第1話
帰路へついてかれこれ数時間は経っているが、二人はまだ街を出ていなかった。
「なぁ、これどうだ、三杉?」
そう振り返って掲げて見せたものは、綺麗な洋服でも美しい装飾品でもなく、どこの家庭にもある大振りな鍋だった。
三杉は隣の店でお茶の葉の代金を支払いながら、それを見て固まった。
「それともこっちの深い方がたくさん入るか? それから、こっちの鍋も欲しいよな?」
どこかウキウキとしながら楽しげに鍋を選ぶのは、隣国の王位継承者である破流姫――三杉の仕える主君だ。
とある事情でこの国へやってきたが、三杉一人を従えるのみで何の旅装もない。そこで馬と旅費を手に入れ、これから自国へ帰る旅の準備をするために、城下町の市場へやってきていた。
他国の市場が物珍しく、時々足を止めてはいらないものを持って行こうと提案する破流姫を、三杉は再三断り続けていた。
「姫様……」
「姫と呼ぶな。バレるだろう?」
「あ……破流様。その鍋をどうするおつもりですか?」
「決まってるだろう? 野宿に煮炊きはつきものだ」
当たり前のように言う破流姫に、三杉はがっくりと肩を落とした。引いている二頭の馬のうち、荷物を括り付けた三杉の馬が慰めるように肩に鼻先を寄せた。
一国の姫がなぜ嬉しそうに野宿をしたがるのか。破流姫であればわからなくもないが、従者としてはそんな危険で無防備な発想を諌めなくてはならない。
「ですから、姫……破流様。野宿はいたしません」
「どうしてだ? 旅はすなわち野宿だろう?」
どこでそんな偏見を植え付けられたのか。思い返してみなくとも、それは過去の自分だとすぐにわかった。
三杉は見かけによらず、腕の立つ剣士だった。あちらこちらを流れ歩いて生活をしていた。その日暮らしの旅の剣士に潤沢な財産などなく、もちろん、野宿など当たり前だった。ある時、賞金欲しさに剣術大会へ出て、風変わりな――その時は思いもよらなかったが――破流姫に見初められた。愛らしい破流姫のそばで仕えるならと、二つ返事で城へ上がった。強請られるままに旅の話をすると、破流姫の目はキラキラと輝いて美しかった。それがどうやら悪い方向へと進んだらしい。姫とは名ばかりの、豪胆な性格を助長してしまったようだ。
「旅に出れば野宿をするとは限りません。懐が温かいうちは宿に泊まりますし、酒場や食堂で食事もします。野宿は最後の手段です」
破流姫はつまらなさそうに目を細めた。
「酒場も行ってみたいが、野宿もしてみたい」
王女として旅をすれば野宿はありえない。豪奢な宿を一軒貸し切るくらいのことはするし、他国の王城や領主の屋敷に招待されるのが普通だ。
大体、野宿をしたいとは思わないものだ。
一体どこの王女が鍋を持参で旅をしたがるのか。
「してみたい」
幾分脅迫気味な声音で破流姫が唸ると、三杉は早々に観念して折れた。
これまでの経験上、どのみち三杉に勝ち目はないとわかっていた。
「わかりました。ではそのように準備をします。ですが、その鍋はいりません。荷物を最小限に抑えるのが旅の絶対条件です」
「そうか。では、食糧はどうするのだ?」
「すぐに食べられるものを持って行きます。火を使うのはせいぜいお茶くらいです」
そう言って三杉は、買ったばかりのお茶の包みを見せた。
「なるほど。それならやかんがいるな」
そして破流姫はまた金物屋を物色し始めた。
城に勤めて早二年。まさかまた旅支度をするとは思ってもみなかった。しかも野宿限定で。
持ち金はたっぷりとあるのに、なぜ外で寝なくてはならないのだろう……。
不条理を感じて馬と共に悲しさに浸っている三杉に、親しく声をかける男があった。
「三杉! 三杉じゃないか! 久し振りだなぁ!」
目の前にむさ苦しい大柄な男がいた。赤茶けた伸び放題の髪を後ろで束ね、無精ひげを生やし、埃っぽいいで立ち、肩に古びた布袋をかけている。そして腰には大振りの剣。
「華青?」
「そう! オレ、オレ! お前、元気にしてたのか?」
かつて三杉が世界を流れて歩いていた頃、何度か一緒に仕事をした華青という男だった。
豪快で陽気で楽しい男だった。三杉よりいくらか年が上だが子供っぽいところもあって、面倒見のいい三杉とはウマが合った。
「うわぁ、懐かしいな。そのむさ苦しい感じは相変わらずだな」
「久しぶりに会ってそれか? 仕方ないだろ、今、この街に着いたんだ」
「仕事か?」
「まぁ、そんなとこだ。これからギルドへ行くところだ」
