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<3>修道院のシスターの話

 ルネとアンヌのことは子供の頃からよく知っています。アンヌがこの修道院に入る前から姉妹の母親、モントルイユ夫人とは知り合いでしたから。

 姉のルネは、どちらかというと見劣りのする娘で、部屋の隅にひっそりと誰からも注目されずただ座っている、そんな娘でした。年頃になっても言い寄る男性の一人もなく、両親は行く末を案じていたようです。


 一方、妹のアンヌは幼い頃から利発で愛らしい子でした。社交的で美しく魅力のある彼女の母親によく似ていました。豊富な話題とウィットに富んだ会話で人々を楽しませて、皆に愛されていました。私も、アンヌが今後どのような殿方と結ばれ幸せな人生を送るのか楽しみに見ていました。

 そんな彼女がなぜ、過酷な運命に翻弄され、若くして神に召されなければならなかったのか、私には神様のなさることがわかりませんでした。


 アンヌは修道院の病床で私に手記を手渡しました。

「これが私の懺悔です。神様は私に罰をお与えになったのです」

 アンヌが修道院に来てから、アンヌと私は打ち解け親しく付き合っていました。アンヌは私にとって妹のようであり良き友人であったのです。

 私は手記を読んだ後も、アンヌを悪く思いませんでした。私には想像力がありますもの。女性として自分より劣っていると蔑視してきた女性が、自分の愛する男性と結婚してごらんなさい。その屈辱、その絶望たるや、さぞ大きなものだったでしょう。アンヌがルネに、またその結婚を決めた両親に恨みを抱いたとしても何の疑問があるものですか。

 むしろ私はアンヌに同情いたしました。私はアンヌの願いを見届けたい、可能ならば協力したいとさえ思いました。


 その機会は早くに巡ってきました。

 アンヌが神に召されて半年後、修道院にルネが入ってきたのです。

 そのことは貴族出身の修道女の間で大いに話題になりました。修道院に入っているとはいえ、かつては社交界で噂話に興じていた女性たち、ルネの結婚の経緯も、伯爵の事件のことも詳しく知っています。彼女たちは皆、興味津々でした。

「知人に聞いたのですけれども」

 ある修道女が言いました。彼女の親類は検事局にも顔が利く貴族でした。

「牢獄でルネの面会や差し入れが認められるのは、ルネが監獄官を屋敷に引き込み浮気をしているからだと、伯爵が怒ったそうなの。それで疑惑を晴らすために、修道院で暮らすことにしたんですって」

 伯爵はヴァンセンヌの牢獄に繋がれていて、ルネは月に一度、面会に行っていました。

「どこかで聞いた話」

「アンヌも、そう、アンヌも言っていたわ。この先一生涯伯爵以外の男性と触れ合わない、そう伯爵に誓って、ここに来たのでしたね」

「伯爵は嫉妬深いのかしら」

「それもそうだけど、いつだってルネはそうだったの。伯爵はアンヌを一番に愛していたから、アンヌの真似をすれば伯爵に気に入られると思っているのよ」

 そう言って修道女らは笑いました。


 ルネは、ここ修道院での暮らしにすぐに慣れました。毎朝同じ時間に起床して、お祈りして奉仕活動をする、その繰り返しが苦ではなかったようです。

 修道女の間には、下位貴族の家柄出身のルネが侯爵家の息子と結婚し伯爵夫人となったのを、やっかむ気持ちが少なからずあったと思います。ルネに興味本位の質問をする人もいました。でもルネは、特に気にする風でもなく飄々としていました。貴族階級特有の悪意、言葉の裏側に悪意を潜ませることも、その悪意を読み取ることもできない、まるで鈍感な無教養の田舎娘のようでした。人の心情の機微を感じ取るアンヌとは全く違いました。

 私はアンヌがこのような女性のために苦しんだのかと不憫でなりませんでした。

 ルネのせいでアンヌは苦しみ、幸せを得られぬまま若くして独り修道院でその生涯を閉じた。アンヌがあのような過酷な運命の中でどんなに苦しんだか知らずに、ルネはのほほんと生きている。

 ああ、アンヌ、可哀想な娘。

 せめて私は、アンヌの願いが叶うよう、神様に祈ったのです。

 最愛の息子に一生憎悪されて生きる苦痛を、ルネに与えてくれますよう。アンヌが見届けられなかったものを私が見届けることで、彼女の無念を少しでも晴らすことができますように。


