同棲Ⅱ
「待ってました! 霞ちゃんの手作りランチ!」
「いやぁ、俺までご馳走になって悪いねぇ」
とある日曜日の昼。霞に会いに来た美幸と、常世希求会の情報を持ってきた孝祐。また昼食時に鉢合わせた二人は、リビングに運ばれてきた料理を見て歓声を上げた。
「今日は中華でまとめてみました」
霞は楽しそうに説明する。テーブルの上には炒飯やあんかけ焼きそばといった主食に加えて、主菜のエビチリと青椒肉絲、さらには餃子や春巻きのような点心類などが所狭しと並んでいた。
「いただきます!」
待ちきれないとばかりに、美幸が先陣を切って箸を取る。そんな彼女に負けじと、俺は点心の大皿から春巻きを取り分けた。
熱気が伝わってくる春巻きに歯を立てると、香ばしい皮がパリッと心地よい音を立てる。
「おお――」
思わず感動の声をもらす。パリパリ、サクサクとした春巻きの皮と、餡によってしっとりとまとめられた中の具材。その両者が合わさって、絶妙な触感を生み出していた。
「たしかに美味いな……ビールが欲しくなる」
「分かる……!」
そんな会話を交わしながら、学友たちは争うように餃子に箸を伸ばしていた。彼らの様子を視界の隅に入れつつ、俺は霞に話しかける。
「それにしても、たくさん作ってくれたんだな」
改めてテーブルに並べられた料理を見回す。その品数は多く、台所の三つ口コンロだけではなく、店舗のほうにあるコンロや電子レンジまでフル稼働させたくらいだ。
俺なら一つや二つは駄目にするところだが、霞はテキパキと動き回り、見事にすべての料理を完成させたのだった。
「楽しかったです。京弥さんも手伝ってくれましたし」
「俺は店のコンロで蒸し器を見てただけだからな。今日の霞はいつもより早起きだったし、ずいぶん頑張ったんじゃないか?」
言いながら、つい頬が緩む。同じ家で暮らすようになって知ったのだが、霞は朝に弱い。低血圧なのか、起き抜けの霞は意外とぼーっとしているのだ。
そんな無防備な霞の姿は、どうにも庇護欲をそそるというか、非常に微笑ましいものだった。
「寒いのが苦手なだけで、朝に弱いわけじゃありませんからね?」
そんな俺の思考を読んだのか、霞は拗ねたように念押ししてくる。その言葉通り、彼女は寒さにも弱いようで、早くも服が冬物に変わりつつあった。
「そうだな。もっと暖房を効かせていいからな?」
俺は笑って答えると、新たにあんかけ焼きそばを皿に取り分けた。カリッと香ばしく仕上げられた麺と、魚介の旨味をたっぷり封じ込めた餡が口の中で混ざり合う。
「この焼きそばも美味しいな……! この餡ならご飯にも合いそうだ」
話題転換のことなど忘れ去って、全力であんかけ焼きそばを堪能する。すると、霞は嬉しそうに微笑んだ。
「餡だけなら少し残ってますから、今日の夕食にしましょうか?」
「いいのか?」
「はい。でも、焼きそば用の味付けですから……どうせなら、ちゃんと中華丼の餡を作っていいですか?」
「嬉しいが、霞が大変だろう」
そう気遣えば、彼女はにっこりと首を横に振った。
「リクエストがあれば、献立を考えるのも簡単になりますから。それに、今回は控えめにしましたけど、椎茸や木耳、フクロダケを多めに入れることだって――」
「ぜひ頼む」
魅力的な提案を受けて即答する。何よりも、俺の好物を増やしてくれるという気遣いそのものが嬉しかった。
「はい、任せてください。近いうちに作りますね」
そう答えてから、霞はふと思案顔になる。
「続くとさすがに飽きるでしょうし、何日か間隔を空けたほうがいいですよね?」
そう尋ねてくる彼女は、意外と真面目な顔をしていた。そんなに俺は「今日食べたいんだ!」という顔をしていたのだろうか。
「霞の料理なら、三食同じものが続いても飽きない自信があるけどな」
「もう……そんなことを言っていると、本当に三食とも同じお料理を出しちゃいますよ?」
そう冗談めかして、霞はクスリと笑う。その上機嫌な様子を眺めていた俺は、ふと別の視線に気付いた。
「二人とも、どうしたんだ?」
そう問いかけたのは、美幸と孝祐がポカンとした顔でこちらを見ていたからだ。すると、二人は無言で顔を見合わせた。
「えっと……今のやり取りってさ、二人が一緒に暮らしてるように聞こえたんだけど」
美幸がそう切り出せば、孝祐も頷いて口を開く。
「俺にもそう聞こえたな。今日は早起きだっただとか、三食料理を作るとか」
学友二人に指摘されて、今度は俺と霞が顔を見合わせる。別に隠そうとしていたわけではないが、わざわざ宣言するのも気まずかったため、今日まで黙っていたのだ。
