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 帰宅後、着替えもしないまま自室のベッドへと崩れるように身を投げる。

「はぁ……」

 そして部屋にあった手鏡でそこに映る見慣れた顔を見てため息をこぼす。

 年相応の透明感のある肌に、ぱっちりと大きく開いた二重の目。まっすぐ鼻筋の通った高さのある鼻。ほどよく厚みもあって潤う唇。それらのパーツがバランス良く配置された小さな顔は、自分で見ても綺麗だと思えるくらいには整っていた。だけどそんな好きだったはずの自分の顔も、つやと透明感のある長い黒髪も、女子の平均より高い身長も、スラッとした長い手足や縦にラインの入ったお腹も、くびれたウエストも、自分が〝女性〟であると自覚してしまうそのなにもかもに最近は嫌気が差してきてしまった。

 一目惚れ、憧れと言って告白をしてきた、それまでほとんど接点すらなかった男子生徒たち。可愛いね、スタイル良いねと声を掛けてきた見ず知らずの男たち。そしてそんな私を見て噂話をする女子生徒たちですら、結局見ているのは私の顔やスタイルといった外見だけだった。

 優しそう、クールだとか言ってくる人もいたが、その人が見ているのは〝その人が想像した空想の私〟であって、実在するこの私のことではない。

 毎日のスキンケアはもちろん、週四、五日程度の軽い筋トレとウォーキング。入浴後の日々のストレッチ。食事もなるべく手作りのもので、毎食栄養バランスと摂取カロリーを計算している。自分の好きな理想の身体になろうと外見にも気を遣っているので、それを褒められること自体は嬉しい……。だけどそういった事情や努力も考えないで、ただ綺麗だの可愛いだの言って人を評価してくる連中が本当に気に食わない。

 自分が好きな身体も顔もメイクも服も、全部自分の為にやっていることで他人に評価されるために、ましてや好奇の視線や欲求の対象にされる為にしているのではない。

「あっ……」

 机に放り投げた鏡がそのまま滑り落ちてしまい、パリンと小さく音を立てて破片を床に散らす。

「はぁ……、最悪……」

 結構気に入っていた鏡だったというのもあるが、今日は両親も千代子さんもいないので片付けは自分でやらなければならない。自分でやったのだから自分で片付けるのは当然ではあるのだが、今はどうしてもやる気にはなれない。

「なんで……」

 窓の下に散らばる破片が視界に入らないように、枕へと顔を埋める。

 今日は学校を休み、楓さんに付き合ってもらって病院で一日検査をしてきた。その帰り道、楓さんが学校への報告と荷物を取るために一度学校に寄ったのだが、そこでここ最近ずっと避けていた彼と出会ってしまった。

 楓さんには車で待つように言われていたのだが、私の足は気がつくと保健室へと向かっていた。だけど中に入った瞬間目に入ったのは、私ではない女子と手を繋ぎ、愛おしそうにその頭を撫でる彼の姿だった。

 それを見て私は〝裏切られた〟と思ってしまった。

 確かに最初に彼を拒んだのは、彼の手を振り払ってしまったのは私だ。

 でも、どうしようもなかった……。

 あのまま私が側にいたらきっとまた彼を傷つけてしまう。だから仕方なく彼と距離を置いて、避けて、一人で心細く過ごした。

 それでも彼なら、香也ならきっと理解してくれると思っていた。

 それなのに、彼は……。

「……寂しい、か……」

 一人で過ごす時間がこんなにも不安で、寂しいと感じるようになるなんて思いもしなかった。楓さんや彼と出会う前だってずっと一人だったが、あの頃はこんな気持ちになることはなかったし、なんなら人といる時間よりも一人で過ごす時間の方が好きだった。

 だけど、彼と一緒に過ごすようになってから私は変わった。彼に変えられてしまった、とでもいうべきだろうか……。

 彼と一緒にいる時間は本当に心の底から笑うことができた。二人で過ごすあの時間はとても温かくて、安心できて……。彼が隣にいるというだけで不思議と不安がなくなり、心も安らいだ。嫌なことを全部忘れてしまうくらい本当に幸せだった。

 そうしていつからか、そんな彼と過ごす時間が私にとってなによりも大切なものとなっていた。それなのに……。

「っ……」

 あの時の男の言葉が頭をよぎる。

『――僕がずっと君を守るからね、愛してるよ、雫』

 あの日から、一人でいるとその言葉が頭を埋め尽くし、もうなんともなっていないはずの右腕にズキズキと痛みが走るようになってしまった。

「もう嫌っ……」

 この顔も、身体も、それを見る周囲の視線も、ストーカー同然の付きまといも、一人でいるのも全部……。

 ……私はいったいいつからこんなに脆く、弱くなってしまったのだろうか。


 物心ついた頃から、私は周りから可愛いと言われ一目置かれることが多かった。同級生や先生、親戚の大人たちや街ですれ違う人たち。同性異性を問わず可愛い、好きと言われることも少なくなく、そんな周囲の視線があの頃はむしろ誇らしかった。

