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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ぼんやり青年と底のない少女

作者: 五井時々

 ざ――――――――――、と雨が降っている。


 大粒の水滴は長く筋を引いて地面に落ち、既に大きな水たまりを張っている地面に水の波紋を形作った。

視界が雨で遮られるほどの水量は、途切れることを知らないように、雨脚が弱まることはなく、ただ道に流れる水だけが増えていく。あたりは人気がなく、叩きつける雨音とむっとするような雨と緑の匂いだけが、辺りに満ち、ひびいている。

 そんな雨の中、もはや一つの流れを持つ川のようになった道の向こうから、雨の騒音を切り裂くように、一際大きい、ばしゃばしゃという音がした。


 うるさい。

 うるさいよ……!

 雨に濡れた、焦げたような茶色の髪は顔にぴったりと張り付き、気持ちが悪い。叩きつける雨は額から鼻筋に流れ落ち顎を伝い首を伝っていく。それが酷く鬱陶しかった。足首に巻きついた重たい鎖を引きずりながらも少女は懸命に足を動かし、走る。

 しかし少女はバランスを崩すとばしゃん、と大きく音を立てて少女は地面に音を立てて激突した。

 

 全身に大きな衝撃が伝わるが、衝撃が大きくて何も考えられない。

 泥水を吸い込んだ服は重く、ざらざらとしていて肌にまとわりつく。

 全身が不快でどうにかなりそうだった。既にかれた喉で絶叫したくなる。

 雨は嫌いだ。

 自身の荒い呼吸も、今は土砂降りの雨の音にかき消されて聞こえない。

 叩きつける雨が痛い。そうしてゆっくりと痛みが全身にまわっていく。体温はとっくに冷えていて、痛みを感じる部分だけが燃える様に熱かった。

 ―――――――――――青空、が。

 青空が見たいよ。

 唐突にそう思った。

 もう久しく見ていない、あの、突き抜けた青い空が見たい。


 そうして青空を視界に納めてしまったら、地面に倒れて二度と覚めない夢を見て眠りたい。 


「……だ………か……?」


 少女が世界に別れを告げて目を閉じようとしたとき、誰かの声が聞こえた。 














 ◆3 month later.◆

 


 壁。

 壁の音を聞きなさい。

 耳元で、穏やかな、低い声の呟きともとれる囁きを聞く。


 はい。

 

 私は答える。

 あたたかさも聞くんだよ。人の温度を感じ取るんだ。感覚を針のようにとがらせて、壁越しに、温度と、その流れを聞くんだよ。

 

 はい。


 呟く。


 はい。マスター。


 ああ、あとね人の声が聞こえるだろうけど、そちらは契約と条件と人数によって臨機応変に対処するんだ。いいかい?

 はい。

 はい。ご主人様。

 壁に耳を当てて、声にならない声でそう応えた。

 もうご主人様ではないあの人にそう、応えた。目を開ける。

 鈍色の刃が光を受けて輝いた。



 ザ────────────────という雨の音で目が覚めた。


 びくりと肩を震わせて、ソラは壁にもたれていた頭を動かして、のろのろと窓をのぞいた。

 一刻ほどの時間、自分がどこにいるのかわからなかった。

 木造の部屋の、椅子の上で意識が飛んだらしい。昔の癖で手が勝手に自分のポケットをまさぐっている。そんな自分自身に呆れて、ソラは軽く伸びをした。


 顔の角度を変えて視界に入ってきたのは窓だった。


 さっきまであれほど天気はよかったのに、今の空は黒い雲に覆われ、大量の水滴が地面を濡らしている。天から降り注ぐ水の塊は、人の目に見えるほどしっかりとした線を引いて地に落ちて、地面を水で覆っていく。大粒の雨がガラス窓を叩く。酷い大雨だ。