「分かりやすい反応だな」
「ホントに……でもまあ、よかったね!」
そんな美幸の言葉はどちらに向けられたものか。返事を迷っていると、先に霞が口を開いた。
「はい。毎日京弥さんの顔が見られますし、ご飯も一緒に食べられますから」
その返答に驚いて霞を見る。だが、彼女は少し頬を染めながら、俺に向かって微笑んで見せた。
「おっと、いきなり惚気られたか」
動揺している俺をよそに、孝祐がニヤニヤとした笑みを浮かべる。あれは俺をからかいたくて仕方がない顔だな。
「……早く食べないと冷めるぞ?」
しかし、素直にからかわれる義理もない。俺は視線を料理に固定すると、黙々と箸を伸ばすのだった。
◆◆◆
「ようやく一緒に暮らし始めたんだな。……おめでとう、と言っておこうか?」
「冷やかしなら間に合ってる」
女性二人が新しいコートに合わせる服を探すと言って、霞の部屋へ向かった後。リビングに残された俺と孝祐は、コーヒーを飲みながら言葉を交わしていた。
「霞ちゃんのおかげで、最近の京弥は生き生きとしてるからな。研究も鍛錬も結構だが、今のほうがお前っぽいぜ」
「そういうものか……?」
「ああ。爺さんがいなくなる前のお前が帰ってきた気がする」
孝祐はしみじみと呟いた。その物言いから、この学友が思っていた以上に俺を心配してくれていたことを知る。
思えば、こいつとの付き合いも十年近くになるのか。孝祐の妹は妖力の暴走で亡くなっており、師匠に難癖をつけてきたところから始まった縁だが、今ではすっかりいい友人だ。
「霞ちゃんをこの家に匿ってから、もう三か月以上経つんだな。冷やかしじゃなくても感慨深くなるってもんだ」
「どうして孝祐が感慨を覚えるんだ……それに、完全な同棲というわけじゃない。風呂や洗濯は、これまで通り店のほうを使っているからな」
「……は?」
その答えが意外だったのか、孝祐は間の抜けた声を返してくる。そこで、俺はさらに言葉を重ねた。
「さすがに無理だろう。俺の理性が保たない」
ただでさえ彼女は魅力的なのだ。裸身を想起してしまう風呂も、下着が目に入る可能性がある洗濯物も、俺にとっては危険極まりない。
そう答えると、なぜか孝祐は愕然としていた。そして、信じられないものを見るように俺をまじまじと見つめる。
「まさか……まだヤってないのか?」
「――っ!」
その下世話な言葉に、俺は盛大に咳き込んだ。その反応ですべてを察したようで、孝祐は呆れたように口を開いた。
「おいおい、さすがに奥手すぎないか? 二人ともいい大人だろう。それだけ好き合ってる男女が一緒に暮らしてて、何もない事なんてあるのか?」
「お前を基準にするなよ……」
そう抗議すると、孝祐は苦笑を浮かべた。
「たしかに俺は極端なケースだろうし、女性はプラトニックな傾向があるが――」
彼はコーヒーを啜って、心配そうに俺の様子を窺う。
「お前はそれで大丈夫なのか? こう言っちゃなんだが、生殺しだろう」
「……」
図星を突かれて沈黙する。俺も一般的な成人男性である以上、そういう欲求は存在する。霞という存在がひとつ屋根の下にいることで、それが助長されている面も否定はできなかった。
「霞は、その……俺が求めれば、拒まない気がする」
悩んだ末、俺は正直な思いを口にした。傲慢とも取れる発言だが、孝祐は静かに頷く。
「だが、霞は本来の人格に引け目を感じている。ひょっとすると、身体を乗っ取ったという罪の意識すらあるかもしれない」
それはずっと気になっていたことだった。彼女の言動の端々から察するに、ほぼ間違いないだろう。だからこそ――。
「もし関係を持てば、彼女は大きな罪悪感に苛まれるだろう。かと言って、原因である俺に相談することもできず、一人で抱え込んでしまう」
「待て待て。それは京弥の予想だろう?」
「たしかに推測の域を出ないが……ずっと霞を見てきたんだ。それくらい分かるさ」
俺は確信を持って言い切る。だからこそ、一線を越えるわけにはいかなかった。そんな俺をどう思ったのか、孝祐は長い溜息をつく。
「それ、余計にきつくないか?」
「……まあな。肉体関係がどうこう言う以前に、俺も霞も本来の人格に遠慮して無意識にブレーキをかけている。それが何よりもどかしいな」
学友の言葉を素直に認める。記憶の件がなければ、俺は霞に想いを告げていただろう。彼女は魅力的な女性であり、しかも俺に好意を寄せてくれている。だからこそ、最後の一歩が踏み出せない現状は辛いものがあった。
と――。
「孝祐」
