頷ける存在感だった。
「あ、こっちはグラスやお皿の展示ですね」
やがて別のフロアへ移動した俺たちを迎えたのは、生活用品としても馴染みのある品々だった。先ほどの作品は無色だったが、こちらは色鮮やかな作品も多く、異なる美しさを生み出していた。
「このお皿、とても綺麗な色合いですね」
そう言って霞が指差したのは、透明から濃緑色へのグラデーションが綺麗な長皿だ。
「そうだな。トマトが合いそうな色合いだ」
そう感想を告げれば、霞が堪えかねたように噴き出した。
「実用的ですね……ふふっ」
霞は楽しそうに笑って、一つ一つの作品を丁寧に眺めていく。そんな霞を眺めていると、こっちまで楽しくなってくる。
と、その様子を見ていた俺の視界に、ふと雰囲気の違うコーナーが映った。豪華に飾り付けられたエリアに展示されているのは……。
「あれは――靴か」
「やっぱり、ガラスの靴は作りたくなりますよね」
そんな話をしながら、二人で様々なガラスの靴を鑑賞する。シンプルなものから豪奢なものまで、色々な解釈のガラス靴が並んでいる様は壮観だった。
「霞も履いてみるか?」
そう聞いたのは、『ガラスの靴体験コーナー』という一角を見つけたからだ。なかなか人気のようで、ちょっとした人だかりができている。
「大丈夫です。今の私には必要ありませんから」
彼女は穏やかに微笑むと、俺の右腕を抱え込んだ。必然的に腕を組む形になるが、今日は俺も覚悟を決めている。照れはするものの、堂々と彼女に腕を貸す。
「京弥さん……?」
そんな俺の反応が意外だったのか、霞は一瞬きょとんとした様子で俺を見つめた。だが、そんな顔をしていたのも束の間、やがて嬉しさと恥じらいの入り混じった笑みを浮かべる。
至近距離で向けられたその笑顔はあまりに魅力的で、俺は返事も忘れて立ち尽くしていた。
「あの、どうかしましたか?」
霞に声を掛けられたことで、惚けていた俺ははっと我に返った。さすがに見惚れていたとは言えず、ごまかすように前方を指差す。
「あれもガラスなんだよな? 凄いな」
そう言って示したのは、透明なガラスで作られた大きなアーチだった。逆U字型のアーチの周囲には同じくガラス製の樹木が飾られていて、幻想的な光景を作り上げていた。
「……!」
霞ははっと息を飲むと、よっぽど気になるのか早足でアーチの下へと向かう。よほど気に入ったのだろう。組んだ腕も解けているが、それにも気付いていないようだった。
「物語の世界みたいですね……!」
そして、一足先に豪奢なアーチの根元に辿り着いた彼女は、満面の笑顔で話しかけて――。
「え? 京弥さん?」
そして、ようやく俺を置いていったことに気付いたらしい。俺も追いかけようとしたのだが、人気スポットのようで人混みに妨害されていたのだ。
「おっ、すっげえ美人」
「困ってるなら声かけるか?」
そして困ったことに、一人になったことで霞は一気に注目を集めたようだった。彼女の整った容姿はただでさえ人目を引く。幻想的な光景の中で笑顔を浮かべた霞は、あまりに魅力的だった。
「霞、ここだ!」
そんなことを考えたせいか、思わず大きな声が出る。手をぶんぶんと振れば、霞も気付いたようで小さく微笑んだ。今度は俺に視線が集中するが、彼女に声をかけようとする不埒な輩を牽制できるなら安いものだ。
「京弥さん、すみません……ついはしゃいじゃって」
人混みをかき分けてようやく合流した霞は、決まり悪そうに謝罪を口にした。
「謝ることじゃないさ。それくらい素敵だったんだろう?」
「はい!」
勢いよく答える霞に笑みをこぼす。そうして、今度は二人でガラスのアーチの下を歩く。ガラスの特性を生かすように、巧みに計算された光源が更なる非日常を生み出していた。
