第2話「鈴音の記憶」
病院の廊下は、いつも消毒液と古い埃の匂いが混じっている。
湊は車椅子の上で膝を抱え、壁に掛かった時計を見上げた。長針が一周するたび、リハビリの時間が近づいてくる。
「湊くん、今日もがんばろっか」
担当の理学療法士が明るい声をかける。
湊は「はい」と返事をして笑おうとするが、その笑顔はいつも少しだけ遅れて顔に貼り付く。
生まれつき足に障害があり、歩くことができない。
物心ついた頃には車椅子が当たり前で、病院も当たり前で、諦めることも当たり前になっていた。
それでも――彼の世界をカラフルに保ってくれる存在がひとりだけいた。
幼馴染の紬だ。
土曜日の病院の屋上は、意外と賑やかだ。
洗濯物が並ぶ隣のビルのベランダ。遠くを走る電車の音。雲の隙間にのぞく青。
「ほら、見て。今日の雲、湊の好きなゲームのボスキャラに似てない?」
紬は湊の背後から車椅子を押しながら、空を指さした。
髪を二つに結び、似合わない白いマスクをあごまでずらして笑う。
「いや、あんなラスボスふわふわしてないから」
「えー、じゃああれは?」
「あれは……たぶんただの雲」
「つまんない男だなぁ、湊は」
そう言いながらも、紬は声を立てて笑った。
ふたりで笑うと、病院の屋上も少しだけ違う場所みたいに思える。
「ねぇ湊。またさ、キーホルダー作ろうよ。
小学生のとき、一緒に作ったやつ……まだ持ってる?」
「持ってるよ。ほら」
湊は胸ポケットにそっと触れた。
そこには、紬と昔の工作教室で作った小さな鈴付きのキーホルダーが入っている。
「中学生になってからはカバンにつけるの、ちょっと恥ずかしくてさ……
でも失くしたくないから、ここに入れてる」
「湊ってさ、そういうところ変わらないよね」
鈴が、ちりん、と小さな音で応えた。
幼いころの思い出が、その一瞬だけ鮮やかに蘇った。
「湊は歩けなくても、湊だよ」
紬は、あまりにも自然な調子でそう言った。
湊の胸の奥が、きゅ、と小さく鳴る。
「……なんだよ、急に」
「だってさ。こないだリハビリのとき、先生に“最近すごくがんばってるね”って褒められたでしょ?」
「ああ……まあ」
「そのあと湊、ちょっとだけ下向いてた。
悔しい顔というか……無理して笑ってる顔というか」
「……してないし」
「してたよ。私、湊のそういう顔、すぐわかるんだから」
紬は車椅子の横にしゃがみ込み、まっすぐに湊を見る。
距離が近くて、湊は視線をそらした。
「歩けるようになりたい気持ちがあるのもわかるよ。
でもね……歩けなくても、湊は湊なんだよ。
私にとっては、そのことだけは変わらないから」
その言葉に、湊は知らないうちに息を止めていた。
そして、呼吸を戻すとき、胸の奥がじんわりと熱くなった。
「……なんだよ、それ」
「名言でしょ。あとでノートに書いといていいよ」
「いらねえよ」
そんな軽口を叩き合いながら、時間は過ぎていった。
紬がいるときだけ、湊は“歩けない自分”を忘れられた。
*
それでも、夜になると世界は変わる。
病院から家に戻り、自分の部屋にひとり。
狭い四畳半。低い位置に揃えられた家具。手すり。簡易スロープ。
車椅子を止めると、そこから先は自力でベッドに移るしかない。
慣れた動作ではあるのに、毎回「よいしょ」と心の中で掛け声をかける。
天井を見上げる。
小学生の頃に貼ったままの、宇宙とロボットのポスター。
そこに描かれた人型の機械は、当たり前のように立っている。
「……歩きたいな」
ぽつりとこぼれた声は、誰に届くでもなく消えていく。
紬と並んで歩きたい。
紬の隣で、同じ景色を“立った目線”で見てみたい。
一緒に走って、一緒に転んで、同じ高さで笑いたい。
そんな願いは、あまりに“都合が良すぎる”と思っていた。
だからこそ、誰にも言えなかった。
「歩けるようになりたいです、ってさ……
言った瞬間、今の自分を全部否定してるみたいじゃん」
湊は枕元に置いたキーホルダーを手に取り、鈴を鳴らした。
ちりん、と小さな音が鳴る。
「歩けない俺を“そのままでいい”って言ってくれる人がいるのにさ。
それでも、“歩きたい”って思っちゃう俺は……欲張りなんだろうな」
目の奥が熱くなり、視界が滲む。
「歩きたい……歩けるようになりたい……