ギルドは各種の仕事斡旋所である。子守、留守番から隊商の護衛、野盗退治まで様々な職種がある。大きな街に必ず一件はあり、剣一本で流れて歩く華青のような男にはありがたい周旋所である。
かつて三杉もお世話になったその懐かしい響きに、どことなく郷愁を誘われた。
「お前は何してんだ?」
「あ、買い物を……」
言葉を濁してちらりと破流姫の方を窺い見ると、やかんを二つ抱えてじっとこちらを観察している目にぶつかった。何やら不吉な予感が背筋をひと撫でし、思わずびくりと体を震わせた。
華青は三杉の視線の先を辿り、破流姫にぶち当たると目を瞠った。
「おっと、これは稀に見る別嬪さんだな。三杉の連れか?」
「えっ、あ、ま、まぁ……」
連れられているのは三杉の方だったが、不用意に身分を明かすわけにもいかず、破流姫の反応を窺いながら肯定しておいた。
「やるな、三杉。風の噂で、どこぞのお姫さんに一目惚れして城にもぐりこんで、警備かなんかやってるって聞いたけど、あれ、出まかせか?」
三杉は一瞬で真っ赤になり慌てて華青に飛びついた。
「な、な、何言ってんだ? 誰だ、そんな噂流したのは?」
「さぁ、誰かは知らないけど、みんな知ってるぜ。いい就職先みつけたなって。城勤めもいいけど、そのお姫さんに見初められたら王様になるかもなって。ある意味英雄伝だよな」
そう言って能天気に笑う華青の襟首を掴み、三杉は激しく揺さ振った。
「ち、違う! そんなんじゃない! 嘘だ! 出まかせだ!」
傍らでじっと様子を窺っている破流姫を、三杉はあまりの恥ずかしさに見ることができなかった。
華青の言うことは嘘でも出まかせでもなかったが、本人の前でそうと認めることなどできなかった。恥ずかしさで死んでしまいたいくらいだ。
「そうみたいだな。確かこの国にお姫さんはいないはずだからな。でもまぁ、こんな別嬪さん連れてるくらいだから、あながち嘘ばかりとは限らないんじゃないか?」
嘘など何一つない。だから何の言い訳も出てこない。
「お嬢さんは三杉の恋人か? それとも嫁か?」
真っ赤な顔で何か言いたげに口元を戦慄かせる三杉を押し退け、華青は破流姫に問い掛けた。
「私か? 私は……」
破流姫は取り乱す三杉を見ながら一瞬考え、そして何かを思いついたらしく、ニヤリと笑った。
三杉の頭の中の警鐘がガンガンと鳴った。
「私は三杉の弟子だ。剣術を習っている」
思い切り殴られ、蹴られたような衝撃を、小さな心臓に受けた。
「ほぉ。女だてらに剣術とは恐れ入った。しかも三杉に師事するとはな。お嬢さん、見る目があるな」
何も知らない華青は純粋に驚き、感心している。
「ち、違う。違うんだ」
三杉は華青の視界を遮るように、体ごと割って入った。
「この方は身分のある方で、私は護衛として仕えているんだ。剣術とか弟子とか、そう言うんじゃ――」
「私はこれから剣術を磨く旅に出るんだ」
三杉を無視し、破流姫は脇から華青を覗き込んで言った。
「ひ……は、破流様!」
「そのための準備をしているのだろう? さぁ、どっちがいい?」
抱えた二つのやかんを三杉の目の前に差し出した。
「え、と……こっちの方が……ではなくて、旅は旅ですが、剣術とは関係ありません」
破流姫はさらに三杉を無視し、金物屋の店主に三杉の指し示したやかんの値段を聞いた。
「破流様!」
「いやいや、どっちでもいいけどさ、旅ってどこへ行くんだ?」
華青は強引に三杉を振り返らせて訊ねた。
「隣のエトワだ」
「何だ、三日で着くじゃないか」
「三日でも問題だ。やかんなんか持って旅をさせる方じゃないんだ。車にお乗せして、きちんと護衛をつけて、お世話をする侍女を連れて行くべきなんだ。それを……」
三杉は困ったような泣きたいような顔つきで破流姫を見遣った。
そんな心配もよそに、破流姫はおまけに付けてくれるというカップを選んでいた。
「ふーん。本当にいいところのお嬢さんなんだな」
確かに滅多に見ない品のある美人だ、と華青は品定めをした。
流れる黒髪は艶やかで、動くたびにさらさらと音がしそうに揺れている。来ているものは質素だが、飾り気がなくても十分に美しい。スッと伸びた背が、彼女の自信と強さを滲ませている。そして大きな黒い目はやや鋭く、だが人を引き込むような深さを感じる。人に傅かれてきた身分であることがその真っ直ぐな眼差しからもわかる。そして愛くるしい赤い唇。微笑んだ形を取れば、誰もが魅了されるだろう。
そりゃあ、この親父もおまけしたくなるってもんだ。
にこやかに相手をする金物屋の店主に目を移して、華青はそう思った。