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第1話「代償の方程式」

 雨脚が路地のアスファルトを薄く光らせていた。コンビニの白いビニール袋を提げ、健吾は肩をすくめる。財布の中身は小銭と千円札が一枚。おにぎり二つと栄養ドリンク――それが今夜の燃料だった。



 スマホを開けば、人気者の顔がいとも簡単に現れる。サムネイルに踊る派手な文字。笑い声。炎上。再生数の桁が気持ち悪いほど並んでいる。

「……クソ」

 息が白く散って、雨に混じった。


 部屋に戻れば、編集ソフトのタイムラインに切り刻んだ自分の声が横たわっている。312人の登録者。最新動画の再生数、23回。コメント、ゼロ。始めてから二年、伸びたのは夜更かしの癖と目の下の隈ばかりだった。


 それでも支えてくれる人間がひとりいた。陽介。

友人というには気心が知れすぎて、兄弟というには血が繋がっていない。

飄々と笑いながら、撮影用のスマホをこちらに向ける。


「お前の“本音”がいちばん面白いんだよ。俺はお前が売れるって信じてる」


そう言って、陽介は深夜の公園でも昼間の河川敷でも撮影に付き合ってくれた。健吾はそんな陽介に答えるべく、一生懸命頑張った。


それでも、現実は何も変わらなかった。

陽介が励ましてくれても、数字は伸びない。

SNSを開けば、同年代のクリエイターたちが次々と登録者を伸ばし、

企業案件だのテレビ出演だのと騒いでいる。

撮影のために用意した慣れない作り笑顔の裏で、胸の奥が焼けるように痛かった。




ある夜、雨が降っていた。


撮影の帰り道、健吾は傘も差さずに歩いていた。

気合を入れて何時間もかけて編集した動画の再生回数はたったの二十。


「なんでだよ……」

 小さく呟いた。

「俺だって、ちゃんと考えて、頑張ってるのに……」

「なんであんな奴らばっかりがチヤホヤされんだよ!」

「才能があるやつだけが笑って、俺は笑われる側かよ!」


雨音が、まるで拍手のように耳を打った。

喉の奥に詰まった感情が、とうとうこぼれ出る。


「俺だって――俺だってバズりたいんだよ!!!」


叫びは夜の雨を裂き、街灯の光が一瞬だけ揺れた。

そして、その静寂の隙間に――柔らかな声が落ちてきた。


「その願い、叶いますよ。」




 振り向くと、黒い傘。濡れない黒髪。赤い瞳。背の高い男が、夜の欠片のように立っていた。燕尾服のラインが、雨の縞目よりも整っている。


「どなた……ですか」

「私はルシアンと申します。強き願いを抱く方の前にのみ、姿を現す“契約の執行者”でございます。」


 健吾は眉をひそめた。

「……は? 何言ってんすか。ドッキリっすか? 陽介のやつの仕込みか?」


 笑いながらも、声の奥に警戒が混じる。


「じゃあ言ってみろよ。俺しか知らないことまで……言えんのか?」


 赤い瞳の男は僅かに首を傾け、穏やかに微笑んだ。


「――そうですね。

昨夜、貴方が編集の手を止めて“消えてしまいたい”と仰ったあの瞬間。

誰も聞いてはいませんでしたが……私には、十分でした。」


 健吾の笑みが凍った。

 “コイツは間違いなくこの世の者じゃない”――そう感じた瞬間、

 雨の音が遠のき、空気が一瞬だけ“凪”のように止まる。

 その沈黙が、言葉より雄弁に彼の正体を告げていた。


「貴方のその願い、叶えることができます。ただし――その欲望に見合った分の、貴方の大切なものをいただきます。」


健吾は笑った。うっすらと、みっともなく。

施設で育ち、天涯孤独。金もなければ女もいない。通帳の残高は薄く、枕の隣もずっと空のままだ。

「……俺には、大切なもんなんてないさ。願いが叶うならなんだってやってやる」


「そうですか。では――」


 男は手袋を外し、空気の中にそっと指先を滑らせた。そこに、漆黒の紙がふわりと現れる。紙と言っていいのか分からない。黒い表面に赤い文字が浮かび上がっては沈み、心臓の鼓動と同じリズムで脈を打っている。