紬と、一緒に……同じ速さで、歩きたいよ……!」
声はだんだん大きくなり、最後には嗚咽に変わった。
胸の奥に押し込んできた願いが、堰を切ったみたいに溢れ出す。
そのときだった。
「その願い――叶えることができますよ。」
部屋の隅から、柔らかな声が聞こえた。
湊はびくりと肩を震わせ、半身を起こした。
視線を向けると、そこには“夜の一部”だけが切り取られたような影が立っていた。
黒い燕尾服。
濡れていないはずなのに、どこか雨上がりのような艶を帯びた黒髪。
深い赤色の瞳が、静かに湊を見つめている。
「……だれ……?」
声はかすれていた。
男は一歩だけ近づき、優雅に一礼する。
「私はルシアンと申します。
強き願いを抱く方の前にのみ姿を現す、“契約の執行者”でございます。」
病院の医師でもなければ、親戚でもない。
それなのに、この部屋に立っていることを湊は不思議に思わなかった。
ただ、胸の奥が直感的に理解する。
――この男は、この世界の人間ではない。
「ゆ……幽霊とか、そういうやつ?」
「幽霊ほど未練がましくはないと自負しておりますが……
人間ではない、という点においては、おおむね正解でございます」
くすりとも笑わずに、しかし丁寧な口調で答える。
「あなたの願い、先ほどこの部屋で確かにお聞きしました。
“歩きたい”――“歩けるようになりたい”――“紬様と並んで歩きたい”。
どれも、実に強く、美しい願いです」
湊は息を呑んだ。
さっきの言葉を、誰にも聞かれていないはずの言葉を、正確に言い当てられた。
「……盗み聞きするなよ」
「申し訳ございません。
ですが、強い願いというものは、時にこの世の“向こう側”にまで届いてしまうのです」
ルシアンは、まるで決まりきった説明をするように滑らかに続ける。
「あなたのその願い――叶えることができますよ、湊様」
湊は唇を噛んだ。
“様”と呼ばれるのはくすぐったいが、今はそれどころではない。
「ほんとに……? 歩けるように、なれるの?」
「ええ。医術でも、科学でもない形で。
あなたの足は――明日には、地を踏みしめるでしょう」
胸が跳ねた。
心臓の鼓動がうるさいほどに響く。
しかしその直後、ルシアンはごく自然に続けた。
「ただし――」
その一言だけで、空気が少しだけ重くなる。
「契約には、必ず対価が必要です。
あなたの“願いの強さ”に見合うだけの、あなたの大切なものをいただくことになります」
「……俺の、大切なもの?」
「はい。そう多くを望むつもりはございません。
“歩きたい”という切実な願いに見合う分だけで、充分でございます」
湊は自分の部屋をぐるりと見回した。
狭い部屋。古いゲーム機。参考書。もらいもののぬいぐるみ。
「そんなの、別に……ないよ」
ぽつりと呟いた。
「僕、兄弟もいないし、親も仕事で忙しいし。
腹が立つほど大事なものなんて、最初から持ってない」
紬の顔が頭をよぎった瞬間、湊はそのイメージを慌てて押し込めた。
“これは違う”と、無意識に心が判断する。
「本当に欲しいものと比べたら、全部どうでもよくなるくらい……
歩きたい。
ちゃんと、“自分の足で”立ってみたい。
だから――全部持っていけるもんなら、持っていけばいいよ」
その言葉を聞いた瞬間、ルシアンの赤い瞳が、かすかに光った。
「……なるほど」
静かに頷く。
「では、契約の手続きを進めましょう」
彼は手袋を外し、空中にすっと指を滑らせた。
何もなかった空間に、漆黒の紙のようなものがふわりと現れる。
黒い表面に、赤い文字が浮かんでは沈み、心臓の鼓動に合わせて脈動している。
「こちらが契約書でございます。
難しい条文を読み解く必要はございません。
あなたの“歩きたい”という願いと、それに見合う対価が、すでに記されております」
「対価って、具体的には――」
「契約が成立したのち、自然と“結果”としてお分かりになるでしょう。
それを受け入れられるかどうかを含めて、あなたの“選択”でございます」
ルシアンは、その紙を両手で支えたまま、深く一礼した。
「この契約書に手のひらを置き、“契約する”と宣言なさってください。それだけで、充分です」
イカサマかもしれない。
悪い夢かもしれない。
