5 ロゼ
ひとまず話は一段落し、マリーは一息つく。
問題が多すぎて、一度休憩を挟まなければやってられない。といっても首だけで身動きも取れないので、机の上に鎮座したままぼーっとする以外にやることがなかった。
「暇すぎますわ……」
話し相手、もといスペードは今いない。さっきの悪質な冗談の埋め合わせとして、とある命令を下したのだ。
そのために外出したのが……どれくらい前だろうか。マリーの視界内に時計はなく、外の景色も見えないので時間が分からない。せめて暇を潰せるなにかを、目の前に置いていってもらえばよかったと思ったのが……やはりどれくらい前か分からない。
「どうにか動くことはできないんですの……?」
首の辺りに力を入れてみる。ほんの少し傾げるくらいはできたが、移動はどうにも無理そうだ。
そんなこと考えなくても本来なら分かるのだが、退屈に狂わされているがゆえの奇行である。マリーはまだそのことに気づいていない。
「転がるくらいなら……」
気づいていないので、よせばいい試みは継続中だ。首全体に思いきり力を込め、どこから出ているの分からない呻き声を上げた。マリーの人生において間違いなく、最も首を酷使している瞬間である。しかし当然微動だにしない。
そんな無駄な努力の時間が終わりを遂げる。後ろから扉の開く音がした。
「うっ」
意識が別方向に向いていたせいで、必要以上に驚いてしまう。その拍子に力の入り方がおかしくなり、マリーの首を激痛が襲った。
「どうした」
「つ……つりましたわ……」
「なにをしたらその状態で体の部位がつるんだ」
ごもっともすぎて、苦悶の声しか上げられない。途端にさっきまでの自分の行為が恥ずかしくなってきた。
「落ち着いたか?」
「ええ……ご迷惑をおかけしましたわ」
まだほんのりと痛みの余韻があるが、それを意に介している場合ではない。
スペードが帰ってきた。つまり、さっきの命令を完遂したということだ。はやる気持ちが、マリーの中で膨れ上がる。
「それで、連れてこられましたの?」
「当然だ。契約主の命令だからな」
スペードはマリーに見える位置まで移動し、その頭を持ち上げて反対側……扉の方に向け直した。さっきは全く動けなかったのに、人の手を借りれば一瞬だなと思う。
「入ってきていいぞ」
開きっぱなしの扉にスペードは言った。今はないはずの心臓が高鳴っているような、不安と期待の混ざった緊張がマリーに走る。
足音が近づいてくる。恐る恐るという言葉の似合う、間隔の長い音だった。
「……っ」
マリーは生唾を飲んだ。それがどこに行くのかと、今はよぎりもしなかった。
足音が一旦とまり、沈黙が流れる。
しかしすぐ意を決したようで、人影が入口の前へと現れた。
「……!」
部屋の中を見た瞬間に、泣きそうだった彼女の顔は決壊した。手から力が抜けて鞄を取り落としても、拾うどころか気にするそぶりすらない。ただ一点、机の上のマリーを見ながら、ぼろぼろと涙をこぼし続ける。
「マリー、様……?」
「……心配かけてごめんね? ロゼ」
マリーもまた泣きそうだったが、ぐっとこらえて笑おうとする。上手く笑えてないなと自覚できる、困り顔の笑みが浮かび上がった。
「本当に? だって昨日確かに……首、斬られてて、血もあんな、首なくなってて……死んだと思って、私もう……!」
「無事……とは言いきれないけど、ちゃんとまだ生きてるわよ」
ロゼは倒れ込むような勢いで部屋に上がり込み、マリーの首を胸に抱え込む。
「マリー様……! マリー様! マリー様ぁ!」
「うん」
「本当に生きてるんですね!? 首しかないけど生きてるんですね!」
「うん」
ロゼは涙でぐしゃぐしゃになった顔を拭いもせず、大きく息を吸ってから、更に言葉を連ねた。
「t2*[4! m…g♪+t2*[4!」
「……は?」
スペードの口から、つい疑問の声が漏れる。
なんだ今のは。あのピンク髪の少女はなんと言ったのか。嗚咽で舌が回らなくなったのかと思ったが、あまりに意味不明すぎる。
「わたくしは大丈夫よロゼ」
「は?」
全く同じ声が連続して出た。さっきの謎の言語に対して、マリーはなんの反応も示していない。何事もないように会話を続けている。