「……あめ、か……」

 ポツリと言った言葉と同時に顎から汗がしたたり落ちる。それは服に落ちて、しみを作った。ゆっくりと手で頬をなぞると、汗ではない液体でべったりと濡れていた。

「やな、ユメ、みたな……」

 濡れた水滴は汗ではなく涙だったらしい。我ながら感傷的だと思って口元を歪める。暗くて、狭い部屋は駄目だ。あの人の幻聴ばかりを聞く。まぎれるのは雨の音。

 雨の音を聞くと思いだしてしまう。


 大粒の雨。

 口の中の泥の味。

 そして突き抜けるような青空をもとめた刹那のような、数年間。


「そういえば、あいつにあったときも雨だった……」

 ソラは扉に目線をやった。会いに行こう、そう思った。



 コンコンと音がして、スピカ・リデルは顔をあげた。

 黒の髪に曇った空の光が鈍く差し込み、さらりと流れて光る。黒の瞳の片方が扉をうつした。

「誰だ?………ソラか?」

 ソラは扉越しの低い声に反射的に頷いて、ドアを開けた。開けて、スピカが見ている前でもう一度頷く。

「ソラです。明日はどうするか聞きにきたよ。この雨だから」

 スピカは窓に視線をやって、ソラに視線を戻した。

「雨だな」


 ソラは頭をかしげた。

「今気づいたの」

 ソラは目を動かす。そういえば暗い。真っ暗とはいかないまでも、昼なのに雨のせいで酷く暗い。慣れているので気づかなかった。ただ、雨の音だけはしっかりしているから、ただ単にスピカが物思いにふけって気づかなかった可能性が高い。スピカは集中すると周りが見えなくなる人だから。

 そんなことを考えてスピカに聞く。

「スピカ。暗いよ。明かりはつけないの?」

 そこでスピカは一つ頷いた。

「気づかなかった。悪い」彼はそう言って立ち上がる。テーブルに置かれたカンテラに近づいて、火をともした。

 

 暖かな光が木造の空間を満たし、二人の姿を浮かび上がらせた。

 一人は少女。青年にソラと呼ばれた、薄暗い茶色に灰色の目を持つ、齢十六歳を満たすか満たさない少女。顔立ち、体立ちは共に幼く、いかにも少女のような娘の容姿をしている。

 対峙する男はまるで吸血鬼のような男だった。黒いロングコートに黒いブーツ。漆黒の髪は左右の横髪が肩につくかつかないか。後ろは刈りあげたように短い。顔立ちは秀麗の一言で、腕に覚えがあるような立ち姿。しかし、左目を髪で隠している点が全身を黒で固めた男を不気味に映し、吸血鬼のように見せている。

 

 男の名をスピカ・リデル。

 

 一ヶ月前までとある軍に所属していたらしい、二十歳前後の若者である。

「で、なんの話だった──。───……おい」

 スピカが明かりをともしてソラを振り返った途端固まった。

「……?」


 固まったスピカに、ソラは自身の姿にどこにもおかしいところはないよな、とさりげなく片手を頭に添える。ソラの髪は腰よりちょっと、いやかなり長いので、もしかしたら髪がぐちゃぐちゃなのかとも思ったが、そうでもないらしい。なんだろ、と思って自然と人差し指で頬をかいて。そこでやっと泣いた顔のままふらふらと来たのを思い当たる。