しかし、もし本当に――明日、歩けるようになっていたら。
紬と並んで、同じ高さで、同じ景色を見られるとしたら。
湊は、震える手を伸ばした。
黒い紙に触れた瞬間、ひんやりとした感触と、どこか温かい血の気配のようなものが指先を包む。
「……契約する」
その言葉を合図に、赤い文字が一気に燃え広がった。
紙は黒い灰となって空中に散り、夜の中に溶けていく。
部屋の音が、一瞬だけ完全に消えた。
時計の針の音も、外の車の音も、何もかも。
世界が、止まった。
そしてすぐ、音が戻る。
窓の外を通る車の音。冷蔵庫の低い唸り。自分の心臓の鼓動。
「契約は成立いたしました、湊様」
ルシアンの声は、静かで、どこか祝福の響きを帯びていた。
「あなたの“望んだ結末”へと、私が必ずお連れいたします。
どうか――楽しみに、おやすみください」
湊が瞬きをした次の瞬間には、そこにいたはずの男の姿は消えていた。
残っているのは、自分の荒い呼吸と、枕元の鈴の音だけだった。
*
朝。
目を覚ました瞬間、湊は違和感に気づいた。
布団の中で、足先に“重さ”と“熱”を感じる。
ゆっくりと上体を起こし、恐る恐る布団をめくる。
そこには、いつもの“細い自分の足”があった。
見た目は変わらない。
痩せたままの、頼りない足。
なのに——
「……感覚が、ある……?」
足首を動かすと、
皮膚の下で“何かが目を覚ましたような”鈍い反応 が返ってくる。
筋肉が動いているのに、見た目はまだ弱々しい。
恐る恐るベッドの端に手をつき、足を床につけた。
心臓がうるさくて、耳鳴りがする。
立ち上がる。
膝が震え、腰がぐらつく。
それでも、崩れない。
湊は——立っていた。
「……っ、うそ、だろ……」
喉の奥から、笑いとも泣き声ともつかない声が漏れる。
一歩、前に足を出す。
身体が、それについてくる。
一歩。
二歩。
三歩。
足の裏に床の硬さを感じる。
膝に重さがかかり、筋肉が悲鳴を上げる。
少し痛いが、確実に筋肉が躍動しているのを感じる。
でも、それがたまらなく嬉しかった。
「うわ……っ、はは……!」
嬉しさのあまり、陸上選手のウォーミングアップのように腿上げをして床をドタドタと鳴らしてみる。
湊は、狭い部屋の中を何度も何度も行き来した。
証拠を求めるように、鏡の前に立つ。
映っているのは、いつもより少し背の高い自分の姿だった。
「歩いてる……ほんとに、歩いてる……!」
部屋の扉が勢いよく開いた。
「湊!? なにして――」
母が言葉を失った。
父も駆け込んでくる。その目が大きく見開かれた。
「……歩いてる?」
湊は振り返って、ぎこちない笑顔を見せた。
「……見て。歩けるよ」
次の瞬間、母は湊を抱き締め、
父は顔を覆って声を押し殺した。
「生きててよかった……
神様……ありがとう……」
震える声が湊の胸を濡らした。
「病院行くぞ! すぐだ!」
父が震える手でスマホを掴み、
母は泣きながら湊の肩を支えた。
*
検査が終わり、病院のベッドで医師が驚いた声を漏らす。
「……本当に自力で?」
医師は湊の足から視線を離せずにいた。
カルテを何度も見返してから、かすれた声でつぶやく。
「にわかには……信じがたいですね」
湊はベッドの端に座り、足を下ろす。
朝と同じように、確かな“重力”を感じる。
立ち上がる。
歩く。
朝起きた時とは違い、今まで「自分のものじゃない」と感じてきた頼りない足ではなく、ちゃんと力の通った、若い筋肉の形をした足がそこにあった。
医師は何度も検査の結果を見直して、
「これは……医学的には説明がつかない」と呟くだけだった。
両親は再び泣いた。
「奇跡だ……本当に奇跡だ……!」
湊は笑いながら、
胸の奥が熱くなるのを感じていた。
「……紬に……知らせたい」
真っ先に浮かんだのは、あの笑顔だった。
スマホを開き、連絡帳をスクロールしても、チャットアプリを開いても、
紬のアイコンはどこにもない。
「……あれ?」
胸がざわつく。
検索窓に「つむぎ」と打ち込んでも、候補は出てこない。
「消した、っけ……?そんなわけ……」
汗が背中を伝うのを感じた。
「俺、ちょっと行ってくる!」
「危ないから一緒に――」
「大丈夫!」
病院から飛び出し、
歩ける喜びよりもはるかに強い不安が胸を締めつけた。
