解放Ⅱ
錬金術工房の中心にある作業台。そこに敷かれたマットレスの上には、緊張した様子の霞が横たわっていた。
「京弥さん、これでいいですか?」
「ああ。楽にしていてくれ。寒くないか?」
「厚手の服を着込んでいますから、大丈夫です」
そのやり取りは初めてではない。彼女の記憶封印を解くために、何度もこの作業台で解呪実験を行っているからだ。ただ、霞がこの状況に慣れることはないし……むしろ、最近のほうが緊張の度合いが増しているように見える。
美幸の話から察するに、霞も記憶の封印について調べているらしい。そして……記憶の解放と引き換えに、今の自分が消滅する可能性に気付いたようだった。
「いつもの解呪と違って、今日は霞の妖力を探る試みだ。だから緊張しなくていい」
「ふふ、そうでしたね」
その声かけは有効だったようで、彼女の表情が少し和らいだ。そこで、俺は具体的な方法を説明する。
「やることは簡単だ。俺が探査用の魔力を放つから、霞はそれを受け入れてくれればいい」
そう言って、俺は右手の人差し指を立てた。
「この指先くらいの範囲に魔力を集中する。精度を上げるために効果範囲を絞るから、少し時間がかかると思う」
「はい、大丈夫です」
霞は穏やかに微笑んだ。今も緊張している様子だが、普段に比べれば大したレベルではない。そのことにほっとすると、俺は彼女の身体に右手をかざした。
「じゃあ、始めるぞ」
俺は魔力を掌の中心に集めて、慎重に霞の身体へ投射する。彼女の魔力の循環や発生・消滅の様子を確認し、俺の魔力に対する反応を把握していく。
そうして頭部の探査を終えて、彼女の心臓付近に差しかかった時だった。探査用の魔力が弾かれたことで、俺は首を傾げた。
「……?」
種族にもよるが、心臓は妖力の核となることが多い。そのため、他の部位とは異なる動き――特に妖力の生成を行う傾向が強い。だが、これまで探査魔力を弾いた妖力持ちは一人もいなかったのだ。
その後も何度か魔力を投射したが、様子をはっきり捉えることはできなかった。だが、なんとなく掴めたことがある。
「妖力の生成が妨げられている……?」
外から感知できる霞の妖力は微々たるものだ。だが、妖力の生成は活発に行われており、それだけ見れば、彼女は最低でも上の下程度の妖力を持っていてもおかしくはない。
「これは……」
何度も魔力を投射して、おぼろげな反応に意識を集中する。霞が生成した妖力は、体内で増幅される前に、何かに阻まれて消滅しているようだった。そして、その反応は同じく妖力の核付近で起きている。
そう結論付けた俺は、魔力の質を変えた。これまでのような探査用の魔力ではなく、彼女の妖力に干渉するためのものだ。妖力生成を阻む何かを抑え込むことができれば、状況が変わるかもしれない。
それなりの魔力をこめたつもりだが、まだ反応はない。そこで、俺はさらに出力を上げていく。
……その時だった。
「ぁ――」
霞の口から、甘く、艶やかな声がもれた。
「っ!?」
不意打ちの嬌声が集中を乱し、魔術を霧散させる。魔力を強めたことがなんらかの刺激になったのだろうか。そんな分析をしようとするが、邪念が思考を妨げる。
「す、すまない。ええと……大丈夫だったか?」
顔の熱を感じながらも、なんとか言葉を絞り出す。すると、上体を起こした彼女は申し訳なさそうに頷いた。
「すみませんでした。その……京弥さんの魔力がくすぐったいような感触で――」
と、そこで彼女の言葉が途切れた。そして次の瞬間、その顔がぱっと朱に染まる。俺の様子を見て、魔術が霧散した理由を察したのだろう。
「悪かった。俺の集中力不足だ」
霞が謝る必要はないと、先に口を開いて謝る。だが、彼女は首を横に振った。
「私のほうこそ、その……変な声を出してしまって」
「霞はあまり妖力を使わないからな。余計に違和感があったんだろう」
しどろもどろになりながらも、なんとかフォローしようとする。だが、それも上手くいかず、二人の間に気まずい沈黙が流れた。
「……あの、再開しませんか?」
少し落ち着いたのだろう。無言のまま五分ほど経過したところで、霞が口を開いた。
「いいのか?」
「は、はい!」
