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王都の門前試験

 城壁が見え始めたのは、正午を少し過ぎた頃だった。石の巨壁は緩やかな丘の向こうから立ち上がり、空の青を切り抜いている。近づくにつれて、継ぎ目のわずかな段差、石工のノミ跡までが視認できた。人の技術は音に似ている。見事な構造ほど、つくり手の呼吸が刻まれている。


 城門の前は、規律と混沌が同居していた。入城を待つ商人、兵の詰め所、露店の呼び声。列は蛇行し、時折揉め事が起きては衛兵が仲裁に入る。奏は最後尾に並び、周囲の音を分解した。馬の鼻息は低いE、鎧の擦れる音は鋭いF♯、売り子の声は揺れるA。即席の調性を頭に置き、心拍を落ち着かせる。


「次――身分証、通行許可、もしくは力量試験!」


 衛兵が繰り返す呪文のような声。奏が順番を待っていると、前方で喧嘩が始まった。傭兵風の男が行商の肩を乱暴に押しやる。行商の籠から柑橘が転げ、皮が傷ついて匂いが立った。


「順番を守れよ」


 奏が自然に声を出すと、男の目がこちらへ向いた。鋲打ちの鎧、広い肩、乱暴に刈り上げた髪。彼は鼻先で笑った。


「坊や、音で殴るのか?」


 挑発に乗らない。奏は落ちた果物を拾って籠に戻し、行商に手渡した。男はつまらなそうに肩をすくめ、列の中ほどへ戻っていく。衛兵が一部始終を見ていて、奏にわずかな好意を含んだ視線を向けた。こういう視線の積み重ねが、都市の秩序を支える。


 やがて奏の番が来た。小屋のような詰所の前、木製のテーブル。衛兵が書類の束をめくりながら問う。


「通行許可は?」


「ありません。力量試験をお願いします」


 衛兵は眉を上げ、奏の背の荷に視線を落とす。


「武器は?」


「鍵盤です」


 静かな間。衛兵は肩を竦め、試験場を指さした。門の脇に設けられた空地。中央には厚い石板が据えられ、周囲を低い柵が囲む。見物人は慣れた口ぶりで新参者に賭けを持ちかけ、子どもは背伸びして見ようとする。


「壊せるものなら壊してみせな。剣でも槌でも、魔法でも構わん」


 奏は石板に近づき、深呼吸した。足裏の感触を確かめ、両肩を落とす。片手で携帯鍵盤を広げ、膝に置く。片手で鍵盤、もう一方で床。二つの触覚で拍を取る。


 最初の和音は鳴らない。空気の温度を測るための幽かな呼吸。周囲のざわめきが少しずつ遠のく。衛兵の手が止まり、売り子の声が下がり、子どもの囁きが消える。音を出す前に、音の居場所を作る。


 右手が降りた。短い装飾音からの和音。瞬間、空が軋むような音を立て、稲妻が石板の端を貫いた。白光、熱。観衆の悲鳴は驚愕というより、反射だ。奏は左手で低音のトレモロを保ち、右手で和音の転回を連ねる。雷鳴は反復に呼応して落ち、石板の表面をひびが走る。今だ、と感じた拍で、両手を同時に落とした。


 轟音。石板が腹から裂けたような低い音を立て、中央から弧を描いて割れた。粉塵が上がる。奏はすぐに右手で弱音の連打を入れ、風の流れを生んで砂を落とした。視界が開け、ひび割れの形が露わになる。観衆の沈黙は、石板の裂け目に引き込まれていた。


「……規格外だな」


 先の衛兵が低くつぶやき、眉間の皺を伸ばした。彼は試験結果を記す板に印を押し、通行札を差し出す。


「入城を許可する。……名は?」


「如月奏」


「覚えておく」


 札を受け取り、小さく頭を下げる。群衆の中から、誰かが先導するように拍手を始めた。一拍遅れて別の手が重なり、やがて面の広い音に膨らむ。拍手の音色は場所で違う。石の門前は乾いてよく鳴る。奏はそれを背に受け、城門をくぐった。


 都市の匂いが変わる。焼いた肉、湿った石、油、香草。音も変わる。大通りは広く、反響が散りやすい。建物の間の路地は狭く、音が滞留する。行き交う車輪は不規則な拍で都市の気質を語る。奏は歩幅を半拍だけ狭め、足音の位相を街路のリズムに合わせた。ここで急ぐのは、音の居場所を失うということだ。


 ひとまず宿を取る必要がある。門番に近い宿は高い――音楽家として学んだ市場の摂理は、異世界でも通用した。二つ角を曲がったところの中級宿「銀の皿」は、表の看板が剥げかけているが、扉の蝶番が鳴らない。店主が手を入れている証拠だ。音に気を配る人は、信頼できる。


「部屋は? 一人だ」


「二階の奥が空いてるよ。音を出すなら夕餉の前までにしておくれ」


 店主の言葉に、奏は思わず微笑んだ。音を出すことを前提に話す宿。ここでも、音は生活の隣にいる。


 荷を置いてすぐ、街へ出る。目的は一つ。音の中心を確かめること。大通りを進むと、群衆の流れが自然と広場へ導く。そこで奏は、聞き慣れない名前を何度も耳にした。


「宮廷楽団だってさ」「今週は公開稽古があるらしい」「指揮は“白壁のマエストロ”だ」


 宮廷楽団――セレンが口にした門。音で世界を変えるなら、避けて通れない建物。奏は広場の掲示板に貼られた告知を読んだ。公開稽古、入場無料、整理札が必要。楽曲は王国賛歌と、来賓のための新曲。会場は王宮前の音楽堂。開催は三日後。


 三日――短いようで、音には長い。十分に準備ができる。奏は掲示板の横の行列に並び、整理札を受け取った。札の裏には小さな注意書き。「演奏中の私語、咳払いは最小限に」「飲食禁止」。文字の整い方に、楽団の気質が滲む。秩序と几帳面さ。自由は、どこに入り込めるだろう。


 宿へ戻る道すがら、奏は川沿いの露店に足を止めた。簡素な木製の笛を並べる老人が、試し吹きを勧めてくる。笛の音は不安定だが、指穴の位置が微妙にずらしてある。倍音がよく鳴るはずだ。老人の話を聞くと、昔は宮廷の楽師だったという。王が代わり、音も変わった――老人はそれ以上言わなかった。


 夜、宿の部屋で鍵盤を広げる。昼の石板の裂け目を思い出す。拍の置き方、装飾の量、和音の転回。全てが生んだ結果だが、もう少し柔らかくできた。破壊力は示した。次は、治癒と秩序だ。奏は右手で簡単なスケールを回し、左手で非和声音の配置を試す。窓の外では、下の酒場から歌が上がる。四度で始まる合唱――この地方の習俗だろう。音は、もう友だちの顔をしている。


 眠りに落ちる直前、扉の隙間から一枚の紙が滑り込んだ。拾い上げると、達者な筆で短い文。

『音を聴いた。明日、広場に来い。――見ている者より』


 差出人の名はない。だが、紙の縁には薄く香料の匂い。王宮の書記が使うものだ。心臓が一拍早くなる。奏は紙を机に置き、灯りを小さくした。明日は広場、明後日は公開稽古、三日後に……何が起きるだろう。拍を数える。眠る。拍は、眠りにも規則を与える。

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