14
「はぁ、はぁ、はぁ……」
こんなに全力で走ったのなんていつ以来だろうか。苦しくて胸が張り裂けそうになる。
こんなに急いで駆けつけたところで彼女が目を覚ますという保証はない。
それにもし彼女と話ができたとしても、またあの時のように拒まれたら……。
それでも、苦しくてもキツくても僕は足を止めることはなかった。
不安な気持ち以上に僕の心を埋め尽くしたのは……。
――雫に会いたい。
ただそれだけだった。
その想いを胸に彼女の元へと掛けていく。
彼女に会いたい。
声が聞きたい。
手を繋ぎたい。
また一緒にふざけて笑いあいたい。
また一緒に保健室で話したい。
ハニーランドのパレードだってまだ一緒に見ていない。
それに他にもまだまだ一緒に行きたいところがたくさんある。
「あっ――」
彼女を想って焦る気持ちに足が追いつかず、途中何度もつまずきそうになった。
その度にメモを持った手を握りしめ、ただひたすらに彼女のいる病院を目指した。
今度こそ、震える彼女をこの手で抱きしめたい……。
――あぁ、僕はこんなにも彼女のことを……。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
長かったはずの病院までの道のりも、彼女のことを想うだけであっという間だった。
そして病院に到着し、休む間もなくそのままの勢いよく一段抜かしで階段を駆け上がる。
「411……、411……」
そして目的の階に到着し、扉の前に書かれた番号を確認しながらメモに書かれていた病室を探す。
「ここだ……」
三桁の部屋番号の一桁目は思った通り階数を表していたため、目的の病室まですぐに辿り着くことができた。
「ふぅー……」
この先に彼女が、雫がいる……。
そう思うと、自分でも分かるくらいに脈が速くなった。全力で走ったからというのもあるのだろうが、ようやく雫と会える嬉しさに僕の胸は高鳴っていた。
「すぅー、ふぅ……」
扉に手を掛け、一度短く深呼吸をする。
「よし……」
勢いよく扉を開けると病室からふわっと風が吹き、大好きな甘く落ち着く香りが僕の鼻を抜けた。
「雫……」
扉を開けた先、月明かりが照らす薄暗い部屋の奥でベッドに座り、開いた窓から外を見上げる雫の姿が視界に入る。
「よかった……」
既に目を覚ましていた彼女の姿を見て、ほっと胸を撫で下ろす。風にふんわりと揺れる彼女の長く綺麗な髪を見ながら、ゆっくりとその側まで近づく。
「……もう、春も終わりね……」
ベッドのすぐ側まで近づくと、窓の外を見ながら彼女が呟く。
「……そう、だね」
独り言かもしれないと思いもしたが、とりあえず返事をする。
「………………」
だがそれ以上彼女からは特に何も反応はなかった。
こちらを一切振り向かないので、彼女の表情を見ることはできない。
「……………………」
心臓の鼓動がさらに早くなる。
胸にも締め付けられるように痛みが走る。
僕はただ彼女と一緒にいられるだけで良かった。
側にいられるのなら今のまま、偽物でも良い。これ以上の関係なんて望まなない。
そう思っていたはずだった……。
でも、いつからだろうか……。
本物に、彼女と本当の彼氏彼女になりたいと思うようになってしまったのは……。
彼女と過ごす幸せな未来を想像するようになってしまったのは……。
彼女への想いに気が付いてしまったのは……。
いや、本当はきっと最初から気が付いていたのだろう。
だけど僕は自分の気持ちに気が付かないようにそれを心の奥底へと押し込み、蓋をした。
だってそうすればこのままでいられるから。
僕がこの想いを胸の内に秘めていれば、隠していれば、嘘をつき続けていれば、彼女とのこの関係はまだ続けられる。
それも言い訳、か……。
彼女にこの想いを伝えて、今の関係が終わってしまうのが怖かった。
だから僕は自分の気持ちから逃げた。そうして彼女からも逃げたのだ。
否定されるのが怖かった。自分が傷つくのが嫌だった。
