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赤い果実の花言葉

作者: しらぬい

しらぬいは「彼」「苺」「希薄な世界」を使って創作するんだ!ジャンルは「偏愛モノ」だよ!






 ーーおいで…、おいで……、私の愛しい人よ。


 ーーよしよし…、可愛い人…。あなたは私の宝物よ…。


 ーーずっとずぅっと…私の大切な宝物よ。





 それに気がついたのはいつの頃だっただろう。


 何かが違うと気づいたのはきっと幼い頃だった。けれど何が違うかなんて分からないから、結局僕にはどうすることもできなかったのだ。


 他人との認識の齟齬に気づいてから、ようやく僕は目が覚めた。だけどもう遅い。


 逃げ出すことも終わらせることもできないのだから、僕は惰性でここにいる。


 僕は今、大きな大きな鳥籠の中にいる。




§




 しんしんと降る雪にかじかむ指先を、私ははぁと息を吐いて冷たさを誤魔化した。

 首のマフラーに顔を埋めてみても、吹き抜ける風はブルリと私の体を震わせる。すんすんとすする私の鼻は赤鼻のトナカイのように赤くなっているはずだ。

 今日は髪をまとめているせいで首筋が寒い。自慢の茶髪も雪に濡れてちょっとばかり湿っぽい。


 さく…さく…と踏みしめるごとに雪は音を鳴らす。うっすらと積もる雪は歩道の脇に残っているのみで、車道は走る車に完全に融かされているようだ。

 と、そこで眼前に見知った背中を見つけ、私は顔を綻ばせた。寒さにうんざりするように背を曲げ、足取り重く歩いているその男子は紛れもなく私の知人である。滑らないように気をつけながらそろそろと歩み寄り、私は彼の肩をぽん、と叩いた。


「やっほーっ! おっはよう、太一!」


 びくりと彼の体が震え、その拍子につるりと足を滑らせる。

 慌てる様子はまるで仰天した猫のよう。ワタワタとした彼のもがきも虚しく、そのままお尻から地面に落ちた。恨みがましく睨む彼の視線を、私はなんのことなくさらりと躱す。


「未央…、こけたじゃないか」

「そんなこと言われてもなぁ…。私はただ挨拶しただけだしぃ?」


 からかうように言ってやる。反省の余地なしと見たか、あるいは反論するのも億劫なのかこれ見よがしに大きなため息を吐くに留めた。それからのそりと立ち上がってフンと鼻を鳴らす。

 寒さが苦手なせいか彼の肌の露出はどこにもない。厚手のコートに真っ赤なマフラー、茶色い手袋に緑の帽子と寒冷地に住む人間だってこんなにも着ることはしないと思う。その割に私とおんなじように鼻だけは赤いのだ。それがおかしくなってなんだか笑いが漏れてしまう。


