第二章 左眼に傷のある猫2
「うう……まさか削除したデータを元に戻せるなんて……」
空暮町の一画。車の少ない通りを歩きながら桜井が肩を落としてそうぼやく。力なく項垂れている桜井――黒塗りの鞘に収められた刀を堂々と握っている――に、莉愛は頭の後ろで手を組みながらクツクツと笑う。
「データを削除しただけで勝ち誇るなんて桜井らしいな。そもそもデータはクラウドにアップしてんだからスマホのデータだけ削除しても意味ねえし」
「く……くらうど? CMとかでよく耳にはしますが……結局なんですか、それは?」
「倉庫みたいなもんかな。とにかく桜井はもう少しスマホを勉強したほうがいいぜ」
莉愛の言葉に「は……はあ」と桜井が力なく返答する。これから行われる撮影会が憂鬱なのだろう。すっかり意気消沈している桜井に莉愛は肩をすくめる。
「まあそう気を落とすなよ。今日は昨日みたいなエロ要素は必要ねえからよ」
「……本当ですか?」
「メリハリが大事だからな。エロ要素ばかりじゃ飽きられちまう」
桜井が明らかに表情をほっとさせる。これで多少なりと撮影に前向きになってくれるだろう。莉愛はそう考えて内心ほくそ笑んだ。
「ところでリア様。今回は撮影機材を持って来なくても宜しかったのですか?」
莉愛のすぐ背後を歩いていたルーカスがふとした疑問を投げる。莉愛はルーカスに振り返ると「まあな」と頷いた。
「撮影自体は屋敷に帰ってからするつもり。だから機材とかいらねえんだ」
「撮影でなければ、今はどこに向かわれているのですか?」
「具体的な場所はねえけど。今は企画に必要な素材を探そうと思ってんだ」
莉愛はジャージのポケットからスマホを取り出すと画面を何度かタップした。スマホ画面に目的の写真を表示して、莉愛は桜井とルーカスにスマホをかざす。スマホ画面に表示された写真には、聖女セリスと数頭の犬が映されていた。
「これはセリスが昨日アップした写真なんだけど、今回はこの写真と同じことをしようと思ってる。題して『不幸な動物を保護して好感度上げちゃおう大作戦』だ」
「好感度……ですか?」
ピンときていない様子の桜井に莉愛はスマホ画面を指差しながら説明を始める。
「この写真に映っている犬コロは保護施設に預けられていた奴なんだよ。セリスはその保護動物を一旦引き取り、新しい飼い主を募集して犬コロを届けるつもりらしいぜ」
「な……なんですって!?」
桜井が衝撃を受けたように声を上げ、手のひらをぱちんと鳴らして表情を輝かせた。
「なんて素晴らしい行いでしょう! 私は彼女を勘違いしていました! 聖女を自称する不届き者と思っていましたが、そのような心優しい人だったなんて!」
何やら感動している様子の桜井に、莉愛は「阿保か」と嘆息交じりに言う。
「簡単に騙されるなよな。こんなの好感度を上げるための偽善に決まってんだろ。本当に犬コロを新しい飼い主に届けているかも怪しいもんだぜ。どうせバレやしねえんだから、写真を撮り終えた後にすぐ犬コロを捨ててるかも知れねえぞ」
「彼女はそんなことしません! 性根のねじ曲がったリア様と一緒にしないで下さい!」
あっさり手のひらを返した桜井に莉愛は碧い瞳をジト目にする。性根がねじ曲がっている発言はさておき、相変わらず不安になるほど真っ直ぐな性格だ。簡単に結婚詐欺にでも引っかかりそうな自身の騎士に、莉愛は「まあ事実は知らねえけど」と手を払う。
「いつの時代も動物を絡めた話題ってのはグルメに負けないぐらい需要がある。閲覧者の数を稼げてなおかつ好感度も高くなる。こいつを利用しない手はねえだろ?」
「つまり保護施設に預けられている動物を引き取り新しい飼い主を探すということですね。素晴らしい企画です。そういうことでしたら私も協力は惜しみませんよ」
