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第二章 左眼に傷のある猫3

 大通りから外れた路地。車も通ることができないだろうその狭い道を莉愛と桜井、そしてルーカスの三人が駆ける。三人の前には左眼の潰れた猫が一匹。まるで追いかけてくる人間を嘲笑うかのように、猫が慌てる素振りもなく軽快に路地を進んでいく。


「くそ――この猫ヤロウ! アタシたちのこと舐めてんな!」


 息を切らせながら莉愛はそう毒づいた。馬鹿にするようにチラチラと背後を見やる猫。苛立ちを募らせる莉愛に、彼女の隣を走っている桜井が眉をひそめる。


「猫ちゃんにそのような感情があるとは思えませんが……リア様、もう諦めませんか?」


「イヤだね! アタシは一度決めたことは必ずやり遂げる女なんだよ!」


「聖女の稽古でもその根性を見せて頂けると私も嬉しいのですけど……」


「私の記憶が正しければ、このまま進むと袋小路に追い込めるはずでございます」


 ぼやいている桜井に続いて、余裕ありげなルーカスがそうポツリと言う。ルーカスの言葉通り、道を曲がると前方に進路を塞ぐ壁が見えた。これでもう猫に逃げ場はない。莉愛はそう内心ほくそ笑む。だが猫は失速もせず壁へと駆けていき――


 そこに放置されていた段ボールを踏み台にして軽々と壁を乗り越えた。


「くそ――なんて生意気な!」


 この危機を簡単に脱するとは只者ではない――否、只猫ではない。もしかすると欠けた耳や潰れた左眼など、相当の修羅場をくぐり抜けた歴戦の猫なのかも知れない。莉愛はそんなことを適当に考えながら――


「桜井――頼んだ!」


 自身の騎士に簡潔に指示した。


 桜井がやや躊躇いを見せるも、右手に握りしめた刀の柄に左手を触れさせる。迫りくる前方の壁。一呼吸の間を挟んで、桜井が目にもとまらぬ速さで刀を抜刀した。


 桜井の刀によりコンクリートの壁がまるで豆腐ようにぶつ切りにされる。崩れた壁の瓦礫を跳び越えて、莉愛は速度を落とさずに前方の猫を追いかけた。桜井がチンッと刀を鞘に戻して嘆息する。


「後で町内の人にきちんと謝罪をしなくては」


「あんなボロイ壁がぶっ壊されても誰も困らねえっての」


 一人反省する桜井に莉愛はそう適当に呟いておく。ここで狭い道を抜けて目の前に急な下り坂が現れた。相変わらず軽快な足取りで坂道を下っていく猫。莉愛は舌を鳴らしつつも猫に続いて坂道を下ろうとした。するとその時――


「今度はこの私にお任せください!」


 見るからにボロボロの自転車にまたがったルーカスが声を上げる。


「ルーカス先輩!? その自転車は一体!?」


 ぎょっと目を見開く桜井に、ルーカスがキラリとイケメンスマイルを浮かべる。


「そこに放置されていました。サドルが取られていましたが何の問題もありません。丁度手元にあったブロッコリーを刺しておきましたから」


「問題あると思いますが……そもそもどうしてブロッコリーが手元に?」


「では行きますよ! ロドリゲス号発進!」


 桜井の疑問をきっぱり無視して、ルーカスが自転車――ロドリゲス号?――を勢いよく走らせた。急な下り坂をぐんぐんと加速して自転車が瞬く間に猫に追いつく。猫の真横に自転車をつけて、ルーカスがハンドルを片手で操作しながら逆の手を猫に伸ばした。駆ける猫の首元にルーカスの手が触れようとしたその時――


 バコンと音を立てて自転車の前輪が外れる。


「――おや?」


 妙に冷静なルーカスの声が聞こえた気がした。前輪の外れた自転車が前のめりに転倒して勢いよく宙を舞った。時間が不思議とゆっくりと流れていく。上下逆さまに宙を舞っている自転車と、その自転車にまたがるルーカス。その彼の表情は――


 なぜか爽やかに微笑んでいた。


 時間の流れる速度が元に戻り、宙に浮かんでいたルーカスが自転車もろとも、坂道の先にあった川に豪快にダイブした。坂を下り終えて道を右折する猫。莉愛と桜井もまた進行方向を右に曲げて猫の後を追いかける。


「ルーカス先輩ぃいいいいいいい!」


「……ほっとけよ」


 川に向かって悲痛に叫ぶ桜井に莉愛は冷めた気分でそう言った。ルーカスはいわゆる残念な美形君だ。このような失敗は日常茶飯事でいちいち心配するだけ無駄である。


「はっはっは。まさかタイヤが外れてしまうとは参りましたね」


 どうやって川から這い出したのか、びしょ濡れのルーカスがいつの間にか隣にいた。水浸しであろうと決して崩れないルーカスのイケメンスマイル。だがその彼の鼻にはピアスのごとく大きなザリガニがぶら下がっていた。


