3
――午前6時50分。
まだ重たい瞼を擦りながら、公園にあった時計を見上げて時間を確認する。
「やっぱりちょっと早かったなー」
今朝はいつもより1時間早く起き、彼女との待ち合わせ場所である昨日二人で逃げ込んだ公園へとやってきた。
「あー……」
立っていてもそわそわとして落ち着かないので、とりあえず入り口付近にあったベンチに腰を下ろす。
昨日あの後、さっそく彼女を家まで送っていったのだが、彼女の家は僕らが隠れた公園のすぐ側に建つ、ひときわ存在感のある大きな白いお城のような家だった。彼女は家の前まで迎えにきてほしそうにしていたのだが、あの家の前で待つのは場違い感が否めないし、気も引けるので彼女を説得してどうにかここにしてもらった。
彼女の家から僕の家までは5分とかなり近く、さらに通学路もほとんど同じだった。ただ学校とは反対方向なので僕の登下校の時間はどうしても増えてしまうだのが、そもそも学校までは歩いて15分と近かったためその点はほとんど気にしてはいない。
「ふわぁ……」
昨夜ベッドに入っても中々眠りにつけなかったせいか、起きてから何度もあくびが出る。眠れなかった原因は放課後に色々あったからというのもあるが、直接的な要因は他にある……。
「おはよう」
「――うわっ!」
視界が塞がるほどの大きなあくびで緊張を吐き出していると、突如背後から声を掛けられ驚きのあまりベンチから立ち上がってしまう。
「そんなに驚かなくても……」
「あっ、いやっ……、これは別に……」
「……まぁいいわ。それじゃあ行きましょっか」
そう言うと彼女は、当たり前のように僕に手を差し出した。
「あー……。やっぱりこれ止めない……? だってほら、今の時間に登校する人なんてほとんどいないしさ……」
ほら、と手で周囲を示して自分たち以外に誰もいないことを彼女にアピールする。
僕らが通う高校では朝のホームルームが8時30分から始まるので、生徒はそれまでに登校すれば良い。多くの生徒は8時頃を目安に登校してくるので、この時間だとほぼ誰とも登校時間は被らない。
「いつ誰が見ているか分からないし、やるなら徹底しないとダメよ。ほら」
早くと言わんばかりに彼女が手をぶんぶんとさせて急かしてくる。
「いや、でもさぁ……」
彼女の顔と手を交互に見合わせどうにか抵抗できないかと考えたが、すぐにその無言の圧に耐えきれなくなり、手に滲んだ汗をズボンで拭ってから渋々彼女の手を掴んだ。
「じゃあ行きましょ」
「うん……」
そうして僕らは手を繋いで学校へ向かった、のだが……。
「………………」
しばらく歩いても会話はいっさいなく、僕はその気まずさに耐えかねていた……。
女性に触れるというだけでも緊張するのに、形式上付き合うことになったとはいえ、そもそも僕と彼女がまともに話したのは昨日が初めましてなのだ。それで気まずくならないという方がおかしいだろう。なにか話題を……、話題は……。
「あーそういえば、朝はいつもこの時間なの? 結構ギリギリの時間に教室へ入って行くのをよく見るけど、通学路で見かけたことがなかったから」
毎朝同じ道を通るはずの彼女と、通学中に出会ったことはこれまで一度もなかった。
「そうね」
「……それにほら、やっぱり他の生徒に一緒に登校するところを見せたいんなら、もう少し遅い時間の方がいいんじゃないの?」
「……学校に行けば分かるわ」
「……そっか」
「えぇ……」
その後、彼女はもちろん僕も口を開くことはなかった。そうして手は繋いだままだったものの、なんとも言えない空気感のまま僕らは学校へと到着したのだった。
靴を履き替えるために、下駄箱で一度繋いでいた手を離して彼女と別れる。
「はぁー……」
自分の下駄箱の前でさっきまで彼女と繋がっていた右手を見て大きく息を吐き、ギュッと握る。手を離してもなお高まった心臓の鼓動が鳴り止まない。繋がった手から彼女に伝わっていなかっただろうかと心配になり、後ろにいた彼女の方をちらっと見る。
