#1
体を預けたパイプ椅子の背もたれが、ぎしりと音を立てた。
僕は、落ち着かない感覚を味わいながら、席に着いていた。
その場所――N大学の講堂には、これから始まる虚構への予感と期待が満ちていた。それが、焦燥にも似た現実感の欠如となり、どこかそわそわとした非日常的な雰囲気となって、足元から上がってくるようだった。
まわりを見回すと、会場に備え付けられた椅子の他に、何列分ものパイプ椅子が追加されている。しかし、もう空席はほとんどない。
それぞれの座席では、連れ合い同士が声をひそめて話をしているか、そうでなければ手元のチラシに視線を落とすかしていた。
会場には、イージーリスニング調の音楽が、小さすぎない程度の音量でかけられていた。その聞き覚えのあるようなメロディーラインを追いながら、僕はその時を待っていた。
「そろそろ時間、かな」
僕は、自分だけに聞こえる声で呟いた。
ちょうどそのタイミングで、音楽の音量が少しずつ大きくなってきていることに気がついた。
会話を邪魔しない程度だったものが、段々と自己主張を激しくし、この空間全てを振動させるほどに大きくなって行く。
すぐに、この場所全体が音で飽和する。
こうなると、この場にいる全員がそのことに気づき、それぞれの会話を止めるしかない。
この場所は、音楽で満たされた。
そして、唐突に。
音と光が消えた。
暗転――。
「――っ!?」
思わず、僕は息を飲んだ。
いや、違う。
落ち着け。
これは現実での暗転だ。
いつものアレではない。
頭痛もなく、脳裏に飛来する未来の情報もない。
――予知能力ではない。
自己紹介をしておこう。
僕の名前は、市原勝也。
親しい者は皆、僕を『イチガツ』と呼ぶ。苗字と名前から一文字ずつ取って縮めた、実に分かりやすいニックネームだ。
N大学に通うごく普通の大学生だ、と続けたいところだけれど、これには外せない注釈が付く――ただ一点を除いて、と。
そう、普通・平均・平凡と三拍子そろった僕が、たった一つ、他人と明らかに違うこと――それが、予知能力を持っているということだった。
笑ってくれて構わない。
予知能力者なんて、まるで虚構の産物なのだから。
それでも、これは間違いなく僕の現実であり、守るべき秘密なのだ。
ひどい頭痛とともに僕の脳裏に飛来するイメージは、それが画像にせよ、断片的な言葉にせよ、あるいは香りのような感覚であったとしても――経験上百パーセントの確率で現実となる、未来の何かなのだ。
例えば、僕が見た一番新しい予知は映像だ。
それは、僕がこれから体験するであろう一人称的な映像だった。
『僕の二つ隣に座った男が、突如立ち上がり、懐からナイフを取り出して、隣に座った女性を抱え込み、僕の眼前にその刃物を振りかざす』――そんな非現実的な光景だった。
それも間違いなくこれから未来に起きる事実なのだ。
いかにも名探偵たる弥生さんにうってつけで、僕の出る幕などなさそうな場面だけど――。
「弥生さん――」
僕は、声にならない声で呟いた。
そう、彼女の紹介がまだだった。
如月弥生。
世界にとって、それは『名探偵』の名前である。
笑わないでほしい。
嘘でも冗談でもない。
虚構ではなく、現実の話なのだ。
存在自体が既に驚嘆に値する、自他ともに認める『名探偵』、それが彼女の特筆すべき特徴なのだ。
けれど、僕にとって、それは一人の女性の名前だ。
彼女、恋人、つきあっている人。
表現は数あれど、それが意味するところは同じ――僕の大切な人だ。
「それなのに、どうして僕の隣に弥生さんはいないんだろう――?」
僕は、声にならない声で呟いた。
彼女は今、僕の隣にはいない。
その理由など、分かりきっているのに。
さて。
これから少し時間を使って、如月弥生が解き明かした一つの謎について語ろうと思う。いや、どうだろう、正確には三つの謎と言うべきかな。
まとめたところで意味なんてないのかもしれないし、区別したとして虚構でしかないのかもしれないけど。
一つだけ先に言わせてもらえば、これから語るのは『現実』の物語であり、『虚構』の物語だ。
現実か、虚構か。
現実の謎と、虚構の謎。現実と虚構の境界線。それらを解き明かすことに意味があるのか――価値があるのか――そしてそれらの意味や価値は、果たして現実のものと言えるのか。虚構でしかないのか。
入り乱れる現実と虚構の間で混乱してしまいそうなら、気をつけて。
その程度では、如月弥生の紡ぐ真実に辿り着くことなど出来はしないのだから――。
暗転の中、不吉な鐘の音が二度、重く響いた。
その音は虚構を呼ぶ。
現実は失われ、虚構の世界が急速に現実味を帯びて――。
◆ ◆
雨音。
「どこかで雨宿りしないとまずいわね」
女性の声が、次第に強くなる雨音をこえて聞こえた。
遠くで響いた雷鳴が、彼女の言葉を裏打ちする。
「たしかに下山は無理そうだね。この先の別荘地に、人がいると良いけど」
男性の声が応じた。
そして間。
雨音は強さを増していく。
