雨遊びの後
あれから当分、彼女に会うことはないだろうと俊也はふんでいた。
別にそう予想することに理由はない。ただなんとなく、そんな気がしていた。
そもそも昨日のようなイレギュラーなことはそう頻繁に起こりうるはずがない。彼女は理由があって俊也の自宅に来たわけでなく、ただ彼女が倒れた現場に居合わせたのが俊也だったというだけで、また彼女と会う理由が見当たらない。
昨日は特別だった。今日からはまたいつものとおりの一日が始まる。
…という俊也の予想は見事に外れた。
春菜はあの日からほぼ毎日俊也の自宅を訪ねて来たのだ。
来る日は大体自分の家には帰らずに学校から直行し、俊也が帰ってくるまで自宅の前でしゃがんで待機する。そして俊也が帰ってくると嬉々して彼に飛びつく、ということが日課になった。
最初は追い返そうと試みた俊也だったが、あまりにもそれがしょっちゅう続くので根負けし、そのうち春菜を家に泊めることが普通になってしまった。
自分でもおかしいと俊也は自覚している。
もともと何のつながりもない赤の他人だった少女とほぼ毎日会って、しかもそのつど家に泊めるなんて今まで夢にも思わなかった。そんなことが起こるとも思わなかったし、もしそんなことが起こったとしても自分が見知らぬ子を家に泊めるだなんて考えたこともなかった。
もしあの時倒れた少女が春菜ではなかったら、きっとこんなことにはならなかっただろうと俊也は思う。
あの雨の日、春菜をなぜ自宅に連れ帰ったのか、俊也は何度も考えた。
気が動転して判断力が欠けてしまったからなのかもしれないと俊也は思った。けれどそんな理由ではない。あの時は意外と冷静だった気がする。
そんなことではない。
あの雨の日、ずぶ濡れのまま空を見上げていた春菜を見かけた時、彼女に魅かれると同時に俊也はおかしな焦燥感に駆られた。
あのまま放っておいたら彼女がこの世からいなくなってしまって、そしてもう二度とこの世界には戻れないような気がした。いなくなってしまう前に、どうしても手元においておきたかった。もし彼女があの場で死んでしまったとしても手放したくないと心のどこかで思っていた。
もし俊也が彼女を突き放したとして、まさか彼女がこの世からいなくなるはずがないだろうからそんな心配はするだけ無駄だとは分かっているのだが、そんな気持ちが心に根を張り、どうしても消えそうにない。だから彼女を拒むことも出来ずにいるのだろう。
春菜と出会ってから、数週間が経っていた。
ぽつ、ぽつ…
昼間は晴れていた空を、雨雲がゆっくりと、しかし確実に覆っていった。雲は太陽からの光をさえぎり、地上を薄暗く染めていく。
ゆっくり、ゆっくり。雨雲は仲間を集め群れをなす。
夕方になると空はすっかり雨雲で覆われ、雨雲はついに雨粒を落としていった。
最初は少しだけ。そのうち激しく雨粒は地上に舞い降りていく。
町にも、人にも、すべてに平等に雨は落ちていった。
いつもと同じ会社からの帰り道、途中で買った傘を差しながら俊也は道を歩いていた。傘の下から空を見上げてみると、雨雲はがっちりと守りを固め、青い空を見せてくれそうにない。
俊也は春菜の喜ぶ顔を思い浮かべた。
あの日から雨はさっぱり降らなかった。春菜は晴れ渡った空を窓から眺めてはため息をつき、雨の到来を心待ちにしていた。だからきっと今頃喜んでいるに違いない。
今頃傘も差さず雨の中はしゃいでいるのかもしれない。もしくはまたあの日のように、何もせずに空をじっと見つめているのかもしれない。どちらにしても、きっと彼女は雨を存分に浴びているのだろうと俊也は予想した。
自宅のマンションまで戻り、見慣れた階段をのんびり上っていく。そして俊也の部屋の前に着くと、そこには予想外にもたたんだ傘を片手に持ち、落ち着かなさそうに外の雨を眺めているセーラー服姿の春菜の姿があった。
「なんだお前、雨降ってるのにじっとしてたのか?」
俊也が声をかけてみると、はっとして春菜がこちらに顔を向けた。彼女の様子はどこか切羽詰っているようで、落ち着きなくそわそわしている。