「分かってるさ。この話は終わりだ」
霞たちの声がリビングへ近付いてきたことで、俺たちは即座に話を切り上げた。そうして、二人で同時にコーヒーカップを持ち上げる。
彼女たちがリビングへ顔を覗かせたのはその直後だった。
「京弥さん、もうすぐ誕生日だったんですか!?」
「……え?」
霞の突然の言葉を受けて、俺は思わず沈黙した。その通りなのだが、自分の誕生日が分からない霞に伝えるのも気が引けるため、黙っていたのだ。
「どうせ京弥のことだから、誕生日が分からない霞ちゃんに遠慮したんだろうけど」
そんな俺の心情を見抜いたかのように、美幸は口を開いた。
「逆に考えたら? 霞ちゃんの誕生日が分からないんだから、自分の誕生日くらいは二人のために有効活用しなよ」
彼女の言葉に目を見開く。それは思いも寄らない提案だった。
「せめて、私にお祝いさせてもらえませんか?」
そして、駄目押しのように霞が進み出る。その申し出を断るなどという選択肢は、俺の中には存在しなかった。
◆◆◆
日本国内でも屈指と評される、この地方で最高級のホテル。俺は霞を伴って、その中にある催事場を訪れていた。その目的はここで行われているスイーツバイキングだ。
「予約していた日野です」
そう告げれば、店員は慇懃な態度で頭を下げた。
「日野様、お待ちしておりました。どうぞご案内いたします」
優雅な所作で先導する店員に従って、豪奢なフロアを霞と並んで歩く。真紅の絨毯はとても上等な品のようで、歩きにくさを覚えるほどフカフカだった。
「素敵な空間ですね……なんだか圧倒されそうです」
霞も似たようなことを考えたのか、顔を寄せて小声で感想を伝えてくる。
「たしかに凄いな……」
そう答えながらも、俺の意識は霞自身へ向けられていた。ワンピースにカーディガンという組み合わせは、もともと霞が好む服装の一つだが、今日の彼女はいつも以上に魅力的な装いに見える。
もちろん正装ではないが、艶やかな黒髪も緩めのアップにされていて、普段とは異なる美しさを引き出していた。
「あの……私、何か変ですか?」
と、彼女に見入っていた俺は、そんな言葉で我に返った。
「いや、霞はこういう場所も似合うなって」
見惚れていた名残か本音がこぼれる。すると、霞は嬉しそうに頬を染めた。
「ありがとうございます。京弥さんに見劣りしなければいいんですけど」
「それは俺の台詞だろう」
そう反論すると、霞は困ったように俺を見つめた。
「これだけ視線を集めておいて、それを言うんですか?」
「だから、これは霞に向けられた視線だって」
たしかに、今日は俺も気合を入れたつもりだし、俺に対する霞の反応からしても、悪くない仕上がりなのだと思う。だが、素材の良さで言えば圧倒的に霞の勝ちだ。
そんな押し付け合いをしていると、前を歩いていた店員が立ち止まった。たっぷりとした白いテーブルクロスに覆われた円卓。それが俺たちの席のようだった。
「――それでは、ごゆっくりどうぞ」
飲み物の注文を受けた店員は、丁寧に一礼して去っていく。てっきりドリンクの類もセルフサービスだと思っていたが、質を担保するためのこだわりだろうか。
「京弥さん、早速取りに行きませんか?」
待ちきれないと言うように、霞が軽く腰を浮かせる。はしゃいだ様子の彼女を見ていると、自然と頬が緩んだ。
「そうだな」
そして、二人で立ち上がる。会場は満席だったが、それぞれの卓や什器はゆとりを持って配置されているため、狭く感じることはなかった。
「どれも美味しそうで、目移りしますね」
多種多様なケーキの類を前にして、霞は嬉しそうに呟く。そうして一通りケーキの名称や解説を吟味した後で、こちらを振り返った。
「京弥さんはどれにしますか?」
「そうだな……このモンブランか、そっちのエクレアにするかで迷ってる」
答えながら、ケーキが乗ったトレイを眺める。と言っても、この二種が大好物というわけではない。お洒落すぎてよく分からない形が多い中で、この二点は見慣れた形状だったせいで、つい目に止まったのだ。
「え? 一つしか取らないんですか?」
「あ、それもそうか」
言われて周りを見渡せば、一つの皿に二、三種類のケーキを乗せているお客が多いようだった。
「それで、霞のほうは決めたのか?」
「それが、なかなか決められなくて……。でも、こっちのムースを使ったケーキは決まりです」
言われて視線を向ければ、白と黄色のコントラストが鮮やかな正方形のケーキが目に止まる。説明文からすると、グレープフルーツのムースを使ったケーキらしい。
「霞らしいな」