湊はよろめきながら外に出た。
紬の家へ向かう。
足が自然に動く。止まらない。
街の風景は、いつもと変わらない。
ただ、自分が“立っている”という、それだけが異常だった。
紬の家は病院からかなり近い。
10分もかからない程度の道のりを早歩きで進み、角を曲がる。
そこには、見慣れたはずの古い二階建ての家が――なかった。
代わりに立っているのは、真新しい駐車場だった。
月極の看板。アスファルトの白線。
何の変哲もない、ただの空きスペース。
「ここ……紬の……家、だよな……?」
何度も見慣れた通学路。
何度も一緒に歩いた――いや、車椅子を押してもらった道。
湊は、通りがかった近所の主婦に声をかけた。
「あ、あの、この場所って、前はどんな家が……」
「ここ? 前から駐車場だよ? 何年も変わってないと思うけど」
「え……いや、あの、紬って女の子が住んでる家で――」
「紬ちゃん? 誰かしら。ごめんね、おばさん、わからないわ」
当たり前のように返ってくる「知らない」の言葉。
それが、何よりも異常だった。
*
病院に一度戻り、喜びながらも心配する両親をよそに学校に向かう。
歩くことができるので、今日は初めて“自分の足”で通学路を進む。
昇降口に着き、中に入る。
生徒たちの姿が行き交う。
クラスメイトが、湊を見て目を丸くする。
「え、湊!? 立ってるじゃん!」
「マジかよ、すげぇ! 歩けるようになったの!?」
みんなの驚きと喜びの声が、騒音のように押し寄せる。
担任が飛び出してきて、目を潤ませながら背中を叩いた。
だが、湊の視線は、ただ一つの場所を探していた。
教室の、窓際二列目。
紬の席があったはずの場所。
そこには、何もなかった。
空席すらない。
机も、椅子も、最初から存在していなかったみたいに、普通に並んでいるだけだ。
「先生」
湊は、乾いた声で担任に尋ねた。
「紬は……紬は今日、休みですか」
「……紬?」
担任は首を傾げる。
「ごめん、誰のことかな。うちのクラスにその名前の子は……」
名簿をめくる。
名前の一覧に、紬の文字はどこにもない。
世界から、“最初からそんな子はいなかった”と言われているようだった。
湊は、一歩だけ後ずさった。
足が震え、視界が揺れる。
「ちがう……いるんだよ……紬は……」
誰も答えない。
ただ「歩けるようになった少年」の奇跡に、人々はざわめき、スマホを向ける。
湊はその視線から逃げるように教室を飛び出した。
*
その日から、湊は“二つの現実”の間をさまようことになった。
一つは、歩けるようになった自分を祝福する世界。
学校中のヒーロー。SNSで連日話題になる程の“奇跡の少年”。
もう一つは、誰も紬を覚えていない世界。
家族も、クラスメイトも、医者も、「そんな子は知らない」と首を振る世界。
「本当にいたんだよ……」
湊は教室の机に突っ伏しながら、独り言のように繰り返す。
「いつも病院に来てくれてさ。
屋上で一緒に雲見て、くだらない話して……
俺が落ち込むと、“今の湊も湊だよ”って言ってくれて……」
話せば話すほど、自分の声が狂人のものに聞こえてくる。
証拠はどこにもない。
写真にも、動画にも、その姿は映っていない。
「……俺の、幻覚……?」
一瞬、そんな考えが脳裏をよぎる。
もしそうだとしたら、この胸の痛みも、全部自分の勘違いだと片付けられる。
そう思いかけたとき――
机の上から、何かがころりと転がり落ちた。
床に落ちて、ちりん、と鈴の音が鳴る。
湊は反射的に手を伸ばし、その小さな音の源を掴んだ。
それは、小さな鈴付きのキーホルダーだった。
昔、紬と一緒に作ったもの。
「いつかこれをつけて一緒に歩こうね」と笑い合った、小さな約束の証。
震える手で、湊はそれを見つめる。
「……やっぱり、いるじゃん……」
紬は、自分の幻覚なんかじゃない。
確かに、この世界に“いた”。
湊の視界が、ぼやけていく。
こぼれた涙がキーホルダーを濡らし、鈴が小さく揺れる。
「歩けることよりも……
紬と一緒にいる方が……何倍も、何百倍も……大事に決まってるだろ……!」
何かを決めたように、湊は顔を上げた。
「ルシアン……!」
彼は、空気に向かって叫ぶ。
「聞こえてんだろ! 出てこいよ!!」
