健康食品店トワイライトⅠ
【健康食品店『トワイライト』
店主 日野 京弥】
「お待たせしました。ご注文の抑制剤です」
店内のカウンター越しに、濃緑色の粉末が入った小瓶を手渡す。蓋を開けて中身を確認した男性は、ほっとした様子で息を吐いた。
「実は、この前交通事故の現場に出くわしましてね。やはり血の匂いはテンションが上がってしまって……」
「変身はせずに済みましたか?」
「ええ。この薬のおかげで」
男性は小瓶を軽く振った。ここは現代社会に息づく錬金術工房であり、お客の大半は魔物や妖怪の末裔だ。たとえば目の前の男性は人狼の末裔だが、定期的に殺人衝動に襲われるのだという。
一度でもその衝動に身を任せてしまえば、待っているのは社会的破滅だ。魔物の血を継いでいるなどと、法廷で主張しても誰も聞いてはくれない。
「……やれやれ、人の世で生きるにはお金がかかりますね」
財布から代金を取り出して、彼は肩をすくめた。
「地獄の沙汰も金次第とはよく言ったものです」
「あはは、ここは地獄ですか」
差し出されたレシートを財布にしまうと、彼は踵を返して店を出ていく。
そして、彼と入れ替わりで入って来たのは非常に騒々しい――いや、賑やかな女性客だった。
「――京弥さん! 今日こそ私とお付き合いしましょう!」
能天気な声が店に響く。扉から顔を覗かせたのは二十歳前後の常連だ。整った顔立ちに艶やかな長い黒髪、センスの良さを窺わせる服装と、とても人目を引く容姿ではあるのだが……正直に言えば少し苦手だ。
「いらっしゃいませ。いつもの錬成薬ですね?」
「はい! あと、京弥さんに会いに来ました!」
「そうですか」
俺は素っ気なく答えるが、彼女は楽しそうにカウンターに身を乗り出した。
「もう、照れなくてもいいんですよ? ほらほらぁ」
頬をつついてくる彼女の指を避けると、俺はわざとらしい溜息をついた。
「この態度をどう解釈すればそう思えるんだ……」
「だって、照れ隠しに決まってますから!」
早々に敬語を放棄した俺に構うことなく、彼女は笑顔で断言した。そこで、俺も真面目な顔で断じる。
「何度言われても答えは変わらない。俺は陰陽寮に所属する気はない」
そう。彼女はただの能天気なストーカー客ではない。表向きは明治時代に廃止されたものの、今も非公式な形で力を持ち続けている政府組織『陰陽寮』の一員だった。
「えー、何がダメなんですかぁ? 陰陽寮、意外といい職場ですよ? ちょっと危険な時もありますけど、お休みも福利厚生もバッチリで、こっち系の若い子には大人気の就職先ですし」
「俺にはこの店があれば充分だ」
さらに言えば、陰陽寮のせいで俺の師匠はこの地を追われている。どちらかと言えば敵意すらあるのだが……それを彼女に言っても仕方がない。
「あ、このお店を畳めってことじゃないですよ? むしろ、陰陽寮としてバックアップできると思います!」
「……」
俺はつい沈黙する。なおも前向きな彼女に、いったい何を言えば分かってもらえるのだろうか。そう悩んでいるのをどう勘違いしたのか、彼女は勢いよく俺の手を取った。
「そして何より、陰陽寮の一員になってくれたら、もれなく私が付いてくるんですよ! お得ですよね!?」
そんな無茶な台詞とともに、彼女は輝くような笑顔を浮かべた。顔の造りは美人であるため、中身と正体を知らなければ軽い動揺くらいはしたかもしれないが……。
「よくそこまで開き直ることができるな」
「え? 何がですか?」
「だから、堂々とハニートラップまがいの真似をしていることについてだ」
「うー……ハニートラップだなんて、そんないかがわしい表現はやめてほしいです」
さすがに抵抗があったのか、彼女は頬を染めて抗議する。たしかにハニートラップにしては色々と控えめだが、裏がある時点で大差はない。
「私だって、最初から正体を明かすつもりはなかったんですよ? たまたま、私の顔を知っているお客さんがあの場にいただけで……」
「成否の問題じゃなくて、手段の問題だぞ」
「それでもいいんです! 私は京弥さんのこと大好きですから!」
