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変化Ⅱ

 翌朝。昨晩のことが頭から離れず、あまり眠れなかった俺は、少し朦朧とした頭で開店準備をしていた。そして――。


「今日は水曜日じゃないか……」


 店舗の掃除を終えたところで、今日は定休日だったことに気付く。そんな当たり前のことを失念していたのは、やはり昨晩の出来事のせいだろう。


「しかも、今日は約束があったな」


 そして思い出す。よりによって、今日は霞と調理器具を買いに行く約束をしていたのだ。トワイライトの定休日に合わせているのか、水曜日と日曜日は彼女もオフであることが多く、予定を合わせたのだ。


 だが。正直に言って、今、彼女と顔を合わせるのは気まずい。霞も同じだろう。いっそ、今日の予定は理由をつけてキャンセルするべきか。そんなことを考えていた時だった。


「――日野さん、おはようございます」


 考え事の当事者が目の前に現れたことで、俺の身体が少し強張った。


「…おはよう、霞」


 ワンテンポ遅れて挨拶を返す。だが、平静を保てたのはそこまでだった。霞の顔を正面から見た瞬間に、昨晩の彼女の感触や匂いを思い出したからだ。鏡を見るまでもなく、自分の顔が熱を持っているのが分かった。


「あの……昨日はすみませんでした」


 そんな俺の反応につられたのか、霞も頬を赤くして俯く。俺が昨晩のことを想起したと悟ったのだろう。かなり気恥ずかしいが、否定のしようがない。


「別に、謝るようなことはないさ」


 そして、気まずい沈黙が続く。お互いに昨晩のことを思い出しているのは明らかだが、これ以上話題を掘り下げるわけにはいかない。そんなことになれば、当分の間、霞の顔をまともに見ることができないだろう。


「……あ」


 何か別の話題を、とネタを探していた俺は、ふと彼女の指先に視線を向けた。左手の中指に真新しい絆創膏が貼られていたからだ。その視線に気付いたのか、霞はばつが悪そうに笑った。


「朝ご飯を作っている時に、ちょっと指を切ってしまって」


「霞でも、そんなことがあるんだな」


 珍しいというか、霞らしくないな。そんな感想を抱いてからふと気付く。もしかして彼女も動揺していたのだろうか。そんな考えが頭に浮かぶが、聞けるはずもない。

 だから、俺は話題を変えた。


「ところで、今日はどうする? なんなら一人で行ってもいいし」


 俺も霞も、昨晩のことを引きずっている。そんな状態で二人で出掛けるのは辛いだろう。そう配慮した末の言葉だった。だが……。


「私と一緒は嫌ですか?」


「え? いや、そうじゃなくて――」


 霞の反応に慌てる。「はい」でも「いいえ」でもなく、不安げに質問を投げかけてくるのは想定外だ。だが、じっとこちらを見つめてくる霞に、俺が返せる答えなんて一つしかない。


「……霞がいいなら、予定通り一緒に出掛けよう」


「はい! よろしくお願いします」


 元気に返事をすると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。




 ◆◆◆




 近くのショッピングモールで行われている、調理器具のフェア。その場に足を踏み入れた霞は目を輝かせていた。


「調理器具って、こんなにあるものなんだな」


「凄いですよね。叡智の結晶……と言うと大袈裟かもしれませんけど、いろんな工夫や発想があって、見ているだけでも楽しいです」


 そう言って、楽しそうに陳列された商品を見て回る。たまに用途が分からないものもあるが、霞に聞けばたちどころに答えが返ってくる。説明してくれる彼女はとても上機嫌だった。


「これを買おうと思って」


 やがて、霞が示したのはフードプロセッサーだった。そう言えば、うちには包丁とおろし金くらいしかなかったな。その二つで作ることが難しい料理は、そもそも作らなかったし。


「それでいいのか?」


 そう問いかけたのは、他にもたくさんのフードプロセッサーが展示されていたからだ。彼女が選んだものはかなりシンプルなもののようで、安価な分機能が絞られているように見えた。


