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変化Ⅰ

「霞さんの調子はどうだ? 長沢さんの話では、特に問題はないように思えたが」


「記憶の封印を除けば悪くないと思います。ずいぶん表情が明るくなりましたよ」


 自宅まで帰ってきた俺は、玄関前で桑名さんと霞についての情報を共有していた。彼が付いてきたのは、陰陽寮の回答を受けて、霞がショックを受けるのではないかと心配したためだ。


「それが救いか。しかし、ここからはどうしたものか……方術の類が大元である以上、あまり警察も頼れぬしな」


 桑名さんは腕を組んだ。魔術や妖術の類は、一般人の目に触れないように努める。その不文律があるため、全面的に警察を頼ることはできない。


「そうですね。捜索願のほうも今のところ空振りのようです」


 霞の家族が警察に届け出をしていることを期待して相談にも行ったのだが、それからなんの音沙汰もないのが現状だった。


 それに、警察で霞の記憶を取り戻すようなことは不可能だ。陰陽寮なら可能かもしれないが、高位の術師に解呪してもらうとなると、金もコネも必要だ。


「霞の身元については孝祐に頼むつもりです」


「そうだな。たしかに『千里眼』が適任だ」


 桑名さんが告げたのは孝祐の二つ名だ。孝祐の能力自体は千里眼ではないのだが、そう呼ばれるほどに彼の情報収集能力は高かった。


「ただ、いくら孝祐でも手掛かりが少なすぎますからね」


「そうか? 霞さんにはあの際立った容姿がある。写真を見せて回れば、案外簡単に……」


 言いかけて、桑名さんはおし黙った。もしその方法で捜索した場合、霞の記憶を封印した術師がその写真を見るかもしれない。


 そうなれば、記憶を奪って放置するはずが、やはり危険だと彼女の命を狙い始めるかもしれない。それが俺の懸念だった。


「それに、そもそも『霞』という名前だって、絶対に合っているという確証はありませんからね」


 かつての霞は色々と抜けている感があった。だが、こうして振り返ってみると、一度も姓を名乗ったことがない。それは不自然な話だ。


 日本ではまず苗字を名乗るのが一般的だが、相手を取り込もうとする状況でさえ、自分の名を明かさなかったのだ。となれば、あの鉢植えに書かれた『あなたの霞より』という文言も、どこまで信用していいものか分からない。


「とは言え、名前がまったく分からぬでは探しようがないぞ」


「そうなんですよね……危険を承知で顔写真を撒くか、安全を重視するか」


「少し前まで、陰陽師に狙われて生きた心地もしなかっただろうからな。また危険な目に遭わせることは避けたい」


「俺もそう思います。……あ。そう言えば、桑名さんに聞きたいのですが」


 桑名さんに同意を示すと、俺はずっと抱いていた疑問を口にする。


「記憶封印の前後で霞の人格はだいぶ異なっています。もし解呪が成功した場合、どうなるか分かりますか?」


 それは、記憶を失った霞を見てからずっと思っていたことだった。桑名さんは腕を組んでしばらく考え込むと、やがて言いにくそうに口を開いた。


「儂が解呪したわけではないが、そういったケースはいくつか見たことがある。大抵の場合は、元の人格に戻る」


「……!」


 桑名さんの答えは想定の範囲内のものだ。だが……それにも関わらず、俺は大きなショックを受けていた。そんな自分に動揺しているところへ、さらに無情な宣告がなされる。


「さらに言うと、記憶を封印されていた時の出来事は覚えていないことが多い。封印術がなんらかの形で作用して仮の人格を形成していたケースでは、人格も記憶も解呪とともに消え去る」


