同棲Ⅰ
「被害者は妖怪の末裔だけで、魔物の末裔は暴走してないんですよね?」
「うむ。ゼロではないが、比率としては明らかに少ない」
「となると、やっぱり錬金術工房が原因だとは思えませんね。錬成薬の組成はほとんど一緒ですから」
「元より京弥を疑うつもりはない。問題は、なぜこんな事態が起きているのかということだ」
閉店間近の店内で、桑名さんと意見を交換する。話題になっているのは、妖怪の末裔が暴走する事件についてだ。その数は次第に増えてきており、陰陽寮から幾度も注意喚起がなされているくらいだ。
「正直に言って、自然発生的なものだとは思えません。俺も調査しましたが、暴走を促すような事象は確認できませんでした。あえて言うなら、天災級の妖怪がこの町を訪れたことくらいです」
肩をすくめて答えると、桑名さんは渋い表情を浮かべた。
「たしかに強力な妖気に晒されると暴走しやすくなるが、そう長居していたわけでもないのだろう?」
「はい。理由としては弱いですね」
俺が頷くと、桑名さんは肩をすくめてみせた。
「まあ、この件については陰陽寮も動いている。儂らが乏しい情報で悩んでも仕方がないか」
「そうですね」
「それに、ルーカス殿も調査すると言っていたからな。英国の退魔師の手腕に期待しよう」
「ルーカスさんですか?」
突然出てきた名前に軽く驚く。だが、よく考えれば桑名さんは師匠と仲がよかったし、元退魔師ということでルーカスさんとも話が合うはずだ。
「京弥も会ったのだろう? ついつい、ウィリアムの昔話で盛り上がってしまった。あいつは英国にいた頃から変わらんのだな」
「そのようですね。食事中にいきなり錬成を始めただとか、実に師匠らしいエピソードを聞きました」
懐かしさを交えて笑う。ひとしきり笑い終えたところで、桑名さんは再び真面目な表情を浮かべた。
「話を元に戻そう。原因はともかく、暴走した者への対応は急務だ。超常現象を引き起こす種族は、証拠がないおかげで釈放されやすいが……」
「問題は、暴走が破壊衝動に結びつくタイプですね」
俺は渋い顔で口を開いた。彼らは器物損壊や暴行で捕まってしまうと、言い逃れのしようがない。
「他者に噴霧するタイプの抑制剤はありますが、事後では意味がありませんし」
「予防的な抑制剤はあるのか?」
「ありますが、種族に合わせて調整する必要がありますからね。そもそも、どうやってそういう人たちを見つけるのか、という問題のほうが大きいですが」
「当人が自覚していない可能性もあるからな……」
そして俺たちは頭を悩ませる。本来なら個人レベルで考える話ではないのだが、この店はそういった人たちのために存在している部分が大きいし、桑名さんはこの地域の顔役だ。放置する気にはなれなかった。
と、そんな時だった。店の扉が開いて、カランカランと呼子が音を鳴らす。入ってきたのはスーツ姿の男性と、ややカジュアルな服装の女性の二人組だった。
「……何かご用ですか?」
俺は幾分冷たい声を出した。二人のうちの一人。二十代前半と思しき女性の動きから、戦意を感じ取ったからだ。殺意というよりは、試合に挑むような雰囲気だろうか。
「錬金術師の日野京弥さんですね? お話をお伺いしたいのですが!」
短めのポニーテールを揺らして、彼女は詰め寄ってくる。だが……見事に相手を間違えていた。
「瀬戸。そっちじゃない」
「え?」
桑名さんに詰め寄っていた女性は、相棒らしき男性の言葉に目を瞬かせた。
「こっちの男性が日野さんだ。ちゃんと調書見たのか?」
「えーっ!? だって錬金術師ですよ?」
「今だって、声を掛けてきたのは日野さんのほうだろうが」
スーツの男性は、自分の額を押さえて溜息をつく。その仕草は実に様になっていて、彼が苦労性であることを窺わせた。
「そうですけどぉ……普通、お爺ちゃんを連想しません?」
「イメージで仕事をするなよ……」
ぼやくと、男性はこちらへ向き直った。俺を見るその瞳が、一瞬だけ真剣なものに変わる。しかも、それは敵意や警戒心ではない。むしろ好意的な類のものに思われた。
「……?」
その意味が分からず眉を顰める。だが、彼は気にした様子もなく名刺を差し出してきた。
