宮廷楽団の存在
翌日、奏は王宮前の音楽堂へ向かった。正面の扉はまだ閉ざされているが、裏手の搬入口は半開きで、出入りする人の足音が絶えない。楽器箱が運び込まれ、譜面台が並び、舞台袖では黒服の係が何かの位置をマーキングしている。この世界の音も、舞台裏で汗をかく。
少し離れた見学用のギャラリーから、稽古の音が漏れ聞こえる。弦のチューニングはA=442に近い。オーボエのピッチがわずかに高く、ファゴットが合わせに苦労している。金管は控えめに、打楽器はまだ本気を出していない。奏は無意識に体幹を締め、背筋の弧を整えた。音を聴く姿勢は、音を出す姿勢に通じる。
やがて指揮者が入る。白髪、細身、無駄のない動き。彼が腕を上げるだけで、空気が変わった。合図は小さいが、全員が見逃さない位置にある。最初の一音――宮廷楽団の音は、美しい。機能としての美しさだ。合奏の呼吸が揃い、フレーズが台本通りに折り畳まれていく。少しのずれも許さない。完璧な兵隊の行進。
だが、耳の端で、別の音が鳴った。二列目のヴィオラ。ひとつの小節の終わりで、ほんの僅かに弓圧が柔らかい。微細な陰影。奏は目を細め、奏者の横顔を追った。栗色の髪、真面目な顎。彼女は意図して、そこに柔らかさを置いた。理由は、曲が求めていたからだ。だが指揮は許さない。次のテイクで、彼女の音は“正しく”矯正された。
公開稽古が終わると、楽団員が三々五々に出てくる。舞台の外の彼らはただの人だ。笑い、愚痴り、肩を揉む。奏は物陰から出て、通用口の係に声をかけた。
「すみません。明日、陛下の前で演奏を――」
係は驚いた顔で奏を見、すぐに慎重な表情に戻した。
「あなたが……例の。事前の打ち合わせを。……こちらへ」
通された小さな部屋には古いピアノがあった。響板にいくつかの修理痕。だが鳴る鍵が残っている。係は段取りを淡々と説明した。入場、拝謁、演奏、退場。拍手の取り方まで台本がある。奏は頷きながら、ピアノの鍵を一つ鳴らした。弦が少し錆びている。錆びた音は、過去の時間が混じる。嫌いではない。
部屋を出ると、さきほどのヴィオラ奏者が廊下の角に立っていた。栗色の髪を耳にかけ、目を伏せながら言う。
「……さっき、あなた、稽古を聴いてた?」
「少しだけ」
「怒ってるわけじゃないの。ただ、誰かに見られていた気がして」
奏は微笑んだ。
「あなたの小さな“柔らかさ”、美しかった」
彼女の目が驚きで見開かれ、すぐに薄く笑った。
「見つけた人、初めてだよ。……でも、あれは消さなきゃいけないの。ここでは」
「明日は、ここじゃない」
彼女は戸惑い、やがて頷いた。
「無事に終わるといいね」
そう言い残して去っていく背中は、合奏の正しさに馴染みすぎていた。正しさは美しい。だが、正しいだけの音は、時に人から距離を取る。奏は自分の音の役割を反芻する。肩に落とし、世界に向ける。明日、ここで。
宿に戻る道すがら、少年が道端で笛を吹いていた。昨日の露店の老人の笛だ。息が浅く、音が裏返る。奏はしゃがみ、短くレクチャーをした。胸を広げ、腹の下で息を支える。少年は頷き、もう一度吹く。音が安定する。通りかかった女将が小銭を置いた。少年は照れ笑いした。
「ありがとう、お兄ちゃん」
「明日、音楽堂の前で吹いてごらん。良い場所だから」
少年は走って行った。音は、また別の場所で鳴るだろう。奏は空を見上げた。雲が薄く、月の輪郭が昼に見える。輪郭は、音の縁にもある。縁をどう描くか。そこに人の居場所が生まれる。
夜。宿の床は前日より少し柔らかい。忙しかったのだろう、下の酒場の歌は早く終わった。静けさが深い。奏は護符を指で回し、倍音の揺れに耳を預けた。眠りは深く、夢は短い。目が覚めたとき、心臓は穏やかに拍を打っていた。