第9章 光の揺らぎと、三人の大喧嘩
石の街を離れると、道はふたたび土と草の匂いに戻る。
遠くには、薄く世界樹の影が見えた。
空の向こうで、かすかに揺れているような巨大な影。
——あそこに、わたしの“いきさき”がある。
セレスティアは胸に手を添えた。
光は確かに、世界樹の方角を指している。
けれど、まだ道は遠い。
それまでに、いくつもの丘と森と町を越えなければならない。
「今日中に、峠下の小さな村まで行けるはずだ」
先頭を歩くガイルが、短く告げた。
「道もひとまず安全圏だね。
魔物の出現記録も、ここ数日は少ないって書いてあったし」
フィンが地図を畳み、腰の鞄へ戻す。
「ふふーん。だったら今日は、少し肩の力を抜いて歩いてもいいんじゃない?」
ミロが歌うように言って、尻尾をゆらゆら揺らした。
「セレス、大丈夫? 疲れたら、すぐ言うんだよ?」
「……だいじょうぶ……」
セレスティアは微笑んだ。
森を出たばかりのころより、足取りは少し慣れてきた。
石畳の街路を歩いたことも、きっと役に立っている。
胸の光も、今日は静かだ。
——そう、思っていた。
◆ 小さなきっかけ
昼過ぎ、川辺で休憩をとることになった。
清い水が石の間をすべり、涼しい風が肌を撫でる。
ミロが荷物を置き、ぱしゃりと水をすくった。
「わぁ、冷たっ……セレス、触ってみる?」
差し出された手を、セレスティアは恐る恐る掴む。
ミロの手のひらはあたたかくて、水はひやりと冷たかった。
「わ……」
思わず声がこぼれた瞬間——
胸の光が、ふわりと大きく揺れた。
ミロの方へ、ふわっと零れ落ちるように。
その様子を、ガイルはじっと見ていた。
フィンも、無意識に目を細める。
「……今、光……」
ガイルが低く呟く。
「ミロに、反応したね」
フィンの言葉に、ミロは慌てて尻尾を立てた。
「え? え、いや、その、たまたまじゃない?
セレスが水に驚いただけで——」
「でも、君の手を取った瞬間だった」
「うっ……」
ミロの耳が赤くなる。
「べ、別に変な意味じゃないよ?
僕はただ、セレスに川の水の気持ちよさを——」
「……みろの、て……あったかかった……」
ぽつりと言ったセレスティアの言葉に、ミロはさらに真っ赤になる。
「ほら!」
ガイルの胸の奥で、何かがちりっと音を立てた。
——なんだ、その、よく分からないざわつきは。
胸の内側で、妙な不快感がうずいた。
◆ 2度目の揺らぎ
休憩を終え、一行はふたたび峠道を登り始めた。
途中、道の脇の岩陰で、野犬の群れがこちらを伺っているのが見えた。
牙はむいていないが、目は飢えている。
ガイルは即座に前へ出る。
「セレス、下がれ」
彼は剣に手をかけ、野犬に真正面から睨みを返した。
鋭い視線に押されたのか、野犬たちは低く唸りながらも、やがて森の中へと散っていく。
「……ふぅ。戦闘にならなくてよかった……」
フィンがほっと息を吐く。
セレスティアは、ガイルの背中を見つめていた。
守るように立つ姿。それは何度も見てきた光景。
「……がいる……」
胸の奥がぎゅっと締め付けられ、
光が、また揺れた。
——今度は、はっきりとガイルの方へ。
ミロはそれを見て、ぴくりと耳を動かした。
「ね、ねぇ……今の、見た?」
フィンも、黙って頷く。
「セレスの光、ガイルの背中に向かって……」
「……ただの偶然だ」
ガイルは短く言ったが、声の奥に微かな乱れがあった。
「お前は俺に守られて安心した。
だから、光が揺れただけだ」
「“だけ”って言うには、さっきのミロの時と……」
フィンが言葉を続けようとした瞬間——
「やだなぁ、ガイルだけ特別扱いみたいじゃない?」
ミロが冗談めかして笑った。
だが、その笑みにも少し棘が混じっている。
「さっきは僕の手を握った時に光が揺れたよね?
今度はガイルの背中でしょ?