問い返せば、明らかに気負った反応が返ってくる。彼女が続行を望むのであれば、もちろん俺に否はない。俺は再び霞の心臓に照準を合わせて魔力を投射した。だが……。
「っ――」
今回は我慢しているようで、霞が声をもらすことはなかった。だが……甘い吐息が、その息遣いが俺の耳に届く。さらに、何かに堪えるような表情も煽情的で――。
そんな邪念が頭をよぎった瞬間、再び魔術が消滅した。意識してしまったせいで、余計に集中力を欠いてしまう。
「すみません……変に意識してしまって」
そして、それは彼女も同じようだった。こうなると、今の時点でこれ以上実験を進めることは難しい。この気まずい雰囲気を振り払うように、俺は思考に没頭した。
「となると、俺の魔力に馴染んでもらうか……?」
そして、別のアプローチを検討する。他者の魔力が体内に入ってくれば、違和感を覚えるのは当然だ。そこを抑制すればいい。
それに、この方法なら霞の妖力を俺が誘導・コントロールすることも容易になるだろう。
「魔力に馴染むって、どうやるんですか?」
「いくつか方法はあるが、確実なのは錬成薬で――」
そう説明しかけた俺は、ふと言葉を切った。その様子を不思議に思ったのだろう。霞が小首を傾げてこちらを見つめる。
「……と思ったが、素材に難があるな」
「貴重な霊草か何かが必要なんですか?」
「そういうわけじゃないんだが……」
俺は首を横に振った後で、気まずそうに口を開いた。
「素材として、馴染もうとする魔力の持ち主……つまり俺の身体の一部を使う必要がある」
「え――」
霞の表情が強張った。それはそうだろう。たとえ爪の先であろうとも、他者の身体の一部を摂取したい人間などそうはいない。
「駄目です! 私のために京弥さんが怪我をするなんて……」
だが、霞の顔が強張っていたのは別の理由のようだった。彼女らしいと言えば彼女らしい。
「そこは大丈夫だ。別に腕を斬り落としたりするわけじゃないさ。そうだな……これで充分足りるだろう」
そう言って、俺は自分の髪を指で摘まむ。他の部位に比べて、髪には魔力が多く宿っているからだ。
「髪でいいんですか? よかった……」
霞はほっとしたように息を吐いた。だが、今度は俺が戸惑う番だった。
「いや、髪の毛だぞ? 自分の髪を人に食べさせるとか、本来なら犯罪レベルのストーカー案件だと思うが」
「でも必要なんですよね? 他の人ならともかく……京弥さんなら、いいです」
「……そうか」
彼女の大きな信頼になんと答えていいか分からず、言葉少なに返す。なんとも言えない沈黙がしばらく続いた後で、霞は口を開いた。
「私、てっきり血液のことだと思って……それで、ちょっと焦っちゃいました」
「ああ、たしかに血液のほうが効力はあるな。錬成薬にしなくても、血液を取り込むだけで多少の魔力同調はできる」
「そうなんですか?」
「ああ。だが、効果のほどは知れてるからな。俺みたいな特殊体質でもない限り、ちゃんと錬成薬にしたほうがいい。それに……他人の血液を摂取するなんて、現代医学の観点では好ましくないからな」
そう答えると、霞は軽く驚いた様子だった。どうしたのかと尋ねれば、彼女は不思議そうに首を傾げる。
「錬金術師の京弥さんが、現代医学を尊重していることが不思議で……」
「魔術と科学は相反するわけじゃないからな。それぞれ別の法則でこの世界に働きかけているだけだ。だから血液には魔力が含まれているし、同時に病原だって含まれている。無視するわけにはいかないさ」
そう説明すると、霞は納得したようだった。
「ということで、仕切り直しにしようか。錬成薬の作成に一週間ほどかかるから、できあがったら知らせるよ」
「はい、分かりました」
そんなやり取りを経て霞は工房から出て行く。その後ろ姿を見送ると、俺はさっそく錬成薬を作り始めるのだった。
◆◆◆
トワイライトの定休日である水曜日。霞と予定を合わせて、昼からずっと妖力実験の続きをしていた俺は、得られた結果に困惑を隠せなかった。
「切り札の一つにはなるだろうが……どうしたものか」
「京弥さんの助けになるなら、私も一緒に――」
「だが、そもそも霞を無事に逃がすための試みだからな。それじゃ本末転倒だ」