「重ね重ね失礼しました。ホントに申し訳ない……陰陽寮公安管理局の高嶺と言います」
ヘラヘラとした笑顔で謝る男性から名刺を受け取る。公安管理局の名前を聞いた俺は、警戒レベルを一気に引き上げた。少し前に三上という名の公安管理局の職員とやり合ったことを思い出したからだ。
「ああ、警戒しなくても大丈夫です。たしかに俺たちは三上の後任ですが、奴の報告はこれっぽっちも信用してないんで」
そんな俺の思考を読んだかのように、彼は自分から三上の名前を口に出す。
「はぁ……」
思わぬ言葉に、俺は気勢を削がれた気分だった。賀茂にしても、この高嶺という男にしても、どうにも陰陽寮のイメージと合わない。俺が返す言葉を選んでいると、先に桑名さんが口を開く。
「その割に手練れを連れているようだが? 公安管理局よりは、退魔局のほうが似合いそうな物腰と魔力だ」
そう言って、桑名さんはポニーテールの女性に視線を向ける。すると、彼女は焦った様子で口を開いた。
「先輩、どうしましょう……か弱い女だと思わせて、不意を打つ作戦が使えなくなりました」
「お前がまずやるべきことは、軽挙を謝罪して自己紹介することだ」
高嶺は疲れた顔で告げる。さっきから胃の辺りを押さえているのはストレスだろうか。そんなことを考えていると、瀬戸と呼ばれた女性は勢いよく頭を下げた。
「えっと……すみませんでした! うっかり相手を間違えました!」
「あと、不意打ち発言もな」
高嶺がそう付け加えると、彼女は少し困惑した様子だった。
「でも、三上さんが警戒しろって言ってたじゃないですか。下手に足を踏み入れたら殺されるって。だから私たちが選ばれたんですよね?」
「西洋嫌いの三上だぞ? 錬金術工房が西洋魔術の流れを組む以上、あいつの話は十割引きで聞いとけ」
「それって、何も残らなくないですか?」
「それでいいんだよ」
そんなやり取りを目の当たりにして、俺は桑名さんと顔を見合わせた。陰陽寮の職員のはずだが、まるでコントのような掛け合いだ。
「あの神山の坊ちゃんと張り合った術師だ。どのみち勝ち目なんざねえよ」
「だから不意打ちを狙ったのに、もう一人手練れがいるなんて理不尽です……」
そう言って、彼女は恨めしそうに桑名さんを見つめる。さすがに堪えきれなくなったのか、桑名さんは大きな笑い声を上げた。
「それは儂のことかな? 身に余る高評価、まことに痛み入る」
「桑名さん、楽しんでいるでしょう」
そうツッコミを入れれば、桑名さんはニヤリと笑う。その一方で、高嶺の顔が非常に渋いものへと変わっていった。
「げ……ヤバいとは思ってたが、『鬼人桑名』かよ……」
「ほう? 懐かしい二つ名だな。よく気付いたものだ」
「弱い人間は情報が命なんでね」
「そう言う割に肝が据わっているな。敵にすると厄介なタイプだ」
「それこそ身に余る評価ってやつですよ。……ところで」
本題を切り出すつもりなのだろう。高嶺は俺に向き直ると、表情をスッと引き締めた。
「単刀直入に聞きます。最近、急激に増加している妖怪の暴走について、心当たりはありませんか?」
「ありませんね」
問いかけに気負いなく答える。すると、彼はあっさり頷いた。
「そうですか。それじゃ、次の話ですが――」
「ちょっと先輩!? そんなに簡単に受け入れていいんですか?」
「いいんだよ。どうせ黒幕の目星は付いてるんだ」
後輩の諫言を流すと、彼は再びこちらへ向き直った。だが、こちらとしては聞き流すわけにはいかない。
「黒幕の目星は付いている? それは本当ですか?」
尋ねると、高嶺はあっさり口を割った。
「『常世希求会』って組織を知ってますか?」
「聞いたことがある。妖怪や術師の力をオープンにするべきだ、と主張する集団だったな」
俺より早く、桑名さんが答える。
「その通りです。古くからある団体で構成員はそこそこ多いんですが、穏健派に分類されています。なので、あまり目立つことはなかったんですが……」
「方針を転換したと?」
「おそらく。規模の拡大や、動きの活発化があまりに顕著なんでね」
「ですが、それと暴走事件となんの関係があるのですか?」
尋ねると、彼は背広の内側から袋に入った白い粉を取り出した。