「なんだよ…?」


 ぶっきらぼうに尋ねる彼に私は適当に答えて誤魔化した。正直に言えばまた恨み言を言われるのが関の山である。それなら黙っとくに越したことはない。


「なーんでも? それより早く行かないと遅刻しちゃうよ?」

「…くっそ! どっかの誰かのせいで余計な時間食った」

「あらあら、それは災難だったわねぇ」

「オマエのことだよ、オマエの。皮肉ぐらい分かれっての」


 そんな応酬をしながら走り出す。

 ぶっきらぼうな物言いの割に彼は私の走る速度に合わせてくれていた。相変わらずお人好しだなぁと苦笑する。

 始業のベルまであと少し。これはギリギリになるかなぁなんて呑気に考えながら、私は前を走る彼の後を追った。




§




 ーーずぅっと…ずぅっと求め続けていた。


 ーーいつしか胸に秘めた想いは大きくなっていて。


 ーーそれでも私はあなたとの関係を崩したくなくて……。


 ーーバカな私は笑ってあなたに別れを告げたんだ。


 ーーでももう、他の誰かになんて渡すものですか…。


 ーーあなたはずっと私の………。





 おかしいなんてことはとっくの昔にわかっている。今だって僕は背中に薄ら寒いものが走る。


 なんのことない顔をしてその下に詰まっているのはおどろおどろしい狂気だ。


 まるで僕らは捕食者と餌。こんな自虐をしてみても一向に笑えやしない。真実、それは間違っていない。


 籠の中で飼われる僕はいつかその狂気に食われる日が来るのだ。


 今はただ、お姫様を扱うように丁寧に愛でられる。彼女の気まぐれのもと、仮初めの自由を得ているにすぎない。


 僕は不意にちらつかされるナイフにただただ怯えるだけだった。




§




 終業のベルが鳴り、薄い頭髪をした中年教師が気だるげに教室を出て行った。にわかに教室は騒がしくなり、生徒たちは思い思いに行動し始める。

 うん…と伸びをして僕は机に肘をついた。

 たかだか十分程度の休み時間。大したこともできないのは、きっと次の準備をするだけにしておけという先生からのメッセージに違いない。次の時間割は確か英語の授業だ。憂鬱になる気分を感じながら、次の授業の教科書を取り出す。その表紙で踊るアルファベットを見て僕は大きなため息を吐いた。


 ……コツン。


 後頭部に軽い衝撃。それが誰かなんて問うまでもなく予想がついた。僕はくるりと振り返るや否や批難を口にする。


「あのね竜司(りゅうじ)、僕の頭はそんな頑丈じゃないの。そんな壊れた家電でも叩くみたいにポンポン叩かないでくれないかな?」

「いやぁ、悪りぃ悪りぃ。まぁ気にすんなって兄弟! もともと悪くなる頭もねぇじゃねぇか」

「一言余計だし、君と僕は兄弟でもなんでもないよ…」


 ガハハハ、と豪快に笑いながら我が悪友は僕の背中をバシバシと叩く。全くもって容赦がなく、その強さは背中が真っ赤になって腫れてしまうんじゃないかと思うほど。帰ったら湿布でも貼っておこう。

 何の用だと目で訴えると彼は、ほれ、と僕の頭を小突いたそれを差し出した。訝しがりながらも受け取ってみると、この前貸した僕のノートのようだ。ところどころ折れ曲がったりしてるのは彼の粗雑さ故だろう。もっと物を大切にするということを知らないのか、この男は。


「いやぁ悪いなぁ。体調がよくなくってよぉ、この前の授業のところは全部写させてもらったぜ。サンキューな!」

「ま、悪友が単位を落とすところをみるのは忍びないからね」


 肩を竦めて言ってみせる。このやろう!と怒ってヘッドロックをかけてくるが、それも戯れ。いつものことなのでほどほどに抵抗した。

 休み時間のよくある光景である。男子高校生特有の馬鹿騒ぎ。周囲が向けてくるのはまたあいつらか、みたいな苦笑の視線。一部熱心な視線を向けてくる女子もいるけどその理由はわからない。この竜司(バカ)も多分知らないだろう。というか、そもそもその視線にすら気づいてないと思うけど。


 そうやっていると、ふと首筋に違和感を感じた。何かチリチリするような…。

 瞬間、ぞくりと寒気が走る。バッと慌てて彼から離れて、周囲を見渡した。別段変なことはない。そこに広がるのはいつもの教室。いつもの風景。ガヤガヤと騒ぐ級友たち。なにも、おかしなところはない。


「おい、どうした兄弟?」

「や、だから兄弟じゃ…って言ったって無駄か。なんか寒気を感じてさ」

「寒気?」


 竜司ははて、とその首をひねる。

 僕と同じように周囲を見渡すけど、特に変わったことは感じなかったらしい。いや、竜司は鈍かっただけだ。周囲の視線に気づかないんだから気づくわけないじゃないか。


「風邪でも引いたんじゃねぇのか? ここんとこ寒かったし、他のクラスでも病欠は多いって聞くぜ」

「今朝の雪にやられたかなぁ…」

「体は大事にしろよぉ、なんてったって学生は体が資本だからな!」


 それを言いたいだけだろう。この前の授業ででた資本という言葉を使いたいだけだ。彼は覚えたての言葉をやたらと使いたがる。半目で見ていると、また豪快に笑って自分の席へと戻って行った。