「基本的な機能があるだけでも、充分助かりますから」


 即答する霞だが、その目が何度も別の商品へ向けられていたことには気付いている。俺がそっちの商品を手に取ると、彼女は「あ……」と声を上げた。やはり正解だったらしい。


「こっちは?」


「使いやすそうですけど、その……ちょっとお値段が」


 霞は言いよどむ。そう言えば、彼女は初めての給与をもらったばかりだ。経済的な余裕があるはずがない。


「俺が出すよ」


「いえ、そういうわけにはいきません。日野さんは、ずっとフードプロセッサーなしでお料理をしてきたわけですし、これは私の我儘です」


「でも、俺に差し入れてくれている料理にも反映されるからな。それに、今は霞も働いているわけだし、調理時間の確保も大変だろう」


 遠慮する霞を説得する。この商品の詳しい使い方は分からないが、少なくとも彼女の手間を短縮することができるはずだ。


「それはそうですけど……」


 霞の目が二つの商品を行ったり来たりする。心が動いた様子の彼女だが、やはり抵抗があるらしい。


「霞の記憶が戻ったら、これはうちに置いていくだろう? なら、やっぱり俺が支払うべきだ」


 これだけ料理上手な彼女のことだ。暮らしていた自宅に、これと同様の設備がないとは思いにくい。むしろ、もっと調理器具が揃っていることだろう。


「……そう、ですね」


 そう考えた末の言葉だったが、彼女の表情にふっと翳りが生まれた。


「霞、どうかしたのか?」


 気になって呼びかけると、彼女ははっとした様子でこちらを見上げた。そして、ぽつりと呟く。


「いえ、その……寂しいな、って」


 そう告げた彼女は、どこか弱々しく微笑んだ。


「あのお家から出て行くことを考えたら、ちょっとそんな気持ちになって……」


「……」


 その言葉に何も感じなかったと言えば嘘になる。だが、それは彼女が感じている恩義や今の状況に付け込んでいるだけだ。そう自分を律して、俺は明るく笑い飛ばした。


「気が早いな。それに、記憶が戻れば大切に思える人がいくらでもいるさ」


 俺は断言する。そういう人たちを喜ばせるために、彼女の調理技術は磨かれてきたのだろう。


「そうでしょうか……」


 そう呟いてから、霞はふと何かに気付いたようだった。


「あの、記憶の封印が解けたら、今の記憶ってどうなるんですか?」


「術の深さや性質、解呪の方法や成功度合いによる、としか言えないな。……今の記憶が消える可能性もある」


 逡巡の末、俺は正直に答える。――大抵のケースでは、仮の人格とその間の記憶は消滅する。そんな桑名さんの言葉をそのまま伝えたわけではないが、霞にとっては充分すぎる衝撃だったらしい。


「っ……!」


 はっと息を飲んだまま、霞は微動だにしなかった。人格消滅の話はしていないが、今この瞬間の記憶が消えるとなれば、やはり平常心ではいられないのだろう。しばらく沈黙していた彼女は、なぜか高いほうのフードプロセッサーを手に取った。


「やっぱり、こっちを買います。……自分のお金で」


「え? それは――」


 どうしてそうなるのか。思わず反論しそうになる俺を、彼女の悪戯っぽい微笑みが妨げた。


「その代わり……これを目にするたびに、()()()を思い出してくださいね」


「お、おう……?」


「約束、ですよ?」


 彼女は冗談めかして告げる。だが、その表情は本気のように思えてならなかった。ふと、彼女が消えてなくなりそうな不安を感じた俺は、無意識のうちに口を開いていた。


「じゃあ、霞も忘れるなよ」


「え?」


「あの家に霞のフードプロセッサーがあるってことを。自分のものなんだから、記憶が戻ってからも使ってやってくれ。俺じゃ使いこなせそうにないからな」


 それは、今の記憶を保持したまま記憶が戻った場合の話だ。今の記憶が失われてしまえば、なんの意味もなくなる約束。それでも、俺はそう願わずにはいられなかった。


「……はい。日野さんが、そう望んでくれるなら」


 長い沈黙の後で彼女はこくりと頷いた。そして、俺のジャケットの袖をきゅっと掴む。


「どっちの約束も……忘れないでくださいね」


 その言葉は、まるで祈りのように聞こえた。




 ◆◆◆




「日野さん、重くないですか?」


「大したことはないさ。見た目が嵩張っているだけで」


 霞に気遣われながら、ショッピングモールを歩く。さっきの会話でショックを受けた様子の彼女だったが、どうにか気持ちを切り替えたようで、今では楽しそうな笑顔を見せていた。


「すみません、嬉しくて買い過ぎてしまいました」


 俺が両腕に提げた荷物の数々を見て、霞は申し訳なさそうな表情を浮かべた。その後もハンドミキサーやスライサー、果ては圧力鍋といった大物まで買ったせいで、俺たちの荷物はかなり増えていた。


