遅起きは少年期(2)
雲ひとつない、晴れ渡った夜空である。満点の星など、現在社会において見る機会などはテレビの中くらいのものであり、その迫力に、先ほどまでのごちゃごちゃとした考えは、ほんのひと時だけ、一掃された。
数秒してから、ハッと気づく。なぜ夜空が見える?最後の記憶は病院の一室で眠った場面であり、その後もこの、棺桶に似た装置で寝ながら、入院する手はずになっている…間違っても、「空気がいいから外まで散歩しましょうね」で連れていかれることはないはずである。
周りを見回してみる。…何も、なかった。いや、あるには、あるのだが…。萎びた木が数本、寂しく揺れている他に、僕が見渡せる範囲数キロ、赤茶色の大地が広がっていた。人工物のようなものはなく、これを『ない』と表現するのは、誰も疑問の余地はないだろう。
ベッドから這い上がる。僕が寝ていた寝台部分を背にして、5メートルはあるであろう、巨大な装置が後方にあった。大きさの割には音は全くと言っていいほどなく、稼働は停止しているみたいだった。
ここはどこだろう。父は?母は?遅れて恐れの感情が胸に占める。どう考えても、今の状況は異常である。そもそも、日本であるかも怪しい。いったい今はいつで、此処はどこなのだろうか。さっきまでずっと眠っていたはずなのに、現実をこれ以上直視したくなかったので、目をつむって顔を逸らした。
ここで救助を待つのが賢明であろう。目に映る果てまで、世界は無に覆われていた。長期の睡眠で体力の衰えている今、長距離の移動はおそらく不可能だろう。
気を紛らわすために空を見る。月が出ていないにもかかわらず、星明りだけであたりの様子がわかる。多少冷静さを取り戻した頭で星を眺めると、教科書上の知識だけしかないのだが、夏の大三角形に似た、ひときわ大きな星が並んでいるのがわかる。薄い長そでの病院着一枚でも暖かく感じるので、今が夏であり、北半球であることは、何となくの予想がついた
気持ちが落ち着いたので、このベッドの後ろにある、大きな機械について調べてみることにする。地に素足をつけて、久しぶりの歩行を試みたが、少し不自由なくらいで、睡眠前とほぼ変わらない足取りで歩くことができた。
縦横5メートルほどの正方形である。それに僕がさっきまで寝ていたベッドが、繋ぎ目なく繋がっている形である。…まるで僕のコールドスリープ用に作られた機械のようにも見えるが、一介の子どもの生命を維持させるためだけに作られたものと考えるにしては、とてもではないが大きすぎる。中に部屋があって、医者がそこに滞在しているのでは、と勘繰ったが、一周しても扉らしきものは何もなかった。
久しぶりの運動のせいか気温のせいかわからないが、汗ばんできた。ベッドに戻って休憩することにした。やはり体力は落ちているようで、ちょっと歩いただけでも重労働である。
考え事と不安で眠れそうにもなかったので、このまま朝を迎えるまで起きる決心がついたころ。
足音のような、タタタッという音が耳に入った。後ろの機械の音かとも思ったが、どうやら違うみたいだ。体を飛び起こす。周りを見ても、人影らしいものは見当たらない。静かな夜にだからこそ、遠くの音が風に乗ってここまで届いたのかもしれない。気付かずにどこかへ消えて行ってしまうかもしれない……それだけは、嫌だ!
「おーーーーい!誰かーーー!」
あらん限りの声で、僕は叫んだ。声帯が久しぶりの運動に悲鳴を上げるのがわかる。急き込みながら、しかし僕は、無理にまた大きい声で、先ほどの足音の主を呼ぶ。
程なくして、足音が大きくなるのがわかった。もう視界に入ってもおかしくない距離にいる。こんな荒野とも荒地ともつかない場所を駆る人物は、恐らく相当の変人か、体力作りに熱心な変人のどちらかであろうことは固くないだろうが、とりあえず、身の安全を図る方が先決だ。暗い中、目を凝らしてあたりを探る。
目の端で、木以外のものが動いたのが見えた。
注意深く見ると、どうやらそこまで大きな人間ではないようだ。…うん?