「遅い!!すごい遅いよトードーさん」
いつもと同じくらいの時間に帰ってきたにもかかわらず春菜は必死な様子でそういうと俊也に駆け寄った。
「ほら、早く着替えて外出るよ!ずっと待ってたんだから!!」
「一人で雨と遊んでれば良かっただろ、ってお前勝手に何してんだ!」
「かぎ…かぎ…!」
俊也が履いているスラックスのポケットに勝手に手を突っ込み部屋の鍵を奪ったと思うと、春菜は部屋を開けて俊也を家の中へと急かした。
春菜に寝室まで追いやられ、言われるがままに俊也は背広を脱ぎ普段着に着替えることにした。
春菜もいそいそとリビングに駆けて行く。俊也の家に持ち込んだ私服を着ているのだろう。いつもののんびりでマイペースな春菜とはかけ離れている。
驚くほど早く着替え終わった春菜は、まだ着替えている途中の俊也の様子なんてお構いなしに俊也の腕を掴むと家の外に引っ張り出した。
「ちょっと待て、俺傘家に置いたままだ」
部屋を出たところで春菜にそう言うと、今にもマンションを飛び出そうとしていた春菜は信じられないものを見るような目で振り返った。
「何を言ってるの?!傘なんて不要よ!」
春菜の様子に俊也は圧倒され一歩後ずさった。まるで飢えた獣のように目がぎらぎらとしている。
「そりゃお前はそうかもしれないけど、俺は必要だよ」
「そんなのいらないってば!さあレッツゴー♪」
「えっ?!お、おい待て…!」
ぎゅっと俊也の手を握ったかと思うと、ためらいもせずに春菜は雨の中に飛び込んでいった。引っ張られて俊也も外に飛び出す。
外はすっかり暗くなり、雨が絶え間なく降っていた。
大粒の雨粒が容赦なく俊也を襲い、俊也の髪を、顔を、体を濡らしていく。
あっという間に体中に雨が浸透し、俊也はたまらず顔をしかめ、雨を恨めしく思った。
一方春菜の方はというと、空を見上げ、両腕をこれでもかというほど大きく広げ全身で雨を受け入れていた。楽しそうに笑い、くるくると踊るように回りながら全力で春菜は雨を楽しんでいる。
体が濡れることなんてまるで気にならないようだ。むしろ雨に濡れることがこの上ない喜びだといわんばかりに嬉々して何をするでもなく道を行ったり来たりしては何度も楽しそうに笑う。
そんな春菜の様子をみていると、濡れることを嫌がる自分がなんだか小さい人間のように思えてきた。
雨はうっとおしい。濡れるし、じめじめするし、いろいろと面倒くさい。
なのに彼女は俊也とは違い雨に濡れながら笑う。いつもよりも生き生きと、彼女は笑顔を絶やさず笑っている。
何が違うのだろう。どうして彼女は雨を喜ぶのだろう。
雨の中異常なほどはしゃぐ春菜とは対照的に、俊也は雨に濡れながらじっと立ち尽くしたまま春菜の姿を見つめていた。雨が頭から顔に流れ落ちてくるために、しきりにそれを手で拭うがあまり意味がない。
何もしないでいる俊也にふと気付き、すっかりびしょ濡れになってしまった春菜がぱしゃぱしゃと雨水をはねさせながら俊也の下へと駆け寄ってきた。
「トードーさん、歩こう!」
いつも以上に元気に春菜は言いながら俊也の手をぎゅっと握り締める。
にこにこと微笑む春菜を見つめ、俊也は諦めて苦笑した。
子供のような春菜の笑顔を見ていると濡れることで不機嫌になる自分が馬鹿らしく思えてきた。
もうここまで濡れてしまったら仕方がない。こうなったら思いっきり濡れてやる。
「もうこうなりゃヤケだな」
「よし、競争だ!!」
「お前今歩こうって行っただろがおい待て!」
俊也の言葉も聞かずに春菜は脱兎のごとく雨の降る道を走り出した。しかたなく俊也も春菜を追いかける。
最初の瞬発力はあったが、普段からろくに食べない春菜が長時間走れるわけもなくすぐに俊也は春菜に追いついた。
あまり長い距離を走っていないにもかかわらず春菜は息を切らして立ち止まった。息を弾ませながらも楽しそうにけらけらと笑い、ぐっしょりと雨を飲み込んだ長い髪の毛を無造作にかきあげる。
「あはは、歩こうトードーさん!もうだめだ、疲れた」
「全然走ってねーじゃねーか」
「いーのいーの。よし、しゅっぱーつ!」