「……あの川にザリガニなんていたっけ?」


 とりあえずそれだけを呟いておく。前を走っていた猫がまた狭い路地に入る。鼻からザリガニを外しているルーカスを横目に見ながら桜井が口早に言う。


「あの路地は一本道です。お二人はそのまま猫ちゃんを追いかけてください。私は別ルートから猫ちゃんを先回りします」


 言うが早いか、桜井がすぐ横にある路地に侵入した。桜井を無言のまま見送り莉愛は猫の侵入した路地へと入る。猫を追いかけて入り組んだ路地を進むこと十数秒。路地の出口が見えてくる。そしてその直後、別の路地から先回りした桜井が姿を現した。


「猫ちゃん! 追いかけっこは終わりです!」


 桜井が両手を広げて路地の出口を通せん坊する。莉愛と桜井で猫を挟み撃ちする形だ。今度こそ猫を捕まえられる。そう考えたのも束の間、猫が駆ける速度そのままにぴょんと跳躍、出口に立ちはだかる桜井の胸元に飛び込んで上着の中に侵入した。


「へ――ふわぁああああああん!」


 猫が上着の中で激しく暴れまわる。豊満な胸をもみくちゃにされて桜井が悲鳴――或いは喘ぎ声――を上げながら崩れ落ちた。猫が上着の襟元からぴょいと飛び出して再び逃走を始める。まんまと猫に返り討ちされた自身の騎士に莉愛は苛立ちの声を上げた。


「何やってんだよ、桜井! また逃げられちまったじゃねえか!」


「だって……だってあんな激しく……初めてだったから……」


「どんだけ猫に貞操奪われてんだお前は! いいから立て! 猫を追いかけるぞ!」


「うう……もう止めたい」


 愚痴りながらも桜井が立ち上がり莉愛とともに走りだす。路地を抜けて再び通りに出る莉愛と桜井、ルーカスの三人。猫の追跡を始めてから約十分。だが先程から状況が何も変わっていない。さすがに体力の限界も近く莉愛は息を切らせながら声を荒げた。


「ったく――お前たち何やってんだ!? 聖女に仕えている騎士と執事が二人がかりで猫一匹も捕まえられないなんて! 恥ずかしいとは思わねえのか!?」


「こ、こういう時だけ聖女の話を持ち出すのは卑怯だと思います」


 調子のいい莉愛に桜井が即座に反論する。だがその声がどこか弱々しい。自分自身でも至らなさを感じているのかも知れない。猫の体力は無尽蔵。このままでは逃げ切られる。莉愛がそう考えていたところ、ルーカスが悩ましげな表情でポツリと言う。


「……仕方ありません。こうなれば最終手段に打って出るしかありませんな」


「何か策があるのか!?」


 莉愛の問い掛けに、ルーカスが「はい」と頷きながらも表情を沈痛に曇らせる。


「しかしこれは危険な賭けです。例え成功したとしても私の命はないでしょう」


「な、何だって!?」


「そして失敗するようならば間違いなく世界が崩壊します。それだけでなく全人類がどんぐりに変貌するでしょう。しかし……しかし私はこの策に懸けてみようと思います!」


「止めとけ!」


「はい! 止めます!」


 生産性のない会話を終了して、ルーカスが「ふむ」と平然とした様子で頷く。


「ならば次点の策に出ましょう。ということで――桜井さん」


「え? あ、はい」


 ここで名前を呼ばれると思っていなかったのか。桜井が困惑げに返事する。黒い瞳を丸くしている桜井。ルーカスが足を止めないまま彼女に一歩近づいて――


 その美しい表情を微笑ませる。


「桜井さん――どうか私と一緒になってもらえませんか?」


「え……えええええええええええええ!?」


 ルーカスの唐突な告白に、桜井が素っ頓狂な声を上げる。一瞬にして顔を沸騰させる桜井。動揺から口をアワアワさせている彼女に、ルーカスがさらに言葉を続ける。


「どうかお願いします。私と一緒になり未来を共に歩んでください。私には桜井さんしかいない。桜井さんだけなのです」


「ど……え……そんな……い、いきなり……」


「私たち二人が一緒なら、どのような苦難の道も乗り越えられる。桜井さんがそばにいてくれるなら、私は後ろを振り返らず走り続けることができる。そう心から思えるのです」


「わわ……私は……その……あの……」


「お願いします桜井さん。私のこの熱い気持ちを受け入れてください」


 女性ならば誰もが骨抜きになるルーカスの優しい微笑み。それを至近距離から浴びては桜井も堪らないだろう。困惑からか目をグルグルと回している桜井。しばしの間。顔を赤く染めた桜井がきゅっと瞼を閉じて意を決したように叫んだ。


