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晴天を追う

作者: Hom_Patheme
掲載日:2026/10/25

 日差しがアスファルトに照りつける。周りいっぱいにある草木は、この強烈な日差しを浴びつつも勇ましくしている。光から目を守りながら、肌にまとわる熱を感じていた。

 比喩以外で出会うことは珍しい、雲一つない晴天。この空は間違いなく自分のチンケな美術的価値観にうったえてくるものであるが、心に至る前はまとわりつく熱が邪魔をしていた。

 今日は8月14日、盆の日だ。大学二年生である自分はアスファルトまみれの街から一旦離れて、緑と黄色が並んでいる街に帰ってきた。

 そのようなごく一般的な理由で街に帰っては、見慣れた天井と壁に囲まれて数日をただ惰性で過ごすのであろうと思われた。

 しかし、この晴天がその状況を一変させたのだ。地上全体を照らす光が、部屋のカーテンの、そのごく僅かな一面を薄く光で浸されたそのときから、自分がここにいることは決まっていた。

 このような事実──自分が外にいることは、驚くべきほどの偶然のように思われる。だが、胸の鼓動がこれを必然であるとまくし立てている。

 晴天を通して差し込む光が、空想的でもなく超越的でもない記憶を呼び起こし、足をここまで運ばせた。小学生である少年が経験した、ただ単純な夏の一幕でしかない記憶が自分を突き動かしたのだ。

 その日は今日のように暑くはなかった。日差しはより少なかった。だが、澄んだ青色の空が自分たちのことを見ていたことだけは、今と寸分違わない。

 昼休みになったときのことだった。涼しさを持つ風が教室を横切り、少年少女の髪をなびかせる。それが合図であるかのように、皆が教室を駆け抜けて外を目指す。

 自分も例に漏れず、僅かな時間をグラウンドで過ごそうとした。はたから見れば砂があるばかりで、おまけ程度の遊具を散りばめているなにもない場所である。

 だが、その場所は子どもである自分からするとテーマパークのようであった。楽しさが尽きない場所だった。

 皆を追ってそこへ行こうとしたその時だった。とある少女が自分に声をかけてきた。

 「ねぇ、ちょっと聞いてよ」

 彼女が自分にした干渉は、もはや輪郭すら思い出せない声だけである。しかしその声が、間違いなくそして強烈に自分の首の裾を掴んだのだ。

 捕らわれた自分は駆けていこうとする足を止めて、彼女の方を向いた。この事実だけが自分に刻まれている。彼女が二重であったか一重であったか、まつ毛の長さや、透き通るような鼻筋であったか、耳は、口は、瞳は────自分は彼女の詳細を何も覚えていない。

 自分が振り返るのを彼女は認識し、一呼吸を大切に吸って、彼女は呟くように言った。

 「私って転校してもさ、上手くやってけるかな」

 彼女のそう放った声は少し震えていた気がする。もしくは、自分の彼女を憐れむ心が脚色を加えたのである。

 名前も、顔も分からぬ彼女の、心配が発露している生の感情を受け止めた後、自分の返す言葉はあまりにも無知であった。

 「やってけるでしょ!」

 この場面で思い出されるのは彼女の顔ではなかった、感情でなかった、声でなかった。後ろに存在していた、少しばかり濁ったガラスから覗く、雲一つない晴天であった。

 その後でさえも、自分は彼女のことを一切覚えていない。もしかしたら涙を流していたのかもしれない。はたまた、呆れ顔を向けていたかもしれない。

 そのような、彼女の自分に対する侮蔑を感じたからか、もしくは無知に極めて近しい純粋さがそうさせたのか、自分の喉から言葉がすっと出たのを覚えている。

 「ならさ。遊ばない? 一緒に! いなくなっちゃうんだよね? 一緒に遊んどこ!」

 そのときは、爽やかな風が自分を通り抜けていた。湿度とまるで無縁の風が、自分と彼女の間を満たしていた。

 だが、自分のその時の感情を思い出そうとすると、混沌そのものが心に流れ込んでくるのである。喜びにもとれるような、苦しみに近いような、今にも口から吐き出してしまいそうな感情がそこにあった。