なんだか、セレスの光……」
ミロはセレスとガイルを交互に見た。
「誰に向いてるのか、分かんなくなってきたなぁ……」
冗談のように聞こえたその一言が、
三人の胸のどこか深いところに、小さな火種を落とした。
◆ 3度目の揺らぎ——決定打
その日の夕方、峠を越えた先の小さな村に辿り着くことができた。
村は静かで、石造りの家々が斜面に沿って並んでいる。
宿を確保したあと、フィンがセレスに声をかけた。
「少し、光の調子を見せてもらっていい?」
村はずれの、誰もいない祠の前。
フィンは魔導士用の小さな測定具を取り出した。
透明な板に刻まれた魔法陣が、セレスティアの胸の光に反応する。
「……だいじょうぶ……?」
「痛くしないよ。ただ、触れるだけ」
フィンはゆっくりと、セレスティアの胸元へ手を伸ばした。
指先が、光の近くの空気に触れる。
——その瞬間。
光が、今までで一番大きく脈打った。
「……っ!」
セレスティアは思わず目を閉じる。
胸の中で、光がぐるりと渦を巻いた。
「フィン!」
ミロとガイルが同時に声を上げる。
光は、まるでフィンに向かってその身を投げ出したように揺れた。
フィン自身も驚いて目を見開く。
「——こんな反応は、初めてだ……」
ミロが、じろりとフィンを見る。
「ねえ、それ、どういう意味?」
「……どういう、とは?」
「セレスの光、今、誰よりも強く君に反応したよね?」
ガイルの眉間にも皺が寄る。
「俺の時や、ミロの時よりも、だ」
「それは……たまたま魔力の波長が——」
「都合がいいね。
“魔導士だから”って言えば何でも説明ついちゃうじゃないか」
ミロの声が、いつもより低くなる。
「ミロ」
フィンの目がすっと細くなった。
「今のは、ただの測定だ。
君の時やガイルの時とは、条件が違う。
それを一緒くたに——」
「条件の話じゃなくて、“気持ち”の話をしてるんだよ!」
普段は笑顔を絶やさないミロの尾が、怒りとも不安ともつかない形で逆立つ。
「セレスの光が、どこを向いてるのかって話だよ!」
◆ ずれた言葉、膨らむすれ違い
その言葉で、空気が変わった。
ガイルが腕を組んで、一歩前へ出る。
「くだらない。
光は世界樹へ向いていると、あの塔で分かったはずだろう」
「それは“本当の向き”でしょ?」
ミロは噛みつくように言う。
「でも、こうして揺れるたびに、僕らだって考えるんだよ。
セレスが、誰にいちばん安心してるのかとか……」
「安心させるために守っている訳じゃない。
セレスを王子のもとへ送り届けるために護衛しているんだ」
「それ、ほんとに“それだけ”?」
ミロの目が細くなる。
「ガイルはさ、いつも“任務だから”って言うけど……
セレスが泣いた時、一番真っ先に飛び込んでくるの、誰?」
「それは——」
「君はちゃんと、セレスに“個人として”向き合ってるよ。
自覚してないだけでさ」
ガイルの喉がひくりと動く。
その横で、フィンが静かに口を開いた。
「ミロ。君も人のことを言えないよ」
「は?」
「君だって、セレスが怖がるたびに歌って、笑わせて。
“守り人だから”と言いながら、一番近くで心を支えようとしている」
「それの何が悪いのさ!」
「悪いとは言っていない。
ただ、今の君は“自分の不安”を光のせいにしている」
ピキン、と何かが折れる音がした。
ミロが一歩、フィンへ踏み込む。
「じゃあ君はどうなのさ」
「……僕?」
「冷静ぶって、“知りたいだけだ”って顔してるけどさ。
セレスの光が自分に強く反応したからって、内心、嬉しかったんじゃないの?」
フィンの指先が、わずかに震えた。
ほんの一瞬だったが、その動きをミロは見逃さない。
「図星?」
「……それは——」
「否定しないんだ」
ミロは笑う。だが、その笑みは寂しさに滲んでいた。
「ねえフィン。
君だって、セレスが自分の方を向いてくれたら嬉しいんだよ。
僕も、ガイルも、同じ」
ガイルは眉をひそめて口を挟む。
「俺は——」
「“近衛騎士として”だろ?」
ミロの視線が突き刺さる。
「そういう風に言い訳してるうちは、余計ややこしくなるんだよ」
「ミロ——」
「三人とも、セレスが大事で。
それぞれ違う形で、“自分を見てほしい”って思ってて。
光が揺れるたびに、勝手に期待して、勝手に傷ついて……
——馬鹿みたいじゃない?」
言ってから、ミロははっと口を押さえた。
だが、もう遅かった。
◆ 泣き出した光
セレスティアは、ずっと黙って三人のやりとりを見ていた。
何が正しいのか分からない。
誰が悪いのかも分からない。
ただ、胸が痛い。
光が、ぐちゃぐちゃに揺れている。
「……やめて……」
小さな声は、誰にも届かなかった。
ガイルとミロの視線がぶつかり、フィンも言葉を探している。
「“馬鹿みたい”で済むなら、まだいい」
ガイルが低く言う。
「セレスが戸惑っているのが見えないのか」
「見えてるよ!」
ミロが叫ぶ。
「見えてるから、怖いんだよ!