 時計を見ればすっかり休み時間は終わってしまっている。僕も席に着かなくては。


 その時、ふと視線を感じ教室のドアへと目線をやった。

 開かれたドアには誰もいない。まぁ、当然といえば当然だろう。もうすぐすれば授業開始のチャイムがなるし、クラスメイトたちは自分たちの席に着席している。だから誰もいるはずがないのだ。

 けれど気味の悪いことにそのドアには誰かがつい先ほどまでいたような妙な違和感と、ドアの影に消えて行った茶色を僕は幻視してしまっていた。




§




 ーー私にとってはあなたが全て。あなたに変わるものなんてないの。


 ーーだから優しくこの手で包み込むの。


 ーーどこにも行かないように。


 ーーどこかへ消えてしまわないように。





 籠の中の僕は鎖に繋がれている。カラカラ……、カラカラ……、と音を立ててもう一方の端は闇に消えていった。


 籠の鉄柵は時間が経つごとにどんどんと狭まり、僕の場所を奪っていく。


 徐々に僕は中心に追いやられ、その内、天を仰ぐくらいしかやることがなくなるのだ。


 けれど、狂喜に満ちた目は外から僕を覗いている。こんなもの落ち着くわけがない。


 いつあれが僕の体を押しつぶすのかと思うと、考えるのも嫌になる。


 息苦しさと苦しみの中で自由を奪われ、苦痛に塗れて生きていくのなんてごめんだ。


 だからって意識を断ち切る勇気も持ち合わせちゃいない。……どこまでも僕は中途半端だ。




§




 ふと空を見上げると青い空が広がっていた。雲ひとつない青空だ。

 太陽がさんさんと輝いて、冬の寒さを紛らわせてくれている。とうに頂点を過ぎ、ゆっくりと下がり始めているけれど、まだまだ暖かさを僕たちに与えてくれる。制服の上着を着て来て正解だったと思う。

 ここはどこだっけ。ああ、そうだ。屋上にお昼を食べに来ていたのだっけ。


 目の前には広げられたお弁当と友人たちの姿がある。


「なにぼぅっとしてんだよ、太一?」


 隣に座る悪友は空を見上げたままだった僕の様子を変に思ったか、眉根を寄せて訝しむ。

 いや、なんでもないと答えようとして僕は自分の口が動かないことに気がついた。応えようとは思っているのだけれどうまく体がいうことを聞かない、そんな感じだ。


 その時、僕は自分の首に鎖を幻視した。

 カラカラ……、カラカラ……、と不気味な音を立てて、僕は息を詰まらせた。


「具合…悪いの…?」


 反対側に座る佳奈の声に、僕はハッと我に返った。重い手を首元にやる。そこには何もないし、カッターシャツの端に触れるだけだ。鎖なんてあるわけない。

 佳奈は心配そうにボクの顔を覗き込む。なんとかいうことを聞かない体に無理やり首を振らせた。片方の手を自分の額にあて、もう片方の手を僕の方へと伸ばしてくる。きっと熱がないかを確かめようとしているのだろう、そう思い…。