 それが変化してきたのは多分、小学校高学年になったあたりからだろう……。

 第二次性徴を迎えた私の身体は、急激に背が伸び、胸が膨らみ、そして丸みを帯び始めた。するとそんな自分でも戸惑うほどの身体の変化に、周囲は私以上に過剰な反応を示した。

 それまで好きと言ってきた男の子たちも、可愛いと言ってくれた大人たちも、私を見る目が一気に変わったのだ。大げさだ、自意識過剰だと思うかもしれないが、あの頃の私にとってはそれが自分の身体に起こった変化以上に恐怖だった。

 きっとこの頃から私は、可愛い〝子ども〟から〝女の子〟になったのだと思う。

 そしてそれは中学生になってからさらに顕著に表れるようになる。

 下駄箱の手紙や放課後の呼び出しに告白。教室まで自分を見に来る他のクラスや学年の生徒たち。ただそこにいるだけで集まってしまう視線……。誰でも一度は憧れるようなイベントもほぼ毎日、しかもそのほとんどが初対面の関わったこともない、自分のことをよく知らない人からとなるとただただ苦痛でしかなかった。

 それに加えて一部の女子たちからは、調子に乗っている、私の○○君に色目を使っているなどと嫉妬心から謂れもない陰口も言われるようになり、次第に私は男女問わず人を避けるようになっていった。

 そして高校生となり、ますます身体が成長して〝女の子〟から〝女性〟になってからは状況がさらに悪化した。

 これまでと比べものにならないほどの人の視線と告白。学内外問わずどこにいても感じる視線。街に出ると知らない人から頻繁に声を掛けられるようにもなり、そしてついに私をつけ回すような人まで現れてしまった。

 私に声を掛けてくる人の中には、話を聞く、相談に乗ると言ってくれた人もいた。だけど男性は下心から、女性は探りを入れるためや話のネタにするために近づいて来た人がほとんどで、本当に私のことを思ってくれた人なんて一人もいなかった。

 そんなある日、ずっと我慢してきた不満が爆発してしまったのだろう。放課後の教室にたまたま残っていた、二つ後ろの席の男子生徒につい愚痴を漏らしてしまった。その彼にすら聞こえているのかどうか分からないくらいの声で、異性から向けられる視線のこと、同性からの嫉妬や妬みなどについて吐き出した。彼に聞こえたていたのか、どんな表情をしているのかすら分からなかったが、聞いてもらって同意を得たいわけでも同情されたいわけでも、ましてや意見されたいわけでもなかったのでどうでも良かった。

 ただこんな状況を誰かに聞いてほしかった。吐き出したかった。それだけだった……。

 ――だけど、それが間違いだった。

 話を終え、私の話を最後まで静かに聞いてくれた彼に小さく謝罪の言葉を言い、その場からすぐに立ち去ろうとした、その時だった……。

 視線を落とす私の目の前に突然彼の腕が現れ、そのままきつく抱きしめられてしまった。彼に触れられた瞬間、背筋がぞっと凍り付き全身に鳥肌が走った。すぐに振り払おうとその腕を掴んだが、もういっそのことこのまま彼を受け入れてしまえば、身体をそして心までもを許してしまえば楽になれるのではないかと、私は半ば諦めるように彼を拒む手から力を抜いて目を閉ざした……。

 すると彼は私の抵抗が弱まるや否や、耳元で名前を囁きながら、息を荒らげて私の女の部分を思い切り鷲掴みにした。

 突然のことに一瞬頭が真っ白になったが、力強く揉みしだかれる痛みで我に返り、勢いよく椅子から立ち上がって彼を拒んだ。そして恐怖心に駆られながらも恐る恐る振り向き、立ち上がった反動で倒れた彼の顔を覗き込むと、そこに現れたのは他の男たちと同じように私を女として、性の対象としか見ていない血走った目だった。


 ――気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!