「……京弥さんとここに来られて、本当によかったです」
腕を組んだまま、無言で歩いていた霞はふと口を開く。
「俺もだ。このガラスの庭園は、霞の魅力を引き出してくれるからな。見られてよかった」
そう本音を告げると、霞は照れた様子で笑った。そして、甘えるように顔を寄せてくる。
「ありがとうございます。……でも、京弥さんもお似合いですよ?」
「俺が?」
思わぬ言葉に聞き返せば、彼女は即座に頷いた。
「はい。王子様も顔負けです」
「光栄だが、そんなに持ち上げても何も出ないぞ」
そんなやり取りをしながら、最後のアーチを潜り抜ける。名残惜しさを感じながら次の展示を探していると、ふと視界に『休憩コーナー』の表示が映った。
「しばらく歩き詰めだったし、少し休憩するか?」
「そうですね。一気に回っちゃうと、なんだかもったいない気がします」
霞の賛成を得て、俺たちは休憩コーナーへと向かう。さすがにガラス製のベンチはなかったが、中に入ると意外と広いスペースが取られていた。俺たちは空いているベンチを見つけて、並んで腰を下ろす。
「素敵な作品ばかりでしたね」
「ああ。今で半分くらいだと思うが、見ごたえがあったな」
答えながら、俺は鞄に入れていたパンフレットを取り出した。俺の記憶通り、今で半分ほど展示を見たことになるようだった。
「そうですね。もう一周したいくらいです」
と、笑顔で同意した霞は、ちらりと視線を俺の鞄へと移した。彼女が言いたいことを察した俺は、先んじて話題を切り出す。
「この鞄、使い勝手がいいな。持つのも肩にかけるのも楽だし、見た目より容量もある」
「そうですか? よかった……」
霞は嬉しそうに微笑んだ。と言うのも、俺が持っているこの本革のトートバッグは、出掛ける前に霞からプレゼントされたものだからだ。
美幸のアドバイスのおかげで、霞と出掛ける時はそれなりの格好を心掛けている俺だが、いかんせん付け焼刃のため、この格好に合う鞄を持っているはずもない。
そのせいで基本的に鞄は持たない、もしくは良さそうな紙袋を無理やり使っていたのだが……霞が選んでくれたこの鞄は、今の俺の服装によく合っているように思えた。
そんな思いを伝えると、霞は不思議そうに首を傾げた。
「京弥さんは格好いいですから、どんな鞄でも似合いますよ?」
「そう言ってくれるのは嬉しいが、さすがに贔屓目というか――」
そう言いかけて口を閉じる。贔屓目という言葉を使うためには、霞から好意を向けられていることが大前提だと気付いたからだ。少し図々しい気がする。
「贔屓目はあるかもしれませんけど、京弥さんが格好いいのは事実です」
そんな俺の逡巡もどこへやら、霞はあっさり大前提を肯定した。そのことに内心で照れていると、霞はわざとらしい表情で俺を見つめた。
「……今日に限ったことじゃありませんけど、また女性の視線を集めてましたし」
「それは霞のことだろう? 一緒に歩いている時もそうだし、ガラスのアーチの下でこっちを振り向いた時なんて、あの場にいる全員が霞の笑顔に釘付けだった」
少し前の光景を思い出して語れば、彼女は照れたように視線を逸らした。
「それは言い過ぎです……」
「そんなことはないさ。数秒ならともかく、数分にわたって霞を見つめている奴もいたからな。あまりしつこい相手は、視線を遮ってじっと見つめ返してやったが」
今日の俺たちは、傍から見ればカップルにしか見えない。霞のパートナーである俺にじっと見られるのは居心地が悪いようで、早々に諦めるのだ。
「そうだったんですね」
霞は驚いたように周囲を見回す。密かにそんな攻防が行われているとは思わなかったのだろう。
「じゃあ、私と一緒です」
「え?」
と思ったら違ったようだ。彼女はなぜかおかしそうに笑っている。
