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三国志自由研究

周瑜と魯粛 ~呉蜀荊州領有問題~

作者: 練り消し

曹操軍100万とも言われた大軍を孫権・劉備の連合軍で撃退したとされる

赤壁の戦い。


三国志演義では諸葛孔明が東南の風を吹かせて同盟軍に

勝利をもたらした戦いとしても有名だが、

孫権軍を率いていた総司令官の周瑜はそれら孔明の魔術的な才智に恐れを抱き、

度々自らその殺害を試みようとしたりするが、

実際の史実での二人の関係は、彼らが直接どんな会話を交わしたかなどさえ

記録には残されていない。


ただ周瑜は孔明との仲はわからないが、

劉備に対しては、これもう、

周瑜は劉備玄徳という人物をあからさまに嫌っていた。


周瑜は劉備のことを“梟雄”だなどと言って彼を非常にを警戒し、

主君の孫権に劉備を一人城に呼び出し軟禁してしまえなどと

進言したりしています。


それゆえか、劉備軍と孫権軍で同盟を結んだにも関わらず、

赤壁の戦いで周瑜は劉備軍の助けをまったく借りようとしなかった。

どころかもう実際には、意図的に彼ら友軍を一切、

戦場の現場から排除して寄せ付けなかったのではないかとさえ思われるほど。

『江表伝』では曹操の大軍を僅か3万で迎え撃とうとする周瑜に

不安の色を示す劉備に対し、

周瑜自身がキッパリ、

「これで十分です。あなた方は我々が曹操軍を打ち破るところを

傍から見ていて下されば結構ですから」と、

言ったということになっている。


元々戦前に劉備を味方の同盟に引っ張って来たのも魯粛のほうなので、

だからそもそも周瑜の対曹操軍迎撃作戦構想に、

劉備軍の存在など始めからなかった。


周瑜としては飽くまで孫軍の独力で曹操軍の撃退が可能だとの判断の上、

それ以上、下手に援軍の力を借り、

後から色々成果報酬を要求されるようなことを嫌ったのかもしれない。


実際後には両軍の間で有名な“荊州借用問題”が持ち上がってもくるのだが、

周瑜は赤壁の戦いの後、荊州南部最大の軍事都市、南郡江陵城を

曹仁から激戦の末に奪取し、

一方、劉備軍のほうではさらにその南方の、

零陵・桂陽・武陵・長沙、四つの郡を奪い取る。


劉備がその四郡を南征して皆降伏させたということは

正史『三国志』の劉備の伝に、

作者の陳寿が直接書いていることなのだが、

ただこれが孫権の側では“貸した”ということになっており、

劉備のほうでは自分達で“取った”ということになっていて、

この辺りの事情が非常にややこしい。


だがこれは結論から言って、

劉備はおそらくその荊南の四郡を自分では攻め取っていない。


その荊州の領有問題が初めて持ち上がったとき、

劉備は自分自身で自ら、孫権のいる呉の京城へと、

直接荊州領有の直談判へと出向いていた。

しかしこれは劉備が孔明から、

「軟禁される可能性もあるから絶対に行ってはいけない」と、

厳しく警告を受けていたほどで、

しかしながらその危険を冒しても、

劉備はそのときは、孫権との直接交渉に自ら足を運んで出ていった。


が、これがさらにその後の215年、

劉備はその前年の214年に益州牧の劉璋を降伏させて成都に入り、

念願だった蜀の地の領有を果たしていたのだが、

そこに孫権が諸葛瑾を使者に、劉備に対し荊州領土の返還を申し入れると、