一緒に食事をするようになって気付いたが、彼女はグレープフルーツが好きなようで、よく食卓に登場するのだ。本人曰く、あの酸味とかすかな苦みがいいらしい。
「ここのパティシエさんなら、きっとグレープフルーツの味を生かしてくれると思うんです……!」
謎の気合と信頼を胸に、霞はムースのケーキを皿に取った。さらに、続けてその隣のパリブレストを取り分けたところで、悩ましそうに俺のほうを振り向いた。
「どうしましょう……食べたいケーキがありすぎて、全部食べられる自信がありません」
真剣な表情で紡がれた言葉に、俺は思わず吹き出した。すると、霞は拗ねたように口を尖らせる。
「もう、そんなに笑わなくても」
「悪かった。お詫びに俺も手伝うからさ。まず霞が半分食べてから、俺に回してくれればいい」
そう提案すると、彼女の表情が輝いた。
「本当にいいんですか? 本気にしちゃいますよ?」
「任せてくれ」
俺は軽く請け合う。より多くの種類を楽しめるようにとの配慮なのか、この会場にあるケーキはどれも小ぶりだ。二人がかりなら、それなりの数を食べることができるだろう。
「ありがとうございます。じゃあ、一緒に選びましょう」
「そうだな。でも、食べてみたいものが色々あるんだろう? 霞の好み優先でいいからな」
それは俺の本音だったのだが、霞は困ったように首を横に振った。
「そんなわけにはいきません。私ばっかりじゃ悪いですし、その……京弥さんの好み、もっと知りたいですから」
そして、俺の顔を覗き込むように見上げる。その表情は、幸せそうな微笑みに彩られていた。
◆◆◆
「これも美味しいです……! まさか、この組み合わせを一つの味にするなんて」
霞は顔をほころばせて、再びケーキに手を伸ばす。次の標的は一風変わったサヴァランのようで、彼女がナイフを入れるとパン生地からじゅわっとシロップが沁み出した。
「――ふふっ」
幸せそうな笑みがこぼれる。すでに三つ目のケーキなのだが、彼女のペースが落ちることはなかった。
「満足です……それじゃ、お皿ごと交換しませんか?」
やがて、自分の皿に取り分けた三種のケーキを綺麗に半分ずつ食べた霞は、そっと自分の皿を差し出してくる。
「それじゃ、交換だ」
頷いて、俺も自分の皿を滑らせる。皿を受け取った彼女は、瞳を輝かせて新しい甘味を堪能していた。
「これは繊細なケーキですね……! 何種類の味と香りを組み合わせているんでしょう」
霞が興味深そうに感想をこぼしているのは、オペラとかいう名前の多層型のケーキだ。正直に言えば、俺には味が複雑すぎてよく分からなかったのだが……まあ、彼女が喜んでいるのだからいいか。
パティシエには申し訳ない感想を抱きながら、俺は別の皿に載っているサンドイッチに手を伸ばす。甘味以外も置いてあるのか、と驚きながら取り分けたものだ。
「これも美味いな……」
さすがは高級店だけあって、軽食の類にも手を抜くことはないようだった。怒涛の甘味ラッシュだったこともあり、舌を休めるのにちょうどいい。
「はい、とても参考になります」
少し真面目な顔で頷いてから、霞は何かを言いかけて……そして口をつぐんだ。
「どうしたんだ?」
問いかければ、霞はためらいがちに口を開く。
「その……今日の夕食は私が作ることになっていますけど、本当によかったんですか?」
「もちろんだ。霞の料理に勝るものはないからな」
俺は即答した。どうやら、自分の料理で俺の誕生日を締めくくることに気後れしているらしい。
「こんな日まで霞に負担をかけて、申し訳ないとは思うが……」
「そんなことはありません……! 京弥さんに料理を食べてもらえるのは嬉しいです。それに、今回は霊草もありますし」
「ああ、楽しみにしてる。どんな高級料亭でも、霊草料理は食べられないしな」
そう返せば、霞はほっとしたように微笑んだ。
「……なんだか、私ばっかり楽しい思いをしている気がします」
「大丈夫だ。俺も楽しいから」
「本当ですか? スイーツバイキングだって私の要望ですし――」
「俺も甘いものは好きだし、何より霞が喜ぶ顔を見るのが楽しいからな」
なんだかネガティブになりそうな流れを遮って、きっぱり断言する。直後に恥ずかしいことを言ってしまったと自覚するが、俺より霞のほうが動揺しているようだった。
「え――」
耳まで赤くなった霞は、はにかんだ様子で視線を逸らした。その仕草につられて、俺まで顔に熱がこもる。
「……不意打ちは駄目です」
恥ずかしそうに告げると、霞はごまかすようにケーキに手を付けた。