やがて、ガンガン、と古めかしいノッカーを使ったような音が響いた。
少しの間を置いて、もう一度、ガンガンと音が響く。
「はい――?」
応じる声があった。
「急な来訪で失礼します。この天候で下山できなくなってしまいました。もしよろしければ雨宿りをお願いできませんでしょうか?」
「少々お待ち下さいませ」
そして、重たい音とともに扉が開かれた。
そこでようやく彼女達の顔に光があたった。
女性の顔は、僕のよく知る顔だった。如月弥生――弥生さんである。
肩に届くかどうかという長さの黒髪。彼女の声は、個人的には可愛らしいと感じる時もあるのに、不思議な自信に満ちあふれていて凛と響く。
いつも動きやすいパンツルックでいることが多いが、今日はさらに少しばかり重装備で、軽い登山に耐えられる衣装に、透明なレインコートを羽織っていた。
「この雨では大変だったでしょう。どうぞお入りくださいませ」
そう言って迎え入れたのは、エプロン姿の女性だった。第一印象は、この別荘で働いている人物、というものだったが、考えてみれば家事の途中の奥様という可能性もある。
弥生さんは、レインコートをばさりと脱ぐと、玄関に入った。
「親切にどうもありがとうございます。私は、キサラギ。こちらが――」
「僕は、イチガツといいます。お世話になります」
「私は、このリング館でお手伝いの仕事をしています、キノシタです」
その言葉に、弥生さんが首をかしげてみせた。
「リング館?」
キノシタと名乗った彼女は、そこで改めて右手を上げ、建物の中へと誘った。
「改めまして。ようこそ、ササガセ家の別荘『リング館』へ」
そして、十分な間を置いてから、まるで別人のように弥生さんへ詰め寄った。
「おどろいたでしょう? ご主人が変わり者で、来訪者大歓迎の上に、今の『ようこそ』を必ずやれっていわれているんです。それにしても、キサラギ、キサラギさんですって? もしかして、あなた、あの有名な名探偵の」
「そうです」
そこで弥生さんも、芝居がかった間の後に断言した。
「私が、その『名探偵』のキサラギです」
「おー」
キノシタは、目をキラキラさせながら感嘆の声を上げた。
「名探偵の掟、その5。名探偵は、そう名乗れ」
そこで、弥生さんお得意の『名探偵の掟』が出た。彼女が、名探偵たるのもかくあるべしと無数にリストアップしているモットーのようなものである。彼女は、時には得意げに、時には自らを戒めるように、この掟を口にするのだ。
「おー。すごーい」
キノシタはひとしきり拍手をすると、もとのテンションに戻ったようだ。
「失礼しました。私、基本的に噂話大好き、ワイドショー大好きで生きているので、本物の名探偵さんに会えて、我を忘れてしまいました。それにしても、これで役者はそろった、って感じですね」
「? それはどういう――?」
聞き返した弥生さんの言葉に、別の声が重なった。
「キノシタ、お客さんかね?」
そこで現れたのは、作務衣姿の男性だった。
「あ、ササガセさん。天候の悪化で訪ねてくださいました、キサラギさんとイチガツさんです」
キノシタの簡単な報告に、ササガセはにっこりと笑顔を見せた。
「このリング館の主、ササガセです。ここは突然の来訪者歓迎――特に、今晩のような嵐の晩には大歓迎ですからな。どうぞ遠慮せずにくつろいで下さい」
それにしても、とササガセが続けた。
「キサラギ――というと、まさかあの有名な名探偵の」
「そうです。私が、その『名探偵』のキサラギです」
「おー」
少し前のやりとりが、再度繰り返された。
ササガセは、目をキラキラさせながら感嘆の声を上げた。
「名探偵の掟、その5。名探偵は、そう名乗れ」
「おー。やはり本物はすごいですな」
あっはっはとササガセは笑い声を上げた。
「いやいや、年甲斐もなくはしゃいでしまいました」
そう言って、ササガセは頭をかいて見せた。
「こう見えて根っからのミステリマニアでしてな。書物だけでは飽き足らず、現実世界の事件なんかも大好物でして。もちろん、キサラギさんの活躍も、いつも大興奮しながら聞き及んでおります。それにしても名探偵のご登場とは、これはもうお任せしてしまえば安心だ。あっはっは」
「? それはどういう――?」
弥生さんの疑問の声は、ササガセの話を止められないようだ。
「何しろ、ミステリ好きが高じて、こうしてそれらしい別荘を建てて、週末を過ごしているほどでしてな。このリング館、上空から見るとリングの形をしていていましてな、部屋をその円周上に配置、リングの内側に食堂と物置を配置し、しかもその壁をガラス張りにしたという――」
そこでようやくササガセは手を打った。
「いや、いかんいかん。つい熱が入ってしまいました。さあ、いつまでも玄関で立ち話もなんでしょう。他の皆様にも紹介しなくては。どうぞキサラギさん。助手のイチガツさんも、まずは食堂へどうぞ」
「ありがとうございます」
「お邪魔します」
上機嫌のササガセに導かれるままに、一同は奥へと進んだ。