そんな言葉を無視して、俺はカウンターの下から目当ての品を取り出した。彼女は頻繁に店を訪れるため、すぐに取り出せるよう小分けにしておいたものだ。
「いつも通り、妖力を散らす薬だな? 三千円だ」
「ありがとうございます! ……って、流さないでくださいよー!」
そう言いながらも財布を取り出すあたり、律儀な性格ではあるのだろう。ぴったり紙幣を並べて置くと、彼女はニコニコとこちらを眺めている。
「三千円ちょうどだな、たしかに受け取った」
そう言って視線を外すが、彼女は素直に帰ろうとしなかった。
「あの、今はお客さんいないですよね? もっとお話しましょうよー」
「俺は工房で作業をしたいんだが……」
「大丈夫です! 工房までご一緒しますから。それに、京弥さんにお渡ししたいものもありますし」
「どうしてそうなる……」
思わず本音がもれる。そんなやり取りをしているうちに、再び店の扉が開いた。新しいお客だ。
「君への販売は終わった。悪いが、他のお客を優先させてもらうぞ」
「もちろんです。私はいつまででも待っていますから!」
「そういう意味じゃないんだが……」
俺は気持ちを切り替えると、店内に入ってきた老年の紳士へ視線を向ける。この店に来るのは二度目であり、妖怪の一種『鵺』の血を引いている人物だ。
「こんにちは。中田ですが、先日注文したものは……」
「いらっしゃいませ。お待ちしていました」
俺はその場でかがみ込むと、カウンターの下の棚から大きめの瓶を取り出した。中には乳白色のジェルが入っており、傾けるとゆっくり中身が動き始める。
「これが……?」
卓上に置かれた瓶を、男性は訝しげに見つめた。時折、身体が黒い靄に変化する症状に悩まされているそうだが、専門家に相談したのは初めてだという。
「はい。蓋を開けると薄い煙が出ますので、症状が出る箇所に当ててください」
そう説明すると、彼はためらいがちに手袋を外した。右手は人間のそれと変わらないが、左手はたしかに黒い靄と化している。なんとも鵺らしい症状だ。
やがて、彼は瓶から上る煙に左手を突き込んだ。
「おお……!?」
すると、黒い靄が徐々に薄くなっていき、最後には人間の手の形を取る。老紳士は感動した面持ちで、左手を握ったり開いたりしていた。
「まさか、本当に元に戻るとは……!」
「効き目はあったようですね。予防薬としても使えますから、その場合は二日に一度、三分ほど患部に当ててください」
「恩に着るよ。突然こんな症状が出て、どうしたものかと途方に暮れていたところだったからね」
「自分が妖怪の血を継いでいると、知らされないケースも増えているようですからね」
そんな世間話をしながら、俺はカウンターにあるレジを叩く。すでに見積もり額は伝えているため、男性は数枚の紙幣を差し出してきた。
「む? 店主殿。このレシートだが、品目に『アロマオイル』と表示されている」
引き換えに渡されたレシートを見て、彼は不思議そうに首を捻る。その指摘を受けて、俺は少し真面目な表情を作った。
「ここは、あくまで健康食品やパワーストーンを販売しているお店ですから」
現代社会では、妖怪や魔物と同様に、錬金術もまたオカルトの一種でしかない。堂々と『錬金術工房』として開業することはできないのだ。
そのため、この錬金術工房の正式名称は『健康食品店トワイライト』という神秘性が一ミリも感じられない名前だし、書類上もそういった品物しか取り扱っていないことになっていた。
「なるほど、そうだったね。……うむ、非常に質のよいアロマオイルだ。大事に使わせてもらうよ」
老紳士もそのあたりの事情に思い至ったようで、あっさりレシートの内容を受け入れる。上機嫌な様子で礼を告げて、老紳士は店を出て行った。と――。
「やっぱり京弥さんは凄いですね! 難しそうな症状だったのに、簡単に対処しちゃうなんて」
ひっそりと息を潜めていた彼女が、再びカウンターに身を乗り出す。TPOをわきまえているのはありがたいが、お客がいなくなると途端にこれだ。
「吸血鬼の霧化と同系統だったからな。それを応用するだけで済んだ」
つい真面目に答えれば、彼女はなんだか誇らしげに胸を張った。