「謝ることじゃないって」


 答えながら、こっそり身体強化の魔術を使用する。生身でも持てないことはないが、まだ先は長い。今から疲れ果てるわけにはいかなかった。


 ちなみに、他の調理器具はすべてこっちで支払っている。結果的に見れば折半レベルになったはずだ。

 後は、何かしら理由を付けて、差し入れの材料費を多めに渡しておこう。そんなことを考えていると、霞が心配そうに俺を見ていた。


「あの……やっぱり、どれか持ちましょうか?」


「気持ちだけもらっておく。むしろ、左右の荷物で重さのバランスが取れているほうが楽だ」


 そう言って、両手の戦利品を軽々と持ち上げてみせる。魔術で補助しているがゆえの動きだが、彼女はようやく納得したようだった。


「ありがとうございます。優しいんですね」


「霞に大きな荷物を持たせると、周囲の視線が痛いからな」


 照れ隠しもあって、俺は視線を逸らす。だが、その言葉は口実ではなく事実だった。ショッピングモールに来てからというもの、ずっと周囲から視線を向けられているのだ。


 そして、その原因は考えるまでもない。霞の容貌は人の目を惹くのに充分なものだったし、美幸が貸してくれた服もよく似合っている。逆に俺が通行人だとすれば、やはり視線を向けていただろう。


「下手をすると、荷物持ちを申し出るやつがいるかもしれない」


「そこまで危なっかしいつもりはないんですけど……」


「そういう意味じゃないさ」


 集まる視線の多くは霞に向けられたものだが、隣にいる俺も無関係ではない。今日の霞はやたらと距離が近いため、肩や手が当たることもしょっちゅうだ。

 となれば、そういう関係だと邪推されるのは仕方がないし、うだつが上がらない相手であれば、自分が取って代わろうとする奴がいてもおかしくはない。


 ……と。俺たちが会話をしながら歩いていると、霞の視線が喫茶店のディスプレイに吸い寄せられた。季節の果物で豪勢に飾り付けられたワッフルは、彼女だけでなく、道行く人々の視線を攫っているようだった。


