第5章 影の森の叫び
森は、まだ朝の名残を抱いたまま、静かに光を吸い込んでいた。
旅に出て三日目。
村を離れ、街道の外れに入り込むようにして続く獣道を歩く。
セレスティアは、胸の奥でふるりと揺れる“ひかり”を確かめながら足を進めていた。
風の流れ、草の匂い、木々のざわめき。
どれも森にいた頃とは違い、混ざり合った複雑な世界の息遣いがする。
「今日は天気、崩れなさそうだね」
ミロが軽やかに言う。尻尾が嬉しそうに揺れていた。
ガイルは前を歩きながら短く答える。
「道は悪いが、魔物の気配は薄い。問題はない」
フィンが地図を畳んで、セレスティアの横に並ぶ。
「セレス。疲れてない?」
「……だいじょうぶ……」
そう言いながらも、その声はわずかに震えていた。
“ひかり”が、ときおり不安のように揺れるたび、セレスティアの足は自然とぎこちなくなる。
ミロが彼女の様子を察し、そっと笑う。
「最初の旅はね、みんなそんな感じだよ。
大丈夫。ゆっくり、僕らと同じ速さで歩けばいいから」
その優しさに、セレスティアの胸が少し温かくなる。
——その時だった。
森の奥から、空気が一瞬、ひりつくように震えた。
鳥の声が止み、風が止み、匂いが変わる。
“世界が息を潜めた”と、セレスティアは本能で悟った。
「……っ!」
胸のひかりが、強く震える。
それは“導き”ではなく、
明らかな“警告”のようだった。
「止まれ!」
ガイルが鋭い声を張ると同時に、剣を抜いた。
その音が森に響くより早く、影が地を這うように走った。
低い唸り声。
黒ずんだ毛並み。
赤く濁った目。
——影狼。
一体だけではない。
周囲の茂みがざわざわと揺れ、数匹が姿を見せる。
ミロの耳がピンと立ち、尾が逆立つ。
「数、多いよ……!」
「下がれ、セレス!」
ガイルが前へ出る。
フィンは杖を構え、呪文を紡ぎ始める。
セレスティアは、ただ胸を押さえて震えていた。
怖い。
怖い。
怖い。
ひかりが、痛いくらいに揺れる。
ガイルの剣が一閃し、影狼の一体が倒れる。
ミロが俊敏に跳び、もう一体の背を蹴り払う。
フィンの魔法が光の矢となって飛び、影を撃つ。
三人は強い。
迷いもなく、躊躇もなく、ただ“守るために”動いている。
——それなのに。
「っ……あ……」
背後の木陰から、一匹の影狼がセレスティアに向かって飛び出した。
牙が見える。
爪が光る。
こちらに向かってくる“殺意”が、生まれて初めて胸に突き刺さる。
足がすくむ。
声も出ない。
逃げられない。
「セレス!!」
ガイルが叫ぶ。
しかし、影狼のほうが早い。
牙が迫る——。
(——あ……)
ひかりが悲鳴のように震えた。
次の瞬間。
火花のような金色の影が割り込んだ。
「セレス、伏せて!!」
ミロだった。
獣人特有の跳躍でセレスティアを抱き寄せ、影狼の攻撃を横へ受け流す。
鋭い爪がミロの腕をかすめ、血が散った。
「あ……あぁ……!」
目の前で、血がこぼれ落ちる。
初めて見る“誰かの痛み”だった。
その衝撃で、セレスティアの心は完全に凍りついた。
「ミロ兄……っ!」
フィンが叫び、呪文を強める。
ガイルが斬り込み、残った影狼を叩き伏せる。
敵は倒れ、森は再び静寂を取り戻した。
——けれど。
胸のひかりは、まったく静まらない。
ミロが腕を押さえながら笑ってみせる。
「大丈夫。浅い傷、浅い傷……ほら、フィンに治してもらえば——」
「……わた……し……」
声が震えすぎて、言葉にならない。
セレスティアは地面に膝をつき、震える指で胸を押さえた。
「……わたし……なにも……できない……っ」
その言葉にガイルが顔を上げる。
「セレス、それは——」
「まもれない……
たすけられない……
みんな……けがして……
わたし……なにもしらない……!」
涙が止まらない。
見ているだけだった。
怖かった。
一歩も動けなかった。
仲間は戦って、傷ついて、守ってくれたのに。
「わたし……いらない……」
その一言に、フィンが強く首を振った。
「違う。セレス。君は——」
「いらないなんて、絶対に言っちゃだめ!」
ミロが震える声で遮る。
普段の明るさはもうない。
その目は、真剣に、必死に揺れていた。
「怖かったのは、君だけじゃないよ。
僕だって、ガイルだって、フィンだって……
でもね。君を守れたことが、僕たちは……嬉しいんだよ」
ガイルも低く言う。
「セレス……俺は、お前が無事で、本当に……ほっとした」
フィンはそっと彼女の肩に触れる。
「できなくていい。
今日、動けなかったことを……恥じる必要なんてない」
ひかりが、かすかに揺れる。
セレスティアは、涙で滲んだ光を見つめた。
「……こわい……
でも……
みんなが……まもってくれる……?」
三人は同時に頷いた。
「もちろんだ」
「当たり前だよ」
「絶対に守る」
胸のひかりが、弱々しく、それでも確かに明滅する。
それは
“まだ歩けない小さな光”
だけど——
仲間が手を伸ばすたび、
ほんの少しだけ、強く揺れた。
——セレスティアはこの時まだ知らない。
この無力さの痛みが、後に“強さ”へ変わることを。
そして、遠く眠る王子の夢にも、
その涙がそっと届いていたことを。