このまま光が誰かを選んじゃったらどうしようって……!」
「選ぶ?」
フィンが静かに問う。
「誰を?」
「それは……」
ミロの言葉が詰まる。
その時。
「や、めてっ……!」
セレスティアの叫びが、三人の言葉を断ち切った。
次の瞬間——
胸の光が弾けるように揺れた。
村はずれの祠の前が、一瞬だけ昼間のように明るくなる。
光は三人の間で暴れるように飛び、それからセレスティアの胸に戻った。
「……っ、は……はぁ……」
膝から力が抜け、セレスティアはその場に崩れ落ちた。
「セレス!」
三人が同時に駆け寄る。
しかし、セレスティアは彼らから距離を取るように、一歩後ずさった。
「こないで……!」
涙でぐしゃぐしゃの顔。
震える肩。
胸を抱きしめる小さな手。
「まって……こないで……
みんな、こわい……!」
その言葉が、三人の胸を鋭く刺した。
◆ それぞれの沈黙
村の宿の一室。
セレスティアは、その夜ひとりで横になっていた。
窓の外には、世界樹の影が薄く見える。
胸の光は、先ほどより少し落ち着いていたが、まだ時折震える。
(……どうして、あんなことに……)
三人に怒っているわけではない。
ただ、自分のせいで争いが起きたような気がして、胸が苦しかった。
——わたしの、ひかりのせい……?
そう思った瞬間、光がまた小さく震えた。
「……ごめん……」
誰にともなく、呟く。
「ごめんね……ひかりも……みんなも……」
一方、その頃。
宿の別室では、三人が沈黙して座っていた。
ミロはうなだれて、耳も尾も力なく垂れている。
「……やっちゃったなぁ、僕……」
「いや」
ガイルが苦い声を出した。
「悪いのは俺だ。
あんな言い方をしたから、ミロも……」
「違うよ」
フィンがそれを遮る。
「僕も責任がある。
セレスの光の反応を、ちゃんと説明しないまま放っておいた」
三人とも、自分を責めていた。
しばらくして、フィンが眼鏡の縁に触れ、静かに口を開く。
「……落ち着いて、光の動きを整理しよう」
「整理?」
「ああ。
今日一日、セレスの光は何度か大きく揺れた。
君たちの言う通り、“僕らの方を向いたように見える”瞬間もあった。
でも——」
フィンは指先で、机の上に簡単な図を描く。
「揺れたあと、必ず“元の方向”へ戻っている。
王子のいるはずの、世界樹の方角へ」
ミロとガイルが顔を上げる。
「つまり、どういうことだ」
「光は、確かに僕らに反応している。
それはセレスの感情——安心、不安、好意、恐怖——
そういった揺れを“表面”で拾っているんだと思う」
フィンは続けた。
「けれど、“芯”の向きは変わっていない。
光の真ん中は、ずっと王子の側へ向いたままなんだ」
ミロがぽかんと口を開ける。
「……じゃあ、僕らは……」
「表面の揺れだけを見て、“選ばれた”とか“選ばれていない”とか……
勝手に勘違いして、焦って、喧嘩した」
フィンの声には、自嘲が混じっていた。
「……最低だな、俺たち」
ガイルが、額を押さえるように言う。
「セレスは、自分のせいだと思っているかもしれない」
フィンが続ける。
「光を持って生まれただけなのに……」
「それ、一番嫌がるやつだ」
ミロが顔を歪めた。
「セレス、自分を責めるから……」
「……行こう」
ガイルが立ち上がった。
「謝らなければならない。
俺たちは、セレスを傷つけた」
二人も頷く。
三人は並んで立ち上がると、セレスティアの部屋の前へ向かった。
◆ 三人と一人の、泣き笑いの和解
コン、コン、と控えめなノック。
「……セレス。俺だ」
ガイルの声に続けて、ミロとフィンも名乗る。
「僕もいるよ」
「僕も」
しばらくして、扉の向こうから小さな声が返ってきた。
「……あいてる……」
扉を開けると、セレスティアは窓辺に座っていた。
膝を抱え、胸元をそっと押さえている。
「……ごめんなさい……」
セレスティアの方が先に頭を下げた。
