霊山Ⅱ
「準備はいいか?」
「はい。晴れてよかったです」
そんなやり取りを経て、自動車へ乗り込む。エンジンをかけた俺は、ふと助手席の霞に目を向けた。
「後部座席に置くか?」
彼女の膝の上には、大きめのバスケットが載せられていた。いい匂いが漂っているため、今日の昼食だろう。その中身を想像すると、早くも腹が減ってくる。
「大丈夫です。後ろに置くのはためらわれますし」
彼女は首を捻って後ろを見る。この車の後部座席は、その半分ほどが錬金術の機材や魔法陣で埋まっているからだ。今日の解呪でも、霊脈の力を引き出して俺に繋げる役目を負っているため、欠かすことのできない存在だ。
「別に問題はないが……でも、そうだな。万が一にでも、バスケットが落ちて中身が台無しになると辛い」
そんな恐ろしい未来が来ないことを願いながら、運転席のアクセルを踏み込む。やがて大きな道路に出た俺は、ふとあることに気付いた。
「しまった……。霞、大丈夫なのか?」
そう問いかけるが、彼女は困惑したように小首を傾げた。
「何のことですか?」
「すっかり忘れていたが、車は苦手じゃなかったか? ほら、ずいぶん前になるが、初めて桑名さんの神社に行こうとした時に――」
少し遠いから車で行こうと提案したら、霞は歩いていくと答えたのだ。だが、今の彼女が無理をしているようには見えなかった。
「あれは、その……」
霞も思い出したのだろう。彼女は決まり悪そうにバスケットを抱え直した。
「さすがに、初対面の男性の車に乗るのはどうかと思って……」
「あー……そういうことか」
素直に納得する。俺自身にそんなつもりはなかったが、よからぬことを企む輩は存在する。当時の彼女の反応は当たり前と言えた。
「すみません、日野さんのことを疑っていたわけじゃないんです」
「謝ることじゃないさ。むしろ当然だ」
そう答えると、彼女からほっとした雰囲気が伝わってくる。
「でも……今は信頼していますから」
助手席から聞こえてきた声には、甘えるような響きが混ざっていた。彼女は今、どんな顔をしていたのだろうか。思わず視線を助手席へ向けそうになって、慌てて運転に専念する。
「……それは光栄だ」
面映ゆい空気に耐えられなくなった俺は、軽くアクセルを踏み込んだ。
◆◆◆
山の中腹で舗装された道路を外れて、剥き出しの地面を五分ほど進む。ほどなくして車を止めた俺は、助手席の霞に呼びかけた。
「霞、着いたぞ」
俺は車を降りると、まず大きく深呼吸をした。鬱蒼と生い茂る木々と、地面から噴き上がる魔力の組み合わせは壮観であり、見る者に畏敬の念を呼び起こす。
「ここが……」
そして、それは彼女も同じだったのだろう。俺に倣って車外へ出た霞もまた、圧倒されたように周囲を見回していた。
「ああ。霊脈の中心、龍穴だ」
軽く説明して、俺は後部座席のドアを開く。そこにあるのは霊脈と俺を繋ぐための補助装置だ。魔力を流して装置を起動させると、俺は静かに車のドアを閉めた。
「よし、これでいい。装置を霊脈に馴染ませたいから、しばらくこのまま置いておこう」
「はい、分かりました」
霞は頷くと、きょろきょろと辺りを見回した。そして、車で入って来た方向を指差す。
「その間、しばらく散策しませんか? ここへ来る途中で、とても綺麗な紅葉スポットが見えたんです」
そう提案する霞はとても楽しそうで、ひとりでに俺の顔にも笑みが浮かぶ。
「せっかくだし、そうしよう」
答えて彼女の隣に並ぶ。バスケットを持ち出しているということは、いい場所があればそこで昼食を食べるつもりなのだろう。俺が手を差し出すと、彼女は遠慮がちにバスケットを手渡してきた。
「霊草、見つかったらいいですね。こんなに魔力に満ちた場所なら、たくさん生えていそうです」
「そうだな。その時は霞も一緒に齧らないか? 採りたての霊草は格別だぞ」
「その、生食はあまり……でも、見つかったらまた調理したいです」
「それは楽しみだな……でも、そのためには少し遠ざかったほうがいいかもな。ここは魔力が強すぎて、大抵の霊草は自己崩壊してしまうから」