「あれ……?」
すると彼女はまだ靴を履き替えることなく、自分の下駄箱を睨みつけるように見上げたままその場に立ち尽くしていた。
「どうしたの?」
「……ここ、開けてくれないかしら」
彼女が〝雨宮〟と書かれた自分の場所らしき下駄箱を指差す。
「全然いいけど……」
虫かなにかいたのかな? と、そんな軽い気持ちで下駄箱に手をかけると、彼女はサッと僕から距離を取った。
「えっ……?」
思わず彼女の方を振り向きながら、そのまま勢いよく固く閉ざしていた彼女の下駄箱を開けれしまった。
「――うわっ! えっ!?」
すると次の瞬間、大量のなにかが彼女の下駄箱から飛び出した。そこから出てきたのは大量の虫……ではなく、これでもかとばかりに入れられていた手紙の山で、それが雪崩のように崩れ落ち僕を襲った。
「はぁ……。これよ……」
彼女はあきれ顔で落ちた手紙を拾い集めると、下駄箱に残った分もまとめて手に持ち、そうしてようやく上履きに履き替えた。
「え、昨日って学校に来てた、よね……?」
「えぇ」
「ってことはこれ、もしかして……」
「……一日分ね」
「うわぁ……」
こんなこと現実にあるのか……。下駄箱に手紙なんてことが起こるのは物語の世界だけだとばかり思っていた。そんな目の前で起こった非日常な出来事に関心しながら、自分も下駄箱を開けた、その時だった――。
「……え?」
彼女の方を見ながら自分の上履きに手を伸ばすと、右手が上履きではない別の何かに触れた。手に当たったそれをゆっくりと引き出すと、なんと僕のところにも人生初めてとなるラブレターらしき白い無地の封筒が入っていたのだ。
「どうしたの? 早く行きましょ?」
「――えっ? あー、うん」
なんでまた……。いったい誰が……。予想もしていなかった非日常に襲われ、僕の身体は動機と吐き気に支配されてしまう。それを彼女に気が付かれないよう、必死に平然を装いながら身体で手紙を隠して自分のバッグに押し込み、急いで上履きへと履き替えた。
「こっちよ」
「えっ?」
いつも通り教室へ向かおうとすると、彼女はそれとは反対方向に歩き出していた。
僕らの通う高校の建物はコの字型になっていて、入り口から右側は一年生から三年生の教室がある教室棟。左側は職員室や図書室、音楽室などがある実習棟に別れている。その真ん中には中庭もあり、校舎のどこからでも見られるということを除けば、花や木々、ベンチもあり雰囲気もかなり良い。
教室に行くには下駄箱を出て右なのだが、いったい彼女はどこへ向かおうとしているのだろうか。踵を返して先を歩く彼女に続くと、職員室と図書室を通り過ぎ、一番奥の部屋の前に差し掛かったところでその足が止まった。
「ここって……」
「ちょっとこれいいかしら」
「ん? あ、あぁ」
彼女が抱えていた、さきほど拾い集めた大量の手紙の束を渡され受け取る。
「おっと……」
改めて見るとすごい数だ。この数を毎日なんて……。そう感心していると、彼女が鞄から鍵を取り出し、そのまま鍵を開けて中へと入って行ってしまった。
「って、え?」
常に解放されている教室とは違い実習練側の教室は、基本的に担当の先生が来るまでは施錠されていて、鍵は職員室で管理されていている。ここに来る途中で職員室には寄っていないのに、どうして彼女が保健室の鍵を持っているのだろうか……。
「どうしたの? 入らないの?」
「あ、あぁ……」
言われるがままに中に入ると、彼女は扉を閉め、そしてそのまま鍵まで閉めてしまった。
「えっ……?」
突然の展開に、僕の胸の鼓動がさらに速まる。
彼女によって解錠された部屋には、もちろん僕ら以外には誰もいない……。日の光が当たらない薄暗い部屋で、壁に掛かけられた時計の秒針を刻む音だけが静かに響き渡る。
「えーっと……?」
「どうしたの? ほら、こっち」