 ルシアンと名乗るその男は、その紙のようなものを両の掌で支え、軽く会釈をする。

「この契約書に手のひらを置き、“契約する”と宣言なさってください。それで充分です」


 健吾は震える手を伸ばし、黒い紙の上に置いた。ひんやりとして、しかし温い血の気配を帯びていた。

「契約する」


 赤が一気に燃え広がり、黒が灰になって夜に散った。雨粒が上へ、逆さに舞い上がる。街の音が消え、世界がほんの一瞬止まった。


「契約は成立いたしました。

 健吾様の“望む結末”へ、必ずお連れいたします。」


 その声音は優雅で、祝福のようで、どこか決定的に冷たかった。


 

    *




 翌朝。スマホが叫び続けていた。通知音が爆竹のように弾ける。

〈再生数:28万〉〈チャンネル登録者:1.2万〉


「……嘘だろ」

 昨夜、夜中にやけになって撮った独白動画――《無職が一週間で人生変えてみた》――が、止まらない。弱音も惨めさも、泣き顔も、そのまま晒した動画。コメント欄には〈刺さった〉〈本音が見えた〉〈応援する〉の文字が並ぶ。



 陽介に電話をかけた。コールが続く。繋がらない。

「おい、見たかよ。バズってる。なぁ――」

 メッセージを打つ。既読はつかない。嫌な重みが胸に沈む。


 昼、ニュースアプリに速報が入った。〈交通事故〉という言葉。スクロールする指が途中で止まった。見慣れた名前が、その中にあった。




     *




 病院の白は、雨の白より冷たかった。

救急入口の自動ドアが開くたび、消毒液の匂いが外に漏れる。

 受付前で名前を告げても、「ご家族の方ですか」と機械的な声が返ってくるだけだった。

それ以上、奥には入れない。


 待合のベンチで、膝に置いたスマホが震え続けている。

通知。再生。登録。数字が弾けるように増えていく。


 自動ドアの向こうから、看護師が静かに出てきた。

小さく頭を下げて、「ご友人の方ですか」とだけ尋ねる。

 健吾が頷くと、彼女はほんの一瞬、言葉を選ぶように沈黙した。


「……ご家族の方に、今、対応をお願いしています」


 それだけ告げて、看護師は軽く会釈し、病院の奥へ戻っていった。

それ以上、何も聞く必要はなかった。


 健吾はガラス越しに廊下の奥を見た。

ストレッチャーが一瞬だけ視界を横切り、白いシーツがゆっくりと覆われていく。

胸の奥がひどく冷たくなった。


「……嘘だろ」

声が勝手に漏れた。

喉が痛い。涙が出ない。

ただ、世界の色だけが静かに褪せていく。


 健吾はベンチに座り込み、スマホを胸に抱いた。

画面の中では、数字が生き物のように跳ねている。

笑ってしまった。嗚咽と笑いの境目で、声が裏返る。


「……陽介。見てるか。俺、バズったぞ。お前が言った通りだ」



そのつぶやきには誰も答えない。




     *




 それから、投稿してはバズった。夜食のカップ麺を食べながら、社会への苛立ちや日々の情けなさを、正直に、時に下品に喋った。切り抜きが勝手に広がり、喧嘩した相手が逆に宣伝役になった。