 急いで自宅に帰り、男に触られた部分をすぐにシャワーで洗い流そうと何度も何度も身体を洗った。だけど皮膚が赤くなってヒリつくまでこすっても、この胸に感じた男の手の感触と痛みは消えてはくれなかった。

 これさえなければと鏡に映る自分の顔と胸元に爪を突き立てたが、それ以上強く力を加えることはどうしてもできなかった。

 シャワーの熱気と湯気で目の前に映る自分の姿が段々とぼやけていった。やがて立っているのもままならなくなりその場に膝から崩れ落ちると、頭上から降り注ぐシャワーの熱が頬を伝い、私の中の熱を全部流して奪い去っていった。

 その翌日から私は体調を崩してしまい、何日か学校を休んだ。

 そしてようやく体調が戻り久しぶりに登校すると、恐らくあの日の出来事を見かけた生徒がいたのだろう。私と付き合っている男がいる、私が誰にでも色目を使う、色々な男に手を出しまくっているなどと、あらぬ噂が学校中に広まってしまっていた。

 それからの学校生活は本当に地獄だった。私を見る好奇の視線はさらに増え、そして噂を鵜呑みにした生徒たちによる気持ちの悪いあきらかな体目的の誘いが増え、強引に迫って関係を持とうとしてくる男まで現れたのだ。

 学校になんて行かなければ良かったのだろうが、一人で家にいるのはもっと嫌だった。

 だけどそんな不幸が転じてか、人目を避けてたまたま逃げ込んだ保健室で日向先生と出会った。保健室へ通い、何度も顔を合わせるうちに少しずつ会話が増えていき、この人ならと初めて抱えていた悩みを打ち明けることができた。それからもなにかある度に日向先生に聞いてもらい、私はそうしてどうにか崩壊寸前の精神を保っていた。


 こんな状況が学年が上がってからも続き、ついに心の均衡を保てなくしまったのだろう。気が付くと私はどこにいても、たとえ自分の家にいたとしても誰かの視線を常に肌に感じてしまうようになっていた。

 私の気が休まる場所なんて、私の居場所なんてもはやこの世のどこにも無いのだと、そう思ってしまうほどに私の心は完全に疲弊しきっていた……。

 そんな私を心配してか、楓さんが念のためにとストーカー対策として送り迎えと、今まで一人でしていた手紙やプレゼントの処理まで付き合ってくれるようなった。

 そんな日がしばらく続いたある日。なおも収まる気配のないストーカー対策にと、楓さんから最近転入してきた楓さんの知り合いの男の子に彼氏のフリをさせるのはどうかと提案された。既に特定の相手がいるとなればストーカーはおろか、周りも少しは落ち着くかもしれないと迷いもしたが、いくら楓さんの知り合いでもそれだけは、男を信じることは無理だと詳しく話を聞く前に断ってしまった。

 もし仮に付き合ってそれで相手が本気になったら? 抵抗できずに今度は本当に襲われたら? 男と二人でいるという状況を考えただけでも胸が痛み、吐きそうになった……。

 男なんて、恋愛なんて……。そう憎まない日は一日だってなかった。


 だけどそれからしばらくして、私がまた気分が悪くなっていつものように保健室のベッドで休んでいると、カーテンの向こうから楽しそうに話す楓さんと知らない男子生徒の声が聞こえてきた。

 普段なら興味すらない異性同士の会話……。だけどそんな他愛ないことでふざけあったり、からかいあったりする二人会話の端々からあふれる相手を想う気持ちや、そんな心から信頼し合っている様子に、気が付けば私は夢中になって聞き耳を立てていた。

 その日から二人の会話を聞くこの時間だけが、この三人の時間だけは不思議と気が休まった。そして会話を聞いている内に、私もこんな風になりたい、この二人の中に入ってみたいと、生まれて初めて自分から異性と話をしてみたいと思うようになっていた。

 その男子生徒が、あの時楓さんが紹介しようとしていた〝星野香也〟だと知るのはその後すぐのことだった。

 彼について楓さんに尋ねると、私と同じように恋愛のいざこざで心を病み、それが原因で倒れて入院し転校することになったのだと教えてくれた。それ以上詳しい話はしてくれなかったし私からも聞かなかったので分からないが、その時のショックでスマホを持つこともできなくなり、女性から好意を向けられることが怖くなってしまった、とのことだった。

 いったいどんな体験をしたらそんなトラウマが生まれてしまうのだろうか。それを彼はどうやって乗り越えたのだろうか。もしかしたら彼なら、私のことも分かってくれるのではないだろうか。もしかしたら彼となら……。