「さすが京弥さんですね! ちなみに惚れ薬は扱ってないんですか?」
「揉め事のタネになるだけだ。絶対に作らない」
「ということは、作ることはできるんですよね? 特別に私のために作ってもらえませんか? 京弥さんに飲んでもらいますから!」
「それを本人に言うなよ……それに効き目が切れたら終わりだぞ」
「大丈夫です! きっかけさえあれば、京弥さんは私に夢中になってくれるはずですから」
「その自信はどこから来るんだ……」
思わず深い溜息がこぼれる。黙っていれば美人なのに勿体ない。そんな感想を胸にしまって、俺は彼女を追い出す策を練るのだった。
◆◆◆
「――京弥。まだいけるかい?」
すっかり夜になり、店の閉店作業をしていた時分に声をかけてきたのは、学生時代からの友人だった。
「ああ、孝祐か。薬を買いに来たのか? それとも情報?」
「両方だ。店じまいのタイミングで悪いねぇ」
同い年ながら、どこか煤けた雰囲気を漂わせるこの男――宮原孝祐も妖怪の末裔であり、さらに言えばこっちの業界では有名な情報屋だった。
「とりあえず入ってくれ」
「ああ、邪魔するぜ」
孝祐が店内に入ったことを確認すると、俺は店の扉にcloseの札をかけた。そして、店内へ戻って瓶詰めにした木の皮を取り出す。
「いつも通り、妖力増幅の錬成薬だな? 分かってると思うが――」
「連続使用は控えるさ。いつもありがとな」
言いながら、彼は数枚の紙幣を財布から取り出す。長年にわたって繰り返されたやり取りであり、金額を告げることもなければレシートを渡すこともない。いつもより紙幣の枚数が少ないのは、情報料と相殺したからだろう。
「それで、情報って?」
訊きながら、手近な椅子に腰かける。貴重な魔術素材の在処や陰陽寮の動向など、彼に依頼している案件は多い。どうしても工房に籠もりがちな俺は、彼を貴重な情報源にしていた。
「そうだな、いくつかあるが――」
そうして、妖怪絡みの事件や、求めていた霊草の所在。果ては陰陽寮内での勢力争いなど、様々な情報を聞かせてくれる。
「ところで……その草はなんだ? 少し魔力を感じるが」
一段落ついたところで、彼はふとカウンター上の植木鉢に目をやった。
「例の女性が持ってきたんだ。プレゼントだって無理やり置いていった」
「ああ、例のハニトラ女か」
孝祐は面白そうに俺の顔を窺う。本人が聞けば憤慨しそうな略称だが、概ね間違ってはいない。彼は結構な女好きということもあって、この話に興味津々のようだった。
「据え膳だし、食っちゃえば? そんで陰陽寮の話は蹴ればいい」
「人としてそれはどうなんだ……」
思わず文句を言えば、孝祐は少し真面目な顔で口を開く。
「お前、この店を継いでからずっと仕事一本槍だろう? 少しはプライベートを楽しまないと、そのうちプツリと糸が切れるぞ」
「そんなことはないさ。それなりに人生を楽しんでいる自信はある。たとえば食事とか」
「それだって『どうせ食べるなら美味いものを食べよう』程度の思考だろう? ついでじゃなくて、もっとレジャーみたいな時間の使い方もしないか?」
「だから彼女を利用しろって? それはなんというか……誠実じゃないだろう」
そう答えれば、孝祐は「そう言うと思った」と肩をすくめる。
「ま、お前は情が深いからなぁ。そんなことになったらズルズル引っ張られるか」
「相手は陰陽寮の回し者だぞ? それはない」
俺が言い切ると、孝祐はふと思い出したように口を開いた。
「じゃあ、逆に西洋系はどうだ? 最近、陰陽寮が人材の補充に躍起になってる。で、その理由が西洋系組織の台頭らしくてな。京弥の師匠は英国の錬金術師だし、相性は良さそうだ」
予想外の言葉に俺は目を瞬かせる。だが、答えは考えるまでもなかった。
「西であろうが東であろうが、別に興味はないな。俺はこの店を守るだけだ」
この国では、日本や中国などをルーツとする存在を妖怪、それ以外を魔物と呼んで区別しており、かつては両者が衝突することも珍しくなかった。だが、うちの工房では妖怪も魔物も区別はない。
「ストイックだねぇ。そんなところも京弥らしいが。……そうそう、俺からも訊きたいことがあるんだが――」