登録者は十万、二十万、五十万と増えていった。


 けれど熱はいつまでも同じ温度では燃え続けてくれない。グラフの線が、わずかに、しかし確かに下がり始めた。

「なんでだよ……」

モニターの明るさが目に刺さる。反射した自分の顔が、他人みたいに見えた。


「ルシアン!」

部屋の空気に向かって叫ぶ。

「見てるんだろ!? 出てこいよ!」


「お呼びでしょうか、健吾様」


 いつの間にか背後に、夜の端だけが切り取られたような男が立っていた。

さっきまであった空気の温度が、静かに一段だけ下がる。


「もっとだ。もっとバズりたい。今より上に行きたい。盤石になりたい。誰にも追いつけない場所まで――」

 言葉が止まらない。喉の奥が痒い。恐れを薄く覆い隠すみたいに、早口になる。


 ルシアンは微笑みもしないで頷いた。

「もちろん、その願い、叶えることができます。ただし――その欲望に見合った分の対価は、いただきます」


「失うものなんて、もうないさ」

 健吾は笑った。夜の底を舐めるような笑いだった。

「契約書を出してくれ」


 黒い紙が、また宙に浮かぶ。赤い文字が脈打ち、薄い煙を吐く。

 健吾は手のひらを置いた。

「契約する」


 赤が広がり、世界がもう一度、少しだけ止まった。


「契約は成立いたしました、健吾様。

あとは……欲望の導くままに。」




     *




  数字は再び跳ね上がった。五十万、百万、二百万――

少し前まで落ち着いていた通知が、一日中絶え間なく鳴り続ける。

動画を上げればトレンド入りし、切り抜きは勝手に増殖し、

気づけば「ネットを賑わせている男」と呼ばれていた。


 街を歩けば視線が向けられ、コンビニの前で知らない若者が

「あれ、もしかして……」とこちらを二度見する。

最初は居心地が悪かったその反応が、

いつしか“成功の証”のように胸をくすぐり始めていた。


 テレビ局から声がかかり、雑誌のインタビューが組まれ、

気づけば芸人やタレントたちと肩を並べていた。

廊下ですれ違った人気芸人が気さくに肩を叩き、

「お前の動画、マジで面白いよ」と笑う。

その一言で丸一日の疲れが吹き飛ぶほどだった。


 スタジオの照明は肌の色を均一に整え、

「笑顔でお願いします」と言われれば自然と口角が上がるようになった。

最初はぎこちなかったテレビの立ち回りも、

収録を重ねるうちに“売れっ子の振る舞い”が体に馴染んでいく。


 企業案件のメールは止まらず、

ブランド品や最新機材が次々と提供され、

一ヶ月前には考えられなかった額が銀行口座に流れ込んでくる。

実家のない自分が、初めて“居場所”というものを手に入れたような気がした。


 そんな頃だった。

とある番組で共演した女優――彼女と出会ったのは。

画面で見るよりずっと素朴で、よく笑う人だった。

控室でたまたま隣だったとき、

「あなた、動画では強がってるけど、本当は優しいでしょ?」

と、冗談めかして言われた。


 心臓が一瞬だけ跳ねたのを、今でも覚えている。


 交際が報じられるとSNSは爆発し、

賛否の嵐が火花のように飛び散った。

だが、彼女自身は世間のざわつきを気にする素振りを見せず、

ただ「大丈夫。わたしはあなたの味方だから」と笑った。

その笑顔は、画面の向こうのどんな“高評価”より心に深く刺さった。


 結婚報告動画は瞬く間にトレンド一位を走り、

出産報告では世界中から祝福のコメントが押し寄せた。

だが、カメラの外側にこそ、本当の幸せがあった。


 食卓には温かい湯気が立ち、

娘の小さな手が健吾の指をぎゅっと掴む。

「パパ!」と呼ぶその声だけで胸が熱くなる。

撮影を止めたあとの静けさが、ファンの歓声より何倍も心地よかった。


 休日には三人で近所の公園を散歩した。

娘が小さな滑り台の上で笑い、

彼女がそれを撮りながら「こんなの投稿しなくていいよ」と笑った。

「私たちの宝物は、画面の外にあればいいんだから」

 

