<1>サド伯爵の長男・ルイの話
僕の父親は、元死刑囚です。
僕が五歳の時、父は神に背いた罪で死刑判決を受けました。パリ市民なら誰もが知っているあのおぞましい事件です。その名を聞けば皆が好奇の目を向ける。ある者は嘲り、ある者は蔑み、またある者は恐れ慄く、それが僕の父親です。
僕は、両親と過ごした記憶があまりありません。
死刑判決を受ける前から父は外出が多くほとんど屋敷にいませんでしたし、母も自分の部屋にこもっていることが多かったのです。
僕が生まれた時、母方の祖父母は大変喜んだそうです。伯爵家の跡取りが生まれたと。祖父が死ぬまでは、祖父母の屋敷に家族全員で出かけることもあり、可愛がってもらいました。でも、祖父が死に、その直後父が死刑判決を受けてからは、僕たちは祖母と会うことも屋敷を訪ねることも許されませんでした。
父方の祖父母は会ったことがありません。もしかしたら幼い頃に会ったのかもしれませんが、全く覚えていません。
事件の後、父と母はパリを出て、海外で逃亡生活を始めました。僕たち兄弟を残して、五年もの間、パリの屋敷に帰ってきませんでした。
両親が海外にいる間、僕は修道院で寄宿生活をし教育を受けました。幼い弟はパリの屋敷で乳母たちに育てられ、その下の妹は両親がパリを離れる前に里子に出されました。
最初の頃、僕は毎晩ベッドの中で泣きました。両親に会えなくて寂しかったからではありません。他の子供たちのように、週末帰る暖かい家が、美味しい焼き菓子を差し入れてくれる家族が、僕にはなかったからです。
そんな僕を訪ねてきてくれたのが、母の妹、僕の叔母のアンヌです。
アンヌは「両親と会えなくてかわいそうに」と抱きしめてくれました。アンヌの胸は暖かく、母とはまた違う良い香りがしました。
父と母方の祖母が絶縁状態になってからは、祖母も親戚もパリの屋敷を訪ねて来なくなり、唯一、僕の側にいてくれたのがアンヌでした。
週に一度、パリの屋敷に帰るとアンヌがそこにいました。アンヌは修道院に入っていましたが、僕たちに会いに来てくれました。膝の上に僕や弟を乗せて絵本を読んでくれ、一緒にゲームをしたり午後のお茶を飲みました。弟が午睡をしている間は、僕がアンヌの膝を独り占めして、アンヌと思う存分おしゃべりしました。
当時の僕にとって、アンヌだけが心の慰めでした。アンヌの青玉色の大きな瞳や薔薇色の唇を、子供心にもとても美しいと思っていました。アンヌと会えるのを日々楽しみに暮らしました。
そんなある日、家庭教師から聞きました。「アンヌ様は旦那様の愛人だったから、貴方たちを可愛がるのだ」と。そして彼は愛人とはどういうものか、僕に教えました。
僕の頭は混乱しました。大好きなアンヌが、そのような人だとは思えない、何かの間違いだ、と思いました。
次にアンヌが来た時、僕は弟が寝入っている隙を選んで訊こうとしました。でも、なかなか言い出せませんでした。そんな僕の様子を察したアンヌは優しく訊ね、仕方なく僕は言いました。
「あの、アンヌは僕の父のあ、あいじんだって……本当なの」
アンヌは眉尻を下げ、少し悲しいような困った顔をしました。
「誰がそんなことを、いえ、誰でもいいわ。そうね、貴方にはちゃんと説明しておかないといけないわね」
アンヌは僕をソファに座らせると隣に座りました。
「貴方のお父様とお母様、伯爵とルネが結婚する前、伯爵と私は恋人同士だったの」
「とあるご婦人のサロンで伯爵と私は出会い、伯爵は私の父に、私との結婚を許してくれるよう申し込んだの。でも、その時、私はまだ若く、私の姉のルネは適齢期なのに結婚相手が見つからなかった。それで父は、アンヌはまだ結婚する年齢ではない、姉のルネとの結婚なら許可する、と言ったの」
「え、そんなこと」
「本当のことよ。私の父は貴族としての地位が低く、母は父をもっと高い地位にしたいとずっと思っていたの。王家と縁戚でもある伯爵家と縁を結ぶことができたら、この先何かと都合が良いと考えたのでしょう。でも、若い私とは結婚させたくない。断れば今後、差し障りがあるかもしれない。そこでそんな提案をしたのでしょう。そんな話があったことは、後に伯爵から聞かされたのだけれども」
「とにかくその後、伯爵とルネが婚約したことを聞かされ、私は衝撃を受けたわ。毎日が悲しくてたまらなかった。でも、二人が結婚し貴方が生まれると、二人が幸せならそれでかまわない、そう思うようになったの」
僕は、アンヌの話を聞きながら、自然と涙が出てきました。
「ごめんなさい、ごめんなさい、僕のママンがアンヌから奪ったんだね」と泣きながら言いました。
アンヌは、優しく僕の髪を撫でました。
「いいえ、ルネは悪くないわ。私の両親が悪いのよ。両親の言いつけに私たちは抗えなかった。ルネのせいじゃないわ」
アンヌはさらに言いました。
