遅起きは少年期(3)
化け物の痕跡は何もなく、後には、静寂と彼女だけが残された。瞬きすら忘れ、その化け物を凝視していた僕だったが、まさしく、化け物は『消えた』…まるで、最初からいなかったかのように。
「運がよかったな」
金髪の彼女は、そう口にする。その声色は、まるでこの世のものではないかのように儚く、それでいて凛とした、心地の良いそれである。
「あの、その…」
あまりの展開に、頭が追い付かなかった。もしも、僕が目を覚ました時に、医者の代わりに医療用アンドロイドが僕を出迎えて、人間の医者が一人もいない手術台に寝かされ、治療に入るという展開であったとしても、まだ今の状況よりは、頭の整理がつくだろう。
「無理するな。これを飲んで一息つくといい」
彼女が懐から出したそれは、銀色の水筒であった。手を伸ばし受け取り、中の液体を喉に流し込む。普通の水だったが、今何よりも体が欲しているものであった。強張った喉や肩の力がたちまち抜け、名の通り、深い一息をついた。
「ありがとうございます」
ようやく感謝の意を口にすることができた。声に出たそれは、感謝と安堵と困惑と、様々な感情が渦巻く思いが相手に伝わるような一言であった。
「…礼などいい。立てるか」
彼女は僕に手を伸ばす。肘まである、黒いレースのドレスグローブに包まれた手は、まるで夜空から伸びる神の右手のようで…それに触れることは、夜空に手が届くのと同義のような、そのような気がした。
「…?」
いつまで経ってもその手を受け取らない僕に、いい加減疑問符が浮かんできたのだろう。僕も相手に失礼だと思い、半ば勢いでその右手を借り、ベッドの上に立った。
「色々と疑問があるだろう。答えてやる。そこに座れ」
ベッドの下に、人が一人座るには、手頃のよさそうな岩がぽつんと置いてある。手を引かれそこまで移動すると、僕をそこに座らせた。
僕の身長からはやや大きな椅子になったのだが、なかなか座り心地は悪くない。尖っていたりデコボコしている感じはなく、まるで人工的に削られ、椅子としての機能を与えられたかのような岩であった。
「少し休んだら、ここを離れる。君を私の屋敷へ招待しよう。」
僕の前に凛と立った彼女は、満点の星空を背に、優しくそう語りかけた。地平線まで何もない大地が、その美しさを更に際立てている。星からの灯りはスポットライトのようで、まるで舞台の役者を見ているかのような気分だ。
彼女の姿を見ると、嫌でもその神秘的な姿に見惚れてしまう自分が恥ずかしく、紅くなっている顔を背けながら、ポツリと口にする。
「あなたは、誰ですか」
僕の両親の知り合いに、この様な女性は見たことがなかった。僕の両親は二人とも小学校の教師をしている。英語の教論だとすれば、この日本人離れした見た目に納得のいく説明ができるのかもしれないが…なぜその教師がここにいるのか、意味が分からない。そもそも、この女性から漂う雰囲気は、そのような、言葉が悪いが、社会じみた、一般的な雰囲気とはわけが違う。では、僕が眠った後に知り合った、新しい友人という線…。可能性としてはなくはないが、多少裕福なだけの一般人が、このような女性と、どうすれば知り合えるのか。テレビに映る芸能人やアイドルよりも、口を交わすことが難しい存在だと直感できる。パッと思いついた可能性の中で一番大きいものは、海外の天才外科医説なのだが…服装が、医者のそれとはまるで逆であった。
「アカシャだ。敬称をつけずそのまま呼ぶといい」
アカシャ。スッと、頭に刻まれる。命の恩人だからであろうか、はたまた美しい女性の名前だからであろうか。…。恥ずかしかったので、後者の可能性は否定したい。
「アカシャ。僕は、美酉辰也って名前です。好きに呼んでください」
彼女は、ぼそりと僕のフルネームを口にし、逡巡した後、僕のことを「タツヤ」と呼ぶことにしたようだ。
「私はヴァンパイアだ」
何の脈絡もなく、そう嘯く。これが嘘だとしたら、さっき名乗ったアカシャという名前すら嘘だろうと予想がつくほど、同じトーンで語った。
「ヴァンパイアって…血を吸う妖怪の?」
「妖怪とは別物だがな。怪物とか、魔物に近いよ」
そこら辺の区別の違いは、僕にはよくわからなかったが、真っすぐに僕を射抜くその目を見て、彼女が人外の生物であるということを、僕は自分でも意外なくらいにすんなりと受け止めることができた。また、その見た目もまた、人とは別の雰囲気を漂わせるそれがあり、それも相まっての結論でもある。
「偶然近くを飛んでいたら、声が聞こえてな。ぎりぎり間に合ってよかった」
ヴァンパイアとは、空も飛べるらしい。血を吸う、にんにくが嫌い、鏡に映らないくらいしか、ヴァンパイア・吸血鬼の話は分からない。背中に翼は無いようなので、蝙蝠にでも変身して空を飛ぶのだろうか。
色々と考えていると、この話題については全て話し終えたとでも言わんばかりに一呼吸置き、右手で僕に次を促すよう手を振る。
「父さ…父と、母は?どこにいるんでしょうか」
子どものような言い方を極力避けるように、言葉を選ぶ。理由は特にないが、無理に理由を作るのなら、命の恩人に稚拙な言葉で接するのは、僕の流儀に反するからなのかもしれない。
「わからない。」
短くそう言い放つ。僕が今一番知りたいのがその部分だったのだが、簡潔にその一言を言うと、もう口は閉じたままだった。
「ここは日本ですか?」
「そうだ」
ここを日本と信じたくない僕は、正直に言うと、否定してほしい問であった。地平線まで続く無は、僕の知る日本のどこにも該当しない。
色々と考えていると、ついに世界は夜明けを迎えるようだ。山も何もない場所なので、すぐに太陽がその姿を現しそうである。
「そろそろ体も落ち着いただろう。屋敷へ戻る」
何も話さない間に痺れを切らしたのだろうか、彼女は僕の手を取ろうとする。
「待ってください、最後に一つだけ」
彼女の手が止まる。表情からは何を考えているのかわからないが、そのビクッと手を止めた姿は、どこかで…僕でも経験したことのある、仕草…そう、まるで親に怒られた子どもが、肩をビクッと震わせるような、そんな軽い恐怖の、仕草だ。
「この世界に、何があったんですか」
体を硬直させたまま、動かない。せいぜい2秒ほどの時間だったのだろうが、その間、電源が切れたロボットのように、息すらしていないようにも見えた。
「滅んだよ」
差し出すのを途中で止めていた手をついに動かし、僕の手を取る。太陽はもうすぐそこまで来ている。よく考えると、ヴァンパイアの最大の弱点は太陽だという一番有名な話がこの時の僕からはすっかり抜け落ちていたのだが、そのようなことは今はどうでもよかった。
「ほろ、ん・・・?」
言っている意味がわからない。放心状態の僕を抱くと、彼女は背から漆黒の翼を生やし、空へ舞う。
「私が、滅ぼした」
短くそう言った。見る見るうちに地上から離れていき、目の端には、終末の世界に黎明が差し込んでいたのだが、その輝かしい光景に興味が移るほど、僕の精神は太くなかった。