初めての敵意
王都二日目の朝、奏は音楽堂へ向かう前に広場へ立ち寄った。昨日の魔導士とのやり取りは、広場に新しい記憶を残している。人々は中央を自然に空け、見知らぬ誰かのための舞台のように扱っていた。そこへ、期待と警戒の入り混じった視線が集まる。都市は記憶する。音もまた、場所を記憶する。
奏が鍵盤を取り出しただけで、何人かが囁き合った。「あの少年だ」「音で雷を呼んだ」「陛下の前で弾くらしい」。噂は予告編のように本編より早く走る。予告編に答えるのは、本編の責任だ。
奏はまず、短い“整え”から始めた。弱い和音を低く、薄く置く。市場の騒音が緩やかに押し返され、広場に小さな沈黙が生まれる。沈黙は、音の器だ。器を作らずに水を注げば、地面が濡れるだけだ。
そこへ、昨日のギルドとは別の一団が入ってきた。ローブの色は濃い紺、縁取りは銀。肩章に刺繍された紋章は上位の証。彼らは整然と並び、中央の若者が一歩前に出た。金の髪、肌は白い。目に自信が宿り、顎は上がっている。
「王都は見世物小屋ではない。無秩序な音の発露は、秩序を壊す」
言葉は正しい。正しいが、使い方が間違っている。奏は鍵盤から指を離し、視線を若者の足元に落とした。立ち方に偏りがある。右足に体重を乗せ、左膝が緩い。力はあるが、重心は高い。
「秩序は、拍で保たれます。無秩序な拍は置きません」
「言葉の遊びだ。……ここで弾くのなら、ギルドの承認を得ろ」
彼は巻物を掲げ、印章を見せた。法の名の下に、音を規制する意図。都市はしばしばそうやって音を骨抜きにする。だが、奏は正面からぶつからない。拍を一つ外し、別の場所に置く。
「では、承認のための演示を」
周囲の空気がわずかに緩む。若者はためらい、攻撃の言葉を選べず、結局顎を上げ直した。
「よかろう。三十拍。人を不快にさせず、騒乱を招かず、ここにいる誰かひとりの肩の力を落とせ」
課題としては悪くない。奏は頷き、右手で三音だけを鳴らした。短三度、完全四度、長六度。和音ではない、連なりだ。左手は音を出さず、空中で拍を撫でる。呼吸を音に変える。最初の三小節は何も起きない。四小節目で、露店の老婆の肩がわずかに落ちた。五小節目で、兵士の顎が緩んだ。六小節目で、若者自身の指が巻物の端を離した。
奏は七小節目の頭で音を止めた。沈黙が広がる。若者が目を瞬いた。観衆の誰かが笑い、別の誰かが息を吐いた。若者は小さく舌打ちし、巻物を丸めた。
「……承認する。だが、覚えておけ。音は刃にもなる」
「だからこそ、鞘を持って歩きます」
若者は返す言葉を見つけられず、肩章を鳴らして引き上げた。彼が去ると、広場は自然に拍手を始めた。奏は頭を下げ、鍵盤を畳んだ。今日はここまでだ。音楽堂へ向かわなければならない。
歩き出すと、小走りに少年が追いかけてきた。昨日の笛の少年だ。彼は息を弾ませながら、ポケットから小さなリボンを取り出した。
「これ、お守り。お母さんが編んでくれた。……明日、すごいところで弾くんだって? ぼく、門の外で聴いてるから」
「ありがとう」
奏はリボンを護符に結び付けた。倍音の揺れがわずかに変わる。人の手の温度は、音の温度に触れる。少年は照れ笑いし、走っていった。
音楽堂の前にはすでに列ができていた。公開稽古を見ようとする人々。奏は裏手から通用口へ入り、昨日の係に通される。舞台袖では、もう音がする。うねるような低弦、練習用のスティックが打つ小さい音、金管の微調整。奏は舞台袖の暗がりに座り、楽団の音を聴いた。完璧な美しさ。だが、昨日見たヴィオラの彼女の“柔らかさ”は、今日も矯正されていた。
休憩時間、廊下で彼女とすれ違った。目が合う。彼女は昨日よりも柔らかく微笑んだ。
「明日。生きて帰って」
「脅しですか?」
「脅しではなく願い」
短い会話。短いが、拍が合っていた。奏は頷き、部屋に戻った。古いピアノは昨日よりも鳴りが良い。誰かが布で拭いたのだろう。弦の錆はそのままだが、鍵盤の埃が落ちて、ハンマーの戻りが少し軽い。音は、人の手に答える。
夜、宿の窓から音楽堂の屋根が見えた。月が少し欠け、空気が乾く。護符に結んだリボンを指で撫で、倍音の揺れを確かめる。拍を数える。明日の拍は、今日よりも長い。眠ろう。眠りは最良の練習だ。