「ああ、あの……不束者ですがこちらこそ宜しくお願いします!」


「ありがとうございます。では早速――」


 桜井の返事を受け取るなり、ルーカスがひょいと桜井の体を抱きかかえる。「へ?」と目を丸くする桜井。ルーカスが桜井を抱きかかえたまま力強く踏み出し――


 速度を急激に加速させた。


「はっはっはっは! 私と桜井さんが共に歩めばその走力は単純計算で二倍! さあ行きますよ桜井さん! 決して振り返ることなく猫さんを捕まえるのです!」


「いやそうはならねえだろ?」


 常識に反した理屈で加速したルーカスに莉愛はぽつりとツッコミを入れる。ルーカスにお姫様抱っこされた桜井が、真っ赤にした顔を手で隠しながらボソボソと言う。


「ああ……勘違いして恥ずかしいぃいい……もう消えてしまいたいぃいい……」


「どうしたのですか桜井さん? それより見てください。猫さんに追いつきましたよ」


 人ひとり抱えているとは思えない速度でルーカスが軽々と猫に追いつく。あとは手を伸ばして走る猫を捕まえるだけだ。しかしルーカスは猫と並走するだけで一向に猫を捕まえようとしない。そのまま走り続けること十秒弱、ルーカスがふと気付いたように呟く。


「そう言えば、両手が塞がっているため猫さんを捕まえることができません」


「馬鹿なの? お前は」


 莉愛は感じたことを率直に言う。するとここで猫が突然急停止した。一体どういうことか。莉愛はそう困惑するもすぐその理由に気付いた。猫が停止したその場所に――


 ソフトクリームが落ちていたのだ。


 ソフトクリームを食べ歩きしていた誰かが誤って落としたのだろう。ソフトクリームをペロペロと舐め始める猫。莉愛は徐々に減速して猫の後ろに立ち止まった。


「ってルーカス先輩!? 猫ちゃんが止まったのにどうしてまだ走り続けているんです!?」


「申し訳ありません。走力が二倍であるがゆえ急には止まれないのです」


「何なんですか!? その理由は!」


「と言うことでリア様、減速するためにこの辺りをぐるりと一周してきます」


 そんなこと言いながら、ルーカスと桜井が通りの向こうへと駆けていく。莉愛は溜息を吐くと、視線を下してソフトクリームを舐めている猫を見やった。


「とりあえず猫を捕まえることできたが……どうしたもんかね?」


 当初の予定では猫を屋敷に連れ帰り、撮影を始めるつもりだった。だがこの疲労状態で撮影をするのも億劫だ。莉愛はしばし思案して「ま、いっか」と腰に手を当てる。


「猫はとりあえず屋敷に連れて帰るとして、本格的な撮影は後日しよう。今日はもうダルくて何もする気にならねえし。それに今日の投稿に必要な写真は手に入ったしな」


 そう言いながら莉愛はスマホを操作した。スマホ画面に一枚の写真が表示される。その写真とは、桜井が猫におっぱいを噛まれている瞬間を撮影したものだった。羞恥に顔を赤らめた桜井の表情に、莉愛は甚く満足してコクコクと頷く。


「とてもエロくていい感じだ。何だかんだとエロの需要は捨てられないよな」


 この写真を投稿するとなれば桜井が反発するのは目に見えている。彼女がこの場にいないうちに写真を投稿してしまおう。莉愛はそう考えて手早くスマホを操作した。だがここでスマホからピコンと通知音が鳴らされる。


「ん? なんかDMが届いてんぞ?」


 フォロワーは多少なりと増えたが、アカウントを開設したばかりの莉愛にDMをやり取りするような知人などいない。怪訝に思いながら莉愛はDMを確認した。


「はあ!? どういうことだよこりゃ!」


 莉愛はぎょっと碧い瞳を見開く。突然送られてきたDM。その差出人。それは赤の他人でありながら莉愛の良く知る人物であった。否。その人物のことは莉愛に限らず大勢の人が良く知るだろう。一年前に彗星の如く現れた一人の女性。瞬く間に絶大な人気を獲得した今を代表する有名インフルエンサー。


 聖女セリスだ。


「なんでセリスが……アタシに?」


 セリスが自分のアカウントをフォローしたことは把握している。しかしだからとDMまで送ってくるとは想定外だ。莉愛はらしくもなく緊張しながらDMの内容を確認した。


 聖女セリスによる丁寧な挨拶。そして突然DMを送信したことに対する謝罪。そんなテンプレート的な文章に続いて本題となる内容が記載されていた。その内容とは――


「コラボ企画の……打診?」


 聖女セリスからの思いがけない提案に、莉愛はその場でしばし呆然とした。

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