ホライゾンカフェⅡ
「――じゃあ、霞ちゃんを迎えに行くの? 彼氏として」
「彼氏のフリをするため、だ」
「はいはい、そこはどうでもいいから」
リビングの椅子に座った美幸は、俺の訂正をあっさり受け流した。
「けど、本当に霞ちゃんじゃなくていいの? あくまで私の趣味になっちゃうけど」
「霞にそれとなく聞いたんだが、遠慮されてさ。かと言って、自力でなんとかできるとも思えない。周囲への説得力が大切なわけだし」
事は三日前、酔っぱらった霞を迎えに行った時に遡る。霞に付きまとうファンだかストーカーだかを追い払うため、定期的に霞を迎えに行くという話は、酒席の戯れではなかったらしい。
翌朝、霞に話を聞いたところ、酔っていてもしっかり記憶は残っていたようで、真っ赤な顔で謝られたものだ。そして迎えに行く話を確認したところ、恥ずかしそうに、だが期待した眼差しで「楽しみにしていますね」と言われたのだ。
そして……そう言われた以上はベストを尽くすしかない。
「京弥はあんまり服に興味ないもんね」
言いながら、美幸は俺の服装を検分するように眺めた。ストーカーの戦意を喪失させるためには見た目も重要だ。そのため、そっち方面に詳しい美幸をこっそりアドバイザーに迎えたわけだが……。
「京弥は鍛えてるけど、シルエットは細身に見えるから、そっちに合わせたシャープなデザインにしよっか。新しく買う気があるなら、上から下までコーデするよ?」
「靴はもうちょっとカジュアルなほうがいいかなぁ。これも買っちゃう?」
「髪は……カットまでしなくていいと思うけど、整髪料くらいは使っておいたら? そっちはよく分からないから孝祐にでも聞きなよ」
「しっかり霞ちゃんをエスコートしてよ? キザに、やりすぎだと思うくらいでいいから」
「会話内容や距離感? そこは演技しなくても今のままで充分でしょ」
美幸の講義は続く。面倒事を押し付けたはずなのだが、彼女は意外と楽しそうだった。不思議に思って尋ねると、美幸はにんまりと笑った
「だって、原石を磨くのって楽しいし。京弥、そんなに外見にこだわってなかったでしょ? ずっと勿体ないって思ってたから」
「身だしなみには気を遣っていたつもりなんだが……」
「京弥の場合、清潔感はあるけどそれだけなんだよねー」
学友の何気ない一言が心を抉る。だが、ここで意地を張っても仕方がない。そんな俺の葛藤を見抜いたのか、美幸は苦笑を浮かべた。
「相手は霞ちゃんだよ? めいっぱいハードルを上げて、ようやく釣り合いが取れるレベルだから」
「まあ、霞はオーバースペックだからな……」
俺は素直に同意する。天が二物も三物も与えた逸材。それが彼女だ。それを考えると、俺が隣に立っていていいのかという弱気すら鎌首をもたげる。
「……京弥、ひょっとして気後れしてる?」
そんな俺の思念は美幸に筒抜けだったらしい。冗談めかして頷くと、彼女は呆れたように溜息をついた。
「私が言うのもなんだけど、京弥もハイスペックなほうだからね? そもそも錬金術師ってだけで超スペックだし、意外と誠実で優しいし、その気になれば見た目もいいし。稼ぎだって結構いいんでしょ?」
「まあ、それなりには」
「私からすれば、気後れする要素は皆無なんだけど? ……さ、それじゃ買い物行こっか。ついでにデートスポットの下見とか付き合うよ?」
「なんでそうなる。今回の目的はストーカーに諦めさせることであって――」
「はいはい、そのためにはデートの一つもしなきゃねー」
俺の抗議を受け流すと、美幸は機嫌よく立ち上がるのだった。
◆◆◆
店内の様子を観察しながら、運ばれてきたコーヒーを啜る。ホライゾンカフェは相変わらず盛況のようで、空席はほとんどなかった。
ここを訪れたのは、約束通りに霞を迎えにきたためだ。どうせならこの店でコーヒーを楽しもうと入店したのだが、店舗は広くスタッフも多いため、霞とは会えていない。まあ、迎えに行くことは伝えている。行き違いになることはないだろう。
「ふう……」
呼吸とともに、俺は妙な居心地の悪さを吐き出した。と言っても、この店の問題ではない。いつもと違う自分の装いに、自分で気後れしているだけだ。
ファッション関係に詳しい美幸と、素行はどうあれ女性にモテる孝祐から太鼓判を押されたのだから、堂々としていればいいのだが……無理をして道化になっているのではないかという気がしてくる。