 ソラの顔は火の光に当てられて涙のあとがくっきりと表れていた。ちろちろとあたるカンテラの光に反射して頬の水滴がてかてかと光る。

「ああ。スピカ。気にしなくていいよ」

 ソラは顔の前でぞんざいにぶんぶんと手を振った。事実、忘れていた。

 大変にどうでも良かったので。

「いやいやいや気にするだろ! な、何があったんだ? どうしたんだ?!」

「特に何もないよ」ただ単に昔の夢を見ていただけだ。雨が降ったせいで、思い出しただけ。

 悲しいユメでもない。とてもよく見るユメの一部。


 だから雨は嫌いだ。


「なかったらそんな泣いてないだろ!」

 スピカがそう言うと、ソラは困った顔をしてへらっと笑った。

「えっと、気になるなら拭いてくるよ。雨が酷いから、明日どうしようかって話がしたかったんだけど」

 スピカは吸血鬼のような外見から反していい人間である。凄くいい人である。

 でなければ、行き倒れていた子どもを拾って一緒にいたりしてくれない。唱館や、奴隷市場に売ったりする気配も全くない。

 軍の気質が肌に合わないらしく、やめたそうだが、根が真面目ないい人である。


 そういうとスピカはうなだれた。コートの中からハンカチをとりだし、それをソラに差し出した。

「出来ればお願いする。……なんで泣いてたんだ?」

 スピカはソラの泣き顔が気になるのか、ちらちらとソラの顔に目線を走らせて、耐えきれないのか罪悪感からか、見ないように目をそらす。

「ユメをみてただけだから……。よくわかんない。ごめん。覚えてないよ。でも悲しくはなかったから」

 半分は嘘で、半分は本当。事実、ソラには“悲しい”という感情が形をとるほど明確な形をしていない。

 そこまで言ってようやくスピカは安心したのか、ほっと息をついた。

「そうか……ああ、ソラ、考え込まなくていい。忘れてくれ」

「はい、そうします。それより話を戻そう?」

 ソラはにっこり笑顔を作った。考えなくたって答えは既にそこに存在しているのだからそんなことは考えていない。

「ああ。すまない。そうだな。茶でも入れて話そうか」

 スピカはソラに微かに微笑み返した。ソラも笑って頷いた。



 湿度の高い、微かに木の香りが混じる部屋に紅茶の香りが立ちのぼる。ソラとスピカはお互いに向かい合ってテーブルについていた。

「今はここだ」

 トン、とテーブルの上に置かれた地図の上にスピカが指を置く。ソラは地図を覗き込みながら、考え考え言葉を紡ぐ。

「えっと、……ちょうどギョウ共国とトレイン公国の国境だね」

 スピカが頷く。

 ギョウ共国。正式な名称は長くて覚えていない。そしてもう一つはトレイン13世、14世だったかが治めるトレイン公国である。

「ねぇ、スピカ。あなたはどうやって軍を抜けたの?」

「…………ん? どうしたんだいきなり」

「だって、トレイン公国って、戦争色が強いから、軍の編成で忙しいって聞いてる。だから、どうやってそこから抜けたのかなって……」

「いや……俺がいた軍部はトレイン公国じゃないんだ」

 ソラは思わずスピカの顔を見た。

 間抜けにも口を開けて、スピカを眺める。スピカは今まで黙っていたことが後ろめたいのか、さっと顔を逸らした。

「へ……? でも、私がスピカに拾って貰ったのって、トレインだよ? じゃあなんで他国にいるの?」

「んー。俺は軍にいたとき大怪我をして、そのまま使い物になりそうにないということで、退職っていうのか? してきた」

 いや、退役? と首を傾げながら難しい顔で考え込み始めたスピカに、ソラは思ったことをそのまま伝える。

「でもスピカ、元気だよね」

「退職した時点ではボロボロだったぞ。まあ、そんなに深くなかったのかすぐよくなったが」

 ごにょごにょとスピカは言った。ソラはううん、と困った顔をして笑った。よくわからなかったように。どうも変な人だな、と思った。

 しかしそこから深く追及はせずに、笑って流す。そもそも、トレインでソラが拾われたためにソラはスピカをトレインの人間だと思っていただけなのだ。

 どうしてかそこで目を逸らすスピカを、素敵な人だと思う。

 恋をしてしまいそうだ。


 それからいくつかの打ち合わせをして、たわいのない話をしていたときだった。

 ふ、とソラが雨の降りしきる窓を見た。

 見つめたまま、穏やかにスピカに声をかける。雨の音と、ワントーン高いソラの声が部屋に満ちた。

「それにしてもよく降るねー。大雨だ」

「……どうしたんだ急に」

 スピカが顔をあげると、ソラもう一度窓の外の空、遠くの方に目をやって、笑った。笑うのが下手な少女だな、とスピカはよく思う。今回も下手くそだ。

 