「……そうですか」


 答える声は、よっぽど沈んでいたのだろうか。桑名さんは気遣わしげに俺の肩に手を置いた。


「まあ、そうと決まったわけではないし、そもそも彼女とは顔見知りだったのだろう? 縁が切れるわけではないさ」


「そうですね」


 俺は雑念を振り払うように頭を振って、ガチャリと玄関の扉を開けた。そして、突然出くわして霞が驚かないよう大きめの声を上げる。


「霞、いるか? 桑名さんを連れてきた」


 俺が呼びかけてからほどなくして、霞が姿を見せた。髪がしっとり湿っているため、もう入浴は終えたのだろう。その最中でなくてよかったと密かにほっとする。


「――日野さん、お帰りなさい。桑名さんもお久しぶりです」


「ふむ。『お帰りなさい』か……」


「桑名さん、今余計なことを考えたでしょう」


 面白そうに呟いた桑名さんを半眼で睨む。変に引っ掻き回されると、後で気まずいのは俺たちだからな。


「ほう? 変なこととはどんなことだ?」


「それは――」


 言いかけて踏みとどまった俺は、憮然とした表情を浮かべる。このまま話していても桑名さんのペースに呑まれるだけだ。そんな思いから、俺は話題を変えることにした。


「そう言えば、さっきの会合で長沢さんに会ったぞ」


「長沢さんって……オーナーのことですか?」


 霞は不思議そうに目を瞬かせると、俺の隣にいる桑名さんに視線を向けた。


「今日の会合って、私たちのような妖怪の末裔や術師さんの集まりでしたよね?」


「ああ。オーナー自身はそうじゃないが、関係者らしい」


「そうだったんですね」


 霞は納得した様子だった。そもそもが桑名さんの口利きによる就職なのだから、関係者でもおかしくない。


「長沢さん、霞を褒めてたぞ。手際がいいし動きが綺麗だって」


 そう伝えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。


「まだまだ、同僚の皆さんには及びませんけど……もしそうなら嬉しいです」


 そう告げる霞は楽しそうで、だからこそ気の重い報告をすることがためらわれる。


「あの、どうかしましたか?」


 だが、彼女はそんな逡巡に気付いたようだった。それならばと、俺は肚をくくって口を開いた。


「少し長い話になるかもしれないから、リビングへ行こうか」


「え? は、はい」


 不思議そうに首を傾げる霞を伴って、俺たちはリビングへ移動した。




 ◆◆◆




「失踪した職員も、霞と名前のつく職員も、陰陽寮には存在しない……?」


 霞は呆然とした様子で、一言一言を確認するようにゆっくり呟く。その顔色は真っ青で、彼女が受けたショックの大きさを示していた。


「そんな……」


 霞の気持ちはよく分かった。記憶を失った彼女にとって、唯一の手掛かりが陰陽寮だったのだ。突然梯子を外された気持ちだろう。


「それなら、私はどうして――」


 そのまま沈黙した霞の言葉を引き継ぐように、桑名さんが口を開く。


「ふむ……陰陽寮の名を騙っていたにしても、目的が不明だ。京弥を取り込もうとするならば、むしろ陰陽寮を名乗るのは悪手だったはず」


「たしかにそうですね」


 俺と桑名さんは顔を見合わせて首を捻るが、答えが分かるはずもない。重苦しい沈黙がリビングを満たしたまま、時間だけが過ぎていく。


「あの……」


 そうしてどれほど経っただろうか。すっかり憔悴しきった様子の霞は、ふと桑名さんに声をかけた。


「どうした? 儂にできることなら、なんでも力になろう」


 桑名さんは力強く請け合うが、霞が口にした言葉はまったく関係のないものだった。


「私のせいでお時間を取らせてしまって……こんな遅くまで、ありがとうございました」


 その言葉に時計を見れば、時刻は夜の十一時を回っていた。彼女に話をしたのは九時半頃だったから、一時間半ほど経った計算だ。


「う、うむ。だが――」


「私は大丈夫ですから。こんな時間まで申し訳ありませんでした」


 霞はそう言って頭を下げる。返答に困った桑名さんと目が合った俺は、後は引き受けるとばかりに小さく頷いた。


「それでは、儂は引き上げるとしよう。力になれずすまぬな」


「そんなことはありません。ありがとうございました」


 そう告げる霞に会釈を返して、桑名さんは立ち上がった。施錠のために玄関まで同行した俺は、別れの挨拶を交わすと急いでリビングへ戻る。霞がいなくなっているのではないか。そんな不安を覚えたからだ。


