響く笑い声
白い湯気がもくもくと四角い小さな部屋を満たしていく。
腕を動かせばミルク色の温かい液体が音を立て、その音は狭い空間の中で妙に響いてそして消えていく。
その音が耳に心地よく、わざと音を立てて響かせてみる。
ぴちゃぴちゃ…
春菜は入浴剤入りのお湯がためてある浴槽の中で、お湯のはねる音を耳にすると満足げににっこりと微笑んだ。
雨に濡れて冷え切った体は既に温まり、白い肌は熱のせいで薄い桜色に染まっている。
春菜はのぼせそうな頭を浴槽のふちに預けて天井を見上げ、ふう、と息を吐いた。
「3、4、5…」
この浴槽に初めて入った日からどのくらい経っただろうとふと思い、指を折って数えてみようと試みたが、のぼせる寸前の頭でまともに数えられず春菜は途中で数えるのをやめた。
もともとそんな細かいことは気にしない質だ。大体一ヶ月弱くらいだろうと結論づけ、そのことについて考えることをやめることにした。その代わりこの家に来てからの日数ではなく、この家に住む俊也のことを考えることにした。
俊也は優しい。
彼は何も聞かないでいてくれる。
春菜が家に帰らないことも、春菜の個人的なことも。
今日のことも、彼は何も聞かなかった。何も言わずに抱きしめてくれた。
雨に濡れて彼の体も冷え切っていて冷たかったはずなのに、なぜか彼の腕の中は温かかった。まるで、このミルク色の液体のように。
春菜は細くて小さい両手でお湯をすくった。
白くにごったその液体の表面を覗き込んでみると、そこには微かに春菜の顔を映し出されていた。
ぴちゃぴちゃ…
細い指の間からお湯は流れ落ち、音を立てながら元いた場所に戻っていく。
しばらく浴槽のお湯の中でゆっくりとくつろいでいると、浴室の向こうから小さく足音が聞こえてきた。そして、浴室の外から俊也が春菜に話しかけてきた。
「春菜〜、飯出来たぞ。いつまで入ってんだ?」
「……」
何事もなかったかのような俊也の声。
彼からは何も聞いてはこない。
もし聞いてきたとしても、春菜が言葉を濁せばそれ以上聞いてこない。
俊也は優しい。
春菜はここからでは姿が見えない俊也の方向に向かってにっこりと笑った。
「おい、春菜!お前死んでないだろうな?!」
春菜が返事をしなかったことで不安になったらしく、俊也の焦ったような声が届いて春菜は噴き出した。
「あはは、大丈夫。倒れてないよ!」
春菜の声が浴室全体に響き渡った。
「なんだよ、心配かけるな!」
ほっとしたような、怒ったような俊也の声。
彼は春菜が風呂に入るとよく声をかけてくる。きっと春菜が初めて来た日に風呂場で倒れたから心配なのだろう。
そういえば、俊也はまだ風呂に入っていない。体も冷えているはずなのに春菜に先に風呂を使わせて、俊也は体を拭いただけだ。
そろそろあがらなければ俊也が風邪を引いてしまう。
「ごめんねトードーさん、今あがるから」
浴室の向こうの俊也に声をかけ、春菜はいたずらっぽくにやりと笑みをこぼした。
「それとも一緒に入る??」
「ばっ…!ばか言ってないでさっさとあがって来い!!」
慌てた俊也の声が返ってきて、春菜はけらけらと笑った。笑い声が狭い空間の中で跳ね返り、こもった響き方をする。
「……」
風呂場で響いた自分の声が妙に耳に残り、春菜は自分の声の余韻に耳を済ませた。
身動きをとらなければ浴槽の中は静かだ。たまに水が滴る音が響き、そして消えていく。それだけだ。
ほぼ無音の中で、春菜は自分の発した声をしばらく聞いていた。実際聞こえていなくても、笑い声は耳に残って離れない。
けらけらと、何の不安もなさそうで楽しそうな笑い声。
こんな声が自分から出たのかと一瞬信じられなくなるが、自分以外の声なわけがない。
こんな風に私は笑うのか。
そう、思った。