「実は私も、京弥さんを見つめている女の人を牽制してたんです」
「牽制……?」
俺は首を傾げた。彼女が、俺のように誰かをじっと睨んだりしていた記憶はないのだが……。
「はい。……こうやって」
言いながら、霞は俺のほうへ身を寄せる。彼女にしては珍しい、悪戯っぽい表情が俺の肩口に触れる。
「なるほど。いつもより距離が近い理由はそれだったのか」
俺は納得した。視線で迎撃した俺とは違い、仲睦まじい様子で撃退しようとしたのだろう。思い起こせば、不思議なタイミングで彼女が何度か寄ってきた記憶がある。
「霞のやり方のほうがスマートだな。よし、次から真似してやってみよう」
俺はからかい半分でそう宣言する。すると、予想通りに霞は照れる――ようなことはなかった。
「嬉しいです」
それどころか、はにかんだ微笑みを浮かべる。まさかそう来るとは思わず、俺は霞の顔を見つめたまま固まった。
「――なんて。実は、京弥さんがからかってくると思って待ってました」
その直後、霞はネタばらしをしてクスクスと笑う。からかわれたのは俺のほうだったか。
「やられた……」
そうして、俺たちはまた笑い合った。
◆◆◆
「あ、これも素敵ですね」
「意外と迷うな、これ……」
言いながら、気になった商品を一つ手に取る。ガラス細工の展示会を堪能した俺たちは、こういった催しの最後に必ず存在するブースにいた。そう、お土産コーナーだ。
誰かに土産を渡すわけではないが、展示会としても素晴らしかったし、霞と出掛けた記念でもある。展示品をまとめたパンフレットはもちろんだが、それ以外にも何かを買うつもりでいた。
「京弥さん、あの宇宙を模した展示が気に入ってましたよね?」
そう言って霞が指差したのは、会場の出口近くに展示されていた作品のミニチュアだ。近くで手に取れば、本物ほどではないが、かなり精緻な出来であることが分かる。
「これはいいな。買って帰ろう」
「よかったです。……あ、あっちに食器もありますね」
霞は嬉しそうに微笑むと、皿やグラスが並んでいる一角へ向かう。買い物自体が楽しいのだろう。彼女はひっきりなしに興味を移しては、商品を眺めていた。
「ん?」
そうこうしているうちに、霞の足が止まった。気になる品物があったようで、腰をかがめて真剣な様子で展示台を凝視している。
そんな様子を見ていた俺は、そっと後ろから彼女に近付く。そして後ろから覗き込めば、そこには凝ったデザインのグラスが並んでいた。
「夫婦茶碗みたいなものか……?」
そう思ったのは、少し大きさの違うグラスが二つで一セットになっていたからだ。すると、前にいた霞が慌てたように振り返る。
「え、京弥さん――!?」
「すまない、驚かせたか」
「い、いえ……このグラスがとても素敵だと思って」
しどろもどろになりながらも、霞は目の前にあったグラスを指し示した。他よりも少し厚手のようだが、その重厚感と彫られている模様は一種の風格すら感じさせる。展示会のお土産コーナーにあることに違和感を覚えるレベルだった。
「本当だな。俺も気に入ったし、これも買おうか」
そう提案したのは、彼女と共通の何かを買って帰りたいという、俺の個人的な思いによるものだ。だが、その言葉を聞いた霞は、ぱぁっと表情を輝かせた後で、なぜか気恥ずかしそうに俺を見つめる。
「あの、いいんですか……?」
「いいって、何が?」
「その……これ、ペアグラスですから」
「あー……」
そこでようやく、俺は彼女の心配に気付いた。もはや今さらな気もするが、俺たちの関係は恋人というには越えられない隔たりがある。だが……。
「霞が――」
嫌じゃなければ俺は構わない。そう言おうとして、俺は言葉を飲み込んだ。ここまで来てそれは卑怯な気がしたからだ。だから、代わりに別の言葉を告げる。