 僕はその手を払った。


 佳奈は驚きに満ちた顔で僕の顔を見、次いで悲しそうな顔を見せた。

 強くするつもりはなかったのだけれど、僕の手は彼女の手を強く払ってしまっていたらしい。弁解しようと開く口もなく、ただ小さく、ごめんと呟いた。


「あー、まぁなんだ。疲れてんだよな兄弟? ここんとこ風邪も増えてきてるみてぇだし、熱はねぇんだろ?」


 悪友の言葉に僕は小さく縦に頷いた。

 正直こうやって話しているのも面倒だった。今すぐにでも僕は自分の意識を手放してしまいたくてしょうがない。


「なら大丈夫だろ、ちっと休めば楽になるさ」

「太一君、大丈夫…? 保健室、行く?」


 佳奈の問いに首を振って、どさりと後ろに倒れ込んだ。ちょうどフェンスに寄りかかるような形でボクは心配そうに覗き込む二人の顔を見返した。


「……こりゃあだいぶ参っちまってるみてぇだなぁ。最悪無理やりにでも保健室に連れて行った方が良さそうだぞ」

「疲れてる…のかな…?」

「かもな」

「…だい…負担にな…てるみたい」

「しょう…ねぇ。俺……はあいつ…を覚…すまで…」


 次第に薄れて行く意識。二人の会話も段々と遠のき始め……。


「で…それじゃ、……が…つまで…を……さない…」

「……ちに…きるの…………」

「……………」

「………」





 僕は目を覚ました。

 場所は変わらず学校の屋上。日は頂点に登ったまま、雲は向こうの空へと流れている。

 先ほどまで僕を襲っていた眠気はない。意識ははっきり覚醒している。


 屋上には僕以外に誰もいない。それどころかどこからも物音は聞こえない。

 世界が止まってしまったかのように静かだ。僕の髪を撫でる風の音だけが聞こえる。


 竜司はどうしたのだろう。起きない僕を放って先に教室に帰っちゃったのか? 薄情者たちめ。

 ぶつくさ言ってると、不意にガチャリとドアが開く。その影から茶色の髪が揺れ見えた途端、僕の鼓動は一際高くなった。

 胸の高鳴り? いいや、違う。これは……。


「あれ…? 屋上が空いてる…。ってあぁ! もう、やっと見つけた」


 彼女は茶色の髪をゆらゆらと揺らすとプリプリと怒りながら僕の顔を上から覗き込んだ。

 整った眉に赤銅色の瞳。すっと通った鼻筋にほんのりと色づいた桃色の頰。それでいてまるで陶器みたいな乳白色の肌は彼女から現実味を奪い、どこか幻想じみたものに仕立て上げている。

 彼女を見上げる僕の目はどんなものだったのだろう? 自分でも口が引きつっているのがわかったのだから、彼女にはなおさら僕が示す感情がわかったはずだろう。それでも彼女は不思議そうに僕を見るばかりだ。


「どうしたの? まるで幽霊でも見たみたいに驚いてるよ?」

「……なんでもないよ」

「ふーん…、そっか」


 彼女はよいしょ、と僕の隣に腰を下ろすとぽちぽちと携帯をいじり始めた。

 なんとなくむず痒さを感じた僕は少し体をよじらせて間を空けた。と、その隙間を埋めるように彼女は身を寄せる。

 それを分からないふりしてもう一度身を離す。また寄せる。


 彼女の方を見れば、ぶすぅっと不満げに僕を見ていた。


「なんで離れるのよ」

「…なんのことだよ」

「ふん、だ。どうせ何回やっても同じことだけどね」


 そうして彼女はニヤリと笑うとまた携帯をぽちぽちとつつき始めた。

 と、その時彼女の携帯についた白い花のストラップに目がいった。あんなのつけてた覚えがない気がするんだけど、見覚えはあるような…。

 じっと見ていた僕の視線に気がついたか、彼女はふっと微笑んでそれを持ち上げた。


「これ、気になる?」


 彼女の言葉に頷く。


「この前ね、見つけたんだ。可愛かったからさ。ま、君には何の花かなんて分からないでしょうけど」

「…うん、分からない」

「そういうところは素直でよろしい。ほれほれ撫でてあげよう」


 そっと頭に伸ばされた手に僕の体はびくりと震える。彼女が撫で終わるその時まで僕の体は硬直していた。


「これね、苺の花よ。果実じゃなくて花をモチーフにしてるところは珍しいけど」


 花なんかどれも同じに見えるなんて言うと馬鹿にされると思ったので黙ったままでいる。


「…ふふ、何にも覚えてないみたいね」

「なんのことだよ」

「いーえ、なーんでも。おっちょこちょいだなぁって思っただけよ」


 彼女の言葉はまるで慈しむような響きであった。優しげな目で僕を一瞥するとすっくと立ち上がった。後ろのポニーを風に揺らしながら、彼女は未だ座る僕を見下ろしたまま、太一はこれからどうするの?と尋ねてきた。

 そんなもの決まっている。教室へ戻って薄情者の悪友に一発かましてやるのだ。なに、一発くらいで彼の成績は変わるまい。僕もすぐ行くよ、と答えてひとまず立ち上がることにした。が、立ち上がるために支えた腕は力が入らず、僕の体はそのまますとんと地面に落ちてしまった。