 その後の細かい会話は忘れてしまった。しかし、やはり事実のみが残っている。

 その後自分は彼女と夏を──ほんの短い夏を過ごした。もはやその時の詳細を、ご覧の通り思い出せないでいる。のっぺらぼうで、それどころか、姿かたちの見えない少女と遊んでいるだけである。

 しかし、今までの二十年ほどの人生を過ごしてきて、これほどまでに「夏」という実感を、存在性を、現実性を得ていたときは存在し得ないと、自分の魂が言葉を用いず雄弁に語っているのだ。

 時間は少し進む。まだ夏休みには入っていなかったため、その日は土日、もしくは祝日であると思われる。

 時刻は曖昧であるが、その日も変わらずの晴天であり、豊かな草木の匂いが肺を満たし、風は文字通り颯爽と去っていった日であった。

 その時の自分の両足は、地面にくっついていた。今、このように過去を回想する自分の両足よりも、これから経験するであろう時間と空間よりも遥かに現実的にくっついていた。

 何よりも軽い体で、重力を如実に感じていたそのとき、彼女が自分の前に現れたのだ。

 やはり、服装は覚えていなかった。彼女は自分を確認して何か一言、社交辞令的なものを自分に与えたはずであったが──もしくはそうであるからか──空白が脳を埋め尽くしていた。

 「それじゃ行こう。遊ぼっか」

 両足は地面に取られていたはずである。体は風になびかれていたはずである。両眼は確かに雲一つない空を見つめていた。それでも自分は、彼女に............いや、「空」に語りかけていた。「空」に言葉が響き渡っていた。「空」は言葉を聞いていたのである。

 その後、自分は緑の豊かな雑木林をめがけた。緑が視界を塞ごうと自分に近づくほど、聴覚さえもそこの住人に支配されていった。

 そしてもはや、視界一面にはそびえ立つ木々がいるのみだった。光沢を帯びた葉に自分は魅了されていた。陽の光を受けたそれは、まるでそれ自身が輝いているかのように振る舞い、自信をまといながら風にわざと身を任せていた。

 ふと葉から目を離せば、目視できてしまいそうなほどセミの鳴き声が自分になだれ込んできた。風流やわびしさ、その他一般的に語られるような美術的価値観には何も当てはまらない鳴き声であった。

 確かに、完全なる騒音に近く鼓膜を強く揺さぶるのみであって、心に語りかけてきたものは一切なかったが、今この場面を思い起こしている自分は、その音を探すことにどこか躍起になっているらしかった。

 激しい日照りの中で、少年と......少女は、駆け回っていた。

 その理由は二人を囲む虫たちを──その幼子特有の無邪気さをもってしてか──捕まえようとしていたのかもしれない。はたまた、二人は追いかけっこをしていたのかもしれない。

 具体的なことは自分の記憶には何もないが、ただ抽象的な事実────大きな笑い声がしていたということだけは、かすかに記憶にとどめていた。

 ......今の自分もまた、緑の溢れている場所にいる。追憶の時間、空間と比較すると、自分の目にとっては木々が霞んだ色をしている。あのけたたましいだけの音も、笑い声も存在していない。

 ──もちろんのことだが、人間と数えられそうなものは自分ひとりだけである。

 あの時の少年......つまるところの自分は、確かに遊んでいたはずである。だが、やはり先程と同じく、それがなんであったか、それを経ての少女の顔は、感情は............

 全ては一切、一切消えてしまったのだ。少女に関してだけ、まるで雲を掴むような感覚がある。

 自分に唯一残されたその実感が、彼女の証拠であるように思われた。彼女の存在であるように思われた。彼女の人生であるように思われた。

 至極真っ当に考えれば彼女は自分と遊んだ後もごく平凡に、森の中の木々の一本であるように、程度の大小はあるにしても、様々な苦楽を味わいながら生きているはずである。

 だが彼女は、自分の中では死んだままである。死んだ彼女の、死んだ年が何年であるかも分からないまま、死んだ年からの時間も分からないまま、自分の中の彼女は今日も明日も死に続ける。