*
「お呼びでしょうか、湊様」
その声は、すぐに応えた。
教室の隅――誰もいないはずの空間に、影が立ち上がる。
周囲の時間が、ほんのわずかに遅くなったような感覚。
教室のざわめきは、その輪の外に押しやられていく。
ルシアンが、そこにいた。
燕尾服の襟元を整えながら、いつものように優雅に一礼する。
時間が止まっているのか。誰も彼に気づかない。
この世界に触れながら、同時に、この世界から少しだけずれている。
「その足の具合はいかがですか。
私といたしましても、なかなかの出来栄えだと自負しているのですが」
「……最悪だよ」
湊は、握り締めたキーホルダーを見せつけるようにして言った。
「これを見ても、まだ同じことが言える?」
ルシアンは一瞥し、小さく目を細めた。
「なるほど。
“痕跡”までは消しきれませんでしたか。
とはいえ、それもまた――美しい誤差でございます」
「紬をどこへやった」
湊の声は震えていたが、はっきりしていた。
「さぁ……どこでしょうね。
この世界から“存在そのもの”が取り除かれた、とだけ申し上げておきましょうか」
それはつまり、この世界のどこにも、もう彼女の“居場所”は残っていないということだ。
「お前が……俺の“対価”に、紬を持っていったんだな」
「あなたの強い願いに見合う“大切なもの”をいただくと、最初に申し上げたはずでございます」
ルシアンは、淡々とした口調で続ける。
「あなたにとって、何よりも代えがたいもの。
それが“紬様”であった――というだけの話です」
「歩く力なんかより、紬の方が大事だ」
湊は、はっきりと言った。
自分自身にも聞かせるように。
「俺は間違えた。
歩きたいって願ったこと自体を後悔はしないけど……
その代わりに紬を失うくらいなら、こんな足いらない」
ルシアンは、わずかに首を傾げる。
「……興味深い選択ですね。
多くの方は、一度手に入れた“奇跡”を手放そうとはなさらないのですが」
「どうすればいい」
湊は、ぐっと前のめりになった。
「紬を、元に戻すにはどうすればいい。
全部……全部元に戻していい。
車椅子生活でもなんでもいいから……紬を返せよ」
その言葉に、ルシアンの瞳が静かに光る。
「では――再契約、という形になりますね」
「再契約……?」
「ええ。今あなたが持っている“歩行の奇跡”を、こちらにお返しいただく代わりに、
紬様の存在を、この世界に再び繋ぎ直す」
ルシアンは、当たり前のことのように言う。
「もちろん、その結果として――あなたは再び歩けなくなります」
「それだけでいいのか」
「“それだけ”などという言葉で片付けるには、
なかなかに重い代償だとは思いますが……
あなたが喜んで差し出されるというのなら、私としても異存はございません」
湊は、一瞬だけ目を閉じた。
走れた校庭。
階段を自分の足で上れたときの感動。
「すごいね」と称賛の声を浴びた日々。
それらは、間違いなく輝いていた。
だが――紬と笑い合っていた時間の方が、何倍も眩しかった。
迷う時間は、思っていたよりずっと短かった。
「……やるよ」
湊は、ゆっくりとルシアンを見据える。
「歩けなくなってもいい。
紬が、この世界に“いる”なら、それでいい」
ルシアンの口元に、初めてわずかな笑みが浮かんだ。
「かしこまりました、湊様。
では、二度目の契約と参りましょう」
彼が指先を滑らせると、再び漆黒の紙が空中に現れる。
今度は、その表面に浮かぶ赤い文字が、どこか見覚えのある形をしている気がした。
「この契約書に手を置き、もう一度“契約する”と宣言なさってください。
今度は、あなたが“何を差し出すのか”を、はっきりと理解した上で」
湊は、キーホルダーを握りしめた反対の手をその紙に伸ばした。
指先が触れた瞬間、さっきよりも強い冷たさが走る。
「……契約する」
言葉を口にした瞬間、足元から力が抜けた。
膝が崩れ、床に倒れ込む。
教室の床の硬さが、背中に伝わる。
さっきまで当たり前に動いていたはずの足が、まるで他人のものみたいに重く、遠い。
「っ……!」
息を呑む湊の耳元で、鈴の音が鳴った。
「……契約は成立いたしました」
ルシアンの声は静かだった。
「あなたが最初に望んだ“奇跡”はここで終わり、
