ずっと美しいと思っていた
一目見た瞬間に予感があった。
この女に近づいてはならないと。
全身が警告した。
人生で初めて感じた漠然とした畏怖だった。
女は人質として屋敷に来た。
俺の父が長年政敵として戦っていた男の三女だった。
初めて見た時女は俺を見上げていた。
それはそうだろう、俺は長い階段を降りている最中だったのだ。
俺が女に見下ろされることなどあってはならない。
俺は俺より偉いものはこの国を統べる国王陛下とその親族だけだと教えられてきたし、今日でもそれは変わらないと思っている。
女は従僕を一人連れていた。
美しい男だった。
二人はまるで申し合わせたかのように揃いの金色の髪に青い瞳をしていた。
それも気に喰わなかった。
全て俺の知らない色に見えた。
父に敗北した女の父親はどういう予定で女を送って来たのか今となっては知る由もないが、俺は特に自分の父親を尊敬していたわけではないが、父の見せた自分の息子と同い年の子供でしかない女に送る視線の何とも言えない不愉快さに、血が沸騰するのを感じ、女をきつく睨んだ。
女は俺の父の視線にも俺の視線にも何も感じていないかのように微動だにしなかった。
それはまるで心などどこにもないと宣言しているかのようだった。
俺は兎に角この女を自分の支配下において監視せねばと思った。
俺は女があてがわれた部屋に消えると父に言った。
将来あの女を妻に迎えたいと。
父は当然驚きの目を持って俺を見た。
俺と同じ黒い瞳が探る様に俺を見ていた。
父は俺に女に送った視線の真意を見抜かれたと思ったのだろうか、俺が今まで何かを欲したことのない子供だったからだろうか、俺の希望をしぶしぶながら受け入れた。
俺はすぐに女の部屋に行き、将来お前を我が公爵家の正室として迎えてやる、泣いて喜べと言ってやった。
女は勿論泣かなかった。
ただ俺の顔をじっと見て、身に余る光栄にございますとだけ言った。
本当に可愛くない女だと思った。
俺は女が俺の妻となる以上は或る程度の教養が必要だと思ったので、俺自ら勉強を教えてやった。
新しい書物が手に入るとすぐ貸してやったし、女は屋敷の外に出ることができなかったので、父に頼み素晴らしい庭園を造らせたが、女は一度も嬉しそうな顔をして見せることすらなかった。
演技でもいいからそうすべきだと俺は思ったので、愛想笑いくらいしたらどうだと言ってやった。
女は申し訳ありませんというだけで、少しも悪いと思ってなさそうだった。
せめて驚かせてやろうと花火師を呼んでみたり、奇術師を呼んでみたりしたが、少しも驚かなかった。
そうこうしている間に三年が経ち、俺と女は結婚できる年になっていた。
俺は父に約束通り国王陛下に結婚の許しを得てほしいと言った。
当時貴族の結婚には国王陛下の許しが必要だったからだ。
父はいい顔をしなかった。
女は側女にして、家の家格に見合った家の娘を貰わないかと言われた。
俺は断固拒否した。
家がこれ以上勢力を持つのは色々と具合が悪いだろうと思われたし、何より俺はあの女に約束も守れない男だと思われるのが我慢ならなかった。
俺は父に何があろうとも女を正式な妻に迎えると言い張った。
俺の意思が余りにも固いので、父も折れた。
国王陛下の許可もすんなりと下りたため、俺は三年前の約束通り女を正式な妻として迎え入れた。
俺が結婚するのとほぼ同時に父が亡くなったため、俺は遂に屋敷の主となった。
俺はすぐに屋敷の改修に取り掛かり、女を一人閉じ込めておける離れを作った。
勿論贅の限りを尽くし、心安らげるような美しい庭園も造った。
傭兵上がりの女達を莫大な金で雇い、離れを守らせ、女のいる離れに出入りできる男は俺だけにした。
女が連れて来た従僕は結婚を機に暇をやろうかとも思ったが、流石に酷だと思い、屋敷に残してやったが、離れに入ることは許さなかったので、結婚後二人は目を合わせることすらできなくなった。
だが女は平気そうだった。
女は相変わらず何を考えているかまるで分らなかった。
俺はそれが腹立たしくてならなかったが、長男も生まれ、公爵家の当主としての仕事も忙しく、しばらくは忘れていたが、ある日ふと思い立ち従僕にお前は結婚しないのかと聞いてみた。
従僕は俺達より十も上のくせに未だ独身だったのだ。
自分は生涯結婚するつもりはありませんと従僕は俺に言った。
