第二章 左眼に傷のある猫4
そこは薄暗い空間だった。地下であるため窓がなくオレンジ色の電球だけが部屋の中を弱々しく照らしている。部屋には安物のベッドが一台。それ以外の家具は見当たらない。部屋と通路をつなげる扉は分厚い鋼鉄製で、重火器を用いても容易に破壊できないだろう。
見る人が見ればその部屋を牢獄のようだと感じるかも知れない。だがその認識は誤りだ。牢獄のようなではない。その部屋はまさに牢獄そのものなのだ。そして今――
その牢獄に大量の犬の死体が転がっていた。
「これで貴女も理解したでしょう?」
全身をバラバラに裂かれた犬の死体。その死体からこぼれ落ちた赤い血液。むせかえるような血の匂いが充満したその部屋で、一人の女性が可笑しそうにクスクスと笑う。透き通るような綺麗な青い瞳。その瞳を柔らかく細めて女性が言葉を続ける。
「これが貴女の本質――もう意地を張るのは止めにしたらどうかしら?」
淡々と紡がれる女性の言葉。それは決して独り言ではない。個人に向けられた言葉だ。女性が見つめるその先。薄暗い部屋の中心部。大きな血だまりができたその場所に――
一人の少女がうずくまっている。
少女は十代前半の容姿をしていた。黒いおかっぱ頭に明るい褐色の肌。小柄な体躯に薄手のワンピース。犬の死体からこぼれ出た赤い血で全身を濡らしており、力なく俯けたその表情を薄闇の中に隠していた。
女性がのんびりとした足取りで少女へと近づいていく。血だまりを踏みつけて女性の靴が赤く濡れる。だがそれを意にも介さずに足を進めて女性が少女の前に立ち止まった。顔を俯けたまま動かない少女。何の反応もない少女を見つめて女性がその場に屈みこむ。
「とりあえず首輪をつけ直すわね」
女性が手に持っていた細長い物体――首輪を少女の首に巻き付ける。ダイヤル式の鍵が付いてある無骨な首輪。小柄な少女には不釣り合いの代物だ。首輪をロックして女性が少女から手を離す。一呼吸の間。ここで沈黙していた少女から小さな声が鳴らされた。
「――ろして……」
その声は掠れており言葉として不完全だった。そのことに少女も気付いたのだろう。少女が俯けていた顔を静かに上げる。どんよりと暗く沈んだ少女の瞳。
その瞳は血に濡れたような赤色であった。
「――ボクを殺して……」
少女からされた懇願。自身を殺して欲しいという願望。その言葉を聞いて女性は表情を変えない。ただ優しい微笑みを浮かべたまま少女の頬にそっと手を触れた。
「死にたいだなんて言っては駄目よ。貴女が死んでしまうことなんて誰も望んでいない。もちろん私もね。みんなのためにも貴女は生きなければならないのよ」
死を望んだ少女に向けられた女性の温かな言葉。それがその場しのぎの偽りでないことは容易に知れた。女性は心よりそれを想い口にしている。少女が生き続けることを誰よりも望んでいる。少女もまたそれを理解したのだろう。だからこそ少女は――
その表情を絶望に染め上げた。
「周りを見てごらんなさい」
少女の頬に触れながら女性が言う。少女が息を呑んで赤い瞳をカタカタと震わせた。部屋中にばら撒かれた犬の死体。少女の瞳と同じ赤一色に濡れた景色。表情を蒼白にする少女に女性が諭すように語りかける。
「この子たちはね……先日保健所から引き取ってきた子たちなの。人間のことを恐れているのかとても気性が荒くてね、一緒に写真を撮影する時は随分と苦労したわ。でも新しい飼い主と暮らしていれば、この子たちもいつか人間を受け入れてくれていたと思うの。そして幸せに生きることができたはず。その幸せを奪ったのは他でもない――」
少女の小さな唇を親指で触れながら女性がやんわりとした口調で言う。
「貴女なのよ。だって貴女が罪のないこの子たちを殺してしまったんだから」
少女の赤い瞳に涙がじんわりと滲む。女性がクスリと微笑んで少女の瞳に滲んだ涙を指先で拭った。柔らかく細められた女性の青い瞳。濁りのないその瞳を不安定に揺れた少女の赤い瞳が見つめている。少女の頬から手を離して女性が少女にふと尋ねた。
「私のことを恨んでいるかしら?」
少女から返答はない。だが構わずに女性が言葉を続ける。
「貴女をここに閉じ込めているのは私。そして保護施設にいたこの子たちをここに連れてきたのも私。そうすることでこの子たちが貴女に殺されてしまうことも分かっていた。だから私は貴女に恨まれても仕方ないのかも知れない。だけど勘違いしては駄目よ。全ての原因は貴女にあるのだから」
女性の青い瞳に鋭利な眼光が瞬く。
「全ては聖典に従わなければならないのよ」
涙に濡れた少女の表情が強張る。この反応から少女が幾度もこの話を聞かされていたことが分かる。女性の浮かべている優しげな微笑み。その表情に僅かな狂気が混じる。
「この世界は歪んでいるわ。五百年前の事実から目を背けて都合のいい現実だけを信じている。自分が理解できないものを頑なに拒絶している。だけどそれでは人類が幸せになることなんてない。聖典に従わなければ人類は必ず破滅してしまうの」
ここで淀みなく話をしていた女性が「……いいえ」と静かに頭を振る。
「人類だけではないわ。聖典は万物の全てを救済するためのもの。何者も逆らうことは許されない。何者であろうと聖典に従わなければならないのよ。だから私は貴女をここに閉じ込めているの。貴女を救済したいから。貴女に本質を理解してほしいから。貴女は命を慈しんでは駄目なの。誰かのために涙を流しては駄目なの。だって貴女は――」
女性が澄んだ声音で言う。
「悪魔なんだから」
少女の赤い瞳から大粒の涙がまたポロポロとこぼれる。女性が聞き分けのない子供を見るように苦笑して、少女の瞳からこぼれた涙を再び指先で拭う。
「悪魔は全生命の敵でなければならない。世界を滅ぼす存在でなければならない。そうでなければ聖典に反してしまう。聖典の教えと食い違ってしまう。それは世界のみならず貴方さえも不幸にする歪みなのよ。だから貴女は悪魔の本質を理解するべきなの」
少女の涙を丁寧に拭い取り、女性がその場にゆっくりと立ち上がる。
「私は信じているわ。貴女もいつか私の言葉を理解してくれるとね。貴女が何かを殺しても涙を流さなくなったその時、貴女の望みを叶えてあげる。聖典の導きのままに」
ここで小さなバイブ音が部屋の中に響いた。女性がポケットからスマホを取り出してスマホ画面を素早くタップする。どうやら女性の端末に通知が届いたらしい。スマホ画面をじっと眺めていた女性がふっと表情を綻ばせる。
「コラボ企画……突然の誘いだから心配していたけど承諾してくれたようで嬉しいわ」
女性がスマホをポケットにしまい座り込んでいる少女にニコリと笑い掛ける。
「本当はもっと一緒にいてあげたいのだけれど御免なさい。最近は特に忙しくて。インストグラムに投稿する写真の撮影もそうなのだけれど、プロデュースしているブランドの会議にも出席しなければいけなくてね。一段落したらまた一緒にお風呂に入りましょう」
明るいブラウンの髪をさらりと掻き上げて女性がポツリと独りごちる。
「それにしても――聖女セリスとしての活動も思いのほか大変ね」