2 マリー=ホーネット
『大昔、この世界には人間と悪魔の二つの種族が暮らしていました』
『しかし、ある悪魔の行動が引き金となり、人間と悪魔の間で大きな戦争が起こりました』
『多くの命が散った末、長きに渡る戦いに勝利したのは人間でした』
『生き残った人間は、悪魔をここではない別の世界に追放しました』
『こうして世界は、人間界と魔界に分かれました』
『更に悪魔は、人間から契約の概念を突きつけられました』
『悪魔という種族は、人間と結んだ契約を破ることが許されなくなりました……』
*
読んでいた絵物語を閉じ、長い銀髪の少女はふうと息をついた。赤い瞳を物憂げに閉じる。
この本を読むのが何度目かは覚えていないが、いつもこの辺りまできて複雑な気分になってしまう。
戦争を経験したことのない身で偉そうに言えないが、勝てばなにをしても許されるのか。全ての悪魔が罰を受けねばならないほど、悪魔は悪い種族だったのか。人間にそこまでする権利はあったのか。
なんて考え始めて、素直に物語が楽しめなくなってしまうのだ。
……これがただの作り話じゃないから、尚更強くそう感じるのかもしれない。
「悪魔、見たことありませんけど」
何気なくこぼした独り言の通り、少女は悪魔を知らない。しかし手に持つ絵物語よりも正確な歴史書や、各地に残る痕跡が、かつて世界に悪魔がいた事実を物語っていた。少女も教師から教わったことがある。
なんでも戦争直後は契約を乱用し、悪魔を奴隷同然にこき使っていたとか。それを思い出し、ますます複雑な気分になる。規制された今では、そんな光景を見ることはないが。
それにしても、毎回毎回いい気分にはならないのに、どうして自分はこの絵物語を何度も読み返しているのだろう。わざわざ書庫から引っ張り出して、わざわざ自室に持ち込んで。政治の勉強や魔法の勉強……やるべきことは他にもあるだろうに、少女は自分で不思議に思った。
しかし考えたところで意味はない上に答えも出ないと思い直し、ひとまず用のなくなった絵物語を戻しに部屋を出る。そうして扉を閉じたところで声をかけられた。
「マリー様」
振り向くと、廊下を歩いていたであろうメイドが笑顔を浮かべ、少女のそばに立っていた。
「ロゼ」
マリーと呼ばれた少女がメイドに呼び返す。
二人共年は同じだが、身長はメイドのロゼがやや高い。そして腰ほどの長さの銀髪をなびかせるマリーに対し、ロゼは肩に届かないピンク色のウェーブヘアが印象的だ。
「私が書庫まで持っていきましょうか?」
視線を絵物語に運び、ロゼはにこにこしたまま自分の胸元に手を添える。
「いいわ。ロゼは忙しいもの、これくらい自分でやる」
「お気になさらなくてもよろしいのに……」
マリーも倣って笑顔を浮かべ、首を横に振った。しかしロゼは不服げに、頬を少しだけ膨らませる。
「なんでもかんでも任せてちゃ、わたくし駄目人間になっちゃうもの」
「私は仕事がなくなってしまいます」
「ロゼは真面目ね」
「マリー様は不真面目です。その砕けた話し方も、王女としての自覚が足りません」
「ロゼの前でだけよ」
マリーは口元に手を当ててくすくすと笑う。
一国の王女とはいえ、まだ十代の少女。覚悟はしているつもりでも、生活に息苦しさを感じることは珍しくない。そんな中でロゼとの会話は、マリーにとって数少ない、心から安らげるひとときだった。
「それにロゼだって、焦ったりすると喋り方がおかしくなるときあるじゃない」
「そ、そんなことは……三日に一度くらいしかありません」
「まあまあの頻度よそれは」
ロゼは少しずつ目を逸らし、ますます頬を膨らませる。
「もう知りません! 忙しいので失礼します!」
「やっぱり仕事あるじゃない」
「んんっ」
なにか言おうとした直後、ロゼは言葉を喉に詰まらせた。言ったそばから、おかしな喋り方で反論しそうになったのだろう。
早足で去っていく背中を眺めながら、マリーは満足げに鼻を鳴らす。口に関していえば、いつもマリーが一枚上手だった。
軽いリフレッシュも終え、改めて書庫に辿り着く。その広さはマリーの部屋の五倍以上はあり、大半が満員状態の大きな本棚で埋まっているのだから圧巻だ。
手に持つ絵物語が収まっていたのは、華奢なマリーだとはしごが必要な高さである。慣れた動作で上りきり、丁度よく空いた隙間に絵物語を差し込んだ。
はしごを下りて書庫を後にする。そして再び、扉から出たタイミングで誰かに声をかけられた。
「なにをしておるのだ、マリー」
「お父様?」
そこにいたのは、マリーの父親……すなわちこの国、エリオーム王国の国王だった。立派な髭を蓄えて温厚な顔つきをした彼の隣に、さらに別の人影がある。
フードのついた、白いローブに身を包む女性だ。彼女もまたうっすらと微笑みながら、優しい眼差しをマリーに向ける。
「本を読み終えましたので、書庫に戻していただけですわ」
マリーはなるべく父の方だけを見るようにしながら、なんでもない風を装ってそう答える。
隣の女性のことが、マリーは少し苦手だった。
彼女は最近この城に仕え始めた魔法使いで、占いを得意とし国政に助力してくれている。どうやら腕は確かなようで、既に城内での信頼は厚い。