 そうしてこの頃から私の頭の中は、顔も知らない男子生徒のことでいっぱいになった。


 そしてあの日、私は楓さんにお願いして彼を屋上へと呼び出してもらった。

 初めてあなたと話したあの時のことは、今でも鮮明に覚えている……。

 自分からするのは初めてとなる告白は、本当に胸が張り裂けそうになるほど緊張した。

 そもそも告白なんてしなくても、事情を説明してお願いするだけでよかった。それどころかあそこまで彼を追い詰めて迫る必要もなかった。

 だけどどうしても、彼が他の男たちと同じように欲望のまま手を出してこないかどうかを確かめたくて執拗に迫った。

 ……でもまさか、それで吐いてしまうだなんて思いもしなかった。

 彼には本当に申し訳ないことをしたと思うけれど、それを見て私は〝この人なら大丈夫かもしれない”と心を許すことができたのかもしれない……。

 今でもあの時のことを思い返すと、つい笑みがこぼれる。

「………………」

 彼との登下校や何度も一緒に過ごした保健室。楓さんも交えた三人で囲った、ずっと憧れていた楽しい食卓。ハニーランドで感じた彼の優しさ。帰りにくれたぬいぐるみも本当に嬉しかった……。

 ここ最近の楽しかった出来事を思い返すと、その側にはいつだって彼の笑顔があった。

「っ…………」

 そんな彼との楽しい思い出を、またもあの男の声がかき消す。

 彼にはあのストーカーのことを話すべきだったのかもしれない……。そうしていたら、きちんと打ち明けていたなら、あの時彼を傷付けることだってなかったのかもしれない。

 だけど、もしそれを彼に伝えて今の関係が壊れてしまったら? 彼とのあの時間までもを不快に思うようになってしまったら? そんな不安ばかりが私を襲い、結局言い出すことができなくなってしまった。

 いや、それも言い訳、か……。

 きっと私は、彼の優しさに甘えていただけなのだろう。そして辛い現実から目を背けるために彼へと依存し、ただ身勝手に利用して、傷付けてしまった……。

「っ……、ごめん、ごめんね……」

 彼からもらったピンクの熊のぬいぐるみを抱きしめ、ギュッと目を瞑って呟いた、その時だった――。

「っ――!?」

 突然、自分の上になにか重たい物が覆い被さり、両手を頭の上で強く押さえつけられた。

 すぐに叫ぼうとしたが混乱と恐怖で声が出ない。

「お待たせ、雫」

 フードとマスクで顔を隠してはいるが、この声とそしてフードから覗く私を見るこの目には覚えがあった。私を見ているようで見ていない、吐き気を催すほどに不快な視線……。

 馬乗りになられているせいかうまく息が吸えず、呼吸もどんどん浅く、早くなっていく。

「たっ――!?」

 助けを求めようとどうにか声を絞りだそうとするも、それが言葉になる直前で男に口を塞がれてしまう。

「心配しなくても大丈夫だよ? 僕が助けに来たから、ねっ?」

 優しく笑うその顔を見て、男への恐怖心がさらに強くなる。

「あっ、ごめんごめん。少し乱暴だったね……。離してあげるけど絶対に叫ばないでよ?」

 こくんこくんと首を縦に振ると、ゆっくりと口を塞いでいた手が離れていく。

「はぁーっはぁー、はぁーっはぁ……」

 枯渇していた酸素を求めて何度も大きく息を吸う。すると胸にズキズキと痛みが走り、そして頭までくらくらとしてきてしまう。

「ほら、また僕に助けてって言ってよ。そうしたら僕もっと頑張って君のことを守るからさ」

 この男はなにを言っているのだろうか。ハニーランドで襲われそうになったことはあっても助けられたことなんてない。出会ったのもあの時が初めてで、それまで話したことすらない。

「え……? もしかして覚えてない? あっ、そうだよね、ごめんごめん。こんなの付けてたら分からないよね、……ほらっ」

 男が深く被っていたフードとマスクを取って素顔を晒す。そこに現れた男の目は暗く、目元のクマも酷くこちらの視線を避けるようにキョロキョロと目を泳がせていた。目だけではなく表情も全体的に暗く、やつれて垂れ下がった顔にはやはり見覚えなんか……。

「有馬だよ有馬清貴。もー、彼氏の名前を忘れるなんて酷いなー……。あーっ、もしかして! 僕に会えなくて寂しくて怒ってるんでしょー? でも雫のことはずーっと見守っていたし、毎日かかさず君へ想いを届けていたんだけどなー……」

「なにを言って……」

 この男が彼氏だということも、想いを届けていたということにも全く心あたりがない。

「あれー? もしかして見てくれてない? 毎日下駄箱に僕の雫への愛をたっくさん届けていたんだけど……」

「あれはあなたがっ――」

 毎日登校すると必ず下駄箱に入っていた大量の手紙。その大半を占めていたのは差出人のない白い封筒だった。便箋いっぱいに小さな文字でびっしりと埋め尽くされていたそこには、私への思いの他に、この時の私の表情がとか、昨日話していた男は雫を性的な目でしか見ていないからもう関わらない方が良いなど、明らかに普段から私のことを監視でもしていないと分からないような、気持ちの悪いことばかりが書かれていた。

