第17話
◇
下女たちの控室にはすすり泣く声だけが聞こえる。そこにいた数人は皆押し黙って、気まずい雰囲気を作っていた。
「あ、あたし、絶対……うぅ、首をはねられるわ」
数十分前までは足取りも軽く、零れる笑みも抑えきれずにいそいそと部屋を出て行った下女は、一転して覚束ない歩みで、涙を零して戻ってきた……というよりも逃げ出してきたようだ。
原因は言わずもがなだ。
大人しくお茶を飲んでいた破流姫は、それはそれは美しく、そして上品で、下女はうっとりと見惚れたそうだ。
しかし、差し出した衣装を広げた破流姫は、あの鋭い視線で下女を突き刺し、放り投げて一言、
「気に入らない」
とそっぽを向いてしまった。
機嫌を損ねてしまったと愕然とし、慌てて別な衣装を取りに戻った。
淡い桃色の色合いが気に入らなかったのか、胸の部分に施された多彩な色遣いの刺繍が気に入らなかったのか、裾に巡らされたフリルが気に入らなかったのか、具体的には何もわからなかったから、それとは正反対の衣装を探した。
色合いは水色で。刺繍は両腕に絡まるように施された同系色の濃い色使い。胸にはタックを寄せて細いリボンで飾られている。スカート部分はたっぷりと布を使ってふわりと盛り上がったものを。
可愛らしさから爽やかな印象のものを手に戻った彼女を待っていたのは、やっぱり恐ろしい悪魔だった。
「お前は私を着せ替え人形だと思っているのか?」
両腕に掲げて持ってきた衣装を一目見るなり、破流姫の眼つきは険悪度を増した。
そんな目でひと睨みされ、竦み上がった。
「それとも、馬鹿な子供だとでも見下しているのか?」
到底目の前の美しい姫から発せられるとは思えない不機嫌そのものの低い声は、下女を恐怖の底に叩き落とした。
下女は真っ青になり、カタカタと震えた。
美しい衣装を前に、なぜ、何がそんなに気に障ったのか、彼女はまったくわからないまま叫ぶように訴えた。
「滅相もございません! そのようなことは決して……!」
「だが、それはお前が選んだものだろう?」
視線だけで指し示された、微かに震える腕の中の衣装をまじまじと見た。
こんなに素敵なのに。
しかし破流姫はお気に召さないのだ。それどころか、選んだ自分に悪意でもあったかのような疑いまでかける。
「それを着てとっとと出て行けと言うことか?」
「いいえ! いいえ、そんな!」
とんでもない誤解に、彼女は叫んだ。
破流姫に一目会いたくて無理矢理変わってもらった仕事なのだ。それが間違いの元だとひどい後悔が脳裏をかすめたが、敢えて無視して目の前の美しい姫をしっかりと見据えた。そうでもしないと泣いてしまいそうだった。
下女は深呼吸をひとつして、無理矢理気持ちを落ち着けた。
「申し訳ございません。すぐに別なものをお持ちします」
どうにか感情を抑え込んで言ったのに、破流姫は容赦なくそれを揺さ振った。
「二度あることは三度あるというからな。次でお前の真意がわかるわけだ」
下女は深く頭を下げ、わななく口元を何とか動かし、
「失礼します」
と震える声で言った。
静かに部屋を出、廊下に向き直った途端、ポロリと涙が零れた。泣いてはいけない、と歯を食いしばったが、それでも涙が溢れてくる。
必死に我慢してただひたすらに前を睨みつけ、そうしてたどり着いたのは衣裳部屋ではなく、下女たちの控室だった。
中にいる数人の顔を見た途端、堰を切ったように涙が流れた。
「ど、どうしたの!?」
近くにいたひとりが慌てて駆け寄り、肩を抱いた。
そして冒頭の台詞となるのである。
いち早くその恐怖と絶望感を体験していたひとりだけは、さもありなん、と驚きもしなかった。
彼女はゆっくりと立ち上がり、同情の眼差しを向けて言った。
「その素敵な衣装がお気に召さなかったのでしょう?」
泣いている下女は顔を上げ、しゃくり上げながら大きく頷いた。
「どうして? とっても素敵じゃない。破流姫様ならきっとよくお似合いになるわよ」
傍らの下女がそう言って慰めるが、涙に濡れた彼女はその潤んだ目を向けて首を横に振った。
「でも……でも、破流姫様は……お気に、召さないって。それで……あたしが、わざと……そうしてるんじゃ、ないかって……」
大きく息を継ぎながら、しゃくり上げるのを堪えて何とか口にしたその台詞は、その場にいた全員を固まらせた。いや、ひとりだけは納得顔だった。
「そうね。あなたが選んだものね」
「だって! だって、どれも素敵に見えたわ! 最初に選んだのだって素敵だったのよ! お気に召さないなんて思わなかったわ!」