――でももう逃げない。逃げたくない。
雫にまた否定されようと、拒絶されようとかまわない。
椛蓮が僕にしてくれたように、僕も雫と何度でも向き合い、彼女に本当の思いを伝えよう。
そう思うとさっきまでキツく閉ざしていた口元も自然と緩んだ。
「雫のことがずっと好きでした。僕と付き合ってください」
「っ――」
僕からの告白にピクッと反応し、振り返ろうとする雫。だが、こちらを向く寸前ですっと肩を落とし、また窓の外の方へと視線を戻してしまった。
「……あの子はいいの? ……好き、なんじゃないの?」
〝あの子〟とは確認するまでもなく椛蓮のことだろう。
「いや、椛蓮のことは好きだけど、これは恋愛感情ではないよ」
椛蓮のことは好きだし、大切だと思っている。だけど、この気持ちが恋愛感情とは違うと今なら断言できる。
「かれん、ね……。随分と仲も良さそうじゃない。きっとお似合い、なんじゃないかしら」
「待って! 本当に椛蓮とはなにも――」
「――じゃあ! じゃあ、保健室で見たあれはなんだったの……?」
「あれは……。でも椛蓮とは本当にそんな関係じゃないんだ。ここに来るのだって、椛蓮を……」
「あんな顔してよくそんなこと言えるわね。じゃあなに? あなたは付き合ってもいない相手の手を握って、頭も撫でるの? そんなの……。……ほらやっぱり、あなたも他の男と同じじゃない……」
「ちがっ――」
あの時と同じ言葉を今度はすぐに否定しようと、ベッドを回って雫のすぐ目の前まで近づく。そこでようやく見ることのできた彼女の表情は、どこか寂しそうで、部屋に差し込む月明かりが彼女のその白く綺麗な顔をいつにも増して透き通って見せた。
「雫……」
「来ないでよ……」
「僕が好きなのは、ずっと一緒にいたいと思うのは椛蓮でも他の誰でもない。……雫だけなんだ」
「……好き、ね……。それで? じゃあ、もし私が今あなたの告白を受け入れたとして、付き合って、その後はどうするの?」
「どうって……」
「どうせあなたも結局、お目当ては私の顔とか身体、なんでしょ……?」
着ていた病衣の胸元をギュッと握りしめる雫。
「僕はっ――」
「じゃあ付き合っても私に指一本触れないって誓える?」
「それは……」
「ほらやっぱり……。無理なんじゃない……」
「――でも! 最初に僕の手を取ったのは雫じゃないか」
「っ……」
言い切ってからまずいと思ったがもう遅く、さらに曇った彼女の表情を見て後悔の念に駆られる。
「ごめん、そんなつもりは……」
「そう、ね……。役とはいえあんな関係を受け入れてしまったこと自体、どうかしていたのよ……。……やっぱりあなたとは、付き合うべきではなかったのかもしれないわね……」
「そんなこと……」
「こんなことなら、こんな思いをするなら、あの頃のままずっと一人の方がよかった……」
雫の目からこぼれた涙が、胸元を押さえていた腕の袖を濡らす。
「雫……」
「もう帰ってよ……」
彼女からの否定の連続に、また逃げたい気持ちに駆られる。
なにも言い返すことも、動くこともできない。そんな自分に情けなさを感じる。
でもそれ以上に、また目の前で雫を泣かせしまっていることが悔しくて、抱きしめることもできないことがもどかしくて苦しくて、僕の胸をギュッと締め付けた。
「っ…………」
唇を噛みしめ、両手の拳を強く握りしめる。
もう無理だ……。
そうして再び諦めかけ、目を閉じようとした時だった。
「いっ――」
突然右手に刺すような痛みが走った。思わず閉じかけていた目を開き握っていた手を開くと、そこには椛蓮が書いてくれたメモがあった。
「………………」
……椛蓮もこんな気持ちだったのだろうか。
椛蓮が僕に対して好意を寄せていたことは、当時からなんとなく分かっていた。だからこそあの頃の僕は彼女を避け、距離を置き、彼女からもその想いからも逃げ出したのだ。
何度否定されても折れずに、それでもこんな僕にいまだ好意を寄せてくれていた椛蓮。
