第8話
◇
「うわああああっ!」
耳元で叫ばれては、眠りの底に沈んでいた華青もすぐさま目を覚ました。
「……んだよ、うるせーな……」
顔をしかめて抱き枕を離した。
離された途端、三杉は飛び起きた。
「お、お、おま……」
言葉の続かない三杉をそっちのけで、華青は大きく伸びをした。そして爽やかに笑って
「おはよう」
と言った。
「お、お……」
「どうした? 寝ぼけてるのか?」
どうしてもまともな言葉が出ない三杉の頬を、指先でつついてやった。
「や、やめろ!」
三杉は赤くなってその頬を拳で何度もぬぐった。
そしてはっと気づいた。
華青の向こう側、机に仕舞い込まれていた椅子に破流姫が横向きに腰掛け、背もたれに手と顎を乗せてじっとこちらを見ていた。
「うわあああっ!」
「だからうるさいっての」
再び眉根を寄せる華青などまるで眼中になく、三杉は破流姫に必死に言い募った。
「違います! 違うんです! 私は……華青が勝手に……あの、床で寝ていて、あ、いえ、私はここで、華青が私で……いえ、違います、私は違うんです! 私は知りません!」
支離滅裂な三杉の言い訳に、破流姫はまるで人形のように表情を変えずに見つめ、華青は面白そうににやけた。
「やっぱり寝ぼけてるんだろ」
そう言ってまた頬を突こうとしたのか、伸ばされる手を三杉は叩き落とした。
「な、何でお前はここにいるんだ! 床で寝ろって言っただろ!」
怒りなのか恥ずかしさなのか、真っ赤な顔で怒鳴る三杉に、華青はようやく起き上がってため息混じりに言った。
「寒いから毛布をくれって言っただろ? お前がくれないから、俺が毛布のところへ行ったんだ」
「だ、だからって……!」
抱き込んで眠ることはないだろう。人が見たら何と思うか。いや、破流姫が何と思ったか。
「いやぁ、温かかった。さすがに固くて抱き心地は悪かったけどな」
無邪気に笑う華青を、三杉はすかさず殴った。発狂したくなるほどの羞恥と怒りを持って。
まともに頬に拳を受けた華青は、簡単に寝台から転がり落ちた。
「……ってぇ」
床に伸びて制裁を受けた頬を撫でながら、ふともう一人部屋にいることに気がついた。
「あれ? 破流か。おはよう」
華青はにこやかだったが、破流姫はまだ警戒しているのか、身動きもせずにじっと観察していた。
「何でか知らないけど、俺の寝台が消えちゃってさぁ。気が付いたら床に寝てたんだよな」
華青は、よいしょ、と立ち上がり、大きく伸びと欠伸をしてからどかりと寝台に腰掛けた。
「寒かっただけだ。心配するな、破流。何もないから」
破流姫は相変わらず物も言わず、目に警戒と不信の色を浮かべていた。三杉もまた赤面したまま言葉に詰まり、罵倒できない代わりにガツガツと華青を殴りつけた。
「お前たちは仲がいいな」
呆れたような、突き放したような言葉が、破流姫の口から零れた。
「私は朝食に行く」
そう言って破流姫はさっさと部屋を出た。
「あ、あの、破流様!」
呼び止める声は扉に当たって消えた。
「何か元気がないな」
昨日とは違い、やけにおとなしい破流姫に華青は少々違和感を覚えて問うた。
「何かあったのか? それとも朝はあんなもんか?」
「お前……覚えてないのか?」
「何を?」
怪訝な顔の三杉に、似たような表情をした華青が訊き返した。
しこたま飲んで部屋へ戻り、なぜか床で寝ていて寒かった。だから三杉の隣にもぐりこんで寝た。
華青の昨晩の記憶はそれだけだ。そこに破流姫は登場しない。だからなぜ一夜明けて破流姫の様子が変わったのか、皆目見当もつかなかった。
一方三杉は、あれだけの騒動をまるでないものとする華青の態度に、本当は自分が夢でも見ていたのではないかと一瞬混乱した。だが先程の破流姫の様子から、夢ではないことがはっきりと見て取れた。
大事そうにつけている繊細な腕飾りから、隠された細身の刀身を振り出して飛び掛かってきてもおかしくはないのだ。しかし昨晩同様、今朝も妙に静かに引いてしまった。いや、昨晩はなぜか三杉に向かって枕を投げつけてきたのだが。