「その団体の構成員を別件でしょっ引いたんですがね。その時に、怪しげな粉末を持ち歩いてまして」
白い粉をこちらに差し出しながら、彼は言葉を続ける。
「というわけで本題です。これが暴走を誘発するクスリかどうか、確認をお願いしたいんです」
「私に?」
「ええ。警察なら鑑識に回すところでしょうが、ウチの手には余ります。そして、こっち系の第一人者と言えば錬金術師でしょう?」
「ふむ……」
思わぬ展開に考え込む。陰陽寮に対してわだかまりはあるものの、暴走事件の解決はこちらも望むところだった。
「分かりました。お受けしましょう」
「本当ですか? いやぁ、助かります。このテのクスリはちゃんと鑑定できる人間がいなくて。頼めそうな術師は失踪しちまうし、ほとほと困ってたんですよ」
俺の回答を受けて、高嶺はほっとしたように笑顔を浮かべた。その顔を見ているうちに、俺はふと芽生えた疑問を口にする。
「ですが、いいのですか? もし私が黒幕の一味だったとすれば、不利な鑑定結果を隠蔽してしまいますよ?」
「あ! ほ、本当です!」
だが、俺の言葉に反応したのは女性だけだった。肝心の高嶺は穏やかな表情で首を横に振る。
「もちろん、ここだけに鑑定を依頼してるわけじゃありません。それに……」
そして言葉を切ると、彼は静かに俺を見つめた。その瞳はどこか遠くを見ているようで――。
「あの時、貴方たち師弟は居合わせた人間の安全を優先してくれた。そんなお人が妖怪の末裔を暴走させるワケがない」
「……え?」
唐突な言葉に戸惑う。その内容に符合する記憶は一つしかない。師匠が姿を消した日。陰陽寮との戦いが熾烈を極めて、巻き込まれた人間を避難させた時のことだ。
「覚えてないでしょうが、貴方に逃がしてもらった人間の一人が俺です。当時はまだ大学生だったんで、詳細を知ったのは陰陽寮に入ってからですが」
「そうでしたか……」
俺は思わぬ告白に驚いた。とは言え、あれは師匠が俺を逃がそうとして見つけた『理由』でしかない。そんな崇高な考えは――。
「あった、だろうな……」
つい言葉がもれる。それがウィリアム・ホークスという、俺が尊敬する師匠だった。
「いつか縁があったら、礼を言おうと思ってたんです。……すみません。余計なことを思い出させちまって。」
そんな俺の表情をどう受け取ったのか、高嶺は気まずそうに頭を掻いた。
「いえ、おかげで師の判断は正しかったのだと再確認することができました。お礼を言うのはこちらです」
首を横に振って微笑む。それは社交辞令ではなく本音だった。共に戦うことができず、結果として師を失ってしまった俺にとって、彼の言葉は思いがけない慰めだった。
「ええと……じゃあ、先輩はもともとこの人を知ってたんですか?」
――と。少ししんみりした空気を吹き飛ばすかのように、瀬戸が口を挟んできた。その問いかけに、高嶺はこともなげに頷く。
「ああ。と言っても、俺のほうが一方的に知ってるだけだが」
「もう、そういうことは早く言ってくださいよー! 私一人が空回りして馬鹿みたいじゃないですか」
「悪かった。最低限の確認は必要だったからな」
後輩をあやすように答えてから、高嶺は俺のほうを向いた。
「とにかく、鑑定依頼を受けてもらってありがとうございます。結果が出たら、電話でもメールでもいいんで連絡ください。謝金持って飛んでいきますから」
「分かりました。名刺に載っている連絡先で構いませんか?」
「もちろんです。……それじゃ」
「えっと、失礼します!」
そして、彼らは店の扉を開けようとして――。
「あ、すみません」
僅かに早く、外側から扉が開かれた。店に入ってきたのは霞だ。仕事帰りだったのか、手には食材の入った袋を提げている。
「霞、どうしたんだ?」
「まだお店の明かりが点いていましたから、何かあったのかと思って」
そう答えながら、霞は空けたドアを手で保持する。鉢合わせた陰陽寮の二人を通すためだろう。
「……ああ、すみませんねぇ」
予想外のリアクションだったようで、高嶺は何度が目を瞬かせた。そして、何かを察したとばかりに頷いて扉をくぐる。
「――錬金術師ともなれば、あんな美人の嫁さんをもらえるのか……凄えな――いてっ!」
「――先輩、最低です」
