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 あれからどれくらい時間が経ったのだろうか。雫と別れた後、気が付くと僕はまた保健室へと戻ってきていた。外は完全に日が落ち、壁に掛かっているはずの時計で時間を確認することができないほどに室内も暗くなっていた。

「………………」

 雫に言われた〝気持ち悪い〟という言葉と、去り際のあの表情が頭から離れない。一緒にいる間にも何度も言われたはずの言葉だが、今回は意味合いが違う。

 冗談ではなく心の底から出た否定の言葉……。

「くしゅん!」

 日が差しこまなくなった部屋は室温も下がり、座っていた床から伝わる冷気によって僕の身体の熱が失われていく。寒さのせいか、もう足を動かすこともできない。

「はぁ…………」

 あの日ハニーランドに行っていなかったら。男に襲われ恐怖で震える彼女にもっとうまく手を差し伸べられていたら。退院した後、すぐにでも彼女に会ってきちんと話ができていたら。保健室から逃げる彼女の腕を掴まなかったら……。

 あの日から一人でいると、あの時こうしていれば、これができていたら、今更そんなこと考えても仕方ないと分かっていてもそう考えずにはいられなかった。

「風邪ひくわよ? ほら……」

 冷え切った暗い保健室で雫のことを考えていると突然背後から声が聞こえ、僕の身体は優しくなにかに包み込まれた。

「うぅっ、寒っ……」

「どうして……」

 背中に温もりを感じて振り返ると、そこには椛蓮の姿があった。

「どうしてって……、だってこんな状態のあなた放って帰れないでしょ?」

「だって、僕は――」

 僕を心配して優しくしてくれた椛蓮になにも言わず、僕は彼女を置いて雫を追いかけた。そんな僕のことを彼女はずっと待っていてくれたのか……。

「というか、戻ってきた時にも声掛けたからね? 私」

「ごめん……」

「……なにかあったの?」

「いや、別に……」

「そう……。まぁいいけど」

 椛蓮にまた吐き出したいという気持ちもあったが、さっき雫とあんなことがあった後では話す気にもなれない。

「………………」

 冷え切った僕の身体に、背中に触れた椛蓮からゆっくりと熱が伝わってくる。

「ごめん……」

「別に? 私が好きでやっていることだから……」

 椛蓮は僕の背中へ静かに顔を付けると、そのまま包み込むように優しく僕を抱きしめた。

「……あのね? 私、あの時、あなたに助けてもらった時からずっと……、あなたに憧れていてたの。……いいえ、違う……。きっと私はずっと、あの頃からずっとあなたのことが――」

「っ――!?」

 彼女がなにか言おうとしたその時、突然背後から大きな電子音が響き、僕の身体はビクッと震え全身にも強く力が入ってしまった。

「――ご、ごめんなさい……。誰だろう……」

 鳴り続けるスマホを取り出し画面を開くも、彼女は画面を見つめたまま出るかどうかためらっている。

「……出ないの?」

「えっ? えぇ……。そう、ね……」

 椛蓮はなにかを考えるように一呼吸置いてから、ゆっくりとスマホを操作し耳にスマホを当てた。

「もし――、あっ、はい……。そうです。え? あーはい、今一緒にいます。えぇ……。はい、保健室に。はい、はい……。えっ!? 雨宮さんが?」

「っ――」

 〝雨宮〟という単語が聞こえすぐに電話をする椛蓮の方を振り向くと、彼女はなにやら深刻そうな顔で電話の主と話をしていた。雫になにかあったのだろうかと不安で胸が締め付けられ、その痛みを抑えこむように左胸のあたりをギュッと握りしめながら、椛蓮の声に意識を向ける。