 あの身の毛がよだつほどに気持ちの悪い手紙は、この男が……。

「なんだー、良かったー。ちゃんと見てくれていたんだねっ! 雫への想いが抑えきれなくてついたくさん送っちゃったけど、あれは僕が君のことを心の底から愛しているって証みたいなものだし仕方ないよね」

「愛して……」

 へへっと俯き恥ずかしそうに笑う男の表情は、愛おしい人へと向けられるそれそのものだった。どうしてまともに話もしたことのない相手に、ここまでの感情が生まれるのだろうか。それに、どうして付き合っていることになっているのか。他にも疑問に思うことはたくさんあったが、それを口に出してしまった時、この男がどうなるか分かったものではない……。

「でもやっぱり、今こうして付き合えているのはあの時、雫が僕を頼ってくれたからだよね……。あの時は結局、雫が恥ずかしがって最後までできなかったけどっ――」

「いっ――」

 男が強引に私の胸を鷲掴みし、そこに鋭い痛みが走る。

「――あなた……、もしかして!?」

 顔はやつれ目はうつろとなりあの時とはかなり変わってしまってはいるが、この胸を刺す痛みには覚えがあった。

 忘れたくても忘れられない、この痛み……。

「あっ、やっと思い出してくれたんだね? よかったぁー……。今度こそ最後まで、繋がって求め合って、本当の意味で愛し合おうね」

「っ――」

 耳元で囁かれた男の言葉にゾッとし吐き気に襲われ、こみ上げてくるものを抑え付けようと両手でギュッと口元を塞いだ。

「はぁ、はぁ……、もう、照れちゃって……。本当に可愛いなぁ、雫は……。ほら、手をどけて?」

 優しい言葉遣いとは裏腹に、私の手を引き剥がそうとする男の手の力はとても強く、目も見開き血走っていて、呼吸もかなり荒くなっていた。

「仕方ないなぁ……、それじゃあ……」

 私の手が引き剥がせないと分かると、男はまたしても私の胸を強く揉みしだいた。

 ――痛い痛い気持ち悪い嫌だ嫌だ嫌だ……。

 必死に息を吸おうと身体を上下に震わせながら呼吸をするが、余計に息が苦しくなってしまい胸の痛みもお腹のあたりにまで広がっていく。

「そんなに興奮してくれているんだね! ぼ、僕も同じ気持ちだよ。愛してる、愛してるよ、しずくぅっ――!」

 そんな私の様子を興奮していると勘違いした男は、ニヤッと嬉しそうに口元を緩ませて胸から手を離すと、今度は服の裾に入れようとしてきた。

「雫! しずくぅっ!」

 興奮した様子で服の中に侵入してこようとする男の手を、口から手を離して胸の下あたりで腕を組むようにして必死に押さえつける。

「あっは――。恥ずかしがっちゃって……。でもそんなところも可愛いよぉ、しずくぅ……」

 男は片手を服の中から引き抜き、抵抗する私の腕をなんとか引き剥がそうとしてくる。その間にも、もう一方の手は必死に私の胸に触れようと服の中をまさぐり続けた。

「っ…………」

 どうにかして胸元に侵入しようとしてくる男の執念に、もうダメかとギュッと目を瞑る。

「おっ――!?」

 そしてついに、緩んでしまった腕の隙間から男が私の中に侵入してきてしまう。

 男の息がさらに荒くなり、その顔も一気に下卑た笑みへと変化する。

「っ……」

「もう大丈夫だよ。これからは僕が側にいるからね。ずーっと、一生側で雫を――」

「……助けて」

「そうだよそれだよ! ほらっ、名前を呼んでよ! そうしたら僕は――」

「……香也」

 その時、胸に手を掛ける寸前だった男の手が突然ピタッと止まった。

「っ…………」

 ようやく諦めてくれたのかと、淡い期待を抱いて閉じていた目を恐る恐る開く――。

「っ――!?」

 だが次の瞬間、鈍い破裂音と衝撃が私の左頬を襲った。

「はぁ……? はぁぁぁっ!? この世で一番君のことを愛しているのは僕だよ……? それを……、それなのに……。僕が! 僕だけが! 君を理解してあげられるんだ! 君のことを一番分かっているのも僕だぁっ――! これまでずっと見守ってきたのも助けてあげられるのだって僕だけなんだよ……? あいつじゃない……。なのに、なのにぃっ――! なんであいつの名前を呼ぶんだよぉぉぉっ――!」