「……」
努めて無表情を装って、再びコーヒーカップに口を付ける。すると、ふと視界の隅に霞の姿が映った。相変わらず凛とした雰囲気でテキパキと仕事をしているが、なんだか機嫌がよさそうに見える。
やがて、十五分ほどコーヒーを楽しんでいた俺は、スッと立ち上がった。霞が同僚に挨拶をして、バックヤードに引っ込んだからだ。時刻からしても仕事終わりと見ていいだろう。
「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」
そんな言葉に送り出されて、俺は店から出て裏口へ向かう。数人の客がレジに並んでいたため、少し時間はかかったが、霞は制服から着替える必要がある。まだ出てこないはずだ。
そしてホライゾンカフェの裏手に回ろうとした俺は、ふと首を傾げた。
「ん……?」
ぱっと見た感じでは三人。それに、少し離れてもう一人。合計四人の男性が所在なさげに立っており、その視線がチラチラと店の裏口に注がれていたのだ。
彼らも俺の存在に気付いたようで、訝しむように視線を向けてくる。四人のうち、妖力持ちは三人。少し離れている男性はそれなりの実力を持っているように思えた。
「まさか、これが全部……?」
話には聞いていたが、実際に目の当たりにすると信じられない気持ちになる。ひょっとして、自分と同じように店員の誰かを迎えに来た人々なのではないか。そんな疑念が頭をよぎった。
……だが。
「君、ひょっとして桑名さん待ちかい?」
張り込んでいる男性の一人が、眉根を寄せて声を掛けてくる。俺が足を止めたことで同類だと認定されたらしい。
ちなみに、『桑名』は霞が仕事で使っている苗字だ。紹介した時に、その辺りも桑名さんが便宜を図ってくれたようだった。
「ああ」
正直に答えると、彼は眉根を寄せた。そして、値踏みするようにこちらをじろじろ見てくる。
「――顔がいいからって調子に乗らないことだ。これまでだって、お前みたいなイケメンが何人も桑名さんにフラれてるんだからな」
「お、おう……?」
その言葉に戸惑っていると、彼は満足そうに頷いた。俺が反応したのは前半の言葉であって、むしろ勇気づけられたのだが……まあいいか。
「もしかして、四人とも霞を待っているのか?」
そして問いかけると、彼の視線が険しいものに変わった。どうやら当たりのようだが、なぜ今になって豹変したのだろうか。
「名前呼びって……馴れ馴れしいな」
「そこかよ……」
霞は自分の苗字を知らない。それが大前提だったせいで、彼らと認識のズレがあるようだった。
「ちなみに、いつも待ち伏せているのか?」
そう尋ねると、彼はムッとした様子で口を開く。
「だったらなんだ? 桑名さんが出てきた時には、ちゃんと通行人のフリをしてるさ。怖がらせては悪いからね」
「ええと……もう充分怖がらせているぞ。やめておいたほうがいい」
思わず答えれば、彼は気色ばんで詰め寄ってくる。
「なんだ君は! 君だって出待ちのくせに」
「いや、なんというか……」
事情をどこまで説明するか悩んでいると、後ろから声を掛けられる。霞を待っている四人のうちの一人だ。
「――おい、何を揉めてるのか知らないが、二人とも引っ込んでいろ。もうすぐ彼女が出てくる。邪魔はするなよ」
「は? 君はすでに桑名さんにフラれたじゃないか。まさか、また彼女に言い寄るつもりか?」
「お前こそ、ずっと見てるだけじゃないか。何もできないなら引っ込んでろ」
「な……っ!」
険悪な雰囲気が彼らを包む。だが、そもそも問題はそこではない。
「――さっきも言ったが、霞を困らせないでくれ。誰かにストーカーされているようだと、彼女はとても怖がっている」
その場の全員に聞こえるように、俺は大きめの声で宣言した。すると、霞に声をかけると宣言していた男性が一歩踏み出す。
「なんだ偉そうに……!」
種族特性なのか、彼の周りでいくつもの炎が揺らめく。脅すためというよりは、感情に連動して発現したのだろう。
俺は手早く内ポケットから小瓶を取り出して、蓋を開けた。そして、発生する煙をふっと彼の方へ吹きかける。
「な――!?」
「ここには一般人もいる。陰陽寮の聴取を受けたいわけじゃないだろう?」
周囲の炎が消えて驚く彼に、淡々と伝える。俺が吹きかけたのは、妖力の暴走を抑える錬成薬の一種だ。本来、他人に無理やり使うようなものではないが、今回は仕方ない。