 不思議な少女だ。


 よくスピカは不思議な少女だと思うが、彼女自身が詮索して欲しそうでもないので、スピカはソラの素性を詳しく聞いたことがない。行き倒れていた彼女をたまたま拾っただけなので、離れたいと思ったら離れていくだろうし、頼りになるものがいないならそばに居るだろう。

 話したければその内話してくれるだろうなという印象である。基本、スピカは考えなくてもいいことは考えない性格だ。

 時々空を彷徨うようにソラが手を動かすことがあるが、手癖が悪そうにも見えないし、荷物を全部持っていかれるようなことも心配していない。

「スピカが私を拾ってくれた時と似てるなーって。この悪天候が」

「ああ。なるほど。そういえばそうだな────。……」スピカも同じように窓の外に目をやって─────動きを止めた。

 そのまま立ち上がると、壁に沿って窓をうかがう。ソラはぼんやりとそれを眺めて、首を傾げて眉をひそめた。やや不審そうに。

「何やってるんですか?」ソラも窓の方へ寄ろうとして、

「来るな」

 スピカの鋭い声に止められた。

「……? え、何かあるの?」

 

 スピカはその問いには答えずに、口に指を当てて部屋の片隅に掛けてあった剣を指し、ソラを手招きした。ソラは顔の表面に疑問符を並べつつも、剣を重そうに抱えてとことことスピカに近づく。

「壁づたいに来い。ゆっくりな」

「う、はい。スピカ」

 ソラは素直に頷く。

「いい子だ」

 スピカは近づいてきたソラから剣を受け取ると、窓から外が見える位置までソラを引き寄せて指さした。少しだけソラの体が緊張で硬くなる。

 ソラのか細い声が少しの沈黙のあと静寂を破った。


「……人、だよ?」


 ここから見えているのは、鉛色の防水フードで頭からつま先までをすっぽり被った人間が宿の前にいる光景だけだ。ここから見えるのは5人ほど。

「よくない輩だ」

「……え」

「この宿を狙っているらしいな。賊の類のようだ」

「こ、こんな天気の時に?!」

 外は雨と風で荒れ狂っている。

「こんな雨の日だ。人が来ないだろう。それに雨の方が声が聞こえない上に漏れない。やりやすいんじゃないか」

「この宿を狙って………?」

「おそらく」

「や、宿の人たちに知らせなきゃ……!」

「いいや」

 走ろうとしたソラの細い腕を掴んで止める。何か言いたげなソラにスピカは首を振った。

「もう遅い。ソラは部屋に戻っていろ。おそらく賊は宿の客を装ってくるだろう。表からと裏からと。宿の主人だけなら命までは取らないはずだ。もしこの二階まで来たら、二階は廊下一本だけだ。廊下で全て仕留める」


 一瞬、宿の親父の顔が思い浮かんで、すぐに消えた。今日知り合ったばかりの親父がどうなろうとスピカ自身にはあまり関係ない。宿の食事もあんまり美味しくなかったし。旅人がこの宿にいるかどうかなんて知らないが、自分でどうにかするだろう。


 スピカは宿の人間を助けることを放棄した。


 そんなことを考えているスピカに、ソラは顔を青くして言いつのった。

「そ、そんな。スピカ。危ないよ」

 ソラの顔は乱れた髪でよくわからない。震えた声と妙に光る目だけがスピカに届く。

「危ないことはよくあることだ」

 ありすぎて最近どうでも良くなって来た程だ。

 ないよ、と力なくソラは言ってスピカを見上げた。スピカの目は片方だけしか見えずに、それがよけいに感情を分かりにくくさせている。真っ黒い夜空みたいだ、とソラは思った。何もわからない。薄暗い木造の部屋に再び短い沈黙が落ちる。