その目の色も美しい沈黙からくる表情もあの女が纏う透き通るような空気そのもので、俺を苛立たせるには十分だった。
俺はこうなってくるとどうしても従僕を結婚させたくてたまらず、女にお前が従僕を説得しろと迫った。
女は従僕と同じ目で言った。
「望むようにしてあげてください」
それはまるで女の願いのように聞こえ、俺はそれ以上この話を続けることができなかった。
そしてずっと目を逸らし続けていた疑念が遂に明確な冷たい炎となって目の前に表れたのを実感した。
妻が三男を出産後俺は仕事で外国に行かねばならなくなった。
俺は従僕を連れて行こうかとさえ考えたが、女に心中を察せられるのが嫌でたまらず断念した。
女の離れに出入りする女どもには女のいる離れに一歩でも従僕が立ち入ったら始末して構わないと言い聞かせ、遠い異国の地に旅立った。
帰国に一年かかった。
女は相変わらずだった。
一年ぶりに帰って来た夫を歓喜を込めて迎えるという細やかな神経の持ち主ではないことはわかっていたが、余りにも変わらないのが腹立たしかった。
何か変わりはなかったかと聞いても何もと言う。
俺は余りのことに五歳になった長男に密かに聞いた。
従僕が離れに来ることはなかったかと。
長男は離れでは遊んだことなかったよと言った。
お庭では遊んだけどと。
俺は余りのことに屋敷に火を放ってやろうかとさえ思ったが、理性が余りにも勝り先祖代々の王宮に一番近い公爵邸である我が家を灰塵に帰すことはできなかった。
俺はこうなってくるとあの二人がどんな澄ました罪のない顔で罪を重ねているのかと思い、またしても屋敷の改修に乗り出し、女を離れから移し、従僕に今後は女の話し相手になってやる様にと命じた。
俺は改修工事の際に作った隠し扉から二人の様子を監視したが、女と従僕は三人の子供がいるため二人きりになることはなく、子供が昼寝をした時でも二人は同じ部屋にいても特に何かを話すわけでもなく、互いに本を読んでいた。
それが余計に俺を突き落とした。
最早二人には余計な言葉などいらないのだと。
俺はこう考えた。
あの女は一度も俺を世俗的な意味では裏切っていないのは間違いなかった。
だが心を全てあれにやっているのだから、本当の裏切りは犯しているのだ。
だが、それも許してやろう。
寛大な俺に感謝し咽び泣くがいい。
俺の生まれの良さがそうさせた。
あの女はこれからもずっと俺の妻だし、あれは下僕だ。
それは未来永劫、死してなおそうなのだ。
俺は目に見えないものなど何の価値もないとわかっていた。
あの女は目に見える形で俺を裏切ってなどいない。
あの女はずっと俺の物なのだ。
数年が経ったある冬、女は床に臥せることが多くなった。
国中の医者を呼び寄せたが、快方に向かうことはなかった。
女はどんどん痩せ衰えて行った。
医者にはもう冬を越せないでしょうと言われた。
女が病に臥せってから俺は女の部屋に医者以外入れなかった。
感染するものでもないとのことだったが、子供達も入らせなかった。
女はいよいよ死にそうだった。
女は何も言わないが、従僕に会いたいだろうと思われた。
俺はわかっていた。
「おい、いいか。あいつには会わせないぞ。残念だったな。お前を看取るのは愛しい下僕じゃない。この僕だ。今までよくもコケにしてくれたな。お前は本当に悪妻だ。お前のような冷たい女はいないぞ。夫より先に死ぬなんて何て女だ。よくもそんな惨いことができたもんだな。お前のような女を妻に迎えたおかげで僕は散々だった。僕はお前を妻にして一度も心安らいだことなどなかったぞ。いつも炎のように燃えていた。お前が何でもないような顔ばかりして僕の心を揺らしたからだ。何て女だ。お前が悪いんだ。お前が全部悪いんだからな。何で死ぬんだ。何でお前が死ぬんだよ。僕をこんな気持ちにさせて悪いと思わないのか。あまりに酷いだろ。一度だってお前は僕に笑いかけたことすらなかったじゃないか。ふざけるな。僕を残していくのか。この僕を。僕を誰だと思っている。本来なら王室から妻を迎えられる家だったんだぞ。それをお前のせいで、僕の人生はお前のせいで滅茶苦茶だ。こんな気持ちのままの僕をお前は残していくのか。ふざけやがって、ざまーみろだ、あいつには会わせないからな。お前は死にゆく最後の刹那までずっと、ずっと僕の物だ。お前は僕の物なんだよ。物だ。お前は人間なんかじゃない。物なんだよ。