すると劉備はその要求に対し、「次また涼州の地を取ったら」などと言い、

暗に荊州の返還を拒否。

怒った孫権は強引に、長沙・桂陽・零陵の三郡に長官を任命して

送り込もうとするが、

今度はそれを関羽が追い返してしまう。

孫権は遂に軍事行動に出て自らは陸口に駐屯するとともに、

魯粛に兵一万を与えて巴丘に駐屯させて関羽と対峙させる。

そしてその間に、さらに呂蒙に兵二万を与えて長沙・桂陽方面の攻略に回し、

同二郡を降伏させる。

するとその報せを聞いた劉備もまた自ら軍を率いて公安にまで出兵、

関羽も兵3万で益陽に陣し、

ここから両軍の小競り合いが開始される。


最終的に事態は215年の7月に、

曹操軍が漢中への侵攻を開始し、陽平関の砦を陥落させたことで、

劉備のほうから講和を提案。

孫権もそれを了承してその結果、江夏・長沙・桂陽の三郡を呉が、

南郡・零陵・武陵の三郡を蜀が領有するということで和平が成立。


で、

初めの領有交渉の際には劉備は自ら一人、

危険を冒してまで孫権の下へと直談判に出向いていたのに、

それが自分が蜀の地を手に入れてからはもう、

相手からの“返せ”との要求自体を突っ撥ね、

交渉が縺れると戦争にまで及んでいる。


そんなことができたのはそれこそ、

劉備が孫権から貸与された荊州南部の諸城と、

及び益州で新たに手に入れた諸城とに入っていたからだろう。

詰まり初めの交渉のときにも、もし劉備が実際に自力で降伏させたという、

その荊州南部四郡の城に自分達が入っていたとすれば、

もう劉備はその時点で孫権のところにも出ていかず、

その場で城門を閉ざし、

呉からの独立宣言を上げていたはずだ。


あるいは孔明ら地元で深い繋がりを持つ名士達のコネを活かし、

四郡での根回しなどは行っていたかも知れないが、

ただ劉備が実際にその四つの城を全て手に入れてまでいたとすれば、

もはやその領有を孫権に認めて貰う必要など全くなくなってくる。


陳寿の三国志の劉備の伝での記述では、


「先主表琦為荊州刺史,又南征四郡。

武陵太守金旋、長沙太守韓玄、桂陽太守趙範、零陵太守劉度皆降。

廬江雷緒率部曲數万口稽顙。

琦病死,群下推先主為荊州牧,治公安。權稍畏之,進妹固好。

先主至京見權,綢繆恩紀。

(先主〈劉備〉は劉琦を荊州刺史と上表し、また四郡を南征した。

武陵郡太守金旋、長沙郡太守韓玄、桂陽郡太守趙範、零陵郡太守劉度は皆、

降伏した。

廬江郡の雷緒が部曲数万口を率いて稽顙〈頭を下げて降伏すること〉した。

劉琦が病死し、群がる配下達は先主〈劉備〉を荊州牧に推し、公安を治めた。

孫権はこれを畏れ、妹を進めて好を固めようとした。

先主〈劉備〉は京に至って孫権と相見え、

恩義を綢繆〈睦みあい、なれ親しむこと〉した。)」と、


赤壁の戦いの後、

先ず劉備が故・前荊州牧劉表の子の、劉琦を荊州刺史として朝廷に上表。

次に南郡の遠征をしてこれを全て降伏させる。

しかしその後に劉琦が病死。

劉備は群臣一同から推される形で荊州牧となるが、これは飽くまで自称。

そしてその次にやっと、

公安から劉備が京城の孫権へと出向いていくという記述になるのだが、

しかしこれではやはり順番がおかしい。

先に劉備が四郡の城を取っていたのであれば、

もはや孫権の下へ、わざわざ危険を冒して出ていく必要がない。


では劉備は一体、呉の京城へと何をしにいったのか?