あなたが本当に大切だと気づいたものが――今、戻ってきます」
紙は再び灰となって消え、ルシアンの姿も、淡い煙のようにほどけていく。
「あなたの選択は、実に“人間らしい”ものでした。
こういう契約は、嫌いではございませんよ」
最後にそう告げて、赤い目の男は完全に姿を消した。
*
気がついたとき、湊は病院のベッドの上にいた。
どうやら教室で倒れたあと、この病院に運ばれてきたらしい。
天井の色も、消毒液の匂いも、見慣れたものだ。
隣のカーテンの向こうから、誰かの咳払いが聞こえる。
足に力を込めようとする。
動かない。
予想していた通りの感覚が、そこにあった。
「……戻ってきた、か」
少しだけ笑みが漏れた、そのとき。
「……湊?」
聞き慣れた声が、カーテンの向こうからした。
湊は反射的に上半身を起こそうとするが、うまくいかない。
代わりに、震える声が先に走った。
「紬……?」
カーテンが、そっと開く。
そこには、泣きそうな顔をした紬が立っていた。
「もうっ……! 目、覚めたならナースコールくらい押しなよ!
びっくりしたじゃん……!」
いつもの調子で怒っているのに、目元は真っ赤だ。
「な、なんで……」
「“なんで”はこっちのセリフだよ。
いきなり学校で倒れたって聞いて、心臓止まるかと思ったんだから」
紬はベッドの横に駆け寄り、湊の手をぎゅっと握る。
その手は、温かかった。
「ねぇ……湊。歩けなくなったって、湊は湊だからね」
その言葉は、かつて屋上で聞いたものと同じだった。
でも今度は、前よりずっと深く心に染み込んでくる。
湊の目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。
「……ただいま、紬」
自分でも意味がわからない言葉が口から出たが、
紬は一瞬だけ驚いたあと、ふっと笑った。
「おかえり。どこ行ってたか知らないけど」
鈴の音が、ベッドの上で小さく鳴った。
紬のバッグには、あのときと同じデザインのキーホルダーが付いている。
「ねぇ湊。歩けなくても、歩けても、私の隣にいるのは“湊”じゃなきゃ嫌なんだよ」
湊は、涙でぐちゃぐちゃになった顔のまま、何度も頷いた。
*
病室の窓の外。
夕暮れに染まる校舎の影の中に、黒いシルエットがひとつ佇んでいる。
ルシアンだ。
誰も気づかないその場所から、ルシアンはしばらくの間、病室の方角を静かに見上げていた。
仕えるべき主を見守る執事のような、凛とした姿勢のまま。
「……人間というのは、実に厄介で、そして愛おしい生き物ですね」
誰にともなく、柔らかく呟く。
「欲望のために大切なものを差し出し、やがて“大切なもの”のために欲望を手放す。
この矛盾こそが、人という存在のいちばんの“妙味”でございます」
そして、ほんの一拍置いて、うっすらと微笑んだ。
「……湊様。
あなたの選択――まことに、美しいものでございました」
赤い瞳が、夕日の反射を受けてかすかに光った。
その光には祝福にも似た温度が宿っているのに、
どこか底が見えない冷たさも同時に漂っていた。
「さて。次はどなたが、どのような願いを抱いておられるのか」
彼は、燕尾服の裾を揺らしながらくるりと向きを変える。
夕闇へと溶けていく背中は、相変わらず静かで、上品で、そしてどこまでも底が見えなかった。
契約の執行者は、次の“願い”を求めて、また別の夜へ歩み出していった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
「悪魔執事ルシアン」シリーズ第二話でした。
小説という形で物語を書くのは、まだまだ経験も少なく、
試行錯誤しながらの執筆でしたが、自分でもかなり思い入れの強いお話になりました。
少しでも心に残るシーンや台詞があったなら、とても嬉しいです。
今後も不定期更新にはなりますが、ルシアンと「契約」してしまった人々の物語を
少しずつ描いていけたらと思っています。
もしよろしければ、感想やレビューなどいただけると励みになります。
ブックマークや評価も、とても力になります。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。