 ある日曜の午後、用事があってルネの部屋を訪ねました。相応の寄付をしたのか、ルネは一人部屋でした。

 ノックをし、ドアを開けると、慌てて何かを引き出しにしまうルネの姿が見えました。

 私は見て見ぬ振りをしましたが、ルネは言い訳のように言いました。

「何でもないの、そう、貴女だってあるでしょ。大事な宝石のひとつやふたつ。それを眺めるのが好きなだけ。何も他に贅沢をしているわけじゃなし、以前から持っていた物よ」

 訊いてもいないことを早口で話すルネに、哀れみを感じました。ルネが何を隠し持っていようと、私は何も思わないのに。

 私は事務口調で言いました。

「来週、私、モントルイユ夫人とお会いすると思うけれど、何か伝言はあるかしら」

 私は、教会の慈善活動に参加しているルネの母親、モントルイユ夫人と顔をあわせる機会が時々ありました。

 伯爵が死刑判決を受けてから、ルネと母親は疎遠になっていました。伯爵のことで母親に尽力を乞うルネに、堪忍袋の緒が切れ伯爵との離縁を迫る母親とは仲違いをしていました。

 それが、アンヌがこの世を去り、お互い心細くなって仲直りをしたというわけです。

「え、ええ、何もないわ。ねえ、今見たことを誰にも言わないでくださる」

「ええ、もちろん」


 ルネは、私に秘密を見られてしまったと思ったのか、私に対して遠慮がなくなったように感じました。二人きりになると、何かと話しかけてくるようになったのです。

 ある日、ルネは言いました。

「父が、妹が、友人が天に召され、夫は死刑囚として獄に繋がれている。どうしてこのような運命を私は受けなければならないのかしらと辛かった日もあるけれど、今こうして穏やかな気持ちで暮らせるようになりました。それもひとえに神様のおかげでしょう。伯爵の行状のことで思い悩んだことも、その罪の重さに震えたことも、世間と戦い伯爵をお救いしようとしたことも、遠い世界のこと、まるでお芝居でも見ていたかのようですわ。今は、毎日神に祈り、神に奉仕する暮らしが、どんなに素晴らしいことなのか、日々実感いたします」

 その言葉を聞いて、私は何だかモヤモヤした気分になりました。

 アンヌは毎日、伯爵のために神に祈っていた。若く美しいアンヌの顔は、いつもどこか悲しげでした。アンヌは「伯爵の魂が救われるまでは私の幸福はないの」と言っていました。また「私にできることは祈ることしかないけれど、せめて、伯爵の子供たちの心を癒すことができたら」とも。

 アンヌは、自分のことより、伯爵と伯爵の子供たちの幸せを願っていたのです。

「でも、子供たちと離れて暮らすのは寂しいでしょう」

「あの子たちはもう大きいもの。長男は士官学校に入学しましたし、次男にも家庭教師がついています。もう私がいなくても大丈夫。私は母親としての役目を終えたのですわ」

 私は唖然としました。

 ルネは、伯爵が死刑判決を受けてからの約五年間、子供たちを置いて逃亡生活をしていたのです。それだけでなく、伯爵が収監されてからも、死刑判決破棄を求める活動にかかりきりで、子供たちを放ったらかしだったではないですか。今まで母親の役目を充分務めてきたと思えないのに、どうしてこのようなことが言えるのでしょう。

「いずれ死刑判決が取り消され伯爵が釈放されたら、ここを出てまた家族一緒に暮らせるから、それまでの我慢ですわね」

「え」

 ルネは困った顔をしました。

「私は……、私は、このままここで暮らしていくつもりです。夫は死刑になる身ですもの」

「貴女、無罪釈放のために活動しているじゃないの」

 ルネの、伯爵の死刑判決破棄を求める活動も、以前ほど積極的なものではなくなっていたのは知っています。

「ええ。でも、もう無理だと思いますの。最初のうちは新鮮で刺激的だったし、マリーや他の方々に励まされ愉快でしたけれど、今はマリーもいませんもの。万が一、死刑判決が取り消されても、伯爵は必ずまた何か騒ぎを起こすでしょう。その度に私はまた彼方此方かけずり回って後始末をしなければならない。若い頃のような情熱もない今は、考えただけで疲れてしまいますわ。もう、牢獄やら裁判やらはウンザリ。できるならここにずっといて、何の心配事もなく穏やかに暮らしたい、そう願っています」