 突然豹変した男に驚き目を見開くと、今までの優しかったその顔は一変し、狂ったような叫び声が私の耳と部屋に響き渡った。

「僕といるのに別の男の名前呼ぶとかさぁ……。ねぇこれってさぁ、浮気だよね……? ねぇっ――! はぁ……。今までもさぁ、僕がどんな気持ちであいつと君が一緒にいるところを見ていたか分かる? ねぇ……、分からないよねぇっ――! 僕が見ているのに、ベタベタイチャイチャと見せつけるようにして……。あいつがあれで死ななかったのは残念だけど、まぁあれで雫を諦めて近寄らなくなったし良いけどさ……。また一緒にいるところなんて見たら、僕今度こそどうなってたかわかんないよ……。はぁ……、僕だってさ? ずーっと君とこうしたかったんだよ? 一つになりたかったのに……。もうあいつとやっちゃったんでしょ? はぁ……、嫌だなぁ……。僕が初めての男になりたかったのに……。くそっ! あの時最後までできていたら……。もうなんでだよぉっ――! あぁっ――! いやだいやだいやだいやだいやだいやだ……、あぁぁぁっ――!」

 男が俯き両手で顔を覆いながらなにかぶつぶつと呟きだしたかと思うと、突然顔を上げ、ニヤッと気持ちの悪い笑みを浮かべながら私の頬を撫でた。

「……まぁいいや。あいつのことなんて僕が忘れさせてあげるよ……。大丈夫、あいつとした以上にいっぱい愛してあげるから。僕が本当の愛ってやつを君に教えてあげるからね」

 男に触れられつい恐怖でビクッと身体が反応してしまう。それを見た男が興奮した様子で私の身体を撫で回す。頬、髪、胸……、次にどこを触られるのか、何をされるのか。硬直した私の身体は、意識したくなくてもその男の手の動きに意識を向けてしまった。そんな触れる度に反応する私を見て男は息をどんどん荒らげ、手つきも次第に強く、乱雑になっていく。

「気持ちい? ねぇ、気持ちいよねっ――!? はぁ、はぁ……、すぐ反応しちゃって……、ほんっと可愛いなぁ雫は……」

「っ――」

 ――気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い……。

 早く終わって……。

「はぁ、はぁ、はぁ……、もうそろそろ、いい、かな……」

 そう言うと男は興奮した様子で着ていた上着を脱ぎ捨て、さらにだらしなく歪ませた顔を近づけてくる。

「っ…………」

 ……またこの目だ。

 この男の瞳の中にも、やっぱり私の姿はなかった……。

「……もう、好きにすれば……」

 もういっそのことここで諦めてしまえば、この男に身体を差し出してしまえばこれ以上怖い思いはしなくて済むのかもしれない……。

 少し我慢をすればいいだけだ。少し痛みに耐えればいいだけ……。

「っ――、しずくぅっ!」

 その言葉を聞いて男は嬉しそうに私に抱き付くと、耳元で名前を叫びながら再び身体をまさぐりだした。

「っ――」

 ギュッと目を閉じ、唇を噛みしめてその苦痛に耐える。

「――雫っ! 雫! しずくぅっ――!」

 もういい……、もういいや……。

「っ…………」

 そう思った途端に、男を拒むために張り詰めていた全身の力が少しだけ緩んだ。

「っ……」

 そして男の手の感覚だけが鮮明に身体を伝っていく。

 ――気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い嫌だ……、助けて……。

『――――香也!』

 あぁ、まただ……。

 なんて都合が良いのだろうか……。

 私欲で近づいて利用して、にもかかわらず今度は彼を拒絶して。

 それなのにこんな時にだけ彼の名前を呼ぶなんて、助けに来てくれるかもだなんて期待なんかして。そんなこと絶対にない、分かっている……。それでも、分かっていても、そうだったらと願わずにはいられなかった。

 目を閉じて思い出すのは、彼の優しい笑顔や彼との楽しかった思い出ばかり。今目の前にいるのもこの男ではなく彼、香也だったら私はどうしただろうか。受け入れていただろうか……。あの時、彼を拒んでいなかったら、彼を受け入れていたなら、彼の優しさに甘えていたら……。そんな後悔ばかりが脳裏に浮かんでくる。

