第9話
「じゃあ、お前は何に怒ってるんだ?」
そう簡単に口にできる華青が心底羨ましかった。
破流姫はちらりと華青を見て、一言言った。
「自分に聞け」
そうして口を噤んでしまった。
華青は胸に手を当て、しばし考えた。
「やっぱり身に覚えはないな」
簡単に、しかもあっけらかんと答えを出す華青を、三杉は小声で責めた。
「だから! お前はものすごく失礼なことをやってしまったんだ!」
「それが思いつかないっての」
どんどんと先へ進む破流姫の数歩あとを行きながら、三杉は華青に昨晩の狂態をかいつまんで教えてやった。
「え、嘘……マジで?」
目を丸くする華青に、三杉は大きく頷いて見せた。
「いくら妹と間違えたからって、あんなことをされれば怖がって当たり前だ」
「クッソー! 何で俺、覚えてないんだ!」
「だから破流様はお前を警戒している」
「感触も覚えてない!」
華青はまるで破流姫を抱き締めるかのように腕を交差させた。
三杉は何も言わずに殴りつけた。
「いてて……。冗談だよ。俺のやらかしたことはわかったけど、それじゃ、何でお前にも怒ってるんだ?」
殴られた頬を撫でながら華青が言う。三杉は困ったように眉尻を下げて華青を見た。
「それはわからない。私はお前と違って本当に身に覚えがないんだ」
「そうは言っても確かに機嫌が悪いんだから、何かしたんだろ。お前のことだから抱きつくことはしないだろうけど」
「当たり前だ!」
「じゃあ、何をしたんだ?」
いつもの破流姫は声を荒げてこれでもかというくらいに責め立てるから、自分の失態が痛いほどよくわかるのだが、今回のこの責め方は非常にわかりにくく、尚且つ心に大打撃を食らう。わからない、という、見えないどころか心にも浮かばないものに恐怖心が煽られるのだ。
こんな手を覚えられては、三杉の細い神経は焼き切れてしまうに違いなかった。
「お前のことだから何かしたとは考えられないよな。その無自覚な無神経さで何か言ったんじゃないのか?」
能天気な華青に無神経と言われて傷ついた。
「そうだ、言ったんだ。そうとしか考えられない」
「私が破流様に暴言など……」
「な? わかんないだろ? その無自覚が原因だな」
自覚がないのだから覚えていなくて当然だ。だが、当然で終わらせては破流姫に対して無礼以外の何物でもない。それに、こうして怒らせることが度々あっては自分の胃のためにも良くない。
「私は一体何を言ったのだろう?」
不安気に呟く三杉に、
「さあな。訊いてみろ」
と華青は軽く言い放った。
「訊けるわけがない」
訊いたところで答えてくれるとは思えなかったし、第一、何がどう返ってくるのか怖くて訊けない。
「じゃ、俺が訊いてやる。破流!」
華青は三杉の返事も待たずに破流姫に声を掛けた。
「お、おい! 華青!」
胃がシクシクと痛み出した。
◇
道の端に赤いクイが立っていた。
「あった。これだな」
薬師が目印に立てたというクイから脇に逸れ、藪の中へ分け入って行く。
破流姫の受けた依頼だったが、率先して行くのは華青だ。
三杉の疑問を率直に破流姫に訊ねたが、あっさり、
「自分で考えろ」
と放り出され、考えるのは三杉に丸投げして自分は先頭を歩いていた。
草深い森の中に、赤いクイが行き先を示して点在している。それを辿って本道からかなり離れた奥に、白い小さな花が一面に咲き乱れていた。
「すごい。綺麗だな」
破流姫は辺りを見回しながら、その花畑へ足を踏み入れた。
「これが依頼の薬草だ」
「これがか?」
何を想像していたのか、破流姫は驚いた声を上げて華青を見た。
「花は煮出して煮詰めて、油分と水分に分ける。水分はいい香りがするから鎮静剤や香水になる。油分はそのまま皮膚に塗って切り傷や火傷の薬になる。美容にもいいそうだからシワや肌荒れにも効果があるらしいぞ」
破流姫はふうん、と相槌を打つ。
「葉と茎はすりつぶして大きな傷にそのまま塗る。しぼり汁を飲ませれば解熱剤にもなる。そして根は煎じれば万能薬だ。痛み止めにもなるし風邪薬にもなる。滋養強壮にもいい。こいつは丸ごと魔法の薬だ」
ほう、と感嘆の声を上げ、破流姫はしゃがみこんで白い花を間近で見た。