魯粛の伝ではそれは、

「備詣京見權、求都督荊州。惟肅、勸權借之、共拒曹公。」と、

劉備が自分を荊州の都督にして貰えるよう、

頼みにきたということになっている。

それに対し魯粛は孫権に向かって、

劉備に荊州の土地を貸し与え、曹操の対抗勢力とするのが良いと答えたと。


元々劉備と孫権の同盟関係でいうと、

劉備は自分の領土を追われて孫権の下へと逃げ込んだ亡命の客将身分にすぎず、

ほぼ劉備の従属に近い同盟。

周瑜の存命中はその周瑜から、劉備軍は僅かに

公安(荊州南郡江陵城と長江を挟んでその南岸に位置する土地)の一県を

与えられていたにすぎなかった。


魯粛の伝を見る限りでは、そのときの劉備の領地はその公安のみで、

他に荊州の領地は持っていなかった感じだが、

都督とは州の軍事をつかさどる長官のことで、

詰まり劉備は、

自分に荊州領内での、軍事動員権を認めて欲しいと言いにいったことになる。

いっそ自分に同州の支配を任せてはくれまいかといったところだろうか。


だとすれば劉備はその認められた荊州軍事都督の名目で、

荊州内の孫権軍の兵員を借り、

その軍勢で四郡の城を征伐しにいったか、

或いは四郡の城も全て孫権軍から譲られた後、

その後に州内での軍事支配権の承認を受けたかどちらかということになるだろう。


ただ『江表伝』では、

周瑜が曹仁から江陵を奪取して南郡太守となった際、

劉備に長江南岸の地を割いて与えていたところ、

そこに元劉表軍配下の吏卒達が多く曹操軍から寝返り、

劉備の下へ投降してくるという事態となったが、

しかし劉備は周瑜から貰った土地が僅かで不十分だったため、

孫権から更に荊州の数郡を借り受けた、との記述で、

以上のようなことを総合して考えて見た場合、

やはり劉備が本当に自分で、荊南の四郡を討伐しにいったのかという事実自体、

非常に怪しくなってくる。

もし経緯はどうであれ、劉備軍が軍事行動で荊南の四郡を

武力制圧させたのであれば、

当然、それまでその荊南の四郡は曹操軍領だったことになり、

それを孫権側が劉備に“貸してやる”というのはどうにもおかしい。


想像をすれば、

周瑜が荊南北部の南郡を曹操軍から奪い取ったことで、

南部の四郡は北の曹操軍とは完全に分断されてしまったわけで、

その時点で彼らはもう、孫権軍に服属するしかなくなり、

すると孫権軍側では、

じゃあそこの統治には誰を新たに送り込もうかという話になって、

そこで、劉備が、

“それならその統治者には是非、自分を任せて欲しい”と、

言いにいく展開になったと、

まあ、そんな感じだろうか。

諸々の資料でも劉備が荊南の四郡を取ったと書いてあるのは劉備側の資料のみで、

状況的にも劉備が自分で荊南の四郡を武力制圧させたというには

無理がありすぎる。


先ず劉備は自分では四郡を取っていない。


これは後の、孔明の第一次北伐に於いて、

孔明が北征して先ず祁山を攻め立てると、

その動きに呼応し、

それだけで天水・南安・安定の3郡が魏から蜀に寝返ってしまった。

だから周瑜が曹操軍から江陵城を奪い取ったことも

それと同じだったのではないか。


これを逆に考えれば、

孔明が北伐に際してあれだけ祁山に拘った理由も見えてきそうなところだが、

それはともかく、

そのように考えてみると、

孫権軍側の“貸した”という表現と、

劉備軍側が軍隊を率いていって“降伏をさせた”という表現に、

何とか整合性が取れてくるかとも思うのだが、

が、

まあ取りあえず劉備にとって荊州の領有は仮でも構わない。

その頃劉備は益州重役の張松からもう、入蜀の打診を受けていた筈なので、

もし劉備がそれで蜀の地を取れば、

最低それまでの領有権で構わない。


しかしそれに対し周瑜などは、

“そんな必要はない。逆に捕らえて軟禁してしまえ”と言っていたが、

唯一人、魯粛のみが劉備擁護派で、

で、

結局どうもこの魯粛の進言で、劉備は孫権から、

孫呉軍荊州領の委任統治を任されることとなったものと思われる。


そして劉備と孫夫人との結婚も恐らくは魯粛の策。

詰まり劉備を京城に軟禁せず、彼に荊州の領有を認めて公安へと帰すのであれば、

その代わり孫夫人を付けましょうと。

孫夫人は劉備の入蜀後、嫡子の劉禅を連れ去り一人でまた呉へと

戻ろうとしたりしたが、

孫夫人が劉備との結婚後、常にその劉禅を手許に置いて養育していたとすれば、

これは人質となる。

劉備としては嬉しいことではなかったろうが、

魯粛に荊州の領有権を認めて貰うというのであれば、

その話は断れない。


魯粛は常々、劉備を単なる客将としてではなく、

積極的に彼に土地と軍資を分け与え、

一独立勢力として利用していくよう、孫権に進言していた。

周瑜は劉備を梟雄として警戒していたが、