彼女は部屋に入ってすぐのところにあったソファーに腰を下ろして荷物をテーブルの上に置くと、ポンポンと自分のすぐ横を叩いて隣へ座るように促した。
こんなところでなにを……。まさか! いやでもフリとはいえ付き合っている訳だし……。でもそんな、まさかこんな場所で? というかそこまでするのか!? 彼女に限ってそんなことはないと分かってはいても、つい嫌な想像が頭を駆け巡ってしまう。
「ゴクッ……」
息を飲み、恐る恐る彼女へと近づいていく。
「………………」
そして指示されたソファーの彼女の隣、ではなくすぐ側にあった丸椅子に腰掛けた。
「……え?」
「ん……?」
自分の隣へ座らなかったことを疑問に思っている様子の彼女。そんな彼女に、さきほどのジェスチャーの意図に気がついていなかったかのようにとぼけて誤魔化すも、少しわざとらしすぎたか彼女が訝しげにこちらを見つめる。
「はぁ……、まぁいいわ。ほら、他の生徒が来る前にさっさと済ませちゃいましょ」
そう言って彼女が僕に手を差し出す。
「すまっ――!?」
やっぱりそうなのか!? そんな簡単に付き合ってもいない男とそんなことを? ……いやでも、今は付き合っていることになっている訳だから……、え? そうしたら今ここでするのが正解、なのか……? 頭の中をそんなことばかりがぐるぐると巡り、焦りのあまり特に意味も無くキョロキョロと視線が泳いでしまう。
「あなた、もしかして……」
「――んぇっ!? えっ? な、なに……?」
さらに刺すように僕を見つめるその視線に思わず声が上擦ってしまう。
「………………」
「ど、どうした、の……?」
そんな僕の反応を見た彼女が、無言のままテーブルに手を着いて身を乗り出しそのままぐっと顔を近づけてくる。
「っ…………」
そして彼女の顔がすぐ目の前にまで迫り、耐えきれなくなってギュッと目を瞑った。
「……へんたい」
「――えっ!? あっ! うわぁぁっ!」
突然耳元で囁かれた彼女の声に全身がぞわっとなり、驚きのあまり床へと転がり落ちてしまう。
「あいっ、たぁー……」
尻餅をついて打ったお尻よりも、反射的に変にすくめてしまった首の方に強い痛みを感じる。痛めた首を押さえながら、バランスを取ろうともう片方の手を伸ばすと、さきほど倒れたときに一緒に床に落として散らばってしまったものが手に触れた。
「これって……。えっ――?」
するとその時、彼女の方からなにやら異様な機械音が聞こえ、慌てて身体を起こしてその音のする方を覗き込む。
「あっ……」
「そんなところで寝てないで、ほら、次ちょうだい」
「あ、はい……」
とりあえず手に持っていたそれを渡すと、彼女は丁寧に封を開け軽く中身を確認してから横にあった機械へと挿入した。
「……手紙」
一言も発せず、慣れた様子でただ無心に手紙をシュレッダーへかけていく彼女。
もしかしなくてもさっき彼女が〝さっさと済ませる〟と言っていたのは……。
「はぁ……。まったく……。朝からいったいなにを考えているんだか……」
「そっ、それは……」
ここで襲われるかもしれないと思った、だなんて口が裂けても言えない……。
「まぁ大体予想は付くけど……。あなたと私に限ってそんなこと起きるわけがないでしょ?」
「すみませんでした……」
「バカなこと考えていないでほら、早くそれ拾って」
「はい……」
その後、僕も一緒に手紙の中身の確認を手伝い、そうして三分の一ほどシュレッダーを終えたところで、彼女が手を動かしたまま飲み込まれていく手紙を見つめながら口を開いた。
「……いつもは楓さんが付き合ってくれていたのよ。こんなこと他の生徒がいる時にはできないでしょ? それに、朝や帰りもついでだからーって楓さんが送り迎えまでしてくれて……」
「それでいつも遅かったのか……」
確かに、毎朝下駄箱で大量の手紙をぶちまけていたら、たとえそれが一枚や二枚だったとしても、彼女の言う恋愛脳な他の生徒たちの噂の標的になってしまうだろう。ましてやそれを処分しているところを見られた日には、騒ぎ立てる輩が湧きかねない……。