 また、眠気が忍び寄る。

 だらりと腕は投げ出され、体の感覚が薄くなり始める。まぶたが重い。彼女を見上げるために上げた顔さえ下を向いてしまいそうになる。


「あれ…まだ抗えるんだ。もうてっきり堕ちゃったかと思ってたのに」


 すごく冷たくも歓喜に満ち溢れた声。逆光で隠れた顔からは彼女の表情を窺い知れない。

 だけどかすかに見えるぼぅと光る赤銅色の瞳はこれ以上ないばかりに見開かれ、喜びに溢れ歪んでいた。


「ねぇ、苺の花言葉って知ってる、太一?」


 しゃらんと音を立てながら彼女は携帯を僕の前に持ち上げる。ゆらゆらと揺れる白いストラップ。返事をしようとして、またも僕はボクの体が動かせないことに気がついた。


「尊敬と愛、そして幸福な家庭…」


 やばい、危険だ。頭の中で警鐘が鳴り響く。

 何がなんだかは分からないけれど、今の彼女はとても危険で、逃げ出さなければならないような気がした。

 だけど体は動かない。瞳孔は見開き、嫌な汗が頰を流れ落ちる。ジレンマに体は震え、心臓を掴まれたような嫌な気分だ。


「ゆっくりおやすみ…太一…」


 瞼が完全に落ち切る前、僕はニヤリと口裂け女のように口の端を釣り上げるおぞましい顔を見る。


「私の愛しい人……」








§







 ………。


 …………………。


 身を切るような寒さに目を覚ました。ボサボサに乱れ、ぐしゃぐしゃに伸びきった茶髪が鬱陶しい。バッサリと切ってしまいたいけれどどうせ切ったところで関係のないことだ。

 むくりと起き上がって周囲を睥睨する。

 狭く暗い部屋。窓も天井の明かりもない質素な作りの狭い部屋。あるのは中央に一つのベッドだけ。それ以外は何もない。


「また失敗か……。安定しないなぁ…」


 シーツもすっかり汚れ切っており、シミや黒い汚れが目立つ。けど、それももう仕方ないだろう。

 ずっと彼といる代償だ。それくらいの我慢など造作もない。

 ようやく…、ようやく手に入れた私のおもちゃ。手放すわけがない。


 隣に眠る彼を一目見、心の底から愛おしい気持ちが湧いてくる。

 髪を撫ぜ、指で顔の線をなぞり、そうしてその唇に口づけを落とす。


「綺麗な寝顔……」


 安らかな顔で眠る彼の姿はこの世の何よりも美しい。連れてきた当初よりも少しばかり青く、細くなってしまったけれど、延命をさせる方法などいくらでもある。


 ーーしゃらん…。


 耳飾りが揺れる。その形は苺の花。あの夢の世界で初めて彼が気がついた花の意匠。

 彼との意識はこの意匠で繋がっている。

 だから、またあの広大な彼の夢の中で、入り込む度に様相を変える希薄な世界で、長い時間をかけて彼を探し彷徨うこともしなくて良くなるだろう。

 万華鏡のように鮮やかに切り替わる世界を見るのも一興ではあるが、それは彼が隣にいればこそ。ただ一人でそれを見るのはつまらない。


 彼にまたがり、自分の体を彼に預ける。

 とくん…とくん…と小さく響くのは彼の命の鼓動。耳を澄ませ、彼の存在を自分の体全体で感じる。そのことに私は言いようのない至福を感じるのだ。


「また、お邪魔するわね…」


 目を閉じ、自分の心を開き彼の中に潜り込んでいく。自分が、自分の意識が少しずつ分解されるような気持ち悪さ。だけど今ではもはやそれすらも喜びになる。溶け合い、彼と一つになるということに私は興奮すら得ている。

