夏休みを「ちょっと仲良いだけのお友達」で終わらせたくないわたしの恋。
もう寒すぎるので、早く夏になってほしいです
涼しい風が、吹き抜けた。キャンパスの中庭では、どこかに吊るされた風鈴の音が聞こえる。チリン、という乾いた音が、凛とした青空の匂いを運んでくる。
夏が始まったなあ。そんな実感が、胸の奥にストンと落ちた。
今日は一日、何もしないつもりだった。講義はすべて終わって、午後の予定は真っ白。木漏れ日が揺れるベンチに腰を下ろし、結露したアイスコーヒーを飲みながら、ただ贅沢に時間を溶かす。それで満足なはずだった。
「暑くないの?アイスより先に溶けそうだよ」
不意に影が落ちて、聞き慣れた声がした。顔を上げると、そこには逆光を背負って笑う彼が立っていた。
ゼミが同じで、学年も同じ。気を使わなくていい友人。……少なくとも、つい最近までは、そう言い切れていたはずの相手。
「もう溶けてる。こんなに暑い夏のせい」
「まだ始まったばっかりだろ」
彼は可笑しそうに笑って、断りもなく私の隣に腰を下ろした。わずかに触れそうな距離から、ほんのりと彼の体温が伝わってくる。気がする。
スマホの画面をなぞれば、鮮やかなひまわりの写真が流れていく。青すぎる海、夜空に弾ける花火、手を繋ぐ恋人たち。
これまではずっと、それらを遠い国の出来事のように眺めていた。夏の喧騒も、胸を高鳴らせるイベントも、私には無関係な他人事だと思っていた。
なのに、隣でペットボトルのキャップを開ける彼の、無防備な横顔を盗み見るたびに。
喉を通る冷たいコーヒーとは裏腹に、胸の奥がじりじりと熱を帯びて、騒ぎだす。
「なあ、今度みんなでスイカ割りしない? 誰が一番種を遠くに飛ばせるか競おうぜ」
彼がこちらを振り向く。風鈴の音が、ひときわ高く鳴った。
溶けかけた氷が、カップの中でカランと音を立てる。
彼と過ごす時間は、炭酸水の中で弾ける泡みたいに、瑞々しくて、やけに眩しかった。けれど、光が強くなればなるほど、足元の影も濃くなる。
不意に耳に飛び込んできた、友人たちの小さな噂。
「あいつ、最近英文科の子と仲良いらしいよ」
たったそれだけの言葉で、私の世界は簡単に色を失う。
私の知らない、彼の顔。
私の知らない場所で、私以外の誰かに向ける笑顔。
そんな想像が、ジリジリと肌を焼く太陽みたいに私を追い詰めていく。
本気になればなるほど、胸の奥が熱くなって、呼吸が少しだけ苦しくなる。
穏やかに凪いでいた日常は、彼という存在に掻き乱されてしまった。
平和じゃない。ちっとも、平和なんかじゃない。
それでも、隣で「暑いな」と言ってシャツの襟元を仰ぐ彼から、目を離すことができない。
この夏が、ただの季節じゃなくて、私の特別な季節になっていく。
痛いくらいに青い空の下で、私はまた、彼の方へ一歩踏み出そうとしていた。
ある日の午後、街の雑踏の中で、彼を見つけた。
隣には、私の知らない女の子。たくさんの紙袋を持って、肩が触れそうなほど近い距離で、彼は私が見たこともないような屈託のない笑顔を浮かべていた。
ジリジリと照りつけていた夏の日差しが、その瞬間だけ、ひどく遠く感じた。あんなに熱かったはずの心が一瞬で冷えて、指先まで凍りついていく。
それから、私は彼を避けるようになった。
通知を知らせる画面を伏せ、未読のまま積み上がっていくメッセージ。
キャンパスの廊下ですれ違いそうになれば、わざと足早に角を曲がる。
夕焼けが校舎をオレンジ色に染め上げる頃、かつては当たり前だった彼が、今はもう届かないほど遠くなっていく。アスファルトの熱気が、二人の間に引かれた境界線をゆらゆらと揺らしていた。
寂しい。叫びたいくらいに。
けれど、一番怖いのは彼に嫌われることじゃなくて、なにも起こらないまま自然と関係がなくなること。そしていつか、この胸の痛みが消えて、彼を「ただの知人」として忘れてしまうことだった。
思い出を綺麗なまま閉じ込めておきたくて、私は自ら、夏の光から目を逸らした。
伸びていく影の中に逃げ込んでしまえば、これ以上、傷つかなくて済むと思ったから。
夏休み前、最後の日。キャンパスは解放感に浮き足立ち、どこか落ち着かない熱を帯びていた。
私は独り、早歩きで校門へと向かう。彼はきっと、今頃あの子と夏の予定でも立てているんだろう。そう思うだけで、視界がちりちりと滲んだ。
「待てよ」
後ろから届いた声に、心臓が跳ねる。
振り返ると、そこには肩で息を切り、少し乱れた髪のまま立ち尽くす彼がいた。
「なんで……避けるんだよ」
「……避けてない」
「嘘だ。顔も見ないで、メッセージも無視して」
強い風が吹き抜け、風鈴が激しく、けれど澄んだ音で鳴り響く。私は震える声を抑え、胸に溜まっていた澱を吐き出した。
「この前、女の子と歩いてるの見たよ。駅前のカフェで仲良さそうにしてたじゃん、……お幸せにね」
精一杯の強がりをぶつけて、私は逃げるように背を向けた。けれど、すぐに腕を掴まれる。
「待てって! カフェって、もしかして先々週の日曜か?」
「……そうだよ」
「ああ……なんだ、そういうことか」
彼は天を仰いで、深いため息をついた。呆れたような、どこか安心したような顔。
「あれ、妹。今年受験生でさ、オープンキャンパスの下見に来てたんだよ。あいつ、道に迷うとすぐ泣きそうになるから、放っておけなくて」
「……いもうと?」
「そう。顔、似てなかったか? あいつに言ったら怒られそうだけど」
言われてみれば、あの時感じた親密な空気は、恋人同士の甘い雰囲気というよりは、もっと遠慮のない家族のような近さだった気もしてくる。
彼は少し気恥ずかしそうに視線を逸らしてから、絞り出すように言った。
「ずっと、君のことで頭いっぱいだったのに」
その一言で、胸の奥のダムが決壊した。
ひとりで抱えて、ひとりで傷ついて、勝手に終わらせようとしていた自分がひどく子供に思えて。
「わたしも、」
零れた本音に、彼は困ったように、でも愛おしそうに眉を下げて笑った。
「悪い。映画みたいに格好いいセリフは言えないけど」
彼が一歩、踏み出す。アスファルトの熱を飛び越えて、私たちの影がひとつに重なる。
「それでも、この夏、君と一緒に過ごしたい。君が好きなんだ。」
それは、世界で一番贅沢な始まりの合図だった。
今日この時を、ずっと心のどこかで待ちわびていたんだ。そんな当たり前のことに、ようやく素直になれる。
まだ終われないし、終わらせない。
この夏は、私たちが主役になるんだ。
よければ短編まとめと見ていってください!
1話完結なので、どの話から読んでも楽しめると思います!
短編まとめ↓
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