「霞と一緒にこのグラスを使いたい」
「……!」
そう告げられたことが予想外だったのだろう。霞は湯気を噴きそうなほどに頬を上気させて、そのまま固まった。どうやら照れが限界を超えたようだった。
「それでいいか?」
数秒後にそう問いかければ、彼女は真っ赤な顔でこくこくと頷く。それを同意と受け取った俺は、二人で見ていたペアグラスの箱を手に取った。
そして再び霞のほうを向くと、じっと俺を見つめていた彼女と視線が合う。
「どうかしたか?」
そう問いかければ、霞は眩しいものを見るように俺を見つめた。
「その……なんだか、京弥さんがいつもより甘やかしてくれるような気がして」
照れながら告げる霞があまりにかわいらしくて、俺は思わず彼女を抱きしめてしまいそうになる。そうして数秒が過ぎたところで、はっと我に返る。
「ちょっと浮かれすぎていたな。すまない、気をつけるよ」
それをごまかすために口を開けば、彼女はブンブンと首を横に振った。
「そんなことないです! ……ずっとそのままでもいいくらいです」
勢いよく否定した後で、彼女はぽそりと最後に付け加えた。
「それならいいが……鬱陶しくないか?」
「だって京弥さんですから。嬉しいに決まってます」
霞ははにかんだように笑う。だが、次の瞬間には、はっとした様子で視線を逸らした。頬がさらに紅潮しているところからすると、自分の言葉に照れたのかもしれない。
「……あ! 京弥さん、あっちのコーナーを見に行きましょう!」
そんな霞は、彼女らしからぬ勢いで腕を引っ張る。気恥ずかしさをごまかそうとしているのだろう。そんな様子を微笑ましく思いながら、俺は彼女に引っ張られるまま歩く。
「なるほど、靴か」
そうして連れていかれたのは、多種多様なガラスの靴売り場だった。てっきりごまかすための移動だと思ったが、たしかにこれは気になる。
「凄いな。小さくても本物そっくりだ」
「こだわりを感じますね」
バッグチャームやペンダントトップといった、装飾用途の品物を感心しながら眺めていく。そして――。
「お、やっぱりあったか」
「サイズもたくさんありますし、本物の靴屋さんみたいですね」
リアルサイズのガラスの靴を見つけて、霞の瞳が輝いた。サイズはもちろんのこと、デザインも数種類あるという力の入れようだ。なかなかに見ごたえがある。
「綺麗ですね……」
「ああ。この重さの靴を履いてダンスを踊るなんて、シンデレラは凄かったんだな」
ガラスの靴を手に取った俺は、思わず呟く。筋力もそうだし、ガラスを割らずに立ち回る身のこなしは達人の域ではないだろうか。
そんな感想を告げると、霞は口元を手で押さえて笑い出した。ムードの欠片もない言葉だとようやく自覚した俺だったが、彼女に呆れた様子はなかった。
「そんな着眼点、思ってもみませんでした」
「……すまない。綺麗な靴を見た感想としては不適切だった」
「でも、面白かったですよ?」
なおも笑顔を残したまま、霞はガラスの靴を手に取った。そのサイズは、彼女の靴のサイズと一緒で――。
「そこで試着できそうだな」
専用のベンチを近くに見つけた俺は、霞に声を掛けた。だが、彼女は微笑みとともに首を横に振る。
「大丈夫です。履くわけじゃありませんから」
「そうなのか?」
その答えに目を瞬かせる。たしかに、展示会場で試着コーナーを見かけた時も落ち着いた反応をしていたな。
「はい。ちょっとした願掛けというか……お守りみたいなものです」
「なるほど……?」
いまいちピンと来ないが、絵皿には料理を盛らずに部屋の飾りとして使われるものもある。そういった類かもしれないな。霞の部屋ならガラスの靴も似合うことだろう。
そんなことを考えながら、俺は彼女の横顔を眺めていた。




