3 死の悪魔
騒然とした空気の城内を、ロゼはメイドの作法も忘れて駆け抜ける。スカートに足を取られることもなく、一心不乱にその場所へ向かう。
すぐに人だかりが見えてきた。開いたままの扉の前で、皆が一様に押し黙って部屋の中を見つめている。
全員の脇をすり抜け、ロゼは部屋の中へ入る。
「……!」
そして愕然と、膝から崩れ落ちた。
割れたガラスも、床を汚す血だまりも目に入らない。ロゼが見つめるのは、そこに横たわるマリーの体だけだった。
首から上のなくなった、物言わぬマリーの体だけ。
どうして。
誰がこんなことを。
自分が近くにいれば。
理解が追いつかないまま、ロゼの視界が大きくぼやけた。見えづらい。マリーの体がよく見えない。
膝をついたまま、這いつくばるようにしてマリーに近づく。手やメイド服に血が付着することも厭わない。
目にたまっていた涙が、一気に流れ落ちる。鮮明になったロゼの視界に、大切な人の亡骸が容赦なく飛び込んできた。
距離は目と鼻の先。首の断面からは、未だ赤い液体が流れ続けている。手と手が意図せず触れ合う。
固い。
「う……!」
マリーの体に縋りつき、ロゼは泣いた。周囲をはばかる余裕もなく、喉が張り裂けんばかりに慟哭した。
「…………」
泣き叫ぶロゼと、なにもできず部屋の入口を取り囲む騎士や使用人たち。
一歩引いた所から、フードを被った女はその光景を眺めていた。
*
まぶたが異様に重たい。目を開けようとするも、顔の筋肉がひくついて上手くいかない。
「う……?」
なにがあったのかよく思い出せない。自分がいつ寝たのかも朧気だ。恐ろしい目に遭ったような気もするが、いまいち頭がまとまらない。
「起きたか」
誰かが近くにいるらしかった。薄い壁でも隔てているように、くぐもった少し聞き取りづらい男の声。最近どこかで聞いたような気がして、ふわふわした記憶をたぐり寄せる。
そういえば、昨日聞いたはずだ。あれは、部屋で指輪を眺めていたとき……。
「……!?」
記憶が一気に呼び戻された。持ち上がらなかったまぶたが、一瞬にして軽くなる。
そうして開けた視界に、真っ先にその男が映し出された。
「貴方……!」
「おはよう。とはいえもう昼過ぎだが」
黒い仮面に黒い服。
あの夜現れた男が、マリーの目の前でベッドに腰かけていた。
「どうして……いやそれよりここはどこですの!?」
男の存在が衝撃的すぎて、自分が見知らぬ所にいると気づくのに遅れた。こんな狭くて質素な部屋は、マリーの暮らす城の中にはない。
より部屋を見渡そうとしたところで、違和感に襲われた。
体が、ぴくりとも動く気配がしない。
そもそも自分は今どういう体勢なのか。立っているのか座っているのかも分からない。
「あれ……?」
同時に、記憶と現状が食い違っていることに寒気を覚える。
あのとき大鎌を首元に当てられて、その後……。
ここから思い出せない。思い出せないということは、つまりそういうことではないのか……?
「ここは城下町の郊外にあるスラムの空き家だ」
男は律儀に質問に答えてくれたが、マリーはなにも反応できない。恐ろしさが徐々に驚きを超えてゆき、あの夜同様に余裕がなくなってしまっていた。また涙が流れそうになる。
「しかし最初の質問が今のでいいのか? もっと他にあるだろう」
「……どういう意味ですの?」
「そのままの意味だ。そうだな、例えば」
男は懐をまさぐり、手鏡を取る。
それをマリーの方へと向けた。
「どうして首だけになっても生きてるのか、とか」
そこに映っていたのは、怯えた表情をしたマリー。
胴体がなく、小さな机の上に乗っけられたマリーだった。
「っ!?」
鏡の中の顔が更に引きつり、両目に涙が滲む。
体が動かない……自分の姿勢が分からない……当然のことだった。その体がないのだから。ないものが分かるはずもない。
しかしそんなことに合点がいっても、なんの余裕も取り戻せなかった。むしろ混乱は加速して、マリーの頭は真っ白になる。
「説明の前に自己紹介だな。俺の名はスペード。死を司る……」
「待ってくださいまし!」
つい取り乱し、叫ぶようにマリーは言った。手がないせいで涙も拭えず、鼻をすすって泣きながら男を睨む。
「なにがなんだか分かりませんわ! いきなり襲われて殺されたかと思えば、首だけになって生きていて、その犯人が目の前にいて……貴方なんなんですの!? なにが目的でわたくしにこんなことを……!?」
「それを説明してやろうとしたんだが」
「……今は無理ですわ。もう少し時間をくださる?」
自分でも支離滅裂なことを喚いていると思う。しかし今のマリーに道筋立てて考えることはできなかった。最後の言葉を言いきって、再び鼻をすする作業に戻る。
大声でまくし立てたせいで、少し息が上がった。肺も心臓もないのにどうなっているのかと一瞬考えたが、やはり深く思考する余裕はない。
そんなマリーを見かねたのか、ため息を挟んで男が言った。
「……仕方ないな。せっかく残った頭なんだから上手く使え」
「なっ……!」
予想外の口撃に、マリーの顔が赤くなる。