「いけ」

「………。気をつけてね」

「ああ。……そういえば、ソラ。お前、腕が細すぎるぞ」

「そんなこと、今関係ないよ……」

 スピカは口元をつり上げた。



 どうしような、とソラは思った。

 どうしよう。

 どうしようと思いつつも手は迷いなく服を脱ぎにかかる。白い肌が湿度を大幅に含んだ外気に触れる。

 侵入者は三カ所から来る。表に三人、裏に二人、そして別口で、一人。

 別口で一人。

 たぶん。スピカの軍の人間の、人。

 どこの国でも軍の人間は匂いでわかる。仕事の何人かがそうだったから。もっと上の人だったけど。


 どうしようかな、もう一度ソラは思った。


 機械のように同じ言葉を思った。

 どうしようかな。どうしようかな。

 ぼろ服に袖を通し、髪を結ってまとめ、頭に布を巻き付けた。そして元々拾われる前から持っていた、人の腕ほどの長さのケースを取り出す。

 大理石のような石で出来た黒のケースで、取っ手も留め金も何もない。ちらりと見ただけではただの石の塊に見えるそのケースに、左右から五本の指をあて、等しく均等に力をかける。そしてぐ、と指が食い込んだところで、垂直に上下をずらす。

 黒いケースが開いた。

「………」

 そこには鈍い色の銀色に輝く凶器がびっしりと入っていた。サイズは別々に分けられており、同じ大きさのものが十本以上入っている。

 大小別々のナイフを取り出す。

 一本は場所をとらないように工夫された大ぶりのナイフ。

 もう一本は投擲用のナイフ。

 黒のケースを同じ方法で閉じる

 ソラは嗤った。

 どうしてこっちに来てしまうんだろう。自分自身を嘲笑う。

 ソラは雨降りしきる窓の扉を開けた。水滴が全身に叩きつけられる。

 下を見る。

「やぁ」

 ソラは笑った。心からの笑顔だった。



 ヒュッと刃が脇をかすめた。

「危ないな」

 スピカが呟く。冷や汗ものだが、そのまま腰を捻って空いた胴に足を叩き込んで昏倒させた。

 下の階で宿の親父が呻いている。死ななかったらしい。残念。死んだらソラの目にさらす前に処理して代わりにソラに料理つくって貰えたのに。

 スピカは美味しいものに目がない。特に甘いものは大好きだ。軍を辞めたのは甘いものが滅多に食べられなかったのもある。

 あれは地獄だった。

 憂鬱になり、スピカは少し息を吐いて二人目を見る。途端視界の端に光るものを見つけた気がして慌てて頭を下げた。頭の上をナイフがとおっていく。かんっと小気味いい音がして壁を貫通した。

「あっぶな……!」

 スピカは反射的に剣の鞘を抜いて飛んできたであろう方向に鞘を投げつけた。ゴスっといい音と共に倒れた音が耳に届く。適当でも投げるものだ。

「ああもう、危ない……!」

 自分の戦いに危なっかしさを覚えながらも、カトラスで襲いかかってきた男にスピカは剣を向けた。



 瞬く間に時間がたち、賊の全員を倒したところでスピカは緊張を解いた。

 はあ、とため息をつく。

 廊下は長いが、一本でよかった。狭いから何とか囲まれもせずに全員何とかなった。囲まれていたら死んでいたかもしれない。剣術は得意じゃない、というか戦いなんて嫌いだ、とそんなことを考えながら、あとは縛り上げるだけかな、そう思って呻く賊を蹴倒した。それと同時に微かにガタン、という音が耳に届く。

「…………ッスピ、カ!」

 つづいてソラの声も。

「ソラっ!?」

 奇妙な気持ち悪さが体を駆け抜け、走る。微かにドアが開いていた。

 何時の間に。

 もう一人いたのか、と思ってドアを開ける前に剣を敵も見ずに投げ入れた。勿論、ソラの身長よりも高い位置で、だ。

 ギャアン! という音のあと、からあん、という音で、剣が落ちたのがわかった。

 扉を開ける。

 