桜井が俄然やる気を見せる。だが対照的に莉愛はひどく冷めた口調で言う。
「そんな簡単に保護動物を引き取れるかよ。動物を引き取るにも審査ってのがあるんだぜ。きちんと動物を育てられるかどうかってな。新しい飼い主を探してやるから動物を寄こせって言っても門前払いされるのがオチだ」
「え……しかしセリスさんは?」
「アイツは飼い主が現れない場合は自分が育てることを条件に動物を引き取ってんだよ。それに有名人だし多少の融通も聞くさ。そもそも勘違いしてるみてえだけど、アタシはガチで動物の飼い主を探す気なんてないからな」
「うぇえええええええええええ!?」
素っ頓狂な声を上げる桜井。目を丸くしている彼女に莉愛は嘆息混じりに言う。
「んな面倒臭いことできるかよ。当然動物をこちらで引き取る気もねえからな。飼い主募集はあくまでパフォーマンスの一種。フィクションだよフィクション」
「そんな――それは人を騙すということですよ!? 聖女として決して許されません!」
「こんぐらいのことみんなやってんよ。誰に迷惑かけるわけでもねえしいいだろ?」
「動物はどうされるのですか!? 飼い主を探す気も引き取る気もないのであれば、まさか捨てるつもりではないですね!? いくらリア様でもそれは看過できませんよ!」
「飼い主を探す気も引き取る気もないが、捨てるつもりもない。強いて言えば元の場所に戻してやるだけだ。最初に言っただろ? 撮影の素材を探しているってよ」
桜井が表情を困惑させる。莉愛の意図が理解できていないのだろう。通りを歩きながら何となしに周囲を眺めつつ、莉愛は今回の外出の目的を話した。
「だから野良の動物で撮影しようってことだよ。撮影が終わったら元の場所に帰すだけだから捨てることにはならねえだろ? 撮影に協力してもらった報酬に美味い缶詰でも食わせてやれば、アタシも動物もお互いウィンウィンの関係になれるんじゃね?」
「それは……どうなのでしょう? 一度拾った動物を元の場所に戻すというのも、あまり良いことではないと思いますが……」
「拾うんじゃなくてスカウトだよ。道端で読者モデルを探すようなもんだ。難しく考えすぎなんだよ、桜井は。これはエンターテインメント。面白くてなんぼってこと」
「……そういうものなのでしょうか」
桜井が尻すぼみに声を小さくする。彼女の渋くした表情を見る限り納得はしていないようだ。だが反論も思いつかないらしい。生真面目な自身の騎士に莉愛は溜息を吐く。
(そもそも刀を持ち歩いている奴に常識を説かれるのも釈然としねえよな)
そんなことを考えながら視線を巡らせると、路地の隙間に小さな影を見つけた。
「おっと、ちょうどいいモデルを見つけたぜ」
莉愛はニヤリと笑い路地を指差した。路地の隙間にある小さな影。それは一匹の野良猫だった。茶色と白色が混じり合った体毛にネズミの齧り痕のような欠けた耳。瞼の閉じた左眼には大きな切り傷があり、残された右眼だけで莉愛たちを睨みつけていた。
「……随分とワイルドな猫ちゃんですね」
桜井が足を止めて路地を覗き込む。野良猫の風貌は人間で言えば山賊のそれに近い。その猫の気迫に飲まれたのか桜井の腰が若干引けていた。莉愛はスマホをカメラモードにすると路地の野良猫に向けてレンズを構える。
「いい感じじゃねえ? あんまり可愛い猫だと飼い主募集を真に受けた馬鹿からDMが来ないとも限らねえしよ。こんぐらい愛想悪くてボロボロの猫の方が都合良さそうだ」
「ひどい言い草ですね。しかし危なくないでしょうか? こちらを睨んでいますが」
「騎士が猫にビビッてどうすんだよ。さっさと屋敷で撮影するから猫を連れて帰るぞ」
「……分かりました。その代わり、きちんと猫ちゃんにも報酬を上げてくださいね」