二人は雨の中町中を歩き回った。
小さな公園。見慣れた商店街。民家が並ぶ道。殆どが見慣れた場所だが、よく知った光景も雨が降っているとまるで違う。
すべてが洗い流される。水溜りの出来た道も、雨を含んだ木々や水が滴る建物もすべて。
雨の日に外をこんな風に歩いたことのない俊也にはすべてが新鮮に映った。
濡れることがうっとおしいなんてとんでもない。すべてが雨に濡れる光景がこんなに美しく、心惹かれるものだとは知らなかった。
雨は何も干渉しない。あるものすべてを濡らし、流していく。
俊也は歩きながら隣にいる春菜の顔を盗み見た。普段は見せない嬉しそうな笑顔。
この子はいつもと違うこの光景を知っていた。俊也の知らなかった、雨に濡れる神秘的で美しい景色を愛していた。
今なら分かる気がする。
ずぶ濡れになって、自分と同じようにずぶ濡れの景色を眺めて、歩くたびにはねる雨を楽しむ。まるで違う世界に入り込んだような気分になる。
どのくらい歩いただろうか。まだ肌寒いなか雨に濡れたせいで体の芯まで冷え込み、俊也は身震いをした。
かなり歩いた気がする。二人で話すでもなく、ただ並んで歩いて全身で雨を感じながら。
「おい、もうそろそろ帰るぞ。このままじゃ風邪引く」
自宅の近くの小さな公園の前に着いた辺りで、俊也は春菜に声をかけた。
「うん、そうだね」
存分に雨に濡れて満足したのか、案外素直に春菜は俊也に従い、にこりと笑った。けれど彼女は突然足を止め、雨の降る空を見上げたまま身じろぎもせずその場に佇んだ。
「春菜?」
彼女より一歩先に歩いていた俊也が、春菜の様子に気付き振り返った。
俊也から少し離れた場所で春菜はじっと空を見上げていて、俊也の呼びかけも聞こえないようだ。
「…春菜、どうした?」
さっきまであんなに楽しそうに笑っていたのに、今の春菜から笑顔が消えている。なんだか心配になり俊也が春菜に近寄った瞬間、春菜の目から涙がこぼれた。
「?!」
見間違いかもしれない。雨が目に入り、それが春菜の頬を伝っただけかもしれない。俊也はそう思ってみたが、それは違うようだ。確かに春菜は今、暗く、厚く空に敷き詰められた雨雲を見つめ、静かに泣いている。
春菜の目からは次々に涙が零れ落ち、そして雨に溶けて消えた。
なぜ泣いているのか俊也には分かりようがない。さっきまではしゃいで笑っていたのに、急に泣き出されても理由が分かるはずがない。
空から降る雨のように絶え間なく春菜も涙をこぼし、ただじっと空を見つめたまま動こうとはしない。
この子は、今ここで泣き始めたのだろうか。
ふと俊也はそんなことを考えた。
本当は、ずっと前から泣いていたのかもしれない。流れ落ちる涙はすぐ雨に溶けて消えてしまう。だから気付かなかっただけなのではないだろうか。
この少女は、笑いながら泣いていたのではないだろうか。
なぜだかは分からない。俊也に知る由もない。
でも嬉しそうに笑いながら泣いていたのだとすれば、それほど悲しいものはない。
「……っ!!」
急に胸が締め付けられるような気分に陥り、俊也は思わず春菜を抱きしめた。
驚くほど彼女の体は細く、とても冷たい。胸の中にいるのに、まるで近くにいる気がしない。
もしこの子を放したら、きっと彼女自身も雨に溶けて消えてしまう。そんな気がして、俊也は恐ろしくなった。
絶対放してはいけない。その思いで俊也の春菜を抱きしめる腕に力が入る。
トードーさん…
春菜の声が聞こえた。いや、実際聞こえたのではない。彼女の声を、俊也は感じた。
彼女が俊也を呼んだのかは分からない。ただ彼女がそう呼ぶのを感じたのだ。
その声のようなものは、実際に空気中に響いたのかはどうか分からない。けれどその微かなものは雨音に負けることなく俊也の心に残り、何度も俊也の名前を呼ぶ。
放してはいけない。
この小さな少女を放してはいけない。
その思いでいっぱいになった。
俊也の気持ちを知っているのかいないのか、ざあざあとしきりに雨は二人を濡らしていく。
雨の降りしきる中、二人は寒さも忘れて佇んでいた。