「っ……」

 キツく閉じていたはずの瞳から涙がこぼれ、顔を伝う。

 あぁこれが、この感情が、この気持ちこそがきっと……。

 だけど、今更気がついてももう遅い……。

 彼にはもう既に別の相手がいて、私の場所なんてない。

 これはきっと、彼を拒んで傷つけた私への罰なのだろう。

 そう思うと少し気持ちが楽になってくる。

 あぁ、もういいや、このままこの罪を受け入れようとそう思った瞬間、張り詰めていた全身の力が完全に抜けきってしまった。

「よっ、ようやく僕を受け入れてくれたんだね……。愛してるよ……、雫……」

 そしてニタッと笑みを浮かべた男が唇を重ねようと顔を近づけた、その時だった――。

「っ――!?」

 静かだった部屋に突然チャイムの音が鳴り響き、男の身体がビクッと跳ね上がった。

「そんな、なんで……。だって今日は誰もいないはずなのに……」

 予期せぬ事態に動揺が隠せない男が、慌てた様子で玄関を確認しようと机の前の窓から外を覗き込もうとする。だが、私を抑え付けたままではどうしても窓の外を確認することはできず、男の身体は窓の方へとどんどん前のめりになっていく。

「くそっ! 良いところだったのに誰だよ!」

 鳴り止まぬチャイムによって、男の意識は下にいる私から窓の外の訪問者へと向いている。

「っ――!」

 逃げるなら今しかないと、ベッドから身を乗り出していた男の身体を思い切り突き飛ばした。

「なっ――!?」

 すると男は簡単にバランスを崩して、そのままベッドの下に鈍い音を立てて落下した。

「――痛ったぁぁぁっ!」

 悲鳴を上げて床に転がる男を横目に、急いでベッドから飛び降りて部屋の扉へと駆ける。

「――雫っ! 待って!」

 扉に手を掛けた瞬間、必死に呼び止めようした男の声につい身体が反応してしまい一瞬手が止まりかけたが、そのまま振り返ることなく部屋の外へ出て扉を閉めた。

「はぁ、はぁ……」

 男が出てこられないように扉を背中で押さえながらペタンと腰を下ろす。

 すぐにでもここから逃げだそうとも思ったが、逃げる途中で捕まってしまうかもしれないと考えるともうこれ以上足が動かなかった。

 だけど、さっきのチャイムの主がまだ外にいてくれれば……。

「たっ――!?」

 助けて、そう外の訪問者に助けを求めようとしたその時だった。突然頭上のドアノブが上下に激しく動きだし、扉を押さえていた私の身体も少し前に押されてしまう。

「雫……? ごめんね、謝るから。急でびっくりさせちゃったね……。ちゃんと顔を見て謝りたいからここを開けてくれないかな? ねっ……?」

 優しい言葉とは裏腹に、男はガチャガチャとさらに荒々しくドアノブを動かし扉を押し開けようとしてくる。

「っ――!」

 男がドンドンと激しく扉を叩く。突然の大きな音にしてしまう身体が押されそうになりながらもどうにか扉を押さえ続ける。

「しずくぅ? ほら、早くー?」

「っ――」

 咄嗟に激しく動き続けるドアノブにしがみつき、全身でなんとか扉を押さえる。

「突き飛ばしたのは許すからさぁ、ほら? 開けて?」

「っ…………」

 さらに激しくなる音と衝撃。ビクビクしながらも、祈るようにギュッと目を瞑り必死になって扉を押さえ続けた。

 この男を絶対にここから出してはいけない……。

「雫! しずくぅぅぅっ! 開けろ! 早く開けろよぉぉっ!」

「――っ!」

 しばらくの攻防の後、男が扉を突き破りそうなほど今までにないくらい力強く扉を叩きつけた。

「っ…………」

 だがそれを皮切りに、さきほどまでのことが嘘だったかのように頭上でしていた騒音がぴたりと止んだ。

「はぁ、はぁ…………」

 恐る恐る目を開き、ゆっくりと頭上の扉を見上げて耳を澄ませるが、そこに男の気配はおろか中からも一切物音を感じない。

「っ……」

 逃げるなら今しかないと、男にばれないように震える手をドアノブからゆっくりと離し、そして慎重に身体も扉から離していく。

 辺りは静まりかえり、私の乱れた呼吸音だけが響き渡る……。

「すぅー……、ふぅー……」

 覚悟を決め一度呼吸を整えてから、扉に触れないように扉の上部を見つめながらゆっくりと立ち上がる。

「……………………」

 大丈夫、ばれていない……。

 そのまま部屋の様子をうかがいながら、足音を立てないよう細心の注意を払ってゆっくりと後ずさり階段を目指す。

「よし……」

 そうしてようやく階段のすぐ側まで辿り着くも、その間にあの部屋の扉が開くことはなかった。これだけの距離があればもう追いつかれることもないだろう……。そう確信して扉から目を離し、階段を一気に下りようとしたその時だった――。