「えぇ……。と言っても最近は楓さんが付き合ってくれていたから――」
「っ――!?」
その時、突然彼女のスマホの通知音が鳴り、その音と振動に驚いて思わず身体がビクッと反応してしまう。
「――ごめんなさい! これも苦手なのよね……。うっかり切るの忘れていたわ……」
「あーいや、全然……」
彼女は慌ててスマホを操作し着信音がならないように設定すると、安心させようとしてくれたのかその画面を僕に見せてくれた。
「……本当にごめんなさい、これでもう鳴らないから……」
「……ごめん」
「いえ、悪いのは私だから……。でも、大丈夫……? 顔色が悪いようだけど?」
「うん、ほんとに大丈……」
そこまで言いかけたところで、心の底から申し訳なさそうに落ち込む彼女の姿に、なんだか僕の方まで申し訳ない気持ちになってしまう。
「……今くらいなら全然、でもないんだけど、びっくりするくらいだからまだ大丈夫……。ただ何回も連続で鳴るのとか、それこそ電話の着信音なんかはダメで……」
「それでスマホも自宅の電話も……」
「あーうん……。あ、でも、それで困っていないっていうのは本当で、スマホがないとないでその分他のことに時間を使えるし、これはこれでいいかなーって」
「そう……」
「うん……」
「……でもそうね。確かにこれがなかった時の方が、もっと色々なことに目が向いていた気がするかもしれないわね……」
「まぁ、って言っても、僕の場合は意図してそうした訳じゃないんだけどね……」
苦笑いを浮かべる僕に、彼女がふっと微笑をこぼす。
「……でもなんかいいわね、そういうの……。私もこれを見ない時間を少し増やしてみようかしら。……あ、でも今だけちょっとごめんなさい」
そう言い彼女はもう一度スマホに視線を戻すと、ふふっと微笑んでから慣れた手つきでスマホを操作した。
「えーっと、それでなんの話だったかしら……」
「あー、楓さんが朝付き合ってくれてたーって」
「あ、そうそう。教室にいてもあまり落ち着かないし、楓さんと朝ゆっくり話すのも好きだから、それでいつも教室にはギリギリに行っていたの」
「あー……」
「まぁ授業が始まってしまえば、ね……」
あれだけ周囲の視線を集めてしまう彼女にとって、人が密集して距離も近い教室はさぞ居心地が悪いことだろう。
「でもそっかー、楓さんが……」
仕事のために早出をするというタイプではない楓さんがここ最近、なぜか毎朝早く出て行くことを不思議に思っていたのだが、まさかそれが彼女のためだったとは……。だが、自分ではなく生徒のためとなればそれも納得もいく。
上から白衣を着るから服なんか何でもいいと、学校でもショートパンツに黒のストッキングとTシャツというよな、教師にしては少し派手めの服装が多い楓さん。外見から初めは話掛けにくいと感じる人が多いが、生徒の相談や悩みは親身になって聞いてくれる。その際のアドバイスもサバサバした性格故にバッサリ且つ的確で、生徒たちからの評判はかなり良かった。実際、楓さん目当てで保健室に通っている生徒も少なくないのではないだろうか。
「あ、じゃあ鍵も楓さんが?」
こくんと頷く彼女。
「そうしたらそろそろ楓さんも来るのかな」
「……あとは香也に任せる、って」
「は……?」
「香也がいるなら大丈夫だろうし私はギリギリまで寝る、あとは任せた! だそうよ、ほら」
さきほどの着信音は楓さんからだったようで、向けられたスマホの画面には、彼女がさっき言ったようなことが送られてきていた。意外というのも失礼かもしれないが、さすがは女の子と言うべきか、二人とも会話の中で可愛い絵文字やスタンプを駆使していて、そのキラキラとした文章になんだか見てはいけないものを見ているような気持ちになる。
「……なんかごめん」
「なにが?」
