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旅人との合奏

 王都へ続く街道は、草原の海を貫く一本の線だった。

 風が草の波を起こし、雲の影が漂流する。舗装の甘い路面に靴底が沈み、そのたびに足取りのリズムが刻まれる。奏は無意識に、歩調を四拍に数えた。右、左、右、左――スネア、ハイハット、バス、ハイハット。頭の中でメトロノームが鳴り、そこに旋律が生まれては消える。


「音は、世界のどこにでもある」


 独り言のようにつぶやくと、前方の丘の向こうから人の声が重なった。朗々としたテノール。節回しは民謡に似ているが、終止形に独特の装飾がある。拍節は二拍子、リズムは軽快、しかし音程は少し甘い。それでも耳を引くのは、声の芯にある真っ直ぐさだった。


 丘を登ると、旅装の男がリュートをかき鳴らしていた。日に焼けた頬、笑うと目尻に皺が寄る。背負子には生活道具が雑に括られ、旅路の長さを物語っている。


「やあ、聴き手だね? いや、もしかすると奏者の顔だ」


 男は弦を止め、柔らかな笑みを浮かべた。


「少しだけ。鍵盤を」


 奏は腰の袋から折り畳みの携帯鍵盤を取り出した。二オクターブ半、軽量、風雨避けの布に包んである。男の目が丸くなる。


「それは珍しい。……合わせてみようか?」


 提案に頷く。男がE音でリュートを鳴らす。奏は短い分散和音で応答し、三度、六度、九度と上物を重ねる。風が運ぶ草いきれ、足下の砂利、遠くの鳥の鳴き声――すべてが拍を持つ。二人の音は、景色に置いてきぼりを作らないように、慎重に輪郭を揃えていった。


 即興が始まる。男のリュートは単純なI–IV–Vの循環を続けながら、要所でサブドミナントの代理和音を差し込む。奏は右手で旋律を編み、左手のアルペジオで空気を温める。和声の転回を微かに遅らせると、聴衆の呼吸が揃う。通りがかりの農夫が立ち止まり、荷車の子供が目を輝かせ、旅の兵士までも肩の力を抜いて耳を傾ける。音は、言葉より先に身体へ届く。


「もう一段、行く」


 奏は内側でテンポを二だけ上げ、手首の回転で粒を立てた。右手の旋律は装飾を増やすが、音価は重くしない。男は察し、低音弦でオスティナートに切り替える。反復が地面を固め、上物が光を描く。丘の上、風が向きを変えた。


 最後のカデンツァで、奏は敢えて終止を回避した。宙吊りの和音――聴き手が無意識のうちに「次」を欲する一瞬。そこで、二人は同時に音を止める。静寂が落ち、遅れて拍手が湧いた。歓声に混じって、年配の女の嗚咽がひとつ。誰も見ていないふりをして、誰もがそこにいた。


「見事。名前を聞いても?」


「如月奏。旅の途中です」


「俺はセレン。吟遊の端くれだ。……君の音は、良い位置に落ちる。人の肩に」


 セレンはリュートを撫でながら、ふっと視線を遠くへ投げた。


「肩に?」


「重荷は背にある。人は自分でも気づかないうちに、肩に力を入れている。良い音はそこを少しだけ撫でる。落とすんだ、力を」


 奏は笑って頷いた。演奏後のホールで何度も見てきた、客席が一斉に息を吐く瞬間。それを言葉にすれば、確かに「肩」かもしれない。


 セレンは腰袋から小さな革製の護符を取り出した。中央には金属片が縫い付けられており、鳴らすと微かな倍音が出る。


「音の旅人への縁起物だ。風の神殿で拝受した。……王都へ行くのだろう? あそこで音を鳴らす者は多いが、響かせる者は少ない。違いは、耳の向きだ」


「耳の向き?」


「自分に向いていれば技術は上がる。他人に向いていれば音は届く。世界に向けると、魔法になる」


 セレンの言葉に答える前に、草むらがざわついた。三人の若い男が現れる。粗末な短剣、肩には縄。旅人狩り――この世界にもいるのか、と奏は呼吸を整えた。


「金目の物を置いてけ」


 声は震えていない。場数を踏んでいる。セレンは肩をすくめ、リュートの弦を軽く叩いた。


「悪いが、命より高い楽器でね」


 男のひとりが苛立って前に出た。奏は携帯鍵盤を膝に置き、低音で二回だけ和音を鳴らす。大地が小さく震え、男の足が取られた。彼が顔を上げるより早く、右手の装飾音を滑らせる。草葉がざわめき、彼らの周囲に風が巻く。砂埃が視界を奪い、短剣の先が泳いだ。


「退け。今ならまだ選べる」


 声を低く、リズムに乗せて投げる。三人は互いに顔を見合わせ、舌打ちを残して退いた。風が収まり、草の音だけが戻ってくる。セレンが苦笑した。


「……音で脅すより、音で逃がす。君は多分、そういう人だ」


 奏は苦笑で返した。本気で倒す力はある。だが、倒した音は消えない。残響は人の中で形を変える。選べるなら、救う方へ。


 夕暮れ、二人は道端の焚き火を囲んだ。簡素な干し肉とパン、鞄の底でつぶれたドライフルーツ。セレンが火にかざして温めると、果糖の匂いが立つ。


「王都に着いたら、宮廷楽団の噂も耳に入るだろう。音で食うなら避けられない門だ」


「宮廷楽団……」


「いい場所だ。高い天井、鳴る床。だが同時に、音が自由を失いやすいところでもある。要るのは勇気じゃない、視界だ。誰のために鳴らすのか、何のために使うのか」


 焚き火のはぜる音が拍となる。奏は護符を指で回し、倍音の揺らぎに耳を澄ませた。細く、微かな振幅。遠くの鈴虫の音と擦れ合い、干渉してはほどける。


「世界に向けると、魔法になる――か」


「君はもう、その入り口にいる」


 セレンは眠気をにじませながら横になった。星が出始め、夜の温度が下がる。奏は上着を掛け、目を閉じた。背中の地面が固いのも、音になる。全ては拍になる。呼吸を四拍に数え、眠りへ滑り込む。


 夜中、一度だけ目が覚めた。遠くで狼の遠吠え。焚き火は炭になり、赤い光が脈動している。奏は護符を耳元で軽く鳴らし、音の波が闇に滲むのを見た。誰もいない客席へ向けるように、静かに、丁寧に。


 翌朝、別れはあっさりしていた。旅人同士の礼儀は、長居をしないことだ。出発前、セレンは短く言った。


「肩に落とせ。世界に向けろ。……またどこかで」


「ええ。また」


 歩き出す。背中でリュートの音が二度鳴った。見えない拍手のように。奏は無意識にテンポを取る。王都まで、あと二日の道のり。音は、そこへ向かって伸びていた。

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