そんな会話をしながら、空気が澄んだ山道を二人で歩く。他愛のない会話に夢中になっていたせいか、歩くことはさっぱり苦にならなかった。
……と。そうこうしているうちに、さっと視界が開ける。どうやら池のほとりに出たようだった。
「綺麗……」
霞はぽつりと声をもらす。陽の光を浴びてきらめく水面と、その周囲を彩る鮮やかな紅葉の木々。突如として姿を現した絶景に、俺たちは目を奪われていた。
そうして、どれほど立ち尽くしていただろうか。ふと我に返った俺は、持ってきたシートを地面に敷いた。
「霞、座らないか?」
「……え?」
眼前の景色に夢中になっていた霞は、俺が声をかけたことでようやく我に返ったようだった。彼女は恥ずかしそうにお礼を言うと、そっとシートに腰を下ろす。
「まさか、こんなに素敵な景色が見られるなんて……ありがとうございます」
「こんな所があるなんて、俺も知らなかった。むしろ霞のおかげだな」
そう答えると、二人で同時に笑う。涼しい風がさらりと俺たちの間を吹き抜けていった。
「……水面って綺麗ですよね。特に、こうして光が乱反射している瞬間が好きで」
そう言って池を見つめる彼女は、とても穏やかな顔をしていた。その横顔を眺めていると、こちらを向いた霞と目が合う。
「よく木を見上げている理由も、実は同じなんです。枝葉の隙間から陽の光がこぼれる光景も、本当に大好きで」
目が悪くなっちゃいそうですけどね、と霞は笑う。
「気持ちは分かる。綺麗だし、飽きないよな」
同意して、俺は視線を上方へ向けた。霞の言葉通り、枝葉の隙間からこぼれる陽の光が俺たちを柔らかく照らしている。その眺めに、俺は思わず目を細めた。
「……そろそろ、お昼にしませんか?」
心ゆくまで絶景を堪能した俺たちは、バスケットを開いて昼食の準備をする。バスケットの中身は多種多様で、霞の気合の入りようが窺えた。
「決められなくて、おにぎりもサンドイッチも作っちゃいました。どっちにしますか?」
「もちろん両方食べるが……まずはサンドイッチからもらうよ」
答えて、綺麗な三角形のサンドイッチを手に取る。普段よりフィリングの野菜が控えめなのは、パンが水気を吸うことに配慮したのだろうか。少し趣向の変わったサンドイッチを楽しむと、次は出し巻き卵に手を伸ばす。
「出来立てもいいけど、冷めるとまた別の美味しさがあるよな……」
じゅわっと染み出す出汁と卵のハーモニーを楽しみながら、新しい標的を探す。今度はどれにしようか。西京漬けらしき魚の切り身か、それともマッシュルームとアスパラガスの炒め物にするか。どうせ余さず食べてしまうのだが、やはり順番は悩ましい。
俺が真剣に悩んでいると、向かい側の霞がクスリと笑う。
「何から食べるか悩んでいるんですか?」
「ああ。どれも美味いのは分かってるんだがな……」
「そんなに喜んでもらえると、作り甲斐があります」
にこにこと上機嫌な様子で、霞は小ぶりのつくねを口に入れる。その様子を見ていると、今度はそっちも食べたくなってしまう。
「日野さんも食べますか?」
そんな俺の思考は筒抜けのようだった。取り分け用の箸に持ち替えた彼女は、きれいな照り色のついたつくねを俺の紙皿に載せてくれる。
「ありがとう。頂くよ」
そんなやり取りをどれほど繰り返しただろうか。いつしか、持参したバスケットの中身は空っぽになっていた。
「――ごちそうさま。今日も本当に美味しかった」
満ち足りた気分で手を合わせれば、彼女も笑顔で言葉を返してくる。
「ふふ、よかったです」
そうして二人でバスケットを片付けると、俺たちはほぅ、と一息ついた。季節は秋だが、陽射しは思いのほか温かい。時折爽やかな風が肌を撫でては、周りの木々をザワザワと揺らしていた。
「……ん?」
そうして、無言ながらも満ち足りた時間を過ごしていた時だった。ふと、身体の右側に重みがかかる。見れば、隣で景色を眺めていたはずの霞がもたれかかっていた。
「――っ!?」
俺は予想外の展開に身体を強張らせた。そして、彼女に声を掛けようとして気付く。