「7^☆372(☆5$5*[4^%49.04%6!」
「うんうん」
「4(☆%(5g¥+☆*[%t[+☆9\5$・a(:…53☆!」
「いいのよ」
「待て。水を差したくなかったが流石に待て」
感動の再会をたまらず制止してしまった。まだなにか言いかけていたロゼが、若干むせつつもスペードを見る。その緑色の目からは、とめどなく涙が流れ続けていた。
「マリーはそいつがなんて言ってるのか分かるのか?」
「いいえ」
「分からないのか」
顔を胸元に押しつけられ、強く抱きしめられたままのマリーは、スペード以上のくぐもった声で即答する。ロゼがこうなった時点で聞かれると思っていた。
「ロゼは本気で取り乱すとこうなりますの。つき合いは長いですけど、未だに解読できませんわ」
「さっき相づち打ってたろ」
「雰囲気でなんとなく伝わりますもの」
「そういうものか」
「そういうものですわ」
ロゼの胸に埋まって誰の目にも見えていないが、マリーの表情は誇らしげだった。
「んんっ……失礼。取り乱しました」
咳払いをしたロゼは、元の口調に戻っていた。腫れぼったくなっているが真剣な鋭い眼差しで、スペードを見る。
「詳しくお聞かせ願えますか? 悪魔のスペード様」
*
マリーにしたのと同じ流れの説明を、スペードは少しかいつまんで話した。ロゼは質問を挟むことなく、短い相づちで続きを促す。そのお陰で、マリーのときよりもスムーズに説明が終わった。
「部屋に入ってきた猫が喋り出したときはなにかと思いましたが……そんなことが」
マリーを膝に乗せて椅子に腰かけるロゼは、全て聞き終えてから誰にとでもなく呟いた。無意識に右手が動き、綺麗な銀髪の頭を撫でる。
マリーはくすぐったさに耐えるように口を閉ざす。とりあえず、後で猫の姿がどんなだったか聞こうと思った。
「私がもっと、あの占い師に注意を払っていれば。違和感を持ったことはあったのに、いつの間にか信用してしまってました……」
「ロゼのせいなんかじゃないわ」
「いえ……不甲斐ないです。マリー様をこんな目に遭わせただなんて、私は……」
ロゼの眉間に皺が寄る。マリーに触れる手先が、壊れそうなものを扱うように慎重なものへと変わった。
優しく撫でられ続けて、マリーは逆に少し落ち着かない。
「スペード様。マリー様の命を救っていただき、本当にありがとうございます」
「俺も最良の結果を出せたと思っていない」
「あなたがいなければ、最悪の結末を迎えていました」
マリーを抱えたまま立ち上がり、深々と頭を下げるロゼ。唇を噛み、自分を責める苦悶の表情が床を向く。
「私は従者失格です。本来なら既に、こうして会う権利も……」
「いや、それは……」
「それは違うわ」
スペードより早く、マリーの口が動いた。ロゼは驚きつつ、マリーを持ち上げて目を合わせる。眉と赤い目を少しつり上げ、その顔は怒りを訴えていた。
「権利がないだなんて言わないで。貴女はとても立派なんだから」
「しかし……」
「どうしてわたくしが、スペードに貴女を連れてこさせたか分からないの? わざわざクビを宣告するためだとでも思ってるの?」
スペードは面食らいつつも、二人のやり取り……否、マリーの放つ雰囲気に目を奪われていた。
さっきまで年相応の打たれ弱さを晒していたのに、今は明らかに様子が違う。有無を言わせない圧を放っているとさえ感じた。
「この世界で最も信頼しているのは誰かと聞かれたら、わたくしは迷いなくロゼと答えるわ。貴女はわたくしにとって特別なのよ」
「……!」
「ロゼが近くにいないなんて、考えられない。それなのに貴女は、わたくしのそばから離れるつもりなの?」
ロゼの目が再び涙に濡れた。それを見て、マリーの表情が柔らかくなる。
「駄目よ。貴女がいないと、わたくしは寂しいわ」
「……はい」
「それじゃあロゼ、まだわたくしといてくれる?」
「はい! 勝手なことを言って申し訳ありませんでした! 次こそ必ず……!」
崩れ落ちるように椅子へと座り、ロゼはマリーを抱きしめた。ついさっきとほぼ同じなその光景を、スペードは口を挟む隙もなくただ眺める。
ただ言葉に心がこもっていただけじゃない。マリーの中にある、王女としての片鱗を見た気がした。