「いやー? 色々と……?」
「そう……?」
楓さんにはこういう適当なところもある、というかこれが僕が知る普段の楓さんだ。
だが身内びいきをする訳ではないが、今まで僕自身、楓さんのこういう性格のおかげで救われたことも多々ある。僕以外にもきっと同じように救われた、そこまでいかなくても元気づけられたという人は少なくないのではないだろうか。
そんな他愛もない会話をしながらも、彼女は慣れた手つきで手紙の処分を続けた。中には手紙の他に映画のチケットや小物が入っているものまであり、それらを一つ一つ確認して手紙だけをシュレッダーにかけていった。
「あっ……」
彼女が手紙の処分するのを見て、自分にも対処しなければいけない問題があったことを思い出す。膝の上にバッグを置き彼女から見えないようその中に手を入れ、覗き込むようにして奥でぐしゃぐしゃになった封筒を引っ張り出す。
「ふぅ……」
一度深呼吸をしてからバッグの中で封を開け、そして中に入っていた手紙をゆっくりと広げる。
「――うわっ!」
その中に綴られていた文字を見て思わず、膝の上に置いていたバッグごとつい手紙を床に放り投げてしまった。バッグの中身があふれて二人の足元に散らばる。
「えっなに!? 大丈夫……?」
「え? あーうん、全然?」
彼女がシュレッダーをする手を止め、足元に転がった荷物を拾おうと手を伸ばした。
「――ちょっ!」
すると彼女の手の先に、さきほどの手紙が開いたまま落ちていることに気が付き、慌てて拾いあげる。
「……はい、これ」
「あ、あぁ……。ありがとう……」
拾いあげた手紙を背中に隠したまま、片手でそれ以外の落ちていた筆箱やノートを彼女から受け取りバッグにしまう。
「…………ごめんなさい。……こんなことに、巻き込んでしまって……」
きっと手紙の内容が見えてしまったのだろう……。彼女はさきほどまでとはまるで別人のように申し訳なさそうに、そして今にも崩れ落ちてしまいそうなほどに顔を曇らせる。
手紙には赤い文字で大きく殴り書きのように僕への思いがこう綴られていた。
『これ以上彼女に近づくな』と……。
「で、でも、逆に良かったよ。これを見つけた時からラブレターだったらどうしようーって焦ってたからさ。ほら、僕そういうのだめ、だし……。楓さんからなにか聞いてる?」
俯いたままで彼女からの返事はなかったが、なにか言わなければとそのまま話を続ける。
「……実はさ、僕も去年色々とあって、それから女の人が怖くて……、というか好意を向けられるのが苦手になっちゃってさ……。相手から好意を向けられているって分かっただけで、申し訳ないけど吐きそうになっちゃって……。それで、昨日もあんなことに……。あと電話が苦手なのもそれが原因で……。えーと、どこから話したらいいかな……」
自分でもなぜこんな話をしたのか、なにが言いたいのか分からない。だけど、苦しそうな彼女の表情を見ていたらなぜだか考えるより先に口が動いてしまっていた。
それから僕は、昨年あった嫌な思い出を思い返すように所々伏せながらも彼女に話した。
昨年、僕は以前通っていた高校で、当時付き合っていた彼女との恋愛感情のもつれによるストレスと寝不足で精神的に不安定となってしまった。
そんな中、勇気を振り絞って唯一悩みを打ち明けた両親には『あんな良い子がそんなことをするわけがない』と信じてもらえず、それ以降、僕は他の誰にも相談することができずに一人で抱え込み続けた。
そんな状態が続いたある日。いよいよ身体がその負荷に耐えられなくなったのか、学校の授業中に突然意識を失ってしまい気がつくと僕は病院へ運ばれていた。溜まりに溜まったストレスが原因で胃に穴が開いてしまい、そのまましばらく入院をすることになったのだが、どうせ誰にも受け入れてもらえないだろうと両親はおろか医師との会話も拒み続けた。