「えぇ……。はい……、はい。分かりました今かわります」

 電話相手にそう言うと、椛蓮は僕にそのスマホを差し出してきた。

「はい……、楓さんから」

 〝雨宮〟〝楓さん〟、その言葉を聞いて椛蓮から奪うようにしてスマホを受け取ると、急いで自分の耳に当て、そして相手の声が聞こえるよりも先に声を発した。

「――雫! 雫がどうかしたの!?」

『おぉっ、香也……。連絡取れて良かったよ……』

 電話口の楓さんは初めこそ驚いていたものの、すぐにいつもの落ち着いた優しい声色に戻った。

「それで、雫になにかあったの!?」

『お前一旦落ち着け? 今話すから』

「ごめん……」

 楓さんから注意され、自分の身体が前のめりになりすぎていたことに気が付き、身体から少しだけ力を抜く。

「ごめん……。もう、大丈夫……」

『あぁ……。落ち着いて聞けよ? 雨宮がまたあの男に襲われて病院に運ばれた。それで今――』

「えっ……」

 楓さんの言葉を聞いて、さっきまで張り詰めていた身体から一切の力が抜け、椛蓮から借りたスマホを持ったまま手を床に落としてしまう。

『――か! 香也! ――――!』

「――ちょっとなに!? 大丈夫!?」

 電話の向こうで楓さんがまだなにか話していたが、さっきの〝雨宮がまたあの男に襲われた〟〝病院に運ばれた〟という言葉が僕の脳内をぐるぐると駆け巡り、それ以上耳に入ってこなかった。

「雫がまた……。どうしよう……、どうしたら……」

 今からすぐ病院へ向かうか? でもまた彼女に拒まれたら……。

 それに今僕が彼女に会っても、きっとまた彼女を困らせるだけなのではないだろうか……。

「ちょっとそれ貸して!」

 僕が手に握ったままだったスマホを引き抜き、椛蓮が楓さんと話をしだす。

「……はい、はい、分かりました。……はい。……あ、いえ、私は大丈夫です……。はい……、大丈夫です任せてください。……必ず。はい、はい……。では……」

 そうして電話を終えると、椛蓮はスマホの画面を消して目を瞑りふーっと大きく息を吐き出した。

「よしっ……」

 そして静かに立ち上がり楓さんのデスクへと向かうと、そこでなにかを書いてすぐにこちらへと戻ってきた。

「はい、これ」

 椛蓮が僕の目の前で膝を折って座り、なにやらメモのようなものを差し出してくる。

「これ、雨宮さんがいる病院と病室の番号。あなた最後までちゃんと聞かなかったでしょ?」

「……ごめん」

 椛蓮から二つ折りにされたメモを受け取り、中を見ることなくそのまま膝を抱えて俯く。

「っ……。はぁ……、行かないの?」

「もういいよ……」

 こんな僕に呆れてはいるのだろうが、それでもすぐ横に座って優しい声色で話しかけてくれる椛蓮。

「彼女、待っているんじゃないの?」

「楓さんが付き添っているし大丈夫でしょ。それに僕が行っても、また……」

 ……きっとまた拒まれてしまう。

 それに、雫もきっと僕になんて会いたくはないはずだ。

「そんなこと……」

 ない。僕もそう思いたかったが、二度も拒まれた相手に対してさすがにそんな風に楽観的に考えることなんてできない。

「……雨宮さんね、意識を失う直前、香也に謝っていたって……」

「っ――」

「……心配じゃないの?」

「もういいんだよ……」

 そんなの心配に決まっている。今だって吐き出したくなる本心をグッと拳を握り、唇を噛みしめてなんとか押し殺している。本当は今すぐにでも雫に会いに行きたい。会って自分の目で彼女の安否を直接確認したい。でも……。

「無理だよ……」

「無理……?」

「だって、雫ももう僕と会いたくないだろうし、それに……」

「また拒まれるのが怖い?」

「……うん」

「そう……」

 僕を想ってくれる椛蓮の優しさにつけ込んで、雫と会わなくて良くなるように逃げるための言い訳を重ねる。

「おいで、香也……」

 左を向くと椛蓮が両手を広げ、僕を受け入れようと待ってくれている。

 そんな彼女の胸にすぐには飛び込まず、一度視線を目の前の床に戻す。

「………………」

 このまま椛蓮の胸に抱かれたら僕は楽になれるだろうか……。

 彼女と過ごすうちに、僕も彼女に惹かれていって……。

 そうしたらこの想いも、この気持ちからも解放されるのだろうか……。

「………………」

 床に手を着き、身を乗り出すようにしてゆっくりと彼女の方へと身体を寄せる。そして椛蓮の顔がすぐ目の前にまで近づくと、そのまま彼女の腕の中へ倒れ込むように身を投げ出した。