 雨がスピカの頬を叩いた。


 そこにいたのは、スピカのいた、軍の暗部といわれる特殊部隊だった。彼の国で年に一度催される《食肉祭》のような派手な仮面を付け、カラスのような黒の装束を着ている。

 血の付いた短剣に、倒れている、同じ宿に泊まっていた別の旅人。

 そして抱えられている、


 童女のような少女。


「…………な」

「いた…」

 ソラが呻く。その手は血でまみれていた。戦ったのか。死んでいる旅人の血をあびたのか。髪は雨でびっしょりと濡れていた。

「戻れ、というのが軍の命令だ」

 低い声で仮面の男は喋った。

「忠告はした」

 ソラをゴミのように放り投げる。思わずスピカは抱き留めた。

 顔をあげると、仮面の男はいなかった。

「ソラ、怪我は?!」

 ソラはゆるゆると首を振った。所々だが、血が付いていた。本当にないのか、といおうとして、か細い声が疑問に応える。「あの人の………」

 暗い目だった。

「すまない」

 人が死ぬよりも、何よりも、幼い少女にそんな目をさせたのが嫌で、スピカは痛切な声で謝った。



 夕焼けのなか、二人は佇んでいた。さあ、と風が吹く。

 雨はすっかり上がり、暖かい光が全ての光景を照らす。森を目の前にして、スピカが躊躇いがちに口を開いた。

「ソラ」

 ソラは振り向いて、へらっと笑った。

「大丈夫。行こう。ここを離れた方がいいって言ったのはスピカじゃない」

 国境を越えた方がいい。それは確かだ。無駄かもしれないが、一所に留まるよりもいい。第一こんな料理がまずいところで夕ご飯食べたくないと言って、宿を強引に出たのはスピカである。

「だが……」

 出た途端後悔しているらしい。それもソラのために。

「いいの、平気」

 事実ソラの立ち直りは早かった。ぼんやりと気後れしたようにスピカはソラを見ていた。そんなスピカが口を開いた。

「ソラ」

「はい。スピカ。何?」

「人を殺したことは?」

 ソラは不思議そうにスピカを見た。スピカ自身もどうしてそんなことを言ったのかわかってないようだった。

ソラの口が声なく動く。凄い速さで、そして異国の言葉で。


 スピカには速すぎて、読めなかった。


 ソラは不思議そうな、きょとんとしたような表情で、不釣り合いなほどの震える声で何か言おうとして、言えなかったらしかった。スピカは首を振った。わからないことが多すぎるのに、なんで増やすようなことを言ったのか自分でもわからなかった。スピカはソラに近づいていき、服の裾を掴んだ。ソラが顔をあげる。

「いくぞ」

 ソラは笑った。困ったような笑顔で、でもそれはいつもスピカが見ている下手くそな笑顔ではなかった。

「うん」

 それだけ声なき口で少女は言葉を綴った。

 夕焼けが、昔彼女が心から望んだ空色と対極のオレンジ色に髪を染めた。



 はざまのじかん、それはスピカが賊と戦っている間の、ソラのお話。

 

 どうしような。


 まだソラは考えていた。

 窓の下に人がいる。手が届きそうで、届かない距離に、人が。

窓からあのまま飛び降りて足に首をあて、その重力と落下の相乗された力で首の骨を折って終わりにしてもよかったが、やめた。

 

 だがこれではっきりした。スピカは軍に狙われている。


 それはスピカのせいなのか、そうじゃないのか、自覚しているのか、していないのかわからないが。

 情報を引き出してみようか。色々。そっちの技術がない訳ではないから。

 これは個人の侵害になるのだろうか? 呆然と見上げているだろう人物を見下ろして、ちょっとだけソラは思った。しかしこれの処理に困る。仮に、殺してしまってこれの行方がわからなくなったら遅かれ早かれ軍に連絡がいく。そうすればまた人を差し向けてくるだろう。今度はもっと多く。他国に入る危険まで冒しているのだ。次がないとは限らない。または、他国でも影響を与えられるほどの組織か、どちらか。