「寝てる……のか?」
こちらに寄りかかったまま、霞はすぅすぅと眠っていた。よく考えれば、あれだけの弁当を準備してくれていたのだ。早起きしていたのかもしれない。
俺はそっと場所を移動すると、霞をシートの上に横たえた。そして冷えないようにと自分のコートを上からかける。秋物のため薄手だが、ないよりマシだろう。そして――。
「……駄目だ」
霞の寝顔に見入っていた俺は、はっと我に返った。無防備な彼女の寝顔は、何かと俺の自制心を揺さぶってくる。これではまるでストーカーだ。そう自分に言い聞かせて、視線を彼女から引き剥がす。
「ああ、もう……」
だが、気が付けば視線は再び彼女に吸い寄せられていた。その整った容貌はもちろんのこと、その内面をも好ましいと思っている俺にとって、その寝顔はあまりに魅力的だった。
「……はぁ」
俺は溜息をつくと、そっと霞に手を伸ばした。と言っても、その艶やかな髪の、ほんの端に触れただけだが、その行為は背徳感を伴っていた。
さらさらの黒髪が、俺の手のひらからするりと逃れていく。それが何かの暗喩のように思われて、俺は慌てて手を離した。
「……」
そして、もう一度溜息をつく。もはや認めるしかない。俺は霞に惹かれている。愛しいし、ずっと一緒にいたいと思っている。
今日だって、今までの俺なら解呪の実験だけしてさっさと帰っていたはずだ。彼女と過ごすからこそ、こういった時間が大切に思えるのだろう。
そして……おそらく霞も俺に好意を持ってくれている。その程度のことは俺にも分かっていた。だが――。
「記憶が戻ったら……」
ふと声がもれる。俺も必死で調べたが、今の記憶が消えてしまう可能性は極めて高い。かつての霞とまったく性格が異なっていることから、今の彼女は別人格として生まれた存在なのだろう。
だとすれば、元に戻った時には記憶どころか「今の霞の人格」まで消滅してしまうはずだった。
「……」
俺は無言で霞を見つめる。だからこそ、俺は一線を越えないようにしてきたのだ。そして、それは彼女のためでもあった。
何かと謎が多い霞のことだ。本来の彼女に恋人がいた可能性だってゼロではない。そして、そうなれば苦しむのは彼女のほうなのだから。
「まさか、こんなことになるとはな」
ふと、初めて店に姿を見せた霞を思い出す。能天気な性格と、意味の分からない押しの強さに辟易していたことが、今となっては信じられないくらいだ。
「解呪をやめるわけには……いかないよな」
幸せそうに眠る霞を見て、俺は苦々しく呟いた。
◆◆◆
頭の下の柔らかい感触と、ふわりと漂う甘い香り。突如として置かれた自分の不可解な状況に、俺は慌てて目を開けた。
「……あ」
まず視界に入ったのは、上から俺を覗き込んでいる霞の顔だ。目が合うと、彼女はなぜか恥ずかしそうに口を開いた。
「えっと……これはその、ちょっとした出来心と言うか……ごめんなさい」
いきなり謝罪された俺は、ようやく状況を把握した。どうやら、俺も眠ってしまっていたらしい。しかも、霞の膝枕で。
「――!?」
その事実を認識した瞬間、俺は弾かれたように飛び起きた。危うく霞の顔とぶつかりそうになるが、なんとかそれだけは回避する。
「まさか、俺は霞を無理やり枕にしていたのか……?」
「そうじゃありません。私が目を覚ました時には、日野さんは座ったまま眠っていました。それで、その……」
霞は恥ずかしそうに口ごもる。その様子からすると、彼女の意思で膝枕をしてくれたのだろう。それなら、さっきの謝罪の意味が分かる。
「勝手にすみませんでした。その……すぐにやめようと思ったんですけど、名残惜しくて」
「いや、俺のほうこそなんというか……すまない」
むしろ寝ていたことが勿体ない。それが俺の本音だったが、そんなことを口に出すわけにはいかない。
「……でも、うたた寝ができるくらいリラックスできたなら、よかったです。ここしばらく、日野さんはずっと難しい顔をしていましたし」
「俺が?」
「はい。たぶん、暴走事件のことですよね?」
