嘲笑と驚愕
朝の広場は、夜の顔と違っていた。市場の店開き、子どもたちの追いかけっこ、旅芸人が道具の手入れをしている。空気に油と果物の皮の匂いが混じる。掲示板の前にはすでに人だかりができていて、新しい紙が一枚貼られていた。
『臨時通達:音を用いた魔法の行使について。公共の場での過度な発露は禁止。演示は衛兵立会いのもとで行うこと。――王都警邏局』
奏は苦笑を漏らした。門前の石板が、都市の規則を動かしたのだ。音は人を動かし、さらに世を動かした。
広場の中央に、昨日の紙の主がいた。灰色の外套、帽子の庇を深く被った細身の人物。近づくと、顔の半分を薄布で覆っている。声は低く抑えられ、性別を読みづらい。
「来たな。如月奏」
「あなたは?」
「見ている者だ。名は要らない。……王宮にも耳はある。昨夜の石板、あなたの音だ。規則は嫌うが、例外は好きだ」
皮肉とも称賛ともつかぬ言い回し。奏は肩を竦めた。
「僕は音を鳴らしただけです」
「それで十分だ。……注意だ。今日、君は挑まれる。挑むのは魔導士ギルドの若手。彼らは音を“芸”と見なしたままだ。それは彼らの自由だが、都市の自由ではない。……勝て。だが壊すな」
紙の主はそれだけ言うと、群衆に紛れて消えた。言葉が残響として耳に留まる。勝て。だが壊すな。拍の置き方に似ている。強拍は示し、弱拍は守る。
ほどなくして、噂は現実を追い越した。紫の縁取りのローブを纏った若い魔導士が二人、広場に現れた。杖の先に嵌められた魔石が朝の光を集める。彼らは観衆を押しのけ、中央に立った。
「如月奏はいるか!」
声はよく通る。練習したのだろう。奏は一歩前に出る。ざわめきが波紋のように広がる。
「僕です」
「ギルドの名において、試技を申し込む。……音で戦えるのだろう?」
ギルドとは何なのだろうか。
それよりも言い回しに軽蔑が滲む。
突然の戦いの申込に戸惑いと苛立ちを覚えながら奏は鍵盤を膝に置いた。護符が衣の内側で微かに鳴る。セレンの声が遠くで聞こえた気がした。肩に落とせ。世界に向けろ。
「条件を。……街を傷つけない、互いに致命傷を与えない、観衆を巻き込まない」
「ふん、手加減の口実か」
短い睨み合い。ひとりの魔導士が先に杖を掲げた。詠唱は速い。初級攻撃魔法を連続で繋げる構え。燃焼、突風、衝撃波。奏は右手に軽いスケールを置き、左手で低音を回す。あくまで準備――音の居場所を広場の中央に引く。
杖先から火球が飛ぶ。奏は高音で短いアルベルティ・バス状のパッセージを走らせ、火の“輪郭”だけをつまむ。火そのものを消すのではない。燃焼の拍を外へずらす。火球は奏の横を逸れ、石畳に小さな煤を残して弾けた。観衆がどよめく。
突風。奏は和音を第二転回形に置き、上に被せず、下に潜り込ませる。風の向きが半拍だけずれ、埃が上がるだけで済んだ。衝撃波。低音のトレモロで地面の“鳴り”を拾い、共鳴を吸ってしまう。音は物体だ。ならば鳴り方は物性に従う。奏は物性に寄り添う。
「――なんだ、それは」
魔導士の表情から余裕が抜けた。観客が息を詰める音が、はっきり聞こえる。奏は無理をしない。反撃の見せ場は最後でいい。彼は最初の通達を思い出した。過度な発露は禁止。ならば、過度にならない“美しさ”を置く。
「終わりにしましょう」
奏は右手を高音部へ滑らせる。薄い氷の面をなぞるような連なり。左手は低音で三度進行の序列を置く。和声が段々と人の呼吸に重なり、身体の動きが緩む。観衆が自然に立ち位置を空け、広場の中央に円ができる。そこへ、奏は〈終止しない終止〉を置いた。IVからIへ落ちると見せて、VIへ。安堵と希求の両方が残る響き。魔導士の手の力が抜け、杖の先が少しだけ下がる。
その半拍で、奏は低音に“静かな重み”を落とした。音は攻撃ではない。足場だ。魔導士の足裏に安定を返す。彼の瞳に迷いと羞恥が混ざり、やがて苦笑へ緩んだ。
「降参だ。少なくとも……“芸”ではない」
歓声が爆発するのではなく、波打ちながら広がった。笑い声、すすり泣き、拍手。色の違う音が重なって、一枚の布になる。奏は魔導士に近づき、手を差し出した。
「ありがとうございました」
彼は一瞬だけ戸惑い、握り返した。掌は冷たく汗ばみ、しかし震えてはいなかった。ギルドの同僚が何かを叫んだが、彼は振り向かなかった。
広場の端で、紙の主が小さく頷くのが見えた。帽子の庇の影、その奥で目が笑った気がする。彼は指を二本立てて左右に振り、どこかへ姿を消した。二日後、という合図のようだった。
夕方、警邏局の役人が宿に現れた。粗野ではないが、臆病でもない態度。彼は短く用件を述べる。
「陛下の前での演奏を望まれる。明後日。音楽堂にて」
扉が閉まる音がやけに小さく響いた。奏は深く息を吐き、机に両手を置いた。震えはない。むしろ静かだ。僕の音楽は、次の楽章へ確実に進んでいる。