「少し休憩するか?」


 そう助け船を出せば、彼女の頬が少し赤らんだ。


「私、そんなに物欲しそうな顔をしてましたか?」


「霞の名誉のために黙っておく」


「それ、名誉は守られてませんよね?」


 そう言いながらも、霞の身体は店の入口へ向いていた。そのことに笑いを堪えながら、俺は喫茶店へ一歩踏み出す。


「とりあえず、入ろうか」


「そうですね。えっと……日野さんの休憩も兼ねて」


「付け足し感がすごいな」


 そう茶化しながら二人で喫茶店に入る。平日の水曜日ということで、店内はそれなりに空いていた。


「二人です」


 出迎えた店員に人数を告げると、窓際の席に通される。ここでもチラチラと視線を向けられるが、もはや慣れが先に立つ。


「季節のフルーツワッフルと、日替わりハーブティーをお願いします」


 店に入った時点で決めていたのか、霞はメニューを開くことなく注文する。


「俺は……ダブルチョコレートワッフルと、クラシックコーヒーを」


 続いて注文すると、霞は驚いたようにこっちを見ていた。一礼して去っていく店員を見送ってから、俺は彼女に問いかける。


「どうした?」


「日野さんって、甘いものお好きなんですか?」


 興味津々といった様子で聞いてくる。どうやら俺のチョイスに驚いたらしい。


「好きというか……普通だな。あれば食べる」


 そう答えると、霞はにっこりと笑顔を見せた。


「それじゃ、今日買った金型が役に立ちそうですね。よかったです」


 一人じゃ食べるのが大変ですから、と付け加えるあたり、俺にもおすそ分けをしてくれるつもりのようだった。


「霞こそどうなんだ? 甘いものは――」


 言いかけて気付く。甘いものが好きでなければ、製菓用の金型なんて買うわけがないし、この店のワッフルに食いつくはずもない。


「大好きです」


 彼女は満面の笑みで答える。料理と製菓のスキルは似て非なるものだと聞くが、そっちも得意なのだろうか。そんなことを考えていると、霞は鞄から手帳を取り出した。


「それって家計簿みたいなものか?」


 レシートを見ながら書いているということは、そういう類のものだろうか。そう問いかけると彼女は頷いた。


「はい。きちんと管理しておかないと、後で困るでしょうから」


 手帳にさらさらとペンを走らせて、霞は今日の買い物を記していく。そのマメさは、いかにも彼女らしかった。


 すぐにメモを終えた霞は、あらためて俺と視線を合わせる。


「……日野さんとこうして出掛けるのって、知り合った日以来ですね」


「言われてみれば、そうだな」


 美幸も交えて三人で買い物に行ったことはあるが、二人だけ、というのは桑名さんの神社へ向かっていた時以来だ。


「あの時は式神やら何やらで気が立っていたからな。二人でのんびり出掛けるのは初めてか」


「はい。今日は一緒に出掛けられて、本当によかったです」


 霞は嬉しそうに頷いた。今朝は気まずくてキャンセルするつもりだったが、この笑顔を見られただけでも来た甲斐はあったのかもしれない。そんな気さえしてくる。


「……今日、日野さんに断られたらどうしようって、ずっと心配してたんです」


 霞はぽそりと告げる。その顔が赤いのは、連鎖的に昨晩のことを思い出したからだろう。そんな顔をされると、またこっちまで動揺してしまう。


「だから、ありがとうございます」


「お礼を言われることはないさ。昨晩だって嫌な思いをしたわけじゃないし、むしろ――」


 得をしたくらいだ。そう言いかけた俺は、危うく踏み止まった。動揺していたとはいえ、口を滑らせてしまったことを反省する。

 ただでさえ、彼女は一人暮らしの男と生活するという緊張状態にあるのだ。不用意な発言をするべきではない。


「え?」


「……いや、なんでもない」 


 そうごまかすが、霞は言葉の続きを察したらしい。さらに顔を赤く染めると、耐え切れなくなったように俯く。


「その……不快に思われてなくて、よかったです」


「そ、そうか」


 そう答えたきり俺は口をつぐんだ。これ以上この話題を続けると、また彼女の感触を思い出してしまう。霞と向かい合っている状態でそれは避けたかった。


「――お客様。お待たせいたしました。ご注文のワッフルのセットです」


 と、そんな俺に救いの神が現れた。店員はテーブルにワッフルの載った大皿とカップを置くと、一礼して去っていく。


 ワッフルとコーヒーに意識を集中して、俺は煩悩を頭から締め出す作業に没頭する。そうして、ワッフルの半分ほどを食べ進んだ頃だった。


「この後なんですけど、ちょっと本屋さんに寄ってもいいですか?」


 ダイス状にカットされた果物群をワッフルに載せて、器用に口元へ運んでいた霞は、思い出したように口を開いた。


「もちろん。何か探しているのか?」


「はい。経営関係の本を読んでみたいんです」


「経営? どうしてまた」


 予想外の答えに、つい話題を掘り下げる。すると、彼女は真面目な顔で俺を見つめた。


「もしもの話なんですけど、このまま私の記憶が戻らない時のことも考えておこうと思って」


 そう言ってから、彼女は慌てたように付け加える。


「もちろん、日野さんの技量を信用してないわけじゃないですよ? ただ、念のためというか何と言うか……」


「気を遣わなくていい。それに、万が一を想定して備えておくことには賛成だ」


 そう伝えると、彼女はほっとした様子だった。


「それは分かったが、どうして経営なんだ?」


「私は、昔の自分が何をしていたかを知りません。それなら、まず身近なところから知っていこうと思って……」


「なるほど、まずはホライゾンカフェを参考にするわけか」


 俺は納得した。彼女に経営の才能があるかどうかは不明だが、そうやって自立しようという姿勢には好感が持てた。


「資格試験も考えたんですけど、身分証明で引っ掛かってしまいそうですし」


「あー……あれは身分証明書とセットだからな」


 自分が資格を取得した時のことを思い出して、しみじみと同意する。そんな様子を察したのか、霞は身を乗り出して問いかけてくる。


「日野さんは何か資格を持っているんですか?」


「自動車免許は前提として、後は食品衛生責任者とか。一応、うちは健康食品店だからな」


「そうでした……なんだか錬金術工房のイメージしかなくて」


「まあ、()()()()の人間はそうだろうな。これでも、ちゃんと保健所に届け出て、営業許可を取ってるんだぞ」


 そう告げると、霞は不思議な表情を浮かべた。どうやら笑いを堪えているらしい。


「錬金術工房が保健所から営業許可をもらうなんて……違和感しかありませんね」


「ちなみに、酒や化粧品は別の資格や登録が必要になるから、うちでは扱っていない」


「え? この前、桑名さんに錬成したお酒を渡してましたよね?」


 きょとんとした様子で霞は小首を傾げる。なかなか記憶力がいいな。


「あれは非公式だ。私的にやり取りしたことにしている。美幸に流してる化粧品の類もそうだ」


「色々と大変なんですね……」


「欲を言えば、法律との帳尻合わせよりも、錬金術の研究に精を出したいんだけどな。まあ、この辺りは()()()()だけじゃなくて、職人なんかにも共通する悩みだろうけど」


 そんな苦労をしてまで『トワイライト』が店を構えているのは、『地域に開かれた錬金術工房であってほしい』という師匠の願いによるものだ。


 ふと思い出した師の言葉を思い出しながら、俺はコーヒーを啜った。


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― 新着の感想 ―
[一言] フフ、土鍋さんの主人公たちに共通して恋愛に不器用そうな感じ、今作でも同様のようですなあ。 まあスムーズに結ばれるようならエンタメにはならないですかね(笑 まあ目を引く美女ならハニトラ要員にな…
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