「まあ、そうだろうな」
霞の問いかけを肯定する。ここしばらく、情報収集と錬成薬の見直しに躍起になっていたからな。そのことに気付かれていたようだった。
「……さて、そろそろ戻ろう。装置も龍穴の魔力に馴染んだ頃だろう」
話題を変えると、彼女は真面目な顔で頷いた。
「じゃあ、シートを片付けますね」
二人で荷物をまとめると、俺たちは来た道を戻っていく。特に道に迷うようなこともなく、俺たちは龍穴まで戻っていた。
「――それじゃ、この台の上に横たわってくれ」
移動式の工房を作る時に使う錬成台を組み立てると、霞に呼びかける。座っていてもいいのだが、解呪が成功した場合、気を失って倒れ込む可能性があるからだ。
「……はい」
霞は緊張した面持ちで身を横たえる。俺は装置を通して霊脈に接続すると、解呪の出力を次第に引き上げていった。
「っ……」
霊脈の力を取り入れて、解呪の術式の魔力に変換していく。すでにかなりの出力になっているはずだが、彼女の封印が解ける気配はなかった。
「まだ出力は上げられるが……」
魔力の奔流のただなかで、ちらりと霞の表情を確認する。本来、解呪によって本人に負担がかかることはないのだが、強度が強度だ。封印と解呪の魔力のぶつかり合いは、その余波だけで彼女を消耗させていた。それに……。
――今の記憶が消える可能性もある。
ふと、かつて彼女に説明した言葉が蘇る。膨大な魔力で無理やり封印を破壊した場合、そうなってしまう可能性は高い。できればそれは避けたかった。
……だが、それは俺のエゴだ。彼女にとっては元の記憶を取り戻したほうがいいに決まっている。たとえ、今の記憶を失っても――。
「――っ!?」
その時だった。雑念のせいで集中が乱れたのか、霊脈の魔力が制御を外れて霞自身へ向かった。
「くっ……!」
慌てて魔力を制御し直す。指向性のない魔力に害はないが、それでも多量の魔力に晒されれば悪影響は否めない。重度の魔力中毒になってしまえば、日常生活だって困難になるだろう。
――だが。霞へ向かった魔力が彼女を害することはなかった。なぜなら……霞の身体から吹き上がった妖力が、魔力を弾いたからだ。
「今のは……!?」
俺は驚愕しながらも、なんとか霊脈との接続を切断した。この状態で解呪を続けていては、何が起こるか分からない。
「霞! 大丈夫か!?」
そして、横たわっている霞に声をかける。目を閉じていた彼女は、やがてぱちりと目を開いた。
「今、何か起きました……よね?」
困惑した様子で彼女は上体を起こす。その様子からすると、最悪の事態は避けられたらしい。ただ――。
「霞の身体から凄まじい妖力が吹き上がったんだ。覚えているか?」
「なんとなく、ですけど……」
霞は首を傾げながらも頷いた。やはり、俺の錯覚ではなかったらしい。だが、かつての霞からもあんな妖力を感じたことはない。
「ええと……」
俺が困惑している傍で、霞はなぜか拳を握りしめた。そして、身体をぷるぷると震わせる。
「……何してるんだ?」
思わず訊けば、彼女は恥ずかしそうに笑った。
「さっきの妖力を出してみようと思って……でも、出し方が分かりませんね」
「霊草を調理するときに、妖力を扱っていただろ? その延長でできないか?」
「そう思ったんですけど、駄目でした……」
彼女は残念そうに首を横に振った。嘘をついているとは思えないから、本当に分からないのだろう。そもそも、霞があんな妖力を秘めていたならとっくに気付いていたはずだ。
「霞も霊脈と接続していたのか……?」
天狗系の妖怪には、そういったことを得意とする者もいる。ひょっとすると、霞の家系もそっちなのかもしれない。
「とりあえず……今日は帰るか」
どのみち、力づくでの解呪は霞の身体に負担がかかりすぎる。それは今回のことでよく分かった。それに加えて、あの謎の妖力のことも考えないわけにはいかない。むしろ課題は増えており、解呪の成功から遠のいたと言えるだろう。だが……。
そのことにほっとしている自分に気付いて、俺は自嘲するように顔を歪めた。