「……よかった」


 リビングへ戻った俺は、ほっと息を吐く。まだ彼女はそこにいた。困惑や失意といった感情が入り混じって、動くことすら忘れているようだった。


「日野さんも休んでくださいね。ちょっと驚いただけで、私は大丈夫ですから」


 俺が戻ってきたことに気付いた霞は、弱々しい声で告げる。だが、今にも消えてしまいそうな彼女を置いていく気にはなれなかった。


「……」


 しばらく悩んだ俺は、やがて霞の隣の椅子に腰を下ろした。俺が部屋に戻らなかったからか、それとも向かい側に座らなかったからか。彼女は戸惑ったように俺を見つめていた。


「思い詰めるな、と言っても無理だろうからな」


 無言でこちらを見つめる霞に、俺はできるだけ優しく語りかけた。


「無理に話さなくてもいい。俺は好きでここにいるだけだ」


 そう宣言すると、俺は霞から視線を外してまっすぐ前方を見つめる。彼女のことは気になるが、じっと見られているのは嫌だろう。


 そうして十分が経ち、二十分が経ち……いつしか、時計は零時を指していた。そのことに気付いたのか、霞は久しぶりに口を開く。


「こんな時間まで、本当にすみませんでした。おかげで少し落ち着きました。ですから――」


「霞は我慢強いからな」


「……え?」


 噛み合わない答えを返されたせいで、彼女は戸惑った声を返してくる。


「だから、いろんなことを溜め込んでしまう。それが悪いとは思わないが、今は事情が事情だ。思いを吐き出せば楽になるかもしれない」


 そう告げた俺の脳裏に、ふとカフェのオーナーの言葉が蘇る。彼女もまた、同じことを心配していた。


「たしかにショックでしたけど……でも、もう大丈夫です。ずいぶん楽に――」


「だとしても、まだ足りないな。少なくとも、そんな顔をしている霞を一人にしたくない」


「っ……」


 リビングに再び沈黙が下りる。一時でも二時でも、たとえ徹夜になろうとも。俺は最後まで彼女に付き合うつもりだった。


「……」


 そして、さらに長い時間が経過した後で。ふと、彼女のか細い声がもれた。


「せっかく……手掛かりが掴めそうだったのに……」


「うん」


「何も……何もなくなってしまって……っ」


「ああ……不安だな」


 俺は震える声に相槌を打ち続ける。震える声が嗚咽に変わるまでに、そう時間はかからなかった。

 そこには、陰陽寮という手掛かりを失ったことだけではなく、記憶を失って放り出された、この一か月分の悲嘆や不安がこもっていたのかもしれない。


 泣いている顔を見られたくないだろうと、俺は前方に視線を固定する。そして、彼女の隣で、ただじっと静かに座っていた。


「日野さん……その、ありがとうございました」


 一体どれほどの時間が経っただろうか。声をかけられたことで、俺ははっと我に返った。数時間ぶりに直視した彼女は、泣き腫らした目をしていたものの、その表情はずっとマシになっていた。


「俺は何もしてない。図々しくここに居座っていただけで」


 なんと答えていいか分からず、俺はそっぽを向いて答える。それから、ふと思いついて視線を彼女へ戻した。


「睡眠薬はいるか?」


 そう言って俺は立ち上がった。だいぶ表情が落ち着いたとはいえ、霞がショックを受けたことに変わりはない。錬成薬のそれであり、一般の睡眠薬とは原料が大きく異なるが、効果のほどは実証済みだ。


「ありがとうございます。でも、結構です」


「本当か? さっきも言ったが、あまり我慢するなよ」


 そう忠告すると、彼女は少し考え込む様子を見せた。そして、意を決したように顔を上げる。


「我慢しなくていいなら、その……少し付き合ってもらってもいいですか?」


「ああ、構わないぞ」


 心を落ち着けるために散歩でもしたいのだろうか。もともと、朝までだって付き合うと決めていたのだ。彼女の申し出を断る理由はなかった。


「ありがとうございます。じゃあ……」


 座っていた霞は、なぜかためらいがちに立ち上がる。そして――俺の胸元に、彼女は自分の顔を押し当てた。


「……え?」


 俺は戸惑いの声を上げるが、彼女は何も答えなかった。その代わりとでも言うように、背中に霞の両腕が回されて……きゅっと力が込められる。


「……っ!?」


 予想外の展開に俺は動揺を隠せなかった。泣いているのかと思ったが、彼女は嗚咽を上げることも、身体を震わせることもない。ただ純粋に俺に抱き着いてきたのだ。それはまるで――。


 ……駄目だ。勘違いするな。俺は彼女を意識しないよう、何度も自分に言い聞かせる。だが、彼女の身体の柔らかさが、髪から漂うシャンプーの香りが、嫌でも俺の意識を彼女に縛り付けた。


 そうしてどれだけ経っただろうか。まるで名残を惜しむかのように、ゆっくり身体を離した霞の顔は、耳まで真っ赤になっていた。


「霞……?」


 今の行動の意味を問いかければ、彼女ははにかんだ笑みを見せた。


「……我慢をやめてみました」


 今も紅潮した顔でそう告げると、彼女は足早に走り去る。


 そして……リビングに残された俺は、ただ茫然と立ち尽くしていた。


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― 新着の感想 ―
[一言] …おおっと、これまた最後の最後に持っていって、ちとびっくり…まあ甘い展開をとーーーーっても長く描写なさるなら(笑 ここらから始まっておかないと、でしょうかなあ。 あとは彼女の身元の謎ですか……
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