「――いや、何も悪いこと言ってないだろ!?」
そんな賑やかなやり取りも扉がしまると聞こえなくなる。それと同時に、俺は桑名さんと顔を見合わせた。
◆◆◆
「それにしても、賑やかなコンビでしたね」
「うむ。陰陽寮にも様々な人材がいるものだ。さすがの京弥も毒気を抜かれていたようだな」
「陰陽寮にも色々な人間がいるんだと、思い知らされましたよ」
俺と桑名さんは、リビングで食事をしながら感想を交換していた。というのも、霞が「一緒に夕食を食べませんか?」と提案してきたからだ。
なんでも、今日は鍋の具材がセールで安かったらしい。とは言え、一人で鍋を作るのはコスパが悪いため、一緒に食べるか、もしくは差し入れに取り分けるつもりだったようだ。
「具もだいぶ減りましたし、そろそろ雑炊にしませんか?」
と、話が一段落ついた頃合いで霞が声を掛けてくる。その提案は非常に魅力的なものだった。
「この出汁で雑炊か……この鍋いっぱいに作っても食べ尽くす自信があるな」
「儂もだ。まさか、こんなに美味い夕食を相伴させてもらえるとは」
「喜んでもらえたなら嬉しいです。――あ。京弥さん、このつみれを食べてもらってもいいですか?」
「任せてくれ」
そんなやり取りを経て、霞はご飯と卵、そして三つ葉を持ってくる。彼女が手際よく雑炊を作る様を眺めていると、横からクク、という小さな笑い声が聞こえてきた。
「どうしたんですか?」
不思議に思って問いかけると、桑名さんはからかうような笑みを浮かべた。
「なに、まるで夫婦のようだと思ってな」
「な――」
俺が絶句しているのをいいことに、桑名さんはしたり顔で言葉を続ける。
「いつの間にか下の名前で呼び合っているし、やり取りも阿吽の呼吸だ。二人が仲睦まじくデートをしていたという情報もある」
桑名さんは楽しそうに告げる。だが、そんな邪推をされると霞が困るだけだ。……と、そう思ったのだが――。
「ふふ、そう見えますか?」
意外なことに、霞は笑顔で応じていた。この手のからかいに耐性が付いたのだろうか。だとすれば、同僚の水崎さんあたりが原因だろうな。
「う、うむ。となれば、儂は舅といったところか」
予想外のリアクションに対応しきれなかったのだろう。桑名さんは一瞬きょとんとしてから、それをごまかすように豪快に笑う。
「いやいや、霞さんもあしらいが上手くなったものだ。さすがホライゾンカフェの人気店員だな」
「ありがとうございます」
そんな褒め言葉を受けて、霞はにっこりと微笑む。だが、よく見ればわずかに表情が固いし、頬も次第に赤みを増している。あっさり受け流したわけではないようだった。
そんなやり取りをしならも、彼女はテキパキと雑炊を作り上げてくれる。期待通りの美味を堪能しながら、俺たちは最後の一粒一滴まで綺麗に鍋を平らげていった。
「――それでは、儂はそろそろお暇するとしよう。遅くまですまなかった」
食事を終えてほっと一息ついた頃合いで、桑名さんが立ち上がる。気が付けば、時刻は夜の九時を回っていた。俺は桑名さんを玄関まで送ると、再びリビングへ戻る。
「霞。片付けは俺がやるから」
そう声をかけたのは、彼女がテキパキとテーブルの上を片付けていたからだ。だが、霞は笑顔で首を横に振った。
「大丈夫です。私が好きで夕食に誘ったんですから」
「だとしても、料理を作ってもらった上に片付けすらしないなんて、あまりに情けないからな」
俺は重ねて主張する。料理面で彼女の世話になることが多いため、後片付けや掃除は俺がメインで担当することにしているのだ。気が付けば霞がやってくれていることも多くて、なかなか上手く案分できないのは反省点だが……。
「私は無料で住まわせてもらっているんですから、せめてこれくらい――」
「じゃあ、家主権限で俺が洗い物をすることに決めた」
そこまで言われては、霞としても断りにくかったらしい。彼女の動きが止まった隙に、俺は台所に入って洗い物を始めた。
「……へえ」
そして、つい言葉を漏らす。食器を洗いながら周囲を見回せば、台所はずいぶん様変わりしていた。
何もなかった壁面はタオルや小物を掛けられるようになっていて、計量スプーンやおろし金など、使用頻度の高そうな調理器具が吊られていた。