「香也……」

 これでいい。もうなにも考えなくて良いんだ。もう、なにも……。

 そして、椛蓮の手が優しく僕を包み込む。

「っ…………」

 こんな僕を受け入れてくれる彼女にこのまま自分の全てを預けよう、そう思い目を閉じようとしたその時だった――。

「なっ――!?」

 突然、大きな破裂音と共に両頬に痛みが走った。

「――ん……、で……」

 ヒリヒリとする頬を抑え、驚きのあまり目を見開く。そしてぼやけた視界の中、もう一度ゆっくりと顔をあげると、そこには涙を流しながらも力強くこちらを見る椛蓮の姿があった。

「かれ、ん……?」

 予想もしていなかった事態に動揺しながらも、彼女に呼びかける。

「すぅ……、ふぅっ」

 すると椛蓮は上を向き一度大きく息を吸うと、覚悟を決めたかのようにふっと短く息を吐き出し、そしてその力強い眼差しで再び僕の目を見つめた。

「私はずっと……、あの頃からずっと、香也のことが好き……。大好きでした……」

 瞳に涙を浮かべながら椛蓮が微笑む。

「っ――、だったら、なんで……!」

「……だって、私が好きなのは今のあなたじゃないもの。私が好きだったのは、好きになったのは、自分のことなんかそっちのけで、なんでもすぐに顔を突っ込んで、誰よりも人思いなのに自分が一番傷ついて……。それでも誰かのためにって、何度も何度も折れずに頑張るあなただったから。……そうやってさもあたり前のように私のことも救いだしてくれたあなたのことが、そんなあなただったから好きになったのよ……」

「椛蓮……」

 椛蓮とまだ仲が良かった中学時代、僕は自分のことをなんでもできるスーパーヒーローだと思っていた。あの頃はなにをやるにも自信に満ちあふれ、子どもなりにではあるが自分の力で大抵のことはなんでもできた。

 友達やクラスメイトはもちろん、全く知らない人でも困っていたり、泣いていたりするとどうしても放ってはおけなかった。荷物運びや道案内などの簡単な手伝いから悩み相談まで、目に付いたことにはなんでも首を突っ込んだ。

 陰湿ないじめをするクラスメイトが許せず、一対三で取っ組み合いの殴り合いをしてボロボロになったこともあった。だけどそれ以来、学校中にその噂は広まり後輩たちからもよく相談をされるようになった。

 そんな誰かに頼られている、ということが当時の僕にとっては本当に誇らしかった。

 悩み相談では、悩みを聞いて一緒に悩んで、解決策を探して……。それで解決することも、良くない方向へと転んでしまうこともあった。周りからお人好しや自己犠牲だと心ないことを言われることも、悩んでいた当人よりも悩み気落ちすることもあったが、そんなこと当時の僕には全く苦ではなかった。

 それでも何度も何度も懲りずに首を突っ込み続けたのは、自分の周りにいる人たちには常に笑っていて欲しかったら……。初めて勇気を出して救った、クラスメイトのあの笑顔が嬉しくて忘れられなかったから……。