なぜこんなことになっているのかは全く分からないが、この男のせいであることには間違いないのだ。なのに追い打ちでそんなことまで言われなければならないのか。
だんだんと怒りが強くなる。拳があればきっと握りしめていただろう。瞳は涙で濡れたままだが、マリーは眉をつり上げた。
「どうしてわたくしが侮辱されなければなりませんの!?」
「そう頭に血を上らせるな。おっと、頭しかないから上りようがないか」
「っ! さっきから上手いこと言ってるつもりですの!? ちっとも笑えませんわ!」
「死ぬほど和んだだろ?」
「そう見えるのならとんだ節穴ですわね! その趣味の悪い仮面と同じように!」
「……顔を悪く言うのは駄目だろ」
「わたくしだって暗に馬鹿だと罵られましたわ! そもそも顔がどうとは言ってませんの!」
いつの間にか混乱は収まり、マリーは興奮のままに叫びを男にぶつけていた。はたと冷静になり、ため息をつく。自分の首を持ち去った男を相手に、一体なにをしているのだろう。
「……もう大丈夫ですわ。話を聞かせていただけます?」
「…………」
「ちょっと、聞いてますの? ねえ……あの、え? なに本気で落ち込んだそぶりで項垂れてますの?」
「……俺は趣味悪くない」
「そ、そんなにその仮面気に入ってましたの?」
膝に肘をつき、組んだ手と頭をくっつけたまま、男はぽつりと呟いた。
自分の方を見もしないへこみぶりに、マリーはなんともいえない表情を浮かべる。昨夜感じた恐ろしさはどこへやらだ。
「わたくしのことも好き勝手言ったくせに、自分だけ被害者ぶるのは都合がよすぎるのではなくて? そもそも先ほどのやり取りを加味したとしても、被害者はわたくしの方ですわ」
「……こういうとき正論はよくないんだぞ。落ち込んでいる相手は嘘でも励ますべきだ」
「貴方は自分を棚に上げないと生きていけませんの?」
ならさっき自分のことを励ましてくれればよかったのではないか。そう言ったところで同じようにはぐらかされる気がしたので、マリーは考えるに留めた。
「分かった。ここは痛み分けということで手を打とう。話を再開しようか」
「……お願いいたしますわ」
本当は痛み分けどころではない気もするが、その言葉も呑み込んでおいた。もうふざけているのか本気で言ってるのか分からない。
「改めて自己紹介だ。俺の名はスペード。死を司る悪魔だ」
「悪魔……」
『悪魔は契約を破れないからな』……。
昨夜、最後に聞いた言葉を脳内で再生する。
「聞き間違いではなかったようですわね。初めて見ましたわ」
「だろうな。悪魔が人間界に来るには、契約を通すしかない。それも今やほぼ不可能だ。国際的に規制もされてる」
「それは、倫理的な理由ですの?」
「決めたのは人間だろ。俺は知らないが……報復を恐れたんじゃないか?」
あり得ると思った。かつて悪魔は、契約によって酷い扱いを受けたのだ。どうにか手を尽くして、下克上を成そうとしてもおかしくない。
それを警戒し、そもそも人間界に呼びさえしなければ安全だと考えた、といったところだろうか。
「なら貴方は、どうやってここに来たんですの?」
「アンナ=ホーネットとの契約でだ」
その名を聞いて、マリーは思わず目を見開いた。
「……本当ですの?」
「嘘じゃない。俺はお前の母親との契約でここにいる」
どうしてここで、三年も前に死んだ母親の名前が出てくるのか。自分が答えを出せるはずなく、マリーはまたしても混乱に陥りそうになる。
「アンナは死の直前に俺と契約を交わした。それを今果たしたわけだ」
「どうして……。つまりお母様は、わたくしがこんな状況に置かれることを望んだということですの……? そんな……」
「そう言うな。確かに百点を出せたわけじゃないが、最悪とまではなっていないぞ」
「どこを見ればそんなことが言えますの!? 体を失ってこんな所に連れ去られて、更にそれを望んだのがお母様だなんて……」
恐怖というより、ショックだった。喧嘩することは何度かあっても、仲はいいと信じていたのに。逆に母は悪魔と契約してまで、自分をこんな目に遭わせることを望んでいた。
そう思うと、今日一番の絶望だった。見開いたマリーの瞳が、再び潤いを増し始める。
「まあ聞け。その契約がなかったら、お前は今頃死んでいたぞ」
「は……? そういえば、そもそも何故わたくしは首だけで生きて……」
「俺は死を司る悪魔だぞ。殺さずに首を刎ねるくらい簡単だ」
最も不可解な謎の答えを、事もなげにスペードは言った。
殺さずに首を刎ねるのが簡単……? スペードの魔法なのだろうが、マリーの知る限りそんな芸当のできる魔法は存在しない。簡潔な回答に反してまるで理屈が分からず、マリーはぽかんと口を開ける。
「悪魔と人間とでは魔法の仕組みも違うらしいからな。別に理解しなくてもいい。それに、話の主題はそこじゃない」
「そ、そうですわね。貴方がいなければ、わたくしは死んでいたと……。それで、お母様との契約とは?」
表情の窺えない顔を頷かせ、スペードが立ち上がる。
今更気づいたが、かなりの長身だ。間近で見れば、怪しすぎる風貌と合わさって息を呑む迫力がある。
「アンナが俺に課した契約は、『娘に危機が迫ったとき、助けてあげてほしい』。以上だ」