「……」
炎を消された男も、そのことについて文句を言うことはなかった。ただ、苛立たしげにこちらを睨みつけている。そして――。
「失礼。ひょっとして、貴方は『トワイライト』の店主殿では?」
口を挟んできたのは、少し遠巻きにしてこちらを見ていた男だった。この中では最も妖力に優れており、少し警戒していた人物だ。直接的に『錬金術師』と口にしなかったのは、この場にいる一般人に配慮したのだろうか。
よく見れば中年と言っていい年齢であり、その物腰も落ち着いている。気に入った店員の出待ちをするような人物には見えないが……。
「ええ、その通りです」
俺は素直に認める。錬金術師の名前で彼らが諦めてくれるなら、それに越したことはない。そんな願いが通じたのか、妖力のない一人を除いて全員の顔色が変わった。
「やはりそうでしたか。ですが、なぜ店主殿がここに?」
「霞を迎えに来たからです。誰かに見られているようだと、彼女が怯えていましたから」
今度こそきっぱりと断言する。すると、最初に声を掛けてきた男が口を開いた。
「適当なことを言うな! そうやって僕らを追い払って、自分だけ抜け駆けするつもりだろう!」
「いや、本人に頼まれたんだが……」
そう伝えても、彼が信じる様子はなかった。それどころか火に油を注いでしまったようで、彼の瞳にかっと激情が灯る。だが――。
「……あ」
激昂していた男性が、目に見えて大人しくなる。気付けば他の四人はさっと散らばっており、ちらちらとこちらを見ているだけだった。
その理由に思い至った俺は、ふと後ろを振り向く。予想通り、そこには仕事を終えた霞の姿があった。
「え――?」
俺と視線が合った霞は何度も目を瞬かせた。まさか、迎えに来た俺がストーカーと揉めているとは思わなかったのだろう。
だが、すぐに計画を思い出したようで、彼女は嬉しそうな微笑みを見せた。
「お待たせしました、京弥さん」
彼女はまっすぐこちらへ歩いてきて、そして腕を搦める。傍から見れば立派なカップルに見えるはずだ。
「霞、お疲れさま」
ファーストネームで呼ばれたことに驚くが、ここでボロを出すわけにはいかない。俺は努めて平静を装って、彼女をエスコートする。
「こちらの皆さんは、京弥さんのお知り合いですか?」
そして、霞は俺と揉めていた四人に視線を向けた。予定にはなかったが、さすがに無視するわけにはいかないと判断したのだろう。
「ああ。仕事でお世話になっている人だ」
俺は適当に話を合わせる。これなら彼らを庇った形になるし、悪い方向には転ばないだろう。そんな計算もあった。
「そうですか。……あの、京弥さんがいつもお世話になっています」
そう言って、霞はぺこりと頭を下げる。とっさのアドリブなのだろうが、その効果は抜群だった。彼らは毒気を抜かれた表情で、のろのろと礼を返してくる。
「じゃあ、帰ろうか」
「はい。よかったら、お買い物に付き合ってもらってもいいですか?」
そんな会話をしながら、彼らの横をすり抜ける。かすかに会釈をすれば、四人もまた微妙な表情で会釈を返してきた。
おそらく、彼らがまた霞に付きまとうことはないだろう。嬉しそうに隣を歩く霞を見ながら、俺はそんなことを考えていた。
◆◆◆
「意外だな……まだ尾行が続いている」
ホライゾンカフェを離れて、十分ほど経った頃。探査魔術で周囲の気配を探った俺は、その結果に首を傾げていた。
「それって、さっきの人たちですか?」
「ああ。あの四人の中でも、一番まともな人に思えたんだが……」
尾行してきているのは、四人の中で最も妖力が高く、落ち着いた物腰の中年男性だった。さらに言えば、俺の探査魔術に対して隠蔽しようという気配すらない。害意は感じないが、どうにも気になる話だった。
「それじゃ、まだ気は抜けませんね」
霞は微笑むと、ふわりと身を寄せた。もともと腕を組んでいるため、もはやゼロ距離だ。彼女の感触や香りに意識を持っていかれそうになるが、意地でそれを抑えつけて、俺は平静を装う。
「そこまで無理をしなくてもいいぞ? 尾行と言っても、二十メートルくらいは離れているし」
「駄目です。特に今日は、京弥さんが格好いいから心配です」
「え?」
思わぬ反応に訊き返すと、霞は恥ずかしそうにそっぽを向いた。そしてぽそりと呟く。
「……だって、合流してからずっと、女の人の視線が集まってますし」