「僕は……」

 椛蓮の気持ちは素直に嬉しかった。

 ずっと自分を拒み続けていた僕に手を差し伸べてくれたこと。

 何度も何度も情けない姿を見せた僕と、向き合い続けてくれたこと。

 それに、こんな僕をまだ好きだと言ってくれたこと……。

 そんな彼女の想いを受け入れたいと思った。

「僕は…………」

 だが、彼女の告白への返事は声にはならなかった。

「はぁ……」

 僕が告白の返事に言い淀んでいるのを見て椛蓮がため息をこぼす。

「ほらっ、立って」

 そうして立ち上がった彼女が、座り込む僕に向かって手を差し出す。

「ほーらっ」

「っ――」

 椛蓮に膝を抱えていた腕を掴まれ、そのままグッと引っ張り起こされる。

「ごめん……」

「なーに暗い顔してるの、よっ!」

「いっ――た!」

 そして僕の横に並んだ椛蓮が、立ち尽くすその丸まった背中を力強く叩いた。

「なにを……」

 思わず振り返ると、そこには寂しそうにこちらを見つめる椛蓮の顔があった。

「椛蓮……?」

 そんな彼女へと手を伸ばしかけたが、その手が顔に触れる直前で止め、そのままギュッと拳を握りながら静かに腕を下ろした。

「……行くところがあるんじゃないの?」

「でも……」

「まったく……」

 目の前で立ち尽くす僕の身体を、椛蓮がため息交じりに握った右手を突き出してぐっと前に押した。

「っ――」

 そして彼女はそのままあげていた右手で自分の胸をトントンと二回叩くと、これまた優しい顔で僕に向かって微笑んだ。

「……あなたなら大丈夫」

「っ――!? なんでっ……」

 見覚えのあるその動作と、大丈夫という言葉に思わず僕の目からも涙がこぼれる。

 それはあの日、泣いていた椛蓮を元気づけるために僕がしたのと同じ、僕が初めて人を助けた時にしたのと同じポーズと言葉だった……。

「……ごめん、ごめん……」

「さっきから聞いてればなに? ごめんって……。別に私はあなたに謝って欲しくてこんなことしているんじゃないのよ? 私がそうしてあげたいと思ったからしたの。これはそう、ただの私の自己満足……」

「ごめ――、いや……、ありがとう……」

「うん……」

 嬉しそうに微笑む椛蓮に、今度は僕も涙を拭って笑顔で応える。

「……じゃあ、行ってくるよ」

「うん……」

 そうして勢いよく駆け出し、部屋の扉に手を掛けたところで一度立ち止まる。

「っ…………」

 椛蓮の方を振り返りたい気持ちに駆られたがグッと堪え、僕は保健室から大きく一歩踏み出した。

「雨宮総合病院……」

 さきほど椛蓮から渡されたくしゃくしゃになってしまったメモを開いて雫の居場所を確認するや否や、僕の足は彼女を目指して全力で走り出していた。


「はぁ……。行っちゃった……」

 走り去る彼の足音が次第に小さくなっていくのを、彼が出て行った保健室の入り口を見ながら聞く。彼はきっとあのまま彼女の所へ行って、あの時私にそうしてくれたように彼女のこともかっこよく救ってしまうのだろう。

「はぁ……。やっぱりかっこいいなぁ……」

 彼のことが好きだと気が付いたあの時、勇気を出してこの想いを彼に伝えられていたら、今彼がああして想って、必死になって掛けていく相手は私だったのだろうか……。彼の隣にいるのは私だったのだろうか……。もし、もしも私が彼と付き合っていたら、彼があれほどまでに苦しむこともなかったのかな……。今頃になって後悔ばかりが胸に押し寄せてくる。

「あーあっ! 私も大概、お人好しね……」

 そして、彼の足音が完全に聞こえなくなる。

 あのまま流れで付き合ってしまえばよかったのかな……。でも仕方ないじゃない。私が好きだったのは、憧れたのは、自分のことなんか二の次で、目の前で苦しんでいる人のことを放っておけない、そんなヒーローみたいなあなたなんだもの……。

「……好きっ……、大好き……」

 彼への想いが留まることなく頬を伝う。

 だけど、今更後悔しても遅い。

 彼はもう私ではない別の人の元へと行ってしまったのだから……。

 きっとあのまま二人は本当に付き合うのだろう……。

 私以外の女性と並んで手を取る彼を、幸せそうに笑顔を向ける彼を、私は友達として祝福してあげられるだろうか。彼のことを想うのなら、本当に好きなのであれば、この想いはすぐにでも捨てるべきなのだろう……。

「はぁ……。しばらくは無理かなぁー……」

 今は、もう少しの間だけは……。この気持ちの整理が付くまでは、彼との大切な思い出を、彼へのこの気持ちを大切にしよう。

 そしていつか気持ちの整理がついたなら、その時は……。

 彼が掛けだして行った保健室の入り口を見て、もうとっくに見えなくなってしまった彼に向かって言葉には出さずに胸の奥で声援を送る。

『頑張れ……』

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