桜井がそう念を押して野良猫に近づいていく。右眼だけで睨みを利かせている猫。だが逃げる素振りは見られない。桜井が猫の前に立ち止まり慎重に手を伸ばす。そのワイルドな風貌に反して猫が一切暴れることなく、桜井の胸に抱きかかえられた。
「はあああ……何だかんだ可愛いぃい」
桜井が猫を抱きしめて頬を赤らめる。『何だかんだ』と言うあたり桜井も猫の風貌に思うところがあったようだ。だがそれはそれとして莉愛はスマホを構えつつ桜井に指示した。
「そんな嬉しそうな顔をしてどうすんだよ。もっとこう悲壮感ある顔をしろよな」
「ふえ? ど、どうしてですか? そもそも撮影は屋敷に帰ってからではないのです?」
「本格的な奴はな。ただ念のため猫を拾うシーンも撮っておくんだよ。傷付き死にかけていた猫。それを見つけた桜井は見捨てることができず猫に救いの手を差し伸べた。そして桜井の豊満なおっぱいに抱かれた猫は夢心地の中、おっぱいの肉厚により窒息死する」
「死んでいますよ!?」
「まあそいつは冗談として、もっと悲しそうにするんだよ。そうじゃねえと不幸な猫を救ってやった感が全然ねえじゃねえか」
「……難しいですね……えっと……悲しげとはこんな感じでしょうか?」
眉尻を落として表情を作る桜井に莉愛はスマホ画面を覗き込みながら頷いた。
「まあそんな感じかな。後はもう少し猫を抱きしめてみようか。なんかこう『私が守ってあげるから』的な雰囲気を出すような感じで」
「猫を強く抱きしめる……こうですかね?」
桜井がキュッと猫を抱きしめる。猫が苦しくないよう彼女も当然力を加減していただろう。だが体を締め付けられて驚いたのか、大人しくしていた猫がパカリと口を開き――
桜井のおっぱいに噛みついた。
「――あふぅうううううん!?」
痛みによる悲鳴としては違和感ある声を上げて桜井が猫からぱっと手を離した。猫が地面に着地するなり路地の奥へと駆けていく。顔を真っ赤にしてその場に崩れ落ちる桜井に莉愛は「ああ!」と叫びながら駆け寄った。
「何やってんだ、桜井! 猫の奴に逃げられちまったじゃねえかよ!」
「だ……だって……む、胸を……胸を噛まれてしまって……」
「胸ぐらい我慢しろ! 何のためにそんな脂肪がたんまりついてんだ!?」
「そのためではありません! そ、それにただ胸を噛まれたわけではなく……噛まれた場所がその……ちょうど胸の先端でして……」
桜井の言わんとしていることを察して、莉愛は思わず一歩後ずさった。
「お……おう……それは災難だったな」
「うう……変な声を出してしまった」
桜井が目尻に涙をためて項垂れる。ひどく傷心しているようだ。さしもの莉愛も桜井に同情していると、ルーカスが「リア様。あちらを」と路地の奥を指差した。ルーカスの指差した先を見ると、そこには路地の角から顔を覗かせる片目猫の姿がある。
「ちっ――やってくれるじゃねえか!」
莉愛はスマホを強く握りしめると碧い瞳をギラギラと輝かせた。
「よくも桜井の大切な処女を奪ってくれやがったな! 猫だからって許せねえぞ!」
「奪われてませんよ! 人聞きの悪いこと言わないで下さい!」
処女については否定しないらしい。そんなことを考えつつ莉愛はさらに声を荒げた。
「ルーカス! 桜井! こうなりゃ意地でもあの猫をとっ捕まえて撮影するぞ! 猫ごときにアタシの撮影を拒否する権利なんぞねえこと教えてやるんだ!」
「承知しました、リア様!」
「べ、別の猫にしませんか?」
表情をキリリとして頷くルーカスと、胸を押さえながら躊躇いがちに呟く桜井。当然桜井のぼやきなど無視して、莉愛は路地の奥にいる猫をズビシと指差した。
「行くぞテメエらぁあああ! 残酷無比の猫狩りじゃぁあああああ!」
自分でもよく分からない声を上げて、莉愛は猫に向けて全力で駆け出した。