魔法の才能があまりないマリーにとっては憧れも感じるし、父の仕事の強い助けになってくれているという点で、感謝してもいる。
なのだが、彼女の笑顔が受けつけられない。どう見ても優しい顔なのに、得体の知れなさを感じてしまう。
心の中を見透かして笑われているように錯覚して、直感的に目を逸らすのが癖になってしまっていた。
「お父様こそ、お仕事はもう終わりましたの?」
「いや、後少しだよ。それよりマリーは昔から本が好きだな。またあの絵物語か?」
「ええ、まあ」
「ははは、そんなに悪魔の昔話が好きか」
「そういうわけではないのですが……」
何気ない会話の最中、ふと揺れた視界が占い師と重なり合った。
変わらない笑顔。
マリーの苦手な笑顔。
思わず口を噤んでしまった。
「失礼いたしますわ」
そう言って会話を打ちきり、マリーは書庫の前から去った。気持ち早めに、部屋へと続く廊下を歩き去ってゆく。
背中に占い師の視線が刺さるが、気のせいだと自分に言い聞かせた。
*
「……どうだった?」
「直に見てハッキリしました。彼女は既に、悪魔に魅せられています」
「どうすればよい? 私はマリーを……」
「心中お察しいたしますが、悠長な考えはお捨てになった方がよろしいかと。放っておけば、この国に災いを呼ぶことになります」
「…………」
「国民は陛下を信じています。信用されているのならば、責任を果たさねばなりません。亡き王妃様も、きっとそのように考えるでしょう」
「……そうか。そうだ。そうだな。私は国王だ。責任を果たさねば」
「その通りです。例え、どのような犠牲を払おうとも」
*
翌日。マリーにとって特別な日というわけでもなかった。
なにか変わったことといえば、城の敷地内で誰かが猫を見かけたらしいということと、ロゼが掃除中に落ちている指輪を拾ったことくらい。
奇妙な紋様の施された宝石が目を引くこれは、三年前に死んだ母の形見だ。どうやらなにかの拍子に机の上からからこぼれ落ちていたらしい。こんな大事なものを床に落としたままとは何事ですかと苦笑いされた。
そんな程度しか思い返すことのない、本当に普通の日。太陽も沈み、後二時間もすれば今日が終わるというとき。
マリーはナイトウェア姿で髪をまとめ、ベッドに寝そべって過ごしていた。なんとなく手に持っている例の指輪をランタンにかざしながら、ぼーっと考えごとにふける。
母がいなくなってから、元から忙しかった父は一層忙しそうになった。実際の仕事量が変化したのかは分からないが、少なくともマリーはそう感じている。
より正確に言うと、余裕がなさそうになった。
父はまだ引きずっているのだろうか。母とのつき合いは、当然マリーよりも父の方が長いのだ。その分苦しみも長く続くのかもしれない。母の代わりはできなくとも、なにか力になれないだろうか……。
久しぶりに母のことを長く考え、連鎖するように色々と思い出してきた。中でも真っ先に浮かんだのは、母に本を読んでもらったこと。
昨日ふと抱いた疑問が、マリーの胸の中で解けてゆく。そういえばそうだった。あの絵物語は、母によく読み聞かせてもらっていたものだった。どうして忘れていたのだろうと、マリーは自嘲的に口を歪めた。
そんなぼんやりとした思考が、唐突に断ち切られる。
前触れなく窓が割れた。
甲高い音が部屋中に響く。
破片が部屋の中に飛び散る。
「ひっ!?」
反射的に身を起こすも、なにが起きたのか理解できなかった。まず割れた窓に目が行く。そして床の破片。外側から割られたのだと理解しながら、マリーの視線がゆっくり上へと流れてゆく。
散らばる破片と同時に、足が見えた。ガラスを踏み砕いて音を鳴らしながら、足の重心を変えるさまが確かに見えた。
誰かが窓から飛び込んできた。恐怖で体が強張る。
「きゃっ!」
逃げ出そうとして無理に体をよじった結果、ベッドから転げ落ちた。慌てて立ち上がるも、上手く重心を維持できない。気を抜くとすぐにへたりこんでしまいそうだ。
そして都合の悪いことに、扉は自分から見て部屋の反対側。あそこに辿り着く前に、謎の侵入者に追いつかれるのは明白だった。
誰も気づいてくれないのか。騎士たちやロゼの顔が頭をよぎるが、人がやって来る気配はない。
絶望に全身を蝕まれながら、マリーはようやく侵入者の全体像を捉えられた。
「マリー=ホーネットだな?」
くぐもった声で、その男はマリーの名を呼んだ。
線状になった独特の留め具がついた、濃い灰色のズボン。同じ留め具の施された黒い服。灰色がまばらに混ざる黒髪。肩に担いだ大鎌。
そしてなにより目を引くのは、顔を覆い隠す黒い仮面。目元以外に顔のパーツが全くなく、その目すらもかなり抽象的で、人間味を感じさせない。どころか黒ずくめの出で立ちが暗い部屋に溶け込み、本当に人間ではないようにすら見えてしまう。
この男は何者なのか。どうやって窓から入ってきたのか。
分からないことまみれだったが、強烈な恐怖が答えを出す暇を与えてくれない。ただ疑問が浮かんでは消えてゆくだけだった。
マリーは震えながら後ずさる。向こう側にある扉が少し遠くなる。冷静な判断ができない。
男が一歩近づき、マリーの肩が一層強く震える。そんな様子を意にも介さず……。
「お前の首をいただきに来た」
黒い仮面の男が淡々と言う。