 その言葉は、数字に追われていた心をふっと軽くした。


 再生数が伸び続けていても、企業案件が山積みでも、帰宅すると娘の笑顔がある。

眠る前の彼女の温かい体温がある。


「……本当に、幸せだな」


 健吾はそう言った。

誰に言うでもなく、ただ胸の奥からふと漏れた。

赤い瞳の男のことなど、とうに忘れていた。





     *




 数年が過ぎた。夜景を見下ろす高層マンションの窓辺で、健吾はワインを揺らす。再生数は安定し、企業案件のメールは止まず、娘の笑顔は何度撮っても鮮やかだった。

 今夜、妻は妻の両親と娘を連れて出かけている。今週から妻の両親が東京に来ており、妻は嬉しそうに両親を東京でもてなす計画を話していた。

 静かな夜だ。勝利の味が、舌の上で転がる。


「ご契約内容は、お気に召していただけたでしょうか?」


 グラスが指から滑り落ちた。赤い液が白い床に飛び散る。振り向くと、あの男。時の流れに傷つかない顔。赤い瞳。

「……今さら、何の用だ。契約は終わっただろ」


「いえ。契約時の対価を、まだ頂いておりません」


「対価? もう払った。親友を、失った。あいつが――」

 言葉が詰まる。陽介の笑い声が耳の奥で弾けて、それはすぐに泡のように消えた。


 ルシアンは首を傾げる。

「健吾様の欲望は、あの時よりもはるかに大きく膨らみました。今の貴方様でこそ、あの“欲望”に見合った対価が整いました」


「やめろ」

 喉の奥が焼けるように痛い。「やめろ」と何度も言った。

 そのとき、テレビが勝手についた。画面の隅に〈ニュース速報〉の赤い帯。

〈人気女優・藤崎 遥さん、東京都内で交通事故。病院に搬送。意識不明の重体。同行していた娘も同乗か〉


 スマホがけたたましく鳴り出した。番号の表示。警察。指が勝手に通話ボタンを押す。

「……はい」

 受話口の向こうは、やけに丁寧だった。

「落ち着いてお聞きください。奥様とお子さん、そして奥様のご両親が……先ほど……」


 言葉は最後まで聞こえなかった。耳鳴りの向こうで、世界が遠ざかる。床が歪み、壁が波打ち、健吾は口を大きく開けて、声にならない声を吐いた。

「嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だあああああああああああ!」

 胸を掻きむしる。喉が裂け、目の奥から熱いものが流れた。赤い涙が頬を汚し、泡が唇の端で弾ける。


 ルシアンは近づきもしない。遠くから、礼儀正しい口調のまま告げる。

「健吾様の欲望の対価――確かに、受け取りました」


 そのとき、ルシアンの瞳が、静かに、はっきりと赤く光った。刃物のような光ではない。蝋燭の火が、消える直前に強くなる、あの色だった。


 健吾は床に崩れ、何度も何度も、存在しない誰かの名前を呼んだ。



     *



 翌朝。

どの局を回しても、画面は同じニュースで染まっていた。

淡々としたアナウンサーの声が、妙に冷たく響く。


〈国民的女優・藤崎 遥さん死亡 都内で大型車両に巻き込まれる事故〉

〈同乗の娘(3)と藤崎さんの両親も死亡 計4名〉

〈車両は原形を留めず 他2名が意識不明の重体で搬送 警視庁が原因を調査中〉


テロップは容赦なく流れ続け、

ニューススタジオの明るい照明が、逆に悲劇を薄く見せていた。

 スタジオは沈痛な空気を保ちながら、どこか興奮を隠しきれていない。


〈なお、藤崎さんの夫であり、人気YouTuberの健吾氏は――〉

〈事故を知った直後に倒れ、都内の病院へ搬送。

 その後、病院を抜け出し、現在行方が分からなくなっています〉


 アナウンサーがわざとらしく眉を寄せる。

〈警察は安否を含め、情報提供を呼びかけています〉


 通行人たちは足を止め、眉を寄せ、そしてすぐに歩き出す。


「遥ちゃん、亡くなっちゃうなんて……信じられない」


「……事故って、本当に怖いよね」

「娘さんまで……ちょっと言葉が出ないよ」

「旦那さん、あのYouTuberでしょ? どうなっちゃうんだろうね……」


「……あ、見て。これ今すごい伸びてるやつ」

「この子さ、“奇跡の少年”って呼ばれてんだって」

「ほら、歩けるようになったって……再生数えぐいな」


 スクリーンの下に流れるおすすめ動画。次の話題。次の熱狂。次の数字。


 社会は、悲劇の余韻すら飲み込むように、

新しい“物語バズ”へと流れていく。



 雑踏の向こうで、黒い影がひとつ、静かに立ち止まる。ルシアン。群衆の誰も彼に気づかない。彼はウィンドウに映る自分の輪郭を一瞥して、ほんの少しだけ口角を上げた。

「欲望とは、満たされた瞬間から次を求め始めるものです。」


 赤い瞳が、また一度だけ、微かに光った。

 そして彼は、次の“契約”へ向かうように、雑踏へ溶けていった。


ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

実は、小説を書くのは今回が初めてで、不慣れな部分も多いのですが、楽しんでいただけていたら幸いです。

本作は「悪魔執事ルシアン」を軸としたオムニバスシリーズの第一話となります。

健吾の物語は今回限りですが、ルシアンの“契約”はまだ続いていきます。

不定期更新になりますが、今後も読んでいただければ嬉しいです。

感想やレビューをいただけると、とても励みになります。どうぞよろしくお願いします。

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