嫌、死にゆく刹那どころか、死んだって僕の物だ。いいか、あの下僕には灰すら渡さないぞ。お前は僕の物だ。ものだ。ものだ。ぼくのだ・・・」
「・・・・・・手を・・・]
女が俺に手を伸ばした。
「おい、もう目も見えていないのか?あれじゃないぞ」
「・・・・・手を・・・」
「聞こえてもいないってか、本当に許しがたい女だ」
俺は女の手を取った。
女の青い瞳が、あの従僕と同じ色をした瞳が俺を包み込むように見ていた。
女の唇が動く。
「・・・・私も・・・・・」
「おい、俺はあれじゃないと言っただろ。お前の最後の言葉を伝えろってか、冗談いうな。絶対に言わないぞ」
俺は一瞬女の中に入っていくような錯覚を覚えた。
誰が見たってそうだっただろう。
あの青からは逃れられなかった。
「・・・・・・・私も・・・・・・貴方のことを・・・・・」
「だから違うと言っているだろ。もうこれ以上何も言うな・・・・」
「・・・・・・・・・ずっと・・・・・・・」
女は瞳を閉じた。
俺は女の青の世界から弾き出され一人となった。
「・・・・・・ずっと・・・なんだよ・・・・・ずっとって何だよ・・・・ずっとって・・・・」
俺は女の最後を誰にも言わなかった。
従僕が殉死するのではないかと危惧し、俺は死によって二人が本当に結びつくのが嫌だったので、従僕を長男の後見人にして、いつも目の届くところにおいていくことにした。
俺のいない見知らぬ地であの女に思いを馳せることが許せなかった。
従僕は俺にいつも何か言いたそうにしていた。
俺は従僕がお嬢様は旦那様と結婚できて本当に幸せでしたと言いだすのではないかと思い、できる限り目を合わさぬようにした。
他の男の口からあの女のことを聞くのが嫌だった。
従僕の世界のあの女などこの世のどこにも存在させたくなかった。
いよいよ自分も最後の時が近づいて来た。
女が死んでから自分は七十年生きた計算になる。
本当にあの女と関わって自分の人生は碌でもなかった。
あの女が産み落とした五人の息子は誰一人父親より長生きできず、皆死んでしまった。
唯一良かったことは孫娘が王家に嫁ぎ、男児を産み、国王になったことであろうか。
それにしてもふざけた女だ。
会いたい時には一度も現れず、こんな時にだけ出てくるとは。
女は生前の健康だった頃の姿で自分を見下ろしている。
それはそうか。
自分は死の床についているのだから。
本当に憎らしいように調和のとれた色だ。
こんなところに来ていると言うことは、従僕と死によって結ばれることはできなかったのか。
まあそうだろうな。
お前のような夫を正しく愛そうとしなかった女は地獄行きだ。
そうに決まっている。
従僕は天国に行ったのだろうな、自分より十も上とはいえ、余りにもさっさと死んでしまったぞ。
会えたのか?
もう声は出ないが聞こえているだろう。
奇跡とはそういうものだ。
お前は可愛くない女だから老いて醜くなった僕を意地悪く眺めに来たんだろ。
わかっているぞ、お前のことは何でもわかっている。
何て顔してる。
虫も殺さぬ顔をしてお前という女は。
だがいい。
この世で最後に見る顔がこれで良かった。
その顔がずっと見たいと思っていた。
女が自分の手を取るのがわかった。
何でもできるんだな。
暖かい。
そんな顔生きている間一度も自分に見せなかったくせに。
恨み言を言いに来たのか?
僕が従僕にお前の最後の言葉を言わなかったから。
でも考えてみろ。
言うわけないだろ。
お前は最後のだって、嫌、お前の全てが終わったってお前は僕のものなんだ。
灰になったって俺のものだ。
そうだな。
お前はずっと俺のものだったよ。
そして今気づいたけど、俺もずっとお前のものだった。
お前が死んでも俺はお前のものだったよ。
最初からずっとな。
出逢った時から気に喰わなかった。
その気持ちは今も変わらない。
でもお前のその色は俺をいつだって動かして来たよ。
それこそ最後のこの時までずっと、ずっと。
ああ、そうだな。
俺もそうだ。
ずっとか、ずっとだな。
俺もお前のことを、そうだな、その憎たらしいまでに完成された金色の髪と青い瞳、その名前、病に冒され枯れ枝のようになった手首も、灰になってさえもずっと美しいと思っていた。