 すぅ…と遠くなる意識。思い浮かべるのは花の意匠。彼の意識と共有するビジョンを強く心に抱き、彼の中で私の求める姿を探す。


「おやすみ……太一……」


 ぷつん…とテレビが切れるように私は意識を手放した。







 身を切るような寒さにかじかむ指先を、私ははぁと息を吐いて冷たさを誤魔化した。

 首のマフラーに顔を埋めてみても、吹き抜ける風はブルリと私の体を震わせる。すんすんとすする私の鼻は赤鼻のトナカイのように赤くなっているはずだ。

 ボサボサだった髪は整えてきたし、前の回(・・・)よりも少し長くなっているかもしれない。彼がもし短い髪の方が好きだったらどうしよう。

 少しだけ悩んでからあんまり関係ないと結論づけた。どうせ私は彼に合わせるのだろうから。


 さく…さく…と踏みしめるごとに雪は音を鳴らす。うっすらと積もる雪は歩道の脇に残っているのみで、車道は走る車に完全に融かされているようだ。

 と、そこで眼前に見知った背中を見つけ、私は顔を綻ばせた。歪んだ口からは甘い吐息が漏れ、彼の背中をこの目に焼き付けるように凝視する。寒さにうんざりするように背を曲げ、足取り重く歩いているその男子は紛れもなく…………。


 ーーもう見つけた…。


 滑らないように気をつけながらそろそろと歩み寄り、私は彼の肩をぽん、と叩いた。


「やっほーっ! おっはよう、太一!」


 びくりと彼の体が震える。彼は驚いたようにこちらを振り向くと、少しばかり口を引きつらせていた。


「お、おう、おはよう」


 …あれあれ? どこか変なところでもあったかな? キョロキョロと自分の体を見てみるけど別段変なところはない。

 不思議に思って彼を見てみると、彼の頬には湿布が貼ってあった。

 ………? 前回ではなかった見覚えのないものだ。


「怪我したの、ボク?」

「いや、なんか変な痣ができちまってよ。それを見せたくないんだよ」

「痣? どれどれ…」

「ナチュラルに剥がそうとすんな!!」


 バッと跳びのき、がるるると吠える彼はさながら威嚇する小型犬のようだった。どうして彼はこうも私を喜ばせてくれるのだろう。

 溢れ出しそうになる感情を抑えながらクスクスと苦笑する。彼はバツが悪い顔をして、プイとそっぽを向いてしまった。


「ごめんごめん。それで…どんな痣だったの?」

「…………花みたいな痣だよ、頰に押し付けられて汁でもついたんじゃねぇかって感じのな」


 私はパチクリと目を瞬かせ、そしてそれがもたらす意味を理解して顔を俯かせる。そうか、そういう風に影響は出てくるのか…。この世界は本当に不思議だ。まぁ、なんでそんなことになるのかなんて微塵も興味がないのだけど。

 今の私は一体どんな顔をしているだろう…。きっと狂喜に顔が歪んでいるに違いない。ふふ、これを彼に見せるのはちょっと躊躇われるな。引かれたら私はもう一度やり直す自信がある。


 彼についた痣は私のものという証。彼の中に打ち込まれた楔。これが有る限り私が彼を見失うことは絶対にもうあり得ない。


「そっかそっかぁ…。変わった痣だねぇ」

「ほんとだよ…、ったく……」

「ねぇねぇ、ところで太一は苺の花言葉って知ってる?」


 は?とでも聞こえてきそうな彼の間抜けな顔。その頰に私は人差し指を押し付けながら、にこりと笑った。





「尊敬と愛、それから誘惑、だよ」





§




 ーー首輪はつけた…。私はもうこれを二度と手放すことをしないだろう。


 ーー彼の夢の中で、私は彼と何度でも交わり、言葉を交わす。


 ーーずっとずっと、永遠に…。





 後悔はするだけ無駄だ。だってこれはそう、天災のようなものだから。


 だから僕はこの鳥籠の中で着々と迫る狂気を見る。いつか壊れてしまうその日まで、僕は永遠に夢の中を彷徨い続ける。







Fin

昔書き溜めてたやつを手直しして放出してます。

短編もちょくちょく書いて行く予定です。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 緩やかな狂気がいいなと思いました。 [一言] 私も花言葉が好きなので、花言葉にまつわる物語が読めて嬉しいです。
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