「わたしの、ひかりのせいで……」
「違う」
三人の声が揃った。
ガイルが一歩前に出て、膝をつく。
「……悪いのは、俺たちだ」
「そうそう。セレスは何も悪くない」
ミロも続ける。
「むしろ、勝手に騒いだ僕らが悪い」
「光の揺れを、全部“自分に向いているサイン”だと思い込んだ僕にも責任がある」
フィンが静かに言った。
「ちゃんと説明もしないで、感情で動いてしまった」
セレスティアの目から、ぽろりと涙がこぼれる。
「……でも……
みんな、いらいらして……こわくて……」
「怖がらせた」
ガイルが認めるように言った。
「本当に、すまない」
ミロも、フィンも頭を下げる。
「……わたし……」
セレスティアは胸に手を当てた。
「いまも、ひかり……ゆれてる……」
ガイルが顔を上げる。
「それは……」
「こわいから……かなしいから……でも……」
セレスティアは、三人の顔を順番に見つめた。
「みんなが……あやまりにきてくれて……
ここにいてくれて……
それも、うれしいから……」
胸の光が、やさしく揺れる。
フィンは、ほっと息を吐いた。
「……それだよ。
それが、光の“揺れ”の正体だ」
「……きもち……?」
「うん。
セレスの心が、“今、ここにいる人たち”に反応しているだけ。
だけど、光の“いちばん奥”は、ずっと同じ場所を向いている」
「おうじの、ところ……?」
「そう」
フィンは眼鏡を押し上げて、まっすぐにセレスを見る。
「君の光の“帰り道”は、王子のところ。
それは変わらない。
だから、僕たちは……その隣を歩くだけだ」
「……となり……?」
「うん」
ミロが笑う。
「セレスの光の“ゴール”は王子で、世界樹の根っこで……
僕たちは、“道の途中にいる灯り”みたいなものかな」
「お前が言うと、妙に分かりやすいな」
ガイルも口元をゆるめる。
「俺たちは、光の行き先を争うんじゃない。
光が迷わずたどり着けるように、“道を護る”だけだ」
「……みち……」
セレスティアは、胸に手を当てて目を閉じた。
光が、三人の言葉に呼応するように揺れ、
それから、遠く世界樹の方角へと静かに向きを整える。
「……みえた……」
「え?」
「わたしのひかり……
みんなのところで、ゆれて……
それから、ずっと先の“おうじ”のところに……のびてる……」
セレスティアは、涙を拭って笑った。
「みんなは……
その“なかみち”……」
ミロが目を丸くし、すぐに笑う。
「なかみち! いいね、それ!」
「悪くない表現だ」
フィンも微笑む。
「僕たちは“中継点”だね。
君の光が、安心して先へ進めるようにする役目」
「……そうだな」
ガイルが頷く。
「俺たちは、誰もゴールじゃない。
全員、“一緒に走る護衛”だ」
セレスティアの胸の光が、ふわりと明るくなった。
「……ずっと……いっしょに、はしってくれる……?」
「もちろん!」
ミロが即答する。
「途中で投げ出すような奴、ここにはいないよ」
「世界樹の根まで」
フィンが言う。
「王子の眠りが解けるまで」
ガイルが続ける。
「……ありがとう……」
セレスティアは、三人に向かって小さく両手を広げた。
「……ぎゅって……しても、いい……?」
ミロが一番に飛び込んだ。
「もちろん!!」
続いてガイルが、照れくさそうに腕を回す。
フィンも少し遅れて、そっと手を添えた。
四人の間に、小さな光の輪が生まれた。
胸の光は——もう暴れない。
ただ、まっすぐに、遠くの世界樹と、その根元に眠る“足長おじさん”へと伸びている。
その途中で、何度も揺れながら。
揺れるたびに、
“道の途中にいる三人”を照らしながら。
——こうして、光の揺らぎから始まった三人の大喧嘩は、
少しの涙と、たくさんの“ごめんね”と“ありがとう”で、静かに幕を閉じた。
そして翌朝。
世界樹の影は、昨日よりもほんの少しだけ近く見えた。