 その「死んだ」彼女に関する追憶を、自分は続けた。何が自分にそうさせたのかは分からないが、強いて言うならば今日の天気とだけ述べておく。

 少年と少女は緑に囲まれたまま駆け回っていた。理由がないのが理由で、目的は存在せず、ただ心と精神の要請に身体が応えていただけである。

 あいも変わらず、自分たちを見つめる空は青かった。集合してからそれなりの時間は経っていたはずだが、変わらぬ表情が空に張り付いていた。

 少年と少女は唐突に、しかし着実にその足を止めていった。地面に染み渡る音が一つ減り、二つ減り、最終的には四つ減った。

 荒い呼吸に合わせ、肺と体は大きく上下に動き続ける。今現在も、蠢めくその姿かたちを目にいれると、まるでそのような生き物に見える、強い生命をそこになぞってしまう。

 荒い呼吸は二つあったが、それらも徐々に収まっていった。風は勢いよく空間を駆け抜けていった。木々にしがみつく葉を強く揺らし、地面に立つ草花をなびかせ、二人の人間を通過していった。

 ざわめく森には、騒音がこだましていた。音が果てしなく響き渡っていた。その中に二つ、穏やかな呼吸があった。それぞれの距離は近くはなかった。だが、離れすぎていたわけではない。

 少年は少女へと言葉をかけた。その時の自分は、達成感と呼ばれるような感情を心に抱いていた。

 「どう? 楽しい?」「........................そう。じゃあちょっと休憩しよ」

 彼女の返事は覚えていないが、悪い言葉が帰ってきたわけではないであろう。その理由は、その時の自分の返事が負の感情を帯びたものではなかったからである。

 その後、少年と少女は言葉通りに休んでいた。木漏れ日の下で、体に若干付着していた汗を拭き取りつつ、見えない風に体を任せていた。

 二人の間には沈黙があった。しかしそれは、気まずさや嫌悪を含むものではなかった。もしかしたら、彼女も身体と魂で自然を感じていたのかもしれない。

 ............雑木林の中心で、地面へただ汗を流しながら、今、自分は立っている。

 自分の人生は、未だ四半世紀も経ってはいないのだが、過去と現在の溝がより深くなっていくのを実感している。

 今一度、自分は上へと顔を向けた。今日、自分のことを外へ......そして時間旅行へ連れ出した犯人を見つめていた。だが、それもここで終わりであるらしかった。

 旅は──それだけに限らず森羅万象に当てはまるが──終わらなければならないものである。自分はそう心に言い聞かせていた............しかし!

 自分に照りつける熱が、まばゆい光が、そして何よりもあの青空が! 自分の記憶を、ほんの少し............極めて少量だが思い出させてしまった!

 先程の続きである。少年と少女は木漏れ日に間違いなく存在していて、自然を享受していた。

 心地よい沈黙を味わっていたのだが、それを破ったのは彼女の方であった。

 「......ありがとう」

 この言葉のみだった。この言葉のみが、自分に思い起こされていた。長いあいだの記憶の空白の、ほんの数秒だけである。この後の記憶は一切なく、自分の中の彼女は「ありがとう」とともに死んだのである!

 今、間違いなく、自分の魂が揺れている。彼女のその後も分からぬままである。彼女の顔も、声も、何も思い出せないままであるというのに......

 だが、自分の魂は揺れている! 強く、激しく、震えている!

 ふとすると、自分の足元へ水滴が落ちてきているのに気付いた。それは汗とは違った。しかし、雨では決してなかった。

 自分は心を昂らせながらも冷静に、自問を繰り返していた。

 なぜ自分は彼女のことを追憶し始めたのだろうか。空のせいにしてしまえば簡単──そして、この仮説は極めて確実性のあるもの──である。

 しかし、他に原因はないのだろうか。潜在意識下で、自分が彼女へ後悔の感情を持っていた可能性は、自分が彼女へ哀れみを抱いていた可能性は、自分が彼女へ恋をしていた可能性はないのだろうか。

 だが、顔も声も覚えていないような......ほとんどカカシと変わりないような人間に、人間が恋を出来るだろうか、特定の感情を持てるだろうか。

 ────やはり............空が、空がそうさせたのだ!

 空が自分をここへ連れてきた。空が自分と彼女を巡り合わせた。空が自分と彼女を遊ばせた。空が彼女を雲のような存在にした。空が「死んだ」彼女に新たな結末を書き加え、もう一度死なせたのだ!

 自分の頬には、二つの縦線が淡く引かれている。

 ゆっくりと顔を持ち上げ、空を仰ぐ。すべての原因の空である。

 果てしなく青かった晴天には、今、濁った雲が漂っていた。

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