「それは霞に向けられた視線だろう」
容貌も所作も美しい霞は目立つからな。男性だけでなく、女性の目をも引き付けることは実証済みだ。
「私が一人で歩いている時より、明らかに視線が多いです。……それも、女性からの視線が明らかに増えてます」
「そんなことは……」
「あります。もし今の京弥さんを一人で歩かせたら、絶対に声をかける女の人がいます」
霞は確信に満ちた様子で答えると、少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
「私も、裏口で京弥さんを見た時にはびっくりしましたから」
言われて思い出す。たしかに目が合った霞が固まっていたな。だが、あれは――。
「俺がストーカーと揉めていたから、それで驚いたのかと思った」
「そっちも驚きましたけど……正面から京弥さんを見たら、そっちで頭がいっぱいになって」
霞ははにかみながら告げる。そんな反応を見せられては、こっちまで顔が熱くなってくる。
「……霞にそう思ってもらえたなら、頑張った甲斐があった」
なんとかそう告げると、今度は霞が頬を赤く染めた。俺たちは無言のまま、そんな心地よい気まずさに包まれて歩き続ける。
「――やっぱり、唯衣さんが言った通りでした」
霞が口を開いたのは、それから五分ほど経ってからのことだった。
「何のことだ?」
「その……京弥さんを狙っている女の人は多い、って」
「そんなことはないが……。実際、声を掛けられた記憶もあまりないし」
俺は水崎さんの顔を思い浮かべる。どうやら、彼女が何か吹き込んだらしい。
「錬金術師は高嶺の花だから、アプローチに気後れしている人が多いだけだって、そう言ってました」
そして、霞は組んでいる腕にキュッと力をこめる。
「『うかうかしていると取られちゃいますよ?』とも言われましたし」
「からかわれただけじゃないか……?」
そんな会話をしながら、俺は十数度目となる探査魔法を放つ。その結果は喜ばしいものだった。
「お、ついに尾行を諦めたみたいだぞ。反応がなくなった」
「そうですか……」
彼女はほっとした様子で息を吐いた。やはり気を張っていたのだろう。
「大丈夫か? 歩きにくくなかったか?」
問いかけながら、組んでいた腕をするりと外す。すると、霞は恨めしそうにこちらを見上げた。
「京弥さん……そんなに急いで外さなくても」
霞はそう言ってむくれる。そんな表情もかわいいのだが、それを言っても拗ねるだけだろう。そう思った俺は話題を逸らす。
「ああ、それも戻していいぞ?」
「え? なんのことですか?」
霞は首を傾げる。本当に気付いていないらしい。
「名前だよ。もう下の名前で呼ばなくても大丈夫だ」
嫌なわけではまったくないが、霞の声で『京弥さん』と呼ばれると、かつての霞を思い出して妙な気分になるしな。
そう説明したところ、霞はなぜか憮然とした表情を浮かべた。その滅多に見せない表情に驚いていると、彼女はぼそりと告げる。
「……でも、日野さんだって私のことを下の名前で呼んでますし」
「まあ、霞の苗字が分からないからな」
彼女の唐突な主張に回答すると、霞は唇を尖らせた。
「それはそうですけど……ほら、日野さんは苗字呼びなのに、私だけ名前呼びなのはバランスが悪いというか……」
霞は口の中で何事かをぶつぶつと呟く。その様子を見守っていると、彼女は思い切ったように口を開いた。
「……私も、京弥さんって呼びたいです」
「え?」
その申し出に驚く。まさか、昔の霞に対抗したということはないだろうが――。そんなことを考えていると、彼女は一歩踏み出した。
「駄目、ですか……?」
そして、上目遣いで見つめてくる。かすかに潤んだ瞳といい、不安そうな表情といい、今の彼女を拒否できる人間がいるとは思えなかった。
「大丈夫だ。好きに呼んでくれ」
早々に陥落した俺は、あっさり首を縦に振った。すると、彼女はほっとした様子で小さく息を吐く。
「ありがとうございます……京弥さん」
「改めて呼ばれると、どうにも恥ずかしいな」
照れ隠しでそんな感想を口にすると、霞はクスリと笑う。
「大丈夫です。恥ずかしさを感じなくなるくらい、たくさんお名前を呼びますから」
そう宣言した彼女は、悪戯っぽい、それでいて嬉しそうな顔で俺を見つめた。
「だから……覚悟してくださいね、京弥さん」