 ううん、とソラが頭を抱えたところでそれが動いた。

 腕を振って、じゃきん、と刃がでる。一足飛びに窓枠を飛び越えて、ソラに向かう。ソラはそれを見て、


 呟いた。


 ひどぅく、低い声だった。

 暗くて泥臭くて血生臭い声だった。

「雑魚だな、どうも」

 するっと横に避けると、交差した一瞬で背を大きく晒した敵にナイフを相手の肩に差し込んだ。

「つっ……!」

 倒れて動けない男を眺める。そいつは体格からして男だった。黒ずくめで仮面を付けている。スピカの恰好を思い出して、スピカの軍って黒いの好きなのかな、そう思って仮面をはぎ取る。そしてソラが代わりに被る。明るい茶色の髪が広がり、青い目と目があった。

 

 青い目は好きだ。仕事じゃないし、この人は殺すのをやめよう、そう思った。


「ねぇ、どこの国の人、お兄さん」

「お前、一体……何だ」

 童顔の顔の割に低い声が呻き声に混じって届く。

「見たままだよ。で、お兄さん、どこの国でどこの人?」

「……女?」

「自白剤とかあるけど、呑む?」勿論嘘だ。

「……」

「それとも、あっちの方が好きなのかな」

 舌を噛まないところを見ると、命はそれなりに惜しいらしい。今のでソラの技量がわからないなら只の馬鹿だが、わかるように見せたし、知力はあるようだから話は通じるだろう。自害しようとしたら止める気もない。めんどくさい。

 唐突に、ソラは敵が見ている前でふっと顔をあげると、扉に近づいていった。壁に顔を付けて、目を閉じる。後ろの敵はもう動けないので気にしない。動いたとしても避ける余裕すらある。

「こっちの人も別口だったのか」


 壁の。

 壁の音を聞きなさい。


 あの人の幻聴が聞こえた。

「はい。マスター」

 ソラは囁いた。祈りのような音色で。

 扉を思い切り内側に引いた。

 突入しようとしていた人間が倒れ込んできた。黒の服に仮面。

 ソラはそのままナイフを振り抜いた。

 血飛沫の音だけが響いた。

 赤が一瞬だけ視界を染めた。


 ソラは、音もなく倒れた、同じ宿に泊まっていた同じような旅人で、実はスピカを狙っていた軍の人物から仮面と黒のマントを剥ぎ取り、呆然としている青年の前に置いた。


 どこまでも淡々と。

「どこの国で誰からの命令か言ってくれたら、もしかしたら生きて、しかもお咎めもなしで生き残れるかもしれないよ。お兄さん」

 考えがないわけではない。

 代わりに自分の情報は流れるだろうが、まあいい。

 遅いか早いかの違いだろうから。



 ………スピカの放った剣を止めたのはソラだ。


 あのままだと仮面の人が死んだだろうから。

 項垂れたまま、青年の手を掴んでそのまま振り抜き剣の軌道を変えさせた。

 スピカは実力に伴わない能力と運を持っているから危ない。目の前の事象を、もっともっと上の、遠いところから見るように物事の本質をあてることがある。

 スピカ自身は運だと言っているが、あの能力の七割が勘だと、ソラは睨んでいる。


 恐ろしいほどの天性に恵まれた人間を見るのは二人目だ。


 そのどちらもがソラの人生を変えてしまった。

 怖い人だ。

 見もしないで剣を打ち落とすという芸当をやって見せたソラを、仮面の下で青い顔で見ていた青年は、組織に帰って軍の上司を脅すだろう。

 ………こんな所で昔の仕事が役に立つとは思わなかった。

 いまいちスピカを軍が狙う理由がわからなかったが、軍の研究者の一部が騒いでいるだけらしいので、このあとのことはあまり心配していない。

 ソラが今願うのは少ない。

 ……ソラは、優しい人が好きだ。だから優しいスピカのことがソラは好きだ。

 だから、どうか。

 

 もう少しだけ二人でいる時間に、平穏な平和がつづきますようにと、それだけを、ソラは今日も願う。




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