拒食
春菜が長い髪を乾かしている間に俊也も早々に風呂に入り、二人は夕食をとることにした。
普段春菜は食べる速度が恐ろしく遅いうえに、殆ど食べようとはしない。そしてそれは今日も例外ではなかった。
俊也は春菜がもう手をつけようとはしない食事の器に目をやった。そこにはほとんど手付かずのまま食べ物がのっていて、その光景は多少俊也を落胆させた。
彼女は普段からほとんどものを口にしようとはしない。最低限食べると、まるで食べ物を拒絶するように食事をやめてしまい、それ以上食べることはまずない。
せっかく作ったものを粗末にされるのは気分のいいものではないが、俊也はまるで気にしていないかのように振る舞うことに決めていた。
春菜が俊也の家を出入りするようになった当初はなんとか食べるよう説得を試みていたが、ある日を境に俊也はそれをやめた。
ごちそうさま…
不意にあの日の春菜の声が俊也の耳に甦る。
ごちそうさまも何も、お前ちょっとでも食ったのかそれ?
続いて自分の呆れたような声も頭の中で響き、次第にあの日の記憶が鮮明に俊也の目の前に広がった。
テーブルには食べる前とさほど変わらない俊也の作った料理が残されていた。
料理の腕には少し自信があるし、実際自分で食べてみておいしいから味が原因だとも思えない。なのに春菜は毎日夕食を殆ど残してしまう。
やせすぎてガリガリな春菜の体を見て心配にならないはずがなく、俊也は少しでも春菜が食べる量を増やしたい気持ちでいた。
全く食べようとしない春菜を無言で責めるように見つめていると、彼女はごまかすように舌を出してわざとらしく笑った。
「えへ☆」
「えへじゃねぇよ。いつもろくに食べないで、お前死ぬ気か?」
「別に死ぬ気はないんだけどな」
そう言ったものの、春菜はもう何も口にしたくないのか自分の残した夕飯に目を向けないように視線を宙に泳がせた。
春菜がろくに物を食べる姿を俊也は見たことがない。何回か箸を口に運んだらすぐにやめてしまう。こんなことをしていたら倒れるはずだと、道端に倒れた春菜の姿を思い出して俊也は妙に納得した。
「じゃあ好き嫌いが激しいのか、もしくはダイエットか?」
「そういうわけじゃなくて…」
もどかしそうに春菜は眉をひそめた。
「食べるって行為が既に嫌いなんだもん」
またか、と俊也は肩を落とした。
春菜は常に食べるということが嫌いだと主張しているが、俊也にはその言葉の意味が理解できない。
「食べることに好きも嫌いもないだろ。食べなきゃ腹は減るし、腹が減ったら食べるってだけのことじゃないか」
「そりゃあそうなんだけど…」
珍しく春菜は言葉を濁した。いつもは都合の悪いことを指摘されても訳の分からない理屈で押し通したり、笑ってごまかしたりするのに、どうしたことか今日は歯切れが悪い。
そんな反応をされてしまうとまるでこちらが悪いことをした気分になるが、だからといってこのまま放っておくことも出来なかった。春菜の体はびっくりするほど細くて、風が吹いただけでも崩れるのではないかと思うほどだ。こんな体で、放っておくことが出来るわけがない。
どうするべきか考えながら、俊也は何気なく春菜に言葉をかけた。
「お前小学生の時給食食べ切れなくて昼休みの時間も給食食べさせられたタイプだろ」
「ん?うーん…」
きょとんと首をかしげた後、春菜はまるで遠い昔を思い出すかのように眉間にしわを寄せ、腕を組んで唸りながら目を閉じた。春菜の年ならそんなに思い出すのに苦労はしないだろうに、そんな春菜の様子がおかしくて俊也は思わず苦笑する。
しばらく唸ると春菜は目を開けて、手をひらひらと振った。
「いや、そういうわけでもない」
「ちゃんと食べてたのか?」
「うん」
意外な返答に俊也は目を丸くした。てっきり春菜の拒食は小さい頃からのものかと思っていたのだが、それは違うらしい。
「その時は食べることが嫌いじゃなかったのか」