 その頃は月に二回の面会も許され、毎月、着替えや焼き菓子を持って牢獄へ出かけていました。何を差し入れしようか、まるで、誰かのパーティーに持って行くプレゼントを考えるように。

「今でも伯爵の面会には月二度、行っていますけれど、それは私の半ば義務のような仕事。監獄を出る時、また今月のお勤めが終わった、次の面会まで私は自分の穏やかな時を過ごせる、そう思いますの」

「仕事」

「ええ、仕事、という感覚ですわ。いつの頃からか、伯爵と面会していても、それが私の現実でないような気がして。伯爵と夫婦だったことが遠い昔のよう。もはやそこには愛情のかけらもなく、伯爵の言葉を他人事のように聞き流せるようになりました。もう私にとっての現実は、今のこの修道院での暮らしなのですわ」

「伯爵を以前のように愛していないというのは仕方ないとしても、子供たちは、子供たちのことは大切でしょう。子供たちと離れて心配でしょう」

「伯爵のお母様もずっと修道院でお暮らしになっていました。私も同じですわ」

「伯爵のお母様は、お父様との結婚を悔やみ、お父様と自分が産んだ息子である伯爵を疎んでいた。それで修道院に入り、家族との関わりを絶ったと言われています。子供たちを愛しているのに修道院へ入るという貴女とは違うのではないかしら」

 ルネは、ふっと笑って言いました。

「あら、私、子供たちを愛してるなんて言ったかしら」

「え」

「独りになれてせいせいしているくらいよ。だって私、子供が嫌いなんですもの。これから私、自分の好きなように時間を使って好きに生きるの」

 私は気が動転しました。

「でも、長男ルイ、彼が生まれた時、あんなに喜んでいたじゃない」

「だってそれは、伯爵家の跡取りができたってみんなが祝福してくれるんですもの。楽しかったわ。でも、その時だけ。子供は手がかかるし面倒くさいだけ」

「そんなこと、もしルイが聞いたらどんなに悲しむか……」

 私の声は震えました。

「そうかしら。そんな大ごとじゃなくてよ。きっと彼も気にしませんわ」

 眩暈がして倒れそうな私の耳に、ルネの言葉がただ流れていきました。

「親子とか家族の愛なんて、幻想よ。愛なんてものに拘るからみんな不幸になるんですわ。その日その刹那が楽しければそれでいいじゃない」

 ああ、アンヌは、ルネがこんな女性であることをどこまで知っていたのでしょうか。


 数年後、革命が起こり、新政府によって伯爵の死刑判決が無効とされ、伯爵は釈放されました。

 その直後、ルネは伯爵との離婚と財産分与を裁判所に申し立て、それは承認されました。それまで伯爵の無罪を訴え、支えてきたルネが、なぜ、今この時に離婚したのか、満都の話題をさらいました。

 彼女は弁護士を丸め込み、将来息子たちが貰い受けるはずだった財産をも不当に奪い取りました。おそらくそれは、彼女の母親モントルイユ夫人の教唆によるものに違いありません。

 そのことを知った長男のルイは、アンヌの望んだ通りに実の母親を恨むこととなったのですが、それは、ルネの心に波紋のひとつも起こすことはできませんでした。アンヌの願ったことは、ルネに何の作用も及ぼさなかったのです。


 ルネと離婚した伯爵は、反道徳的な小説や戯曲を執筆して逮捕されたり、困窮を極め屋敷や土地を売却して知人宅に居候したり、或いは牢獄と慈善病院を出たり入ったり、落ち着かない生活を送っているようです。

 一方、ルネは伯爵とも息子とも会うことなく、修道院で何不自由なく平穏な暮らしをしています。

 ルネが時折、手に入れた新しい宝石をこっそり私に見せてくる度、私はこの世界に虚しさを感じるのです。

 一体、この世界に神様はいるのでしょうか。(了)

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[一言] 親からも妹からも侮蔑されて、ビクビク顔色伺いながら生きたルネ。 サド伯爵は面が良かったばっかりに「親の愛に恵まれなくてかわいそう」扱いなのに、ルネに対する『こいつは傷付けてやるべき』扱い…。…
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