ただの野の花のように見える小さな花だが、随分と役立つ機能を備えているものだ。煮詰めるといい香りがするというその花は、群生していると仄かにその香りを漂わせてくる。顔を近づけて匂いを嗅ぐと、確かな香りが鼻腔に届いた。
「いい匂いがする。これは胃弱にも効くか?」
「そりゃもちろん」
「ではぎっくり腰には利くか?」
「ぎっくり腰? んー、痛みぐらいは和らぐだろうけど、安静にしてるのが一番だろうな」
「そうか」
そう言った声がややがっかりしていた。
「随分具体的だな。誰が胃弱で誰がぎっくり腰だ? まさかお前じゃないだろ?」
「私は健康だ」
「だろうな。お前は若いんだから、そんな年寄り染みた病気はしないだろ」
胃弱の本人である三杉を前に、そうとは知らない華青が遠慮もなく言った。
「それよりも早く仕事を始めよう」
三杉が半ば無理矢理に話題を変えた。
「取るときは根こそぎだぞ。引っ張れば簡単に抜ける」
華青が手本にひとつを抜き取った。
「軽く土を落として袋に入れる。気をつけるのは、ここにある花を一切合切取らないことだ。来年のために種をつける花を残さなくてはならない。適度に間引くように採るんだぞ」
「わかった」
破流姫は匂いを嗅いだその花に手をかけた。根が浅いのだろう。少し引っ張っただけでするりと抜けた。
「取れた」
初めての採取、初めての仕事に、破流姫は嬉しそうな笑みを浮かべて花を掲げて眺めた。
「これを、袋に入れる」
華青は買った麻袋に自分の採ったものを入れ、そして破流姫に渡した。
「それを一杯にすれば仕事は終了だ」
破流姫は麻袋を受け取り、言った。
「何でお前はそんなに知ってるんだ?」
その問いに華青は胸を張って答えた。
「経験者は語る」
「経験者? お前もこの仕事をしたことがあるのか?」
「言ったろ? 俺は何でもやる」
こんな単純で簡単な、誰にでもできそうな仕事すら引き受けるというのか、クラス保持者が?
破流姫がそう疑問を目に浮かべると、華青は正確に読み取って言った。
「昔の話だ。まだ仕事を始めたばかりの頃だな」
自分と同じ初心者の華青を想像するのは少々難しかったが、最高クラス保持者もここから初めたのだと思うと、俄然やる気が出た。簡単過ぎて物足りなく思うが、初心者の自分にはこれが割り当てられた仕事だ。ギルドで初めての、自分の人生の中でも初めてのこの仕事を、まずは終わらせなくてはならない。とは言え、どれが薬草でどんな使い方をするのかもわからなかったのだから、簡単だと言える余裕すらない状態だが。
破流姫は麻袋を片手に薬草を抜いていった。
手伝おうとする三杉を邪険に追い払い、慣れない手仕事をせっせとこなしていく。花など眺めるしかしたことのない破流姫は、生まれて初めて地面に這いつくばって素手で植物を引っこ抜いた。それが意外に楽しくて夢中になって採った。額に汗がしっとりと浮き出る頃、麻袋は一杯になった。
重くなった麻袋を抱えて立ち上がると、達成感で嬉しさが込み上げた。自然と笑みが零れる。
ふと視線を先にやると、見慣れない男二人と目が合った。
一瞬、三杉と華青かと思い、じっと見つめた。
男たちは破流姫に凝視され、緊張を走らせてお互いの顔を見合わせた後、不穏な空気をまとって近づいてきた。両手を左腰に当てている。剣を帯びているようだ。
盗賊だ。
そう思った時に背後から三杉の叫ぶ声が届いた。
「破流様!」
思わず振り返ると、血相を変えた三杉と厳しい顔つきの華青が駆けてくるのが見えた。
「どこの女だ?」
その低い声はすぐ後ろの頭の上で聞こえた。
「街の女か? ちょっと見ない、いい女だ」
一人が腕を掴んで引き寄せようした。破流姫は咄嗟に掴まれた腕を振り払った。
「ふん。気も強そうだ」
ニヤリと笑ったもう一人が手を伸ばしてきた。
寸でのところで飛び退き、破流姫は麻袋を左腕に抱え、右腕の飾りの留め金を外した。大きく腕を振り、飾りから細身の剣を出した。
「な、何だ、それは?」
男たちは目を丸くしている。
「私に気安く触るな」
三杉しか聞いたことのない、恐ろしく低い声音だ。剣を前で構え、戦闘態勢を取ると、男たちも剣を引き抜いた。