「私の父が天に召され、伯爵と会った私は伯爵との愛が再燃した。もちろんそれは悪いことよ。でも伯爵を愛する気持ちは抑えられなかった。伯爵のことを本当に愛している。一方で冷静に考えたら、私が伯爵の側にいることは神の教えに反すること。私はルネや貴方たちのためにも私は身を引かなければならない。それで修道院に入ったの。せめて、この先、伯爵以外の男性を一生愛さない証として」
「私の行動が貴方を傷つけることになってしまって、ごめんなさい。もう、貴方たち家族の前には姿を現さないようにするわ」
僕がアンヌを見ると、アンヌは目に涙を浮かべていました。
僕は、思わずアンヌに抱きつきました。
「そんなこと言わないで。アンヌ、ずっと僕の側にいて。また来週もここへ来て。これから先もずっと」
アンヌは父のことを悪く言いませんでした。むしろ、褒めていた。
「伯爵は、私の周りにいた男性たち、哲学も思想も持たない貴族とは全く違ってたの。独特の哲学を持っていらして、それは周りの人に理解できないところもあるけれど」
アンヌが父を褒める時、僕の中に父に対する嫌悪感が増していきました。なぜなのかはわかりません。
「お父様とお母様はいつ帰ってくるの」
僕の問いにアンヌは悲しそうな顔をしました。
「わからないわ。でも、必ず帰ってくるから、それまでは我慢しましょう」
「いつまで」
駄々をこねるように問う僕を、アンヌはそっと抱きしめました。
「伯爵は、幼い頃からお母様から愛されずに寂しい思いをしてきたの。だから私は伯爵の心の寂しさを埋めたかった。ルネもわかってるはずなのに、どうしてこの子たちに同じような寂しい思いをさせてしまうのでしょう」
アンヌの温かい腕に抱きしめられながら、僕は涙が出てきました。
「あなたが私の息子なら、こんな思いをさせないのに……。ルネがいない間は、私を母親だと思って甘えてちょうだいね」
なぜ、父はアンヌと結婚してくれなかったのだろう。僕は、もし父がアンヌと結婚していたなら、あのような事件を起こさなかったのではないかと思うようになりました。
ある時、家庭教師が言いました。
「まったく伯爵には呆れたものですな」
僕は父が起こした事件について言っているのだと思いました。
「夫人が離婚したがっているのに、それを拒んで夫人を連れて海外へ逃げるなんて。やはり、伯爵が夫人の実家の財産を当てにしているという噂も本当だったのでしょう。雇い主を悪く言いたくはありませんが」
母が父と離婚したがっている。
「離婚したがってるってどういうこと。それは本当なの」
「伯爵に死刑判決が出た時、離婚しようと思っていたとか。ここだけの話ですよ。誰にも言わないでくださいね」
僕は衝撃を受けました。
アンヌが来た時に訊いてみよう。彼女なら知っているはずだ、そう思いました。
アンヌは否定しました。
「確かに母は、ルネに離婚を勧めたわ。でも、ルネは拒否したそうよ。それで母の援助を受けられないと知ったルネは、他の人たちの力を借りて伯爵を脱獄させ、自分の意思で伯爵と共にいるの。ルネはきっと、伯爵のことも、貴方たちのことも愛しているから離婚をしないの」
「でも父は」
今まで抱いていた疑問をぶつけました。
「父はアンヌのことを愛しているんでしょう。母のことを愛していないんじゃ」
アンヌはかぶりを振りました。
「ねえ、ルイ。貴方は、ルネと私、どちらが好き」
僕は答えに困りました。
「ママンも好きだし、アンヌのことも大好きだよ。どちらかなんて選べない」
ルネは微笑み頷きました。
「伯爵も同じなの。ルネのことを愛していないなんてことは無いわ。夫婦だもの。安心なさい」
「じゃあ、ママンは離婚なんかしない?僕たちを捨てたりしない?」
「ルネは貴方の母親なのよ。愛する子供たちを置いて離婚するわけないじゃない」
アンヌは僕に何度もそう言いました。母は僕たちをとても愛しているのだと。
ですから、それから数年後に母がとった行動に僕は愕然としました。
両親がパリを出て行って五年ほど経ち僕が十歳の時、両親はパリに戻ってきました。父方の祖母が死に、その葬儀のためです。間もなく父は逮捕され死刑囚として獄につながれました。
母はひとりでパリの屋敷に戻ってきました。
「ずいぶん大きくなって。良い子にしていた」
そう言って頬を撫でる母の手は、僕には冷たく感じられました。
その年、僕は修道院を出て全寮制の中学校に入学しました。
しばらくすると母は、父の裁判のやり直しを求める運動を始めました。
「反論も何も認められないまま死刑判決が下されたのは不当である」と母は訴えました。
母は、あちこちの貴族を回って協力を願いました。パリの屋敷にも訪ねてくる人が多くなりました。
僕が嫌だったのは、母がそんな時、僕と弟を紹介することでした。