また、ボトルや袋のまま棚に入れていた醤油や味醂、砂糖などの調味料は、小瓶に移し替えた上で小さな籠にまとめてある。
他にもそういった細かい工夫がたくさん見受けられて、俺は感心する一方だった。
「すみません。勝手に手を加えてしまって……」
俺が台所を観察していることに不安を覚えたのか、霞が謝ってくる。
「そうじゃないさ。こんなに工夫の余地があったんだなって、むしろ感心していたんだ」
「それならよかったです」
霞はほっとしたように息を吐いた。そして、買ってきた食材を小分けにしたり、減った調味料を継ぎ足したりと、俺の隣や後ろでちょこちょこと作業を行う。
「……霞、気兼ねしなくていいからな?」
その様子を見ていた俺はなんとなく話しかける。すると、彼女は不思議そうに小首を傾げた。
「何のことですか?」
「俺が洗い物をしているんだから、自分も休むわけにはいかない。そんなふうに思ってないか?」
俺としては、彼女がリビングで休もうが、自室でくつろごうが一向に構わない。そう言葉を付け加えると、彼女は首を横に振った。
「そうじゃありません。ただ、その……」
そして、はにかんだ笑みを浮かべる。
「京弥さんが同じ台所にいることが、なんだか嬉しくて」
「……っ」
完全な不意打ちを受けて、俺は言葉に詰まった。動揺が顔に出ないようにと、必死で感情を制御する。だが、霞の言葉はそれだけでは終わらなかった。
「それと……京弥さんに、ずっと相談しようと思っていたことがあるんです」
「相談? 何かあったのか?」
努めて平静を装って皿洗いを続ける。すると、彼女は少し緊張した様子で口を開いた。
「もしよかったら、その……京弥さんもこっちで暮らしませんか?」
「え――?」
洗っていた茶碗を取り落としそうになりながら、俺はなんとか声を絞り出す。下の名前で呼ぶようになってから、霞の距離感がさらに近くなっている気はしていた。だが、さすがにこれは想定外だった。
「この前だって、冬物の衣服や本を色々持ち出すのが大変そうでしたし。本当は、自分の部屋で生活するほうが便利ですよね?」
「それはそうだが……」
なんだかんだ言って、長年生活してきた部屋だからな。ふとした拍子に必要になって、自室へ物を取りに行った回数は十回や二十回では済まない。
「それで……できれば一緒にご飯を食べたいです。理由なんかなくても、京弥さんと毎日――」
大きく踏み込んだ提案を受けて、俺は洗い物を中断した。そして、身体ごと彼女のほうへ向き直る。
「その……分かってるか? そこまで行くともはや同棲だぞ」
思わず問いかければ、彼女の顔が真っ赤に染まった。だが――。
「分かってます。……分かってて、言ってますから」
最後まで言い切った霞は、羞恥に耐えかねたように視線を逸らした。耳の先まで赤く染まったその顔が、かすかに震えている身体が、冗談ではないことを伝えてくる。
「……」
思いも寄らない返事を受けて、俺は言葉に詰まっていた。好意を持っている女性にそう言われて嬉しくないはずがない。だが、その一方で、彼女の記憶が戻った時のことを考えないわけにもいかなかった。
それは、霞のためというだけではない。これ以上彼女との距離が縮まった場合、何より俺自身が、霞の喪失に耐えられない気がした。
「俺は……」
だが。結末がどうであれ、彼女と過ごせる時間を大切にしたい。その思いもまた、俺の中で大きく膨れ上がっていた。
一体どうするべきなのか。何度も何度もその問いかけを繰り返す。そして……俺は霞の瞳をまっすぐ見つめた。
「そうだな。明日からはこっちで暮らすよ」
そう伝えた瞬間、不安そうだった霞の表情が目に見えて和らいだ。その顔を見るだけで、自分の判断は正しかったのだと思えてしまう。
「だから……これからは、二人分の食事を作ってもらってもいいかな」
続けて自分の口から出てきた言葉は、歯切れの悪いプロポーズのようだった。そう受け取られないようにと、俺はごまかすための言葉を探す。だが――。
「はい。……嬉しいです」
そう微笑む彼女は、本当に幸せそうで。やがて霞が不思議そうに声を掛けてくるまで、俺はその笑顔に見惚れていた。