魯粛は別に劉備が梟雄でも、

曹操軍と戦争をさせてその力を相殺させる反抗勢力となってくれれば

それで良いという考えだったのだろう。


周瑜はどこまでも己の力を信じ、自力での天下制覇を目指していたが、

魯粛はその逆で、

彼は飽くまで、厳密な政治判断として、

既に自国の限界を見極めてしまっていたような感じだった。

と言うより、

それは取りも直さず彼の主君である孫権の限界。

詰まり孫権を見て魯粛は、

“この人の場合に関しては先代までの二人と違い、

中華統一などという途方もない大事業を無理に、

自力で推し進めるべきではない”と。


魯粛は言葉では孫権に

“天下を目指せ”などと大層な理想を掲げて発破を掛けるくせに、

その一方で実際の彼の取る外交策はおよそその逆だ。


魯粛は周瑜と違って京城へとやって来た劉備に対し、

孫権に向かって劉備の荊州領有を認め、

反曹操勢力の同盟軍として戦わせたほうがいいと説いた。

先ずは南部の四郡。

そのときはまだ北部の江陵城には南郡太守として周瑜が駐屯していた。

しかしその周瑜の死後、

亡き周瑜の代わりに江陵城へと入った魯粛は直ぐ劉備にその城を明け渡し、

そこで漸く、呉軍の持つ全荊州の領域が、

劉備の支配に委ねられることとなった。

魯粛はむしろ呉国のほうが劉備軍のスポンサーとなって積極的に彼らに援助し、

どんどんと太らせていくことで、

曹操軍による天下平定を容易には許さない、

強大な第三勢力の養成を目論んでいたのに違いない。


だから魯粛による劉備軍への荊州領有権の譲渡は、

言わば彼らへの資本金の貸与として行われ、

それこそその借金を返済できる利益を自分達で上げられるようになるまでという、

彼と劉備との間で取り交わされた期限付きの

約束手形だったということなのだろう。


と、

そうして見るとこの周瑜と魯粛の二人の関係は、

何やら幕末日本の小栗忠順と勝海舟の関係にも似ているように

感じられたりもするのだが・・・、

しかし結局魯粛は後で荊州返還の約束を反故にされてしまい、

確かにそういう点では、

劉備は周瑜の言う通りの梟雄だったのかもしれない。


しかしよしんばその周瑜がずっと生きていたとすれば、

歴史に於ける劉備の出番なども、もうなかったろう。

周瑜は劉備よりも先んじて、

自分で蜀へと侵攻する準備を進めていた。


史実での劉備による蜀遠征は数年もモタモタと長い年月を費やし、

その頃には曹操が直ぐ真北の漢中郡を占領してしまっていた。

曹操軍参謀の劉曄や司馬懿などはもう、今今、このまま蜀の地へと攻め込めば、

入蜀後間もない劉備軍を必ず撃退できると進言していたのだが、

偶々どういう訳か曹操はその策を取らず、

漢中から軍を引き上げ本国へと帰っていってしまったため、

劉備は幸運にも益州での自立を果たすことができた。


劉備の蜀取りに時間が掛かったのは、軍師・ホウ統の建てた

成都急襲の上策を劉備が採用しなかったためだが、

周瑜が蜀への遠征準備に取り掛かっていた頃、

彼が召抱えていた参謀こそが誰あろう、そのホウ統だった。

周瑜なら迷わずホウ統の成都急襲策を採用して

成功を収めていたに違いなく、

であればまた、

ホウ統がラク城で戦死するハメに陥ることもなかったろう。

そして曹操に取られるよりも早く五斗米道の張魯から漢中を奪取し、

さらに曹操に滅ぼされる前の韓遂・馬超ら涼州の豪族連合と手を組めば、

そこで魏に対する見事な逆包囲が完成する。


もう単純に、曹操が赤壁の敗戦後に取った行動を逆に、

彼らよりも先に呉の側でしてしまうというわけだ。

だから曹操軍がその赤壁の敗戦からまた体勢を整え直す僅か数年の間に、

全て速攻で片付けてしまわねばならないことだったのだが、

惜しくも天は、それを実現可能な周瑜に寿命を与えなかった。


逆に劉備のほうが蜀の国で独立できたことなどはもう、殆ど運だと言っていいが、

しかしこうして見てみるとそこまでに至る大きな要因として、

周瑜の赤壁での戦勝とその死、及び魯粛の支援と、

直接間接、この二人の蜀漢建国に与えた影響は実に大きい。

特に魯粛などに至ってはもう、

劉備の蜀漢建国の産みの親と言ってもいいくらいだが、

ただ荊州の地に関しては「貸したんだ」という孫権側に対し、

「いや、これは自分達で取ったんだ」などと・・・。


こうしたことは孫策にとっての袁術や、曹操にとっての袁紹との関係とも

どこか似ていて、

しかし劉備自身は一言も自分で「取った」などとは口にしておらず、

だから劉備が荊南の四郡を遠征して武力制圧したという記述も、

恐らくは元は蜀の臣下であった三国志の作者の陳寿が、

都合上、彼が勝手に書き加えた疑いが非常に強い。


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