不気味な静けさを湛えている破流姫の内心が非常に恐ろしくもあったが、それでも昨晩の怯えた様子を考えれば、いまだこうして警戒するほど衝撃は大きかったのだとわかる。大柄な男に抱きつかれて恐怖を味わわないわけがない。その相手を一線引いて見るのは当たり前だ。か弱い女性なら目にするのも嫌がるだろう。様子を見にくるだけ、さすが破流姫と言える。
そもそも華青は力にものを言わせるようなヤツではない。正気であればあんな真似をするわけがない。へべれけに飲んで、そして妹恋しさにタガが外れたのだろう。
破流姫にしては災難だったが、華青に悪意も下心もなかったのだ。
「まぁ、とにかく謝っておけ。破流様は少々機嫌が悪い」
「何で? 何で俺が謝るんだ? 俺が何かしたか?」
「した。したんだよ。とんでもなく無礼なことを」
自分も一役買っていることには気が付かない三杉だった。
◇
「何かした覚えがないのに、お前はなぜ謝るんだ?」
自分に言われたわけでもないのに、その言葉の裏の刺々しさが三杉の胃に突き刺さり、思わず腹に手を当てた。
「いやぁ、何でって言われてもなぁ」
三杉を間に挟んで三人は森へ向かっている。途中、依頼された薬草を取るために大きな麻袋を買い、横並びに歩いていた。
破流姫はまだ警戒している様子で、その言葉には不機嫌を表すいつものような棘が見えているのだが、それは三杉にだけ見えるものらしく、言われている華青には通用していないらしい。
「お前の不機嫌は俺のせいなんだろう?」
三杉には到底口にできないような台詞を、華青は躊躇いもなく吐いた。
「なぜそう思うんだ?」
冷静ではあるが、それゆえに底冷えするほどの不気味さが破流姫を取り巻いている。
「三杉がそう言った」
華青はまるで頓着せずに、遠慮もなく三杉の名を口にする。
まるで責任転嫁されたようで、三杉は心の中で激しく華青を詰った。そして左隣からゆっくりとこちらを見上げる視線を痛いほど感じ、怖いと思いながらも反射的に受け止めてしまった。
心臓が大きく跳ね、胃がキュッと悲鳴を上げた。
「も、申し訳ありません」
そう謝るのも条件反射だ。
「なぜお前が謝るんだ?」
「え……あの……」
理由はないのだ。破流姫に睨まれるとつい謝罪が口をついて出るのだから。
「お前も意味もなく謝るのか?」
「いえ……」
「何に対しての謝罪かわからないのに、そんなものが謝罪として意味を成すのか?」
淡々とした破流姫の言葉は的を得ていて、三杉は何も言えなかった。そして確信した。
完全に怒っている。
いつもとは違う様子ではあるが、これは明らかに怒っている。
だが、三杉にはさっぱり見当がつかない。華青ならともかく、なぜ自分が怒られているのだろう?
「とりあえず謝っておけばいいとでも思っているのか? それで私の気が晴れるとでも?」
「いいえ! いいえ、違います!」
次第に機嫌を損ねていくらしい破流姫に、三杉は焦って言い訳を始めた。
「そんなこと、少しも思ってはいません。私が破流様のお気に召さないことをしたのです」
「それは何だ?」
「え……」
わかるはずがなかった。なぜ自分に対して機嫌を損ねているのか、訊きたいのは三杉の方なのだから。
「あぁ、そうだったな」
幾分声の調子を上げて破流姫が言った。
「お前はいつも口先だけで謝るのだったな」
明るめな破流姫の言葉に、三杉は後ろから思い切り殴られたような衝撃を受けた。
「謝罪はお前の口癖だった。忘れていた」
うっかりしていたとでも言うような軽い台詞に、三杉は新手の恐怖を感じた。
いつものように手や足や暴言で怒りを表すのではなく、正当性で横から後ろからグサグサと突き刺す。
いつこんな技を覚えたのか……。
暴力の方が目に見えるだけまだ良かったかもしれない。静かな言葉の攻めは四方八方から傷をつけ、いつの間にか致命的な一撃を加えられている。
その一撃は三杉の弱々しい胃をさらに痛めつけた。