やがて食事が点滴から流動食に変わるも、それを一切口にせず日に日にやつれていく僕の様子を見てさすがに異変を感じた両親が、兄さんの婚約者であり高校で養護教諭をしていた楓さんに相談して病院まで来てもらうこととなった。
「うわぁー、この絵の具久しぶりに見たわ。美味しくないよなぁ、これ……。食べたくないのも分かるわー」
「………………」
「おいー、香也ー?」
「………………」
だが、昔から大好きだった楓さんだとしても悩みを話すことはできなかった。話をしてまた両親のように否定されるのが嫌で、怖くて、今すぐにでも吐き出したくなる気持ちをぐっと飲み込み口を閉じた。
「あ、ふーん、そういう感じね……。お前がそういうつもりならっ――」
「――んっ!?」
いつまでも口を開かない僕に見かねた楓さんが、僕の顎をくいっと持ち上げ閉ざしていた口、というか唇に自分の唇を重ねた。状況が飲み込めない中、とりあえず引き剥がそうと楓さんの肩を掴んだその次の瞬間、楓さんが僕の口の中に思いっきり息を吐き入れてきた。
「んっ――!? けほっげほっ、はっ……。――なに!? なんで!?」
さらに意味の分からない行動に動揺が隠せず、つい言葉を発してしまう。
「はい喋ったー。私の勝ちー」
「――はぁっ!?」
目の前で嬉しそうに笑いピースをする楓さん。その様子に今まで頑なに口を閉ざしていたことが、なんならずっと一人で悩んでいたことさえも馬鹿らしくなり、これまでずっと心の奥底で押し殺していた感情がぐっと込み上げてきてしまう。
「――ぷっ、あははははは。なにそれ……。そもそも競ってないし、意味分からないし」
「なんなら笑わせたことで私の圧勝だ」
「たばこ臭かったからむしろマイナスだね」
「なっ――、そんなはずは……。急いで来たから吸ってる時間なんてなかったのになー……」
口元を両手で覆いはーっと息を吐いて匂いを確認するが、自分では分からなかったのか首をかしげる楓さん。すると突然、あっ、となにか思いついた様子でこちらを向き直した。
「よし、もう一回キスして確認しよう。今度はもっと濃厚なので」
そして、再び唇が重なりそうなくらい楓さんの顔が近づく。
「――ばっ! しない、しないから! 臭くない! 冗談だって!」
久しぶりのふざけた会話におかしくなり、お互いにふふっと笑みがこぼれる。
笑ったのなんていつぶりだろうか……。
静かだった病室に二人の笑い声が響く。
楓さんとこうやってふざけるのが昔から大好きだったな。
それに楓さんのこともやっぱりまだ……。
唇に残る温もりに触れ、自分の気持ちを再認識する。
「はぁ……、それで? なにがあったの?」
ひとしきり笑い尽くし、ようやく落ち着いてきたところで楓さんが口を開く。
「えーっと……」
それから僕は今まであったことを、悩みを、想いを、そのひとつひとつ思い出すように楓さんに打ち明けた。うまく言語化できずに何度も詰まってしまう僕の言葉を、楓さんはただ静かに頷いて受け入れてくれた。
「……それで、それで――!」
今までずっと一人抱えていたものをすべて吐き出したせいで、涙があふれてぐちゃぐちゃな顔になっていた僕を、楓さんが強く、それでいて優しく抱きしめる。
「……辛かったな。今まで一人でよく頑張ったな……」
「うん……、うんっ……」
泣きじゃくる僕の背中を、楓さんがトン、トンと優しく叩く。楓さんの手から伝わる温もりも優しさも、そのすべてが心地よく、僕の言葉を初めて受け入れ理解してくれたことが嬉しくて、あふれ出た涙がしばらく止まらなかった。
その後、楓さんが両親に今の僕の状態とこれまでのことを説明をしてくれた。初めは戸惑っていた両親だったが、真剣な顔で話す楓さんを見てようやく納得してくれた。
さらに今のまま学校に通っていてもまた同じことになると、楓さんは自らが務める天ノ川高校への転入を勧めてくれた。天ノ川高校までは、実家からだとかなり距離があるので通うには一人暮らしが必要となる。高校生の一人暮らしは無理だと心配する両親に、私が責任を持って面倒を見ると楓さんが必死に説得をしてくれたおかげで、両親も楓さんがそこまで言うならと条件付きではあるが渋々承諾してくれた。