そんな彼女の想いを突き放して、僕は今ここに来ている。
それなのにこんなところで僕が折れるわけには、逃げるわけにはいかない。
メモを見つめながら右手をもう一度ゆっくりと閉じ、自分の額に当てて目を瞑る。
「……ありがとう」
小さく囁き、握った拳でドンドンと強く胸を叩く。
昔、僕が落ち込んでいる人や泣いている人に、大丈夫と元気づける時にしていたポーズ。
「突然なに……」
「すぅ……、ふぅー……」
上を見上げ、もう一度大きく深呼吸をする。
そして握っていたメモをズボンのポケットの奥へと突っ込み、再び雫と向き合う。
「僕は雫に触れたい。ずっと、また雫と手を繋ぎたいと思っていたし、今だってすぐにでも抱きしめたいって思うよ」
「だからそれが嫌だって言っているの! 気持ち悪いって言ってるの! もう嫌なのよ……」
病衣を握る雫の手にさらにに力が入る。
「身体目当てだ、って言われても仕方ないと思う。でも……」
「――でもなに!?」
「……本当に好きだから。雫のことを心の底から想うからこそ、そうしたいって思うんだ」
「だからそれが――」
「――だけど! それ以上に雫のことを大切にしたいって思うから。守りたいって思うから。本当に嫌だって思うならもうしないよ」
「どうしてそこまで……。なんで、どうして私なの……?」
「……大人っぽく見えるのに意外と可愛い物が好きで、甘いものに目がなくて。ハニーランドに行くまでワクワクして手をブンブンしてるのも、楽しみで口数がふえるのも、目を輝かせているのも好きだ。その全部を僕だけが知っていたいとさえ思うけど、子どもと接していた時のあの優しい顔も好きだし、楓さんと一緒に三人でふざけている時の雫も僕は全部好きなんだ」
「本当の私はそんなんじゃ……」
「あと自分のことを自分で可愛いって言っちゃうところも、人前ではニコニコしていても実は裏では腹黒なところも。いたずらしたりからかったりするのが好きなところも好きだ」
「それは、あなただから……」
「また一緒に登下校もしたいし、一緒にふざけて他愛ないことで笑い合いたい。また一緒に保健室で話したいし、あーでも、シュレッダーはもう当分いいかも……。あとはハニーランドのパレードだってまだ一緒に見ていないし、まだ乗ってないアトラクションやショーだって二人で見たい。それに雫が行きたいって言っていた所にも一緒に行きたい。それに、僕だって雫と行ってみたいたいところがたくさんあるんだ」
「――そんなの、私だって……。でも……」
彼女の瞳からまた涙がこぼれ落ちる。
「……でも私は、あなたとは付き合えない……。だって私にはそんな資格、ないから……」
「それなら、今まで通り一緒にいられるだけでいいよ。もしそれで雫に他に好きな人ができて、その人と付き合うことになったとしても、僕は心から祝福するよ」
想像した彼女の幸せそうな姿に自然と僕の表情も緩む。
「どうして……、なんでそんな顔ができるの……」
「もちろん、雫が僕のことを好きになってくれたら嬉しいし、側にいるのは僕でありたいと思うよ? でもそれ以上に、雫には幸せになって欲しいって、ずっと笑っていてほしいって思うから。雫が涙を流さないでいられるなら、幸せだと感じられるのなら、その相手が僕じゃなくてもいいんだ」
「そんなの嘘……。そんな人いるわけない……」
「それだけ雫のことが好きなんだ。他の誰でもない、雨宮雫っていう一人の女性のことが」
決して見栄や意地などではない、嘘偽りない僕の本心。
「それじゃあ、あなたは……」
辛そうな顔をする雫に優しく微笑みかける。
「っ――」
するとそんな僕の顔を見た瞬間、彼女がこれまでずっと抑え込んでいた感情が大粒の涙となってあふれ出した。
「……嫌なのに、嫌だったはずなのに……。なんであなたのことばかり考えてしまうの? どうして少し会えないだけで寂しいって思ってしまうの? ……どうして、私はこんなに弱くなってしまったの……?」
「雫……」