「…うん」
春菜は居心地悪そうに頷いた。彼女は彼女自信について話したがらないようで、質問されるといつもよそよそしくなる癖がある。しかし俊也はあまりにも意外な事実に驚いたせいか春菜の様子に気付かずに更に質問をした。
「じゃあいつから食べるのが嫌いになったんだ?」
「えーっと、」
幼い頃からの記憶を手繰り寄せるように彼女はしばらく視線を泳がせ、それから急に自分の残した食べ物ののった器を凝視した。俊也の質問に対する答えを見つけたようだ。けれど春菜は口を開こうとはぜず、しばらく一点を凝視したと思ったら不意に俊也に顔を向けた。
そして、何も言わずににっこりと笑った。
春菜の笑顔を見て、俊也は密かに落胆した。
彼女と何回かやり取りをしていて分かったことがある。そのうちの一つが、この笑顔だ。何かを質問した後に返事もせずににっこりと笑うのは、返答を拒否する意思表示らしい。この笑顔を見せた後は何を聞いても答えないし、はぐらかされるのがおちだ。だから俊也はそれ以上聞くことを諦めざるを得なかった。
「とにかく、あと少しでいいから食べろよ。ちょっとだけでいいから」
「いやん☆」
全く食べる気がないのか春菜はわざとらしく体をくねらせておかしなポーズをとった。
「いやんじゃねーよ気持ちわりーな」
「ひどいわっ!現役女子高生に対して気持ち悪いだなんて!」
そう言うと今度はオーバーにショックを受けたリアクションをとる。
「いちいち疲れる奴だな!よし、じゃあこうしよう。お前が今日もうちょっと食べたら一つだけ何でも言うこと聞いてやる。どうだ?」
「…なんでもいいの?」
「極端な要求じゃなけりゃな」
俊也の提案に少し食いついたようだ。春菜は食べるか否か葛藤しているらしく、うーん、と唸りながら何度も首を傾げてテーブルの上の器とにらめっこし、それからいぶかしげに俊也の顔をまじまじと見つめた。
「どうしても食べなきゃだめ?」
「どうしてもってわけじゃないけど…」
無理やり食べさせることに抵抗も感じるが、心配になのだから仕方がない。
「もう少し自分を大切にしろ?」
春菜が食べないでいるその行為が、自虐的な行為に見えてしまう。自分で自分を追い込んでいる気がしてならない。俊也の真剣な顔を見て、春菜は諦めたようににこりと笑って箸を手に取った。
「しょーがない!ちょっとだけ食べますか」
箸を握り締め、春菜は覚悟を決めているのか息を吐いた。食べることにそんなに覚悟がいるのだろうか。
まるで獣と対峙するかのような春菜の様子は尋常ではない。顔から表情を消し、背筋を伸ばし、神妙な面持ちでテーブルの上の食べ物に箸をもった手を伸ばす春菜からは緊張感さえ感じる。ただ食べる、それだけのことなのに。
なんだか急に俊也は嫌な予感を覚えた。なぜだかは分からない。さっきまで食べさせたい一心だったのにもかかわらず、今は春菜を止めなければいけない気さえした。
「…無理しなくてもいいぞ?」
何を言ってるんだ。俊也は自分自身に呆れた。
食べろと言ったり無理するなと言ったり。言ってることが無茶苦茶だ。
けれど春菜は無理やり笑顔を作って俊也を見やった後、食べ物を口に運んだ。ゆっくりと噛み、飲み込む。
「うん、おいしい」
がちがちの笑顔でそう言い、続いて何回か口に運ぶ。
人が食べるところをただ見るだけなのに、なんでこんなに緊張するのだろう。不安が、そろりと俊也の背筋を這いあがる。
そして、悪い予感はあながち間違いではなかった。
「っ!」
数口食べた後、春菜は両手で口を押さえた。
「春菜?!」
返事もせずに春菜は立ち上がり、口を押さえたままリビングを飛び出した。
慌てて春菜を追いかけると、トイレに飛び込み便器の前に膝をついて激しく嘔吐し始める春菜を見つけた。
とても悲惨な光景だった。