そして、今度は彼が情報を仕入れるターンに突入する。彼が店を出たのは、夜も更けてからのことだった。
◆◆◆
「京弥さん、こんにちは!」
誰もいなかった店内に彼女の声が響き渡る。笑顔で手を振ってくる彼女に、俺は目礼だけを返した。
「いらっしゃい。今日は常識的な挨拶だな」
「少し趣向を変えてみました! どうでしたか?」
「どうでしたかと言われても、普通としか言いようがないが……」
俺は曖昧な苦笑を浮かべると、いつもの錬成薬をカウンターから取り出す。
「それじゃ、妖力を散らす薬だ」
それはいつも通りのやり取りだ。だが、今回の彼女は財布を取り出すことなく、どこか焦った様子でカウンターに身を乗せた。
「あ、あの、今日はそれだけじゃなくてですね……!」
「他にも必要な錬成薬があるのか?」
高頻度で妖力を散らす薬を購入しにくる彼女だが、本人の妖力は極めて弱い。最低クラスと言っていいだろう。その時点で、他人のための錬成薬だということは分かっていたが……その人間に別の問題でも起きたのだろうか。
「いえ、そうじゃないです」
そんな予想をあっさり覆すと、彼女はカウンター越しに俺の手を掴む。
「京弥さん、今日こそ陰陽寮に――」
「なんだ、いつもの話か」
手を振り払うと、彼女の言葉を遮って口を開く。深刻な症状でも出たのかと、真面目に構えた自分が馬鹿らしく思えてくる。
その一方で、言葉を遮られた彼女は、機嫌を損ねたというよりは困ったような表情を浮かべていた。
「その、ちょっとピンチなんですよー」
「どうした? 俺を陰陽寮に勧誘する期限が迫っているのか?」
「……!」
俺の軽口に彼女の表情が固まる。からかったつもりだったが、どうやら図星らしい。どこか焦っている様子だったのはこれが原因だろう。
「まあ、よかったじゃないか。仕事のために意に沿わない相手と交際するなんて嫌だろう」
「誰でもいいわけじゃありませんし」
俺の言葉に、彼女はわざとらしく頬を膨らませた。だが、すぐにいつもの快活な笑みに戻る。
「ともかく、そういう事情で困ってるんです!」
そして勢いよく告げると、一度は振り払われた手を再び握った。
「……なので、お試し期間だと思ってまずお付き合いしませんか? 陰陽寮のことはその後で考えるということで――」
「そういう考え方はあまり好きじゃない」
俺が正直に答えたところ、彼女はなぜか微笑んだ。
「京弥さんのそういうところ、好きですよ」
そして、嬉しそうに言い切る。その表情は嘘だとは思えないが……どうにも彼女の基準が分からない。
そんなことを考えていた時だった。ふと、彼女の雰囲気が変わった。
「ねえ……京弥さん……」
彼女はドキリとするような蠱惑的な表情を浮かべると、カウンターに身を乗り出してゆっくり距離を詰めてくる。それは、明らかに意識的な行動だった。
「何を――」
今日の彼女はオフショルダーの緩いトップスを身に着けているため、綺麗な肩のラインや胸元が強調されている。正直に言って、とても魅惑的な眺めであることは否めない。
「私は本気ですよ……? 本当に京弥さんのことを――」
だが。それを眼福と喜ぶほど、俺は欲望に正直になれなかった。その白い肌に目がいかないよう、さっと視線をそらして遠慮がちに声をかける。
「なあ。なんというか……恥ずかしいなら、やらなくてもいいと思うぞ」
というのは、動きも表情もぎこちないし、羞恥で顔は真っ赤に染まっていたからだ。彼女が無理をしているのは明らかだった。
「……うぅ」
俺の指摘を受けて、彼女はがっくりとカウンターに突っ伏した。そして、恨みがましそうにこちらに顔を向ける。
「京弥さん……それ、指摘するほうが残酷だって思いません?」
「あのまま無言で立っているほうが残酷だと思った」
「そうですけどぉ」
彼女は同意を示しつつも、困ったように溜息をつく。その様子を見ていた俺は、無意識に口を開いていた。
「――俺が言うのもなんだが、職場で上手くいってないのか?」
「……え?」
「そんな枕営業じみたことを強要されるなんて、パワハラところじゃないと思うぞ」