寂しそうで、苦しそうで、今にも消えてなくなってしまいそうな雫。
そんな彼女の姿に耐えきれずそっと身体を引き寄せる。
「やっ――」
僕の身体を押し退けようと、肩を掴み力を入れる雫。
「大丈夫だよ、大丈夫……」
「っ…………」
そう言葉にしながら、泣きじゃくる子どもをあやすように彼女の背中をとんとんと優しく叩く。最初はそれにすらビクッと反応していた雫だったが、呼吸がゆっくりと落ち着くにつれて僕を拒む力も次第に弱くなっていく。
「……男の人は嫌い。触られるのも、見られるのも、そういう対象として見られているのも気持ちが悪い……。好きでもない人に好意を寄せられるのも、告白されるのももう嫌……。でも、でも……」
僕を掴む手にグッと力が入り、こちらへ身体を預けてすがり付くように雫が涙を流す。
「……でもあの時、あの男に襲われた時……、真っ先に頭に浮かんだのはあなただった。相手がもしあなただったら、あなたとだったらって……」
「うん……」
「この気持ちがなんて言うのかは分からない……。けど、私もまた一緒に学校に行きたいし、保健室にだって……。それに楓さんとあなたと一緒にご飯もまた食べたいし、まだパレードだって見ていないし、一緒に行きたいところだってたくさんあるの。それに、もっと……」
雫が顔を上げ、僕の頬にそっと触れる。
「それに私も……、あなたにもっと触れたい、って思う……。でも、でも……」
「雫……」
僕から離れていこうとする震えるその手を取り、もう一度彼女を優しく抱きしめる。
「っ……」
ビクッと肩を震わせ、そして自分の身体を守るように全身を強張らせた雫だったが、それも一瞬で……。
「…………」
「雫……」
それまでずっと僕を拒むために力んでいた手から完全に力が抜け、二人の間に壁がなくななる。そして雫は恐る恐る僕の背中に手を回すと、そのままそっと僕を抱き返してくれた。
「…………すごい汗」
「――あっ、ごめん! 急いで走って来たから……」
「いいの……」
離れようとする僕を今度は雫がギュッと引き寄せると、彼女はそのまま僕へ身体を預けるようにピタッと胸に顔をうずめた。
「あたたかい……」
「うん……」
「すごくドキドキしてる……」
「そりゃあ、ね……」
「えっち……」
「違うって、そういうんじゃ――」
「分かってる……」
自分でも分かるくらい大きく脈打つ胸の鼓動を、彼女は確かめるかのように目を瞑って聞く。
「……でもこれ、なんだか落ち着くかも」
「僕は全然落ち着かないかも……」
「ばかっ……」
そんな雫を見ていたらなんだか僕も彼女に触れたくなり、僕の胸に顔をうずめたままの彼女の頭にそっと手を置いた。
「っ…………」
雫の身体がピクッと震え、全身が少し強張る。そんな雫の頭をサラサラとした髪に沿うようにそっと優しく撫でると、彼女の身体から少しずつ力が抜けていき、僕の胸に再びギュッと顔をうずめた。
「……ありがとう」
「うん……」
そうして抱き合っていると、すっと顔を上げこちらを見上げてきた雫と視線が重なる。
「あっ、ごめん……」
「ううん……」
僕が彼女に顔を近づけていたため、二人の距離がグッと縮まり、お互いの唇が今にも触れてしまいそうなほどに近づく。
「っ……」
彼女のぷるんとした潤いのある桜色の唇が目に留まる。
密着している彼女に伝わってしまうのでは、と思うほどに心臓がバクバクと脈打つ。
「………………」
どうしようかと迷いギュッと目を閉じ身構えていると、彼女が僕らの間に手を入れ、僕の身体をグッと押した。
「えっ……?」
「あの……。これ以上はその……、まだ待ってくれないかしら」
照れくさそうに、それでいて申し訳なさそうに俯く雫。
「……あなたにはしばらく我慢をさせてしまうかもしれないけど、でもこの先は、まだ怖くて……。ごめんなさい……」
彼女からの告白に、さっきまで一人で勝手に焦って動揺していた自分に嫌気が差す。
僕も彼女に倣って、素直な気持ちを打ち明けよう……。