暗に責められていると思い、彼女は激高して叫んだ。そして声を上げて泣いた。 その泣き声にみんな何と声をかけていいものかわからず、相変わらず誰も何も口にしない。内心では気の毒そうに思いながらも、自分ではなくてよかった、とほっとしてもいた。
捧げ持っている衣装が何着目かわからないが、二度も三度も気に入らないものを出されては、何か含みがあるのだろうと勘繰られても仕方がない。しかしどう見ても素晴らしく綺麗で上品な衣装だ。これが気に入らないのなら、もう何を選んだらいいのかわからなくなるのも当然である。
難しい。
着替えひとつで恐怖を味わうなど、一生に一度あるかないかの難しい仕事だ。
隣りで慰めていた下女は、とりあえず優しく背中を撫でた。
「あなたのせいじゃないわ」
泣いている彼女の恐怖を唯一理解できる下女が、言いながらそっと肩に手を置いた。
「破流姫様を理解するなんて私達にはまだまだ無理なのよ。あの方は……何ていうか、ちょっと……風変わりなところがあるんだわ。だから私たちが至らないように見えるのよ。きっとそうよ。だって私たち、きちんとお世話しようって思ってるじゃない。破流姫様に何か悪いことを考えてるなんて、絶対ありえないじゃない。だから、ね、あなたのせいなんかじゃないのよ」
そう諭されるように慰められると、嬉しさも相まって涙が滝のように流れた。
「さ、早く戻りましょう。破流姫様をお待たせすれば余計にご機嫌を損ねてしまうわ」
泣いていた下女はその言葉にはっと顔を上げた。瞬間に涙は止まり、顔色も幾分悪い。
「私も一緒に行くわ。早く衣装を選び直しましょう」
本当は怖くて仕方がなかった。だが破流姫の悪魔的な恐怖を知っていればこそ、泣いている同僚の力になれるのは自分を置いて他にはいない。それが自尊心をいたく刺激し、自分自身を誇りに思った。
◇
明るい夕焼け色の生地が、やや細身に流れて行く。それは色を楽しむように作られたのか、装飾は立てた襟元のレースだけだ。破流姫の闇夜のような黒髪が映えて美しさを存分に引き立てるだろうと思われた。が、やはり鼻であしらわれた。
「三度目だな」
遠回しな死刑宣告に、目を赤く腫らした下女はビクリと震えた。
「申し訳ございません、破流姫様」
すかさず間に入って声を上げた下女は、破流姫の相変わらずの美しさと、それに比例する恐ろしさを噛み締め、思わず身震いした。
「お気に召しては頂けないでしょうけれど、これが一番お似合いになると思いました」
どうしてまたこの恐怖を味わっているのだろう、と瞬間に頭を掠めた。死の恐怖は隣で青ざめる同僚よりも知っているだろう。なのに自分から進んで美しい悪魔と対峙している。
理解できないものを理解したつもりになって、得意げに力になるなどと言った馬鹿な自分を罵ってやりたい気分になってきた。
破流姫の冷たい視線をまともに受け、あの時の恐怖がまざまざと甦ってきた。
「お前、いたのか」
標的が同僚から自分に移った瞬間だった。
「は、はい。ご挨拶が遅れまして申し訳ございません」
引きつる口の端を何とか上げて、笑顔を作った。
「自分の無能さに愛想を尽かせて辞めたのかと思った」
顔に似合わない辛辣な言葉が、淀みもなくスラスラと口から溢れ出てくる。それは後悔を始めている下女の胸を突き、抉った。
「お前に限らず、ここの者は皆無能のようだがな」
二人の下女は思わず俯いた。その耳に微かにすすり泣く声が聞こえた。
お茶を持って行くと言って、喜び勇んで控室を出て行ったもう一人の下女だ。同僚が衣装を選んでいるあいだ、給仕をする係としてひとりで破流姫の対応をし、当然の如く泣かされたに違いない。
ひとりで間を持たせた――と言うより悪魔の恐怖に耐えたのだ。さぞや恐ろしかったことだろう。
同情はするが、代わってやろうとはもはや思わなかった。
「もういい」
お茶を飲み干し、傍らのテーブルにカップを置いてから、破流姫はゆらりと立ち上がった。
三人の下女たちは同時に緊張を走らせ、破流姫の次の行動を警戒した。
「お前たちに付き合っている暇はないんだ。それでいいから着替える」
目の前が晴れたような錯覚を、下女たちは起こした。
「は、はい! ただ今!」
元気よく返事をしたのは控室で泣きじゃくっていた下女だ。気が変わってまた理不尽な要求を突きつけられては堪らない、という思いがありありと見て取れた。
それは他の二人も同様で、すぐさま手伝いに駆け寄った。
早く終わらせて、早く解放されたい。
それが三人の切実な願いだ。
だから細心の注意を払って着替えを手伝った。