きょとんとする彼女に、正直なところを訊いてみる。そもそも、彼女はハニートラップ工作員には向いていない。淫魔あたりの系譜には、そういったことを生業にしている者もいるが……。
「無責任な言い分だが、もしそうなら転職を勧める」
俺はきっぱりと言い切った。妖力が弱い彼女は、陰陽寮でひどい扱いを受けているのかもしれない。
「……」
俺に心配されるとは思っていなかったのか、彼女は呆気に取られた顔でこちらを見つめていた。だが、やがていつもの快活な笑顔を取り戻す。
「じゃあ、仕事を辞めたらここで雇ってくれますか?」
「悪いが人手は足りている」
即答すると、彼女は頬を膨らませた。
「えー! 普通、ここは『いいよ。雇ってあげるよ』って言う場面だと思います」
「できない約束はしない主義なんだ。けどまあ、ツテくらいは当たってもいい」
「とか言って、臓器売買とかに連れて行くつもりじゃ……」
わざとらしく自分の腹部を抑える彼女に、俺は半眼で答える。
「そんなわけあるか。ただ、本気で陰陽寮を辞めたいなら話くらいは聞くぞ」
「えっと……ありがとうございます?」
「どうして疑問形なんだ……」
「京弥さんが親切で、戸惑ってしまいました」
そして、彼女はへにゃりと笑う。
「うーん……今日はこれ以上押せそうにないですね。残念ですけど、今日のところはお暇します」
「ああ、気を付けて帰れよ」
「はーい!」
俺の言葉に頷くと、彼女は踵を返して店を出た。カランカランと、扉に取り付けている装飾が音を立てる。
――それが、この彼女と言葉を交わした最後の日だった。
◆◆◆
「こんなところか」
店の前の道路へ出て、初秋の夕日に照らされた店舗の外観をチェックする。目立った汚れがないことに満足すると、俺は掃除用具一式を店内へ運び入れた。
「……そう言えば、しばらく来てないな」
もう一度外へ出ると、ふと周囲を見回す。三日と空けず通ってきていた彼女だが、もう一か月ほど姿を見せていない。
俺を勧誘する期間にリミットが来たのか、それとも本当に転職したのか。最後に来た日の話を思い返すと、どちらもあり得そうな話だ。寂しいというほどではないが、しばらくは彼女の喧騒を懐かしむ日もあるだろう。
「……ん?」
そう感傷に浸っていた時だった。視界の端に映った人物の姿に、俺は目を瞬かせた。
「なんだ。まだ続いてたのか」
白色を基調にした出で立ちに、風で揺れた黒髪が映える。計算されたコントラストに彩られているのは、間違いなく彼女の姿だった。だが――。
「どうしたんだ……?」
彼女の反応に違和感を覚えて首を傾げる。これまでなら、目が合うなり大声で呼びかけて、手をぶんぶんと振ってきたことだろう。だが、彼女は窺うような視線をこちらへ向けたまま、その場から動こうとしなかった。
「新しい誘惑方法か?」
まさかとは思うが、この一か月間ずっとあの場所からこちらを見ていたのだろうか。
そんなことを考えながら、十分ほど睨み合っていただろうか。ついに根負けしたのか、彼女はおずおずとこちらへ近付いてきた。
「……?」
だが、目の前に立った彼女を見て俺は首を傾げた。たしかに外見は彼女だが、身にまとっている雰囲気が違う。以前の彼女が「動」なら、今の彼女は「静」と言っていいだろう。
彼女の清楚な外見からすれば、こちらのほうが似合っている気もするが……ひょっとして、勧誘のためにキャラを変えるつもりなのだろうか。
「あ、あの――」
「しばらく顔を見せなかったが、薬のほうは大丈夫だったか?」
彼女のペースに飲まれないようにと、俺は先んじて話題を切り出した。すると、彼女は驚いた様子を隠すように、ほっそりとした手で口元を覆う。
「どうした?」
新しいキャラは、なかなかどうして様になっていた。この一か月で淑女教育でも受けたのだろうか。そう思わせる所作だ。
だが。次に彼女が口にした言葉は、そんな俺の感想を吹き飛ばすものだった。
「あの……私のことをご存じなのですか?」
「……え?」
虚を突かれた俺は、一瞬反応が遅れた。とても演技には見えない、不安に満ちた表情。まさか――訝しむ俺に対して、彼女は震える声で告白した。
「私……自分が誰なのか、まったく思い出せないんです」