「あー、あのさ……。実を言うと僕の方もそうしてくれると、助かる……。僕もやっぱりまだちょっと怖くてさ……」
「………………」
俯いたままの彼女からの返事はない。
「あのー……? しずく、さん……?」
彼女の表情を確認しようと顔を覗き込むと、彼女がふっと息を漏らした。
「――ぷっ、なにそれ……。もう、せっかくの良い雰囲気が台無しじゃない。ふふっ……。ほんと、かっこ悪い……」
情けない僕の言葉を聞いてふふっと笑いだす雫。
そんな彼女につられて僕もなんだか可笑しくなってくる。
「あーじゃあ、かっこ悪いついでにもう一つ言ってもいい……?」
「……ええ、いいわよ?」
「あのさ、これから先もずーっとあの視線に晒されるのかーって考えたらさ、なんか想像しただけで気持ち悪くなってきた……」
「あなたねぇ……」
さきほどまでの良い雰囲気から一転して、僕の情けない姿に呆れた様子の雫。
「そんなの気に――」
「――だからさ、僕は雫の隣に並んでも誰にも文句も言わせないくらい、君に似合う男になるよ」
「っ……」
僕の言葉に驚き大きく目を見開いた雫だったが、すぐに口元をニヤリとさせ、いつも僕をからかう時の表情を浮かべた。
「それでー? 具体的にはなにをしてくれるのかしらー?」
「それはー……、えーっと……」
大見得を切って決意表明はしたものの、具体的なプランはまだない。
そんな僕のことを見透かしたのか、彼女がぐーっ近づき問い詰めてくる。
「あー……、かっこよくなる、とか……?」
「なにそれ」
とりあえずパッと浮かんだ言葉を伝えると、呆れた顔で笑われてしまう。
「ふふっ、まぁいいわ……。楽しみに待っていてあげる。改めて……、よろしくね、香也……」
「あぁ……」
月明かりが差し込む二人きりの静かな病室に、開いた窓から春の終わりを告げる温かく穏やかな風が二人の間を流れる。
「風が気持ち良いわね……」
「そうだね……」
夜空に浮かぶ月を見上げたまま、寄り添い合う雫の手をギュッと握る。
「……ゆっくり、少しずつ……。僕らのペースで進んで行こう」
「えぇ……」
雫は僕の手を握り返して頷くと、視線を下に落としたままなにか考えるかのような表情を浮かべる。
「どうかした……?」
「ちょっと耳を貸してくれないかしら」
「いい、けど……」
雫に言われるがままゆっくりと彼女へ顔を近づける。
「っ――!」
「……今は、ここまで……」
右頬に確かに感じた彼女の温もり。
「………………」
そのあたたかさを確かめるように手で触れながら、慌てて雫の方へ振り向く。
すると雫は軽く握った手の甲で口元を抑え、顔だけでなく耳まで真っ赤にして俯いていた。
「っ――」
そんな雫の姿が愛おしくて堪らなくなり、彼女を引き寄せギュッと抱きしめる。
「あっ……」
今度はなんの抵抗もなく、雫もすぐに僕の背中に手を回す。
「……やっぱりすごい汗。それに、匂いも……」
僕の服の匂いを、鼻をスンスンとさせて嗅ぐ雫。
「ごめっ――」
すぐに雫から離れようとしたがまたしても引き寄せられてしまい、その腕の中へと戻される。
「ほーら暴れない」
「……ごめん」
「……頑張って、ここまで走って来てくれたのよね……」
「うん……」
雫が汗で濡れた僕を抱き、そっとその頭を撫でる。
「――ちょっ、汚いから離れ――」
「いいの。もうしばらくは、こうさせて……」
「……うん」
それ以上の抵抗は諦め、僕は雫に言われるがまま抱きしめられ、頭を撫でられ続けた。
「……ありがとう。来てくれて……私を諦めないでくれて。私を、好きだと言ってくれて……」
「うん……」
「……私もあなたのこと……、香也のことが好き……」
「あぁ……。僕も、僕も雫のことが好きだ」
そして僕たちはお互いの温もりを確かめ合うように優しく、それでいてもう二度と離れることがないくらいキツく、強く抱き合った。
こうして僕らはフリでも偽物でもない、心の底からお互いのことを想い合う本物の彼氏と彼女になったのだった。




