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第五章 聖女の後継者1

 そこは山間にあるプレハブ小屋のような場所だった。この付近まで運んでくれたタクシーの運転手は、この場所に客を運んだのは初めてだと話していた。夜中だというのにカーナビも頼りにできない場所に運ばされた運転手なりの愚痴だろう。何にせよ彼女――


 聖女アンナ・ホルトハウス・ヴァーゲはそのプレハブ小屋に一人足を踏み入れた。


 小屋の中には玄関などなく一間の部屋だけがあった。部屋の中にはシングルサイズのベッドが一つ。そのベッドに一人の女性がいる。ゆるいウェーブの掛かった黒髪。血色のない青白い肌。たれ目がちの黒い瞳に小さな微笑みを浮かべた唇。腰から下にシーツを被せたその女性が上半身だけを起こしてアンナを見つめていた。


 アンナは靴を脱がずに部屋に上がるとベッド脇に置かれている椅子に腰を下ろした。アンナをじっと見つめる黒髪の女性。アンナが金色の髪を掻き上げてふっと微笑する。


「こうして二人きりで話をするのは何年ぶりのことかしらね、使菜乃(しなの)


 アンナの当たり障りのない挨拶。因縁の相手に送る親しみの言葉。黒髪の女性――天笠使菜乃が「そうね」と思案する素振りを見せて小首をちょこんと傾ける。


「もしかしたら二十年ぶりかも。私たちが初めて出会ったその当時。高校生の頃にまで遡らないといけない。私たちが会う時は大抵、近くに恐い人がたくさんいたからね」


「それはどうかしら。その恐い人たちは私たちこそ恐いって思っていたかもよ?」


「ふふ……違いないわね」


 使菜乃がクスクスと笑う。彼女の笑顔に釣られてアンナも笑った。本当にこうして穏やかに会話をするのはいつ以来か。運命もしがらみも忘れて笑顔を交わすのはいつ以来か。遠い過去に置き去りにされた記憶。二人がただの友人同士だった掛け替えのない時間。アンナは碧い瞳を静かに瞬きさせてハンドバッグから一枚の封筒を取り出した。


「お手紙ありがとう。でもひどいわ。直前になって待ち合わせの場所を変えるなんて」


「社交的な貴女と違って私は人見知りするのよ。あんなに大勢の人を連れてきたんだもん。つい恥ずかしくて逃げてしまったわ」


「使菜乃らしいわね。だけど貴女が初めに送ってくれた招待状――例の写真もひどいものよ。あの写真から貴女の居場所を調べるのにも結構苦労させられたんだから」


「あれはちょっとしたイタズラ。高校生の頃によくやっていたでしょ?」


「使菜乃がよく昼休みにやってた超高難易度かくれんぼ? 貴女あの遊びのせいで授業に何回遅刻したと思っているの? 遊びに巻き込まれた私までとばっちり受けたんだから」


「ごめんごめん。当時からアンナは人気者だったから。あの遊びをしている時だけ私のことを見てくれているようで嬉しかったの。私はアンナぐらいしか遊べる人いなかったし」


「お互いにいい大人になったって言うのに勘弁してほしいわよ。もう」


「本当にごめんね。だけど……きっとこれがアンナと遊べる最後になるから」


 そうポツリと呟いて使菜乃が「コホコホ」と咳き込んだ。それは喉が乾燥した時にする軽い空咳のように思えた。だが使菜乃が口に当てていた手をそっと離した時、その手にはべったりと赤い血が付着していた。


 アンナは「使菜乃!?」と椅子から立ちあがる。使菜乃に手を差し伸べようとするアンナ。だがその彼女の手を使菜乃がさっと手のひらを向けて制止した。使菜乃に止められアンナは躊躇いながらも椅子に座り直す。使菜乃が一度深呼吸して小さく笑った。


「私が昔から病弱なのはアンナも知っているでしょ? それなのに若い頃から結構な無茶を重ねてきたから、この歳になってついにその負債を払うことになったみたい」


「……どうしてもっと早く私に連絡をくれなかったの?」


「そうしたら私のこと助けてくれた?」


 当たり前でしょ。