そもそも、足音が人間のそれではない。4足獣特有の、地に複数の足を蹴りつける音である。馬や、犬のような…
『ヴァアアアアア!!』
今まで聞いたこともないような、おぞましい声___声と表現するには、あまりに生き物のそれとは違う、金属音や機械音に近い音を発しながら、ソレは僕の目の前に現れた。
外見の形だけなら、大型犬に見えなくもなかった。だが、星明りに照らされたソレは、醜く赤く爛れた皮膚を全身にまとい、とってつけたかのような、今にもずり落ちそうな濁った眼…ソレが道路に横たわっていたら、運悪く車に轢かれ、肉塊と化した犬だと思うだろうが、しかし、足は似つかわしくないほど武骨で太く、1回撫でられただけで僕くらいだったら死んでしまうだろう、鋭利な爪がついている。
「ひっ…」
言葉が出てこないのは、あらん限りの声を出したせいだけではないだろう。僕が知る中で、このような化け物じみた生物は、少なくとも日本にはいない。化け物は僕の数メートル手前で立ち止まると、値踏みするかのように僕を見る。
恐れで体が震える、どうにかして化け物から身を守りたいが、武器になりそうなものはない。襲ってこられたら一貫の終わりである。
ニタっと、化け物は笑ったように見えた。次の瞬間、僕に駆け出してくるソレを、無意識にベッドの扉で防いだ。べチャ!と何かが激突する音と『ギュイッ!』と声らしきものをたてたソレは、扉で遮られて見えなかったが、多少はひるんだようだ。
ものすごい勢いで扉にぶつかったので、勢いで扉が閉まるかと思ったが、僕が起きた時のように、数センチだけ隙間が空いている。もしかしたら、完璧に閉まるには、外から何かしらの手順を踏まなければならないのかもしれない。
化け物は、数秒経ってから、扉への攻撃を開始した。体当たりを繰り返したり、爪でガラスを引っかいたりと手を変えて試していたが、扉には傷すらつかなかった。必死で扉を手で閉め続け、化け物が諦めるのを待つしかない…そう恐れが蔓延する脳内で考える。…だが。
『ギュエエエエエエエエ!』
化け物は、その鋭い爪を、数センチ開いた隙間に差し込んでくる!見た目からは考えられないほど、賢いぞ、この化け物!
爪をギリギリと隙間にねじ込み、開こうと力が強まる。
「ぐぅぅぅう!」
体力の戻っていない僕に、抗う力はほとんど残っていない。次第に開き始め、徐々に扉にかかる爪の本数が増す。
自分の運命を悟ったときにはもう、勢いよく扉が開かれていた。ニタァ、と笑う顔が目に付くと同時に、腐敗臭が鼻を刺激する。この化け物の臭いだろう。これが日常の一部で漂ってきたら吐いてしまうだろうという強烈な刺激臭は、しかしこの後僕に訪れるだろう最悪の前では、無臭にも等しかった。
…生きるためにコールドスリープなんかしたのに、こんな化け物に殺されて終わるのかよ…!
こんなことになるなら、眠らずに、病気で死ぬ方が何倍もよかった。
最期のそのときまで、大切な人と、一緒に過ごしたかった。
……また、父さんと母さんと、美術館に行きたかった。
カノンと外で、想像の中でしかできなかった遊びをしたかった
。
……生きたかった!
化け物の爪が、僕の首に突き刺さる!僕は襲い掛かる脅威から目を逸らさず、真っすぐに化け物を睨んだ。
「はぁっ!」
ほぼ同時に……いや、タッチの差で、声の主の攻撃が早かった。声にならない声をあげて化け物が遠くに蹴り飛ばされる。
「間一髪だったな」
声の主は、ベッドの淵で器用に立ち、僕を見下ろしていた。
僕は、夜空と、彼女との見分けが、つかなかった。
漆黒のゴシックドレスを身にまとった、綺麗な、という言葉では表せない、荘厳で美しい、若い女性であった。金色の髪は、空を流れる天の川のように、神秘的にそよいでいる。背後にある、あの夜空を擬人化したとしたら、こういう見た目になるのだろうな、と半ば本気で考えた。
瞳を見つめる。星を切り取ったかのような美しい瞳。しかし、なぜだろう。底知れぬ闇が見て取れる。深淵とも表現できるそれに込められた感情を、しかし僕は表現できない。
「あ、あ」
先ほどの、恐怖で塗りつぶされて出なかった声とは違う、今度は、彼女に圧倒されてでた情けない声は、果たして彼女に届いたのだろうか。
ブチュっと気味の悪い音が耳に入ってきた。先ほどの化け物が地面に叩きつけられた音のようだ。視線を移すと、その醜い体が、ペシャンコに潰れていた。一目見て死んだとわかる有様だったが、しかしソレは、ウゾウゾと先ほどの形に戻り、復活する。
「不死、身…?」
驚きに目を見張る。攻撃が効いた様子がない。数秒で忽ちにその体を復元すると、ソレはまたこちらに襲い掛かってくる!
「安心しろ」
彼女はそういうと、指をパチン、と鳴らす。その瞬間。
化け物は、跡形もなく消え去った。