もともと食べた量自体は少ないのですぐに胃の中は空っぽになり、あまり大量に嘔吐することはなかった。けれど食べたものを全部吐き出しても吐き気はおさまらないらしく、絶えず胃液だけが出てきた。
まるで死人のように春菜の顔色は真っ青で、眉間に皺を寄せ、苦しいせいか顔には脂汗が浮いている。
少し落ち着いたかと思うと、もう何も出すものはないのにまた吐き気が襲い、その繰り返しが春菜を長い間苦しめた。
吐き気がおさまるまで俊也は春菜の背中をさすってやることしか出来なかった。
どのくらいそうしていただろう、やっと吐き気がおさまった頃には春菜はぐったりとその場に座り込み、トイレの壁に身を預けた。
手は力なくだらりと投げ出され、長い髪は汗でびっしょりの顔に張り付き、トイレの壁の方に向いている春菜の目は焦点が合っていない。このまま死んでしまうのではないかと不安になるほど春菜から生気を感じなかった。
俊也はタオルを持ってくると、春菜の汗や汚れた口元を拭いてやりながら、ごめんな、と謝った。
こんなことになるとは思わなかった。こんなに苦しめたいわけではなかった。
けれど結果的に春菜を苦しめてしまった。
人にはいろんな事情がある。心の中には周りの人が思いつかないほどの闇が存在する。それを知っている気でいたが、俊也は実際分かってはいなかった。
春菜だって、ただのわがままで食べることを拒否していたわけではない。いつも笑顔でいるから気付かなかったが、彼女には彼女なりの事情があり、拒食にもそれなりに理由があるのだ。
それを、俊也は気付けなかった。それが申し訳なくて仕方がない。
「ほんとに、ごめん…」
今は謝る以外にかける言葉が見当たらなくて、何度も何度も俊也は謝った。すると不意に春菜の唇が微かに動きぼそぼそと何か呟いたが、あまりにも小さな声で俊也は聞き取ることが出来なかった。
「ん、なんだ?」
「…できない」
「……」
「食べることが、できないの。…どんなに、おなかが空いてても。おいしそうだと思っても…食べることが、できない」
ぼそぼそと呟く、かろうじて聞こえるくらいの小さな春菜の声が、まるで悲痛な叫びのように聞こえた。
「なんでなのか、わからない…。食べようとしても、全部吐いちゃうの」
俊也は手を伸ばし、春菜の頭を優しく撫でた。何をするべきかわからなかった。
目の前に苦しむ女の子がいるのに、俊也はその苦しみを取り除いてやる術を何も持ち合わせてはいない。それがもどかしく、ただ頭を撫でてやることしかできないことが腹立たしい。
「もう、無理に食べろなんて言わない。無理に食べることはないから…だから…」
春菜はゆっくりと頭を動かし、俊也を弱々しく目を向けた。
「だから、もうそんな辛い顔するな」
こくりとかすかに頷き、春菜は弱々しいながらも笑顔を顔に浮かべた。
俊也はあの日から春菜が食べなくても咎めることをやめた。けれど、残されることはわかっていても春菜の分の食事を作るのをやめたりはしなかった。いつかでも食べれるようになったときに食べれるように、毎日春菜の分の食事も用意することにしていた。
「ごちそうさま!」
春菜は雨の中涙を流したことなんて忘れてしまったかのように元気に振舞い、そそくさと食器を片付け始めた。
ものを食べれないのがなぜだかは春菜自身にもわからないように、今日泣いていたのも彼女はなぜだかわからないのかもしれない、と俊也は思った。人の行動にはたいてい理由が存在するが、全部が全部理由を把握しているとは限らない。
きっと春菜のあの笑顔の奥に、俊也には計り知れない何かが潜んでいて、それをむやみやたらに引きずり出してはいけないのだ。下手にどうにかしようとすれば、恐らくそれは俊也にではなく、春菜自身に牙を向いてしまう。
今はただ、一緒にいてやることだけだ。
春菜が自分自身を大切に出来ないのならば、俊也が大切にするしかない。
俊也は皿洗いをする春菜の細くて小さな背中を眺め、一人頷いた。