条件は二つあり、一つは楓さんの近くに住んで面倒を見てもらうこと。これは学校からも近い楓さんのマンションの隣室にちょうど空きが出ていたのですぐに解決できた。
問題は二つ目だ。二つ目の条件は、編入後の定期試験で毎回必ず好成績、高順位を取ること。楓さんが務める天ノ川高校はこのあたりだと有名な大学附属高校で偏差値もかなり高く、その授業はついていけずに自主退学する生徒が出るほどにレベルが高かった。その分、一度入ってしまえばほとんどエスカレーター式に付属の大学へ行くこともできるが、その編入試験は一般の入学試験以上に高難易度で、在校生が受けてもほとんど合格できないほどに難しいとのことだった。
高校入学当初そこそこ良かった僕の成績は、色々あって勉強が手に着かなくなってからは下から数えた方が早いくらいに落ちてしまった。もちろん、そんな今の僕の成績では合格はかなり厳しいだろう。だけど、自分のためにここまで言ってくれた楓さんの気持ちに、僕はどうしても応えたかった。
退院後、学校には行かず、自宅で毎日朝から晩まで必死に勉強をした。どうしても分からないことは楓さんに聞き、楓さんも時間がある時は家まで来て勉強を教えてくれた。
その甲斐あって試験は無事に合格。ボーダーに対してもかなり余裕を持って合格することができ、新学期になってすぐの実力テストでも、今まで受けてきた試験の中でも最高の学年二位というかなりの好成績を取ることができたのだった。
「そう……」
僕の話を静かに聞いていてくれた彼女がそこでようやく小さく口を開いた。それに嬉しくなった僕は、またしても勢いのまま余計なことを口走ってしまいそうになる。
「えーっと、つまりはそのー、そう! 僕も誰か付き合っている相手がいれば、たとえ好意を持たれたとしても言ってはこないだろうし! それに……」
君なら、と続けようと思ったがそれはやめた。
「それに……、あーなんだ? えーっと……、あー……」
とりあえずなんでもいいから捻り出そうとこめかみを押さえて考えるポーズを取るが、すぐにばれるような嘘すら浮かんでこない。
「……ふふっ、なにそれ。必死すぎ」
さきほどまで暗かった彼女の表情が少しだけ明るくなる。
「……僕もこれ、借りていい?」
こくんと頷くのを確認して、さきほどの殴り書きを封筒と一緒にシュレッダーに入れる。手紙はいい音を立てながら、あっという間に五センチ程度の細いゴミへと変わっていった。
「おぉーっ。これ、残りのやつもやってもいい?」
「……えぇ、いいわよ」
彼女が手紙を確認して僕に渡し、それを僕がシュレッダーに入れる。残り三分の一くらいとなった手紙の山をそうして二人でバラバラにしていった。
「ふぅー」
初めての感覚につい夢中になってしまい、一言も話さずに無心で残りの手紙を全部紙くずへと変えた。一仕事終えて満足感に浸っていたが、これを毎日となると話が変わってくるし、当人はたまったものではないだろう。
「はい」
彼女は僕が作業を終えると、棚から持ってきたゴミ袋にこれまた慣れた手つきで細かくなった紙の山を移していく。
「…………ありがと」
「ん? あぁ、全然。なんならもう少しやりたいくらい。それは? 捨てに行く?」
「えぇ。もう少ししたらこれを捨てて教室に行きましょうか」
それから僕たちは時々他愛ない会話をしながら、時間になるまでそれぞれ自由に過ごした。 そして二人でゴミを捨てた後、彼女は職員室まで保健室の鍵を返却に、僕はそのまま自分の教室へと向かった。
「んーっ、これくらいなら付き合ってもいいか……」
一仕事終えた達成感からだろうか。教室へ向かう足取りはいつもより軽く、普段とは違う朝に不思議と心地良さのようなものを感じていた。