以前、家庭教師に連れられて街の公園に行ったことがあるのですが、その時、街の人々が皆、父の噂をしていました。もちろん良い噂ではありません。あのような破廉恥な行為をしでかしたのだから死刑になって当然だ、早く火焙りにしてしまえ、などという声も聞こえました。
聞き耳をたてる家庭教師の陰で、もしここにいる僕が父の息子だと皆に知れたらどんな仕打ちを受けるだろう。恐ろしくてたまりませんでした。
それ以来、僕は人前に出るのが嫌になり、父の子供であることを隠すようになりました。
それなのに母は「このような幼い子がいるのに」と皆に僕らを紹介するのです。僕は晒し者にされているような気がして、ものすごく嫌な気持ちでした。
僕はいっそ父が早く死刑になればいい、そうすれば僕はこんな生活から解放されるのに、と思っていました。
母が戻ってきてからも、アンヌは時々訪ねてきてくれました。母に遠慮してか、以前のように頻繁では無いものの、それでも年に数回、僕が休暇で屋敷に帰ってくる時には必ず会いに来てくれました。
ある日、アンヌが言いました。
「伯爵のための活動はいいけれど、子供たちを巻き添えにするなんて……ひどい母親」
僕は、僕の心の中をアンヌがわかってくれている、と思いました。アンヌが僕の母親だったらよかったのに、とも思いました。
アンヌはそれまで一度も僕の母を悪く言ったことがありませんでした。ですから、この時の言葉は印象深く残っています。
母の不満を言う僕に対して、アンヌはいつも母を弁護していました。
「世間ではルネのことを悪く言う人たちがいるけれど、そのような噂に耳を貸してはダメよ」
「悪い噂って、何」
「知る必要無いわ。貴方はルネを信じていなさい」
「僕はもう大人だ。知る必要がある」
「ルネが伯爵と離婚しないのは伯爵夫人という地位を捨てたく無いのだとか、それから」
アンヌは言い淀みました。
「言って。僕はもう大人だ」
「アンヌが今死刑判決破棄を求める活動をしているのは、伯爵が死刑になった後、自分の立場や評判が良くなるようにだとか」
「おお」
僕は絶句しました。
一方で、母ならあり得るとも思いました。
僕はいつしか、アンヌを本当の母よりも母のように思うまでになっていました。いえ、もしかしたらそれ以上の感情かもしれません。それは僕にもわかりません。
ですから、アンヌが天に召された時、僕は打ちのめされました。
僕が十四歳になろうとする春、アンヌが天国へ旅立ちました。僕はアンヌの墓前で呆然と立ち尽くしました。僕の胸は喪失感と絶望で張り裂けんばかりでした。
もう僕には家族はいない。僕を愛し心配してくれる人はどこにもいない。これから僕は誰も愛さず誰にも愛されずに生きていくのだ。
そう思いました。
アンヌがいなくなったことで、僕と母の関係が変化しました。
それまで僕はアンヌに気遣いさせないように母と仲がいいふりをしていた、そのことに気づいてしまったのです。もうそれを取り繕う必要がなくなった僕の心には、母に対する冷ややかな気持ちが広がっていきました。母が僕の変化に気づくことなく以前と同じように接してきたことも、またさらに僕を苛立たせるようになりました。
その秋、僕は士官学校に入学しました。それをきっかけに、僕は母との間に距離を置くようになりました。アンヌがいなくなって寮の外出許可を取ることも無くなり、母のいる屋敷から足が遠のいていきました。
その後、クリスマス休暇で帰宅した僕を迎えたのは小間使いの「ルネ様は修道院に入られました」の言葉でした。
僕には事前に何の相談もなかったのです。母の浮気を疑う父に対して身の潔白を証明するためだということでしたが、僕には理解できませんでした。母は僕たちと暮らすのが嫌だったのでしょうか。今でも僕はわかりません。
僕は、十六歳になってフランス軍に入隊しました。
父のことが負い目になっていたのかもしれません。僕は父とは違う、国に貢献する人間になりたいという気持ちがありました。
その後革命が起こり、新政府の下で父は無罪になりました。王政が倒れ、反貴族的な父に対する見方が変わったようでした。
釈放されるとわかった途端、母の態度が変わりました。離婚すると言いだしたのです。
その頃、母は祖母と仲直りしていましたので、おそらく以前から離婚を勧めていた祖母の勧めだと思います。母は弁護士と供託して伯爵家の財産をできるだけ分与を多くしようと画策していました。そんな母の姿を見て僕は絶望しました。
僕はアンヌの言葉を思い出しました。
「ルネが愛する子供たちを置いて離婚するわけないじゃない」
母は僕のことを愛していないのだと悟りました。
革命の混乱の中、国内の王族や貴族たちは挙ってフランスから出国しました。
民衆の敵は貴族です。僕も友人と一緒に国外へ亡命しました。
その時僕は、家族を捨てたのです。僕の家族は天国のアンヌ、ただ一人です。父も母もいません。