「っ――!?」

 前のめりになっていた身体が突然、グッと後ろへと引っ張られた。

「捕まえ、たっ」

 耳元で囁かれたその声に、思わずゾクッと身体が震え上がる。

「いやっ――」

 すぐにまた逃げ出そうとするも、お腹のあたりに腕を回されがっちりと捕らえてしまい男から離れることができない。

「なん、で……」

 ここまで来るまでの間、あの扉は絶対に一度も開かなかった。それなのにどうして……。

「しずくぅ……、さっきはごめんね? つ、次は焦らないで優しくするからさ……。ねっ? だからもう一回だけお願いっ。次は絶対に大丈夫だから。ほら、戻ろ……?」

「っ――」

 男の腕から流れる血が私の服に滲み、真っ白だったシャツが少しずつ赤黒く染まっていく。

「あ、ごめん。服汚しちゃったね……。ベッドから落ちた時に割れた鏡の破片が刺さっちゃってさ……。危ないから片付けた方が良いよ? あれ」

 頭上でははっと笑う男の声と、徐々に男の血で染まっていく自分の服を見て一気に血の気が引いていく。

「どう、して……」

「あぁ、雫が開けてくれないからさー、ほらっ。ベランダを通ってあそこから出たんだよ」

 そう男が指を指す方へ顔を向けると、そこは私の部屋とは階段を挟んだ反対側にある一室だった。その扉が開いたままになっている。

「ほら、行くよ?」

 再び部屋へ引き戻そうと男が私の身体を強く引く。

「――いや! やだ、やめて!」

「もー、また照れちゃって……。まぁそういう所も可愛いんだけどさ……。でもほら、行く、よっ!」

 咄嗟に階段の手すりに掴まって抵抗するが、男の力はさらに強くなっていく。

「ほら、しずくぅ……」

「いやっ――!」

 だがそんな抵抗も虚しく、手すりにかけた指が次第に剥がされていく。

 私はこの男に抵抗することすらできないのか……。

「っ……」

 そしてついに手すりから全ての指が離れ、男の元へと身体が引き寄せられてしまう。

「――っ!?」

 もうだめだと諦め掛けたその時、玄関のドアを誰かがノックした。

「おーい雨宮ー? 大丈夫かー?」

 その声に男は驚き、今まで引き剥がしたくてもできなかった拘束がいとも簡単にほどけた。

「やっ――」

 だが解放され安心したのも束の間、突然身体がふわっとした感覚に包まれる。そして次の瞬間、視界が上下左右にぐわんぐわんと目まぐるしく回った。

「あぁ……、あぁぁぁ……」

 さきほどまですぐ側にいたはずの男が今は遠くに見え、こちらを見て立ち尽くしている。

 そして反対を向くと、すぐ目の前に夕焼けが差し込む玄関が見えた。今なら……。

「あ、れ……?」

 光が差す方へと手を伸ばそうとするが、その指先はおろか身体のどこも動かすことができない。どこか打ったのだろうか、なんだか視界も少しずつぼやけてきた……。

「――ああぁぁぁぁぁぁっ! なんで……、なんでぇぇっ! あいつだ……、あいつが悪いんだ……、全部あいつのせいだ。僕は悪くない僕は悪くない悪くない悪くない悪くない……」

 遠くで男の泣き叫ぶ声が聞こえる。

 あの様子だときっと私は無事では済まないのだろう……。

 あぁ、でもこれで、もうこれ以上怖い思いをしなくてもいいんだ……。よかった……。

 ……でも最後に、最後にもう一度だけほんの少しでもいいから彼に会いたかったな。

 女性からの好意が苦手だと知りながらも近づき、半ば強制的に利用したこと。私に関わったせいであいつに目を付けられてしまったこと。そして、今日のこと……。今までのこと全部会ってちゃんと謝りたかった。

「――雨宮っ!」

 薄れていく視界の中、玄関から差し込んでいた夕日の光が階段の下で倒れる私の所まで伸びる。そしてさっき私を呼んだ人物がこちらへと駆け寄り、倒れる私の手を取った。

「あぁぁぁぁぁぁっ――!」

 その直後、階段の上から荒々しい足音が私たちの元へと近づき、助けに来たその人を強引に押しのけそのまま出て行ってしまった。

「――お前っ……、おい待て! くっそ……」

「っ…………」

 よかった、これで助かる……。

 そう思った瞬間、全身から一気に力が抜け意識が遠のいていく。

「――雨宮!? おい、――――!?」

 その人が私の顔を覗き込み必死になにかを言っているが、聞き取ることができない。それどころか、逆光とぼやけた視界によりその顔を見ることもできなかった。

 だけどそれでも、この手に感じる温もりが私に確かな安心感を与えた。

 心地の良い、覚えのあるこの感覚……。

「――――!」

「……ごめん、ね……。きょう、や……」

 そうしてやっとの思いで彼への謝罪の言葉を絞り出すと、そこで私の意識は途絶えた。

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