そんなやり取りが何度も繰り返される。俺の魔力パターンを抽出・増幅した錬成薬を霞に飲ませたのは二日前の話だ。その効果は見事に発揮されて、俺は彼女の妖力に働きかけることができるようになったのだが――。
「とりあえず休憩を入れないか? 数時間ほどぶっ続けだったし、疲れただろう」
そう提案して、霞から贈られたマグカップに口を付ける。すっかりぬるくなったコーヒーを飲みながら、俺は彼女の説得方法を考えていた。
「あ、よかったらお代わりを淹れましょうか? 昨日焼いたクッキーもありますし」
「ありがとう。それならリビングへ移動しようか。そっちのほうが落ち着くだろう」
答えて、空になったマグカップを片手に立ち上がる。そして、住宅エリアへ繋がる廊下を歩いていた俺は――ふと足を止めた。
「霞」
「はい……私も感じました」
霞が緊張した声音で言葉を返してくる。それもそのはず、俺たちが感知したのは天災級の妖気だったからだ。神山透のものと見て間違いないだろう。
「まだ距離は遠いな。急に感知できたということは、何かに妖力を使ったのか……?」
そんなことを考えながら、リビングのテーブルで霞と向かい合う。もし神山透が襲撃してきた場合の対策は、二人で何度も話し合っていた。だが――。
「妙だな……動く気配がない」
予想外の展開に首を傾げる。最初に妖気を感知してから三十分ほど経つが、同じ場所で妖力が増減しているようなのだ。
「目的は京弥さんではないんでしょうか……?」
霞も困惑した顔で口を開く。急な妖力の増減の理由として、まず候補に上がるのは戦闘行動だ。だが、災害級の大妖怪を相手にして、三十分も持ち堪えられる存在などそうそういないはずだ。
「……とりあえず、計画通り対処しよう。霞は美幸と一緒に避難してくれ」
「桑名さんじゃなくて、美幸さんのほうですね?」
「ああ。桑名さんは実力者だが、今頃陰陽寮から応援要請が来ているはずだ」
霞の念押しに頷く。彼はこの付近の妖力持ちを取りまとめる立場だ。情報工作や、場合によっては戦闘への加勢すら含めた応援要請を受けている頃だろう。霞に気を配る余裕はないはずだった。
「俺からも美幸に連絡を取るよ」
俺は携帯電話を手に取った。今日は平日であり、彼女はまだ仕事中だろうが――。
「ん?」
そう考えていた俺は目を瞬かせた。事態が緊迫していて気付かなかったが、当の美幸から着信が入っていたのだ。慌てて折り返すと、すぐに美幸が電話に出た。
「京弥、大丈夫!? 霞ちゃんも無事!?」
美幸の第一声は、俺たちの身を案じるものだった。彼女の職場はこの町から離れているため、神山透の妖気に気付くとは思えないが……。
「うちの一族に緊急要請が来たの。近くで大妖怪が暴れてるから、情報操作に協力してほしいって。おかげで有給使うハメになっちゃった」
そんな俺の疑念に気付いたわけではないだろうが、美幸は事情を説明してくれる。彼女たち淫魔の一族は、魅了をはじめとした精神操作に長けている。妖怪の存在を秘匿したい陰陽寮としては、頼らざるを得なくなったのだろう。
「そんなこと言われたらさ、もう京弥たちのことだと思うでしょ?」
「たしかにこの妖気は神山透のものだと思うが、俺も霞も無事だ。心配してくれたんだな」
「当たり前じゃない。それに、京弥が無事ならそっちに寄ろうと思って」
「ここに? 巻き込まれるかもしれないぞ」
「もちろん危ないと思ったら近付かないよ? でも、できれば錬成薬をもらっておきたくてさ」
「そういうことか」
美幸の返答に納得する。彼女の妖力はかなりのものだが、もしあの神話級の妖怪が暴れた場合、対処しなければならない人間の数はあまりに多い。
「妖力を回復するやつと、増幅薬のほうも頼める?」
「分かった。美幸は経口タイプだったな」
「うん。あと十五分くらいで着くと思う。……あ、もちろん危なくなったら気にせず逃げてよ?」
「ああ、そうする。気を付けろよ」
「お互いにね」
そんな言葉を交わして通話を終える。今の話を霞に伝えると、彼女は目を丸くして驚いていた。
「美幸さんが動員されるなんて……よくあることなんですか?」
「美幸は一族と少し距離を置いているからな。どうしても手が足りないか、美幸クラスでなければ手に負えない時以外は、あまり駆り出されない」
「ということは、それだけ深刻なんですね」
「そうだろうな。神山の跡取りが本気で暴れ出したら、町単位の情報操作が必要になる」
陰陽寮が人除けや認識阻害の結界を展開しているはずだが、相手は八岐大蛇の先祖返りだ。さすがに隠し通せるとは思えないから、そういった時のための保険なのだろう。
「しかし……困ったな。こうなると美幸に匿ってもらうのは難しいか」
俺は知り合いを片っ端から頭に思い浮かべる。次点は孝祐だが、美幸に動員がかかっている以上、あいつも同じことだろう。女癖の悪さで誤解されがちだが、こういう時に知らん顔を決め込むタイプではない。
「幸い、向こうはまだ動いていない。霞だけ逆方向へ逃がすことはできるか」
すでにあの少年の居場所は分かっているのだから、霞が思わぬ襲撃を受けることはないはずだ。
「それはそうですけど……」
そうして二人で対応を考えていた時だった。インターホンの呼び出し音がリビングに鳴り響く。
「美幸か?」
時計に目をやれば、いつの間にか時間が経っていた。そろそろ彼女が着いてもおかしくない時刻だ。俺と霞は同時に立ち上がると、足早に玄関へと向かう。
「……あれ?」
だが、玄関前に立っていたのは美幸ではなかった。
「――いやぁ、ご無沙汰してます。突然すみませんねえ」
「貴方は……高嶺さん、でしたか」
俺は彼の名前を思い出す。苦労性なのか飄々としているのか分からない、独特の雰囲気を持った陰陽寮の職員だ。ということは――。
「もう勘付いてると思うんですが、神山の坊ちゃんが来てます。うちの大将が足止めしてるんで、今のうちに逃げちゃってくれます?」
「ああ、それで……」
神山透がずっと移動してない理由はそれだったのか。彼に暴走されると、陰陽寮としても何かと大変だからな。
「ひょっとして、大将って賀茂さんですか?」
ふと気付いて問いかける。あの災害クラスの少年を止められるとすれば、当代最強の陰陽師である賀茂成明くらいのものだろう。
「その通りです。……ただ、さすがの大将も手こずってまして。なんとか足止めはしたんですが、攻めるに攻めきれなくてねえ。だから、早く逃げたほうがいい」
お手上げだ、とばかりに彼は溜息をついた。とはいえ、あの大妖怪をこれだけの時間足止めしているのだ。それだけでも快挙と言うべきだろう。
そう感心していると、高嶺さんがなぜか姿勢を正した。
「――と、ここまでは正式な伝達事項です」
そして、唐突に頭を下げる。
「高嶺さん、いきなり何を……?」
問いかけたことで、ようやく彼は頭を上げた。その真剣な眼差しが俺を捉える。
「頼みがあります。逃げる前に錬成薬を売っちゃくれませんか? 今はかろうじて膠着状態ですが、正直に言って見通しは絶望的です。こっちの魔力や体力が先に尽きることは確実でしょう」
「そうでしたか……」
事態は思っていたより逼迫しているようだった。だが、相手を考えれば無理もない。俺は工房にある錬成薬のストック数を頭に描き出す。
「分かりました。何人分ですか?」
「ざっと五十人ですかね。精鋭以外は下がらせましたから」
「五十人か……」
それは予想を大きく超える人数だった。だが、あの強大な妖力を思い起こせば、それでも足りるとは思えない。それならば――。
「すぐに準備します。霞、手伝ってくれ」
「はい……!」
霞の返事を聞くなり、俺は身を翻して工房へ向かう。その途中で、小走りで追いかけてきた霞が俺の横に並んだ。
「京弥さん……高嶺さんと一緒に、あの男の子の所へ行くつもりですか?」
そして、ストレートに問いかけてくる。まさかバレているとは思わなかったが、俺は正直に答えることにした。
「ああ。彼の目的は俺なんだろう? それなら、囮になって誘導することができるかもしれない」
わざわざ危険を冒したくはないが、高嶺さんの様子からすると、かなり危機的な状況なのだろう。放っておく気にはなれなかった。
「それに、錬成薬は相手によって使い分ける必要があるからな。俺がいなければ最大の効果が得られない。……すまないが、霞は一人で避難してほしい」
「京弥さん――」
気まずい沈黙を抱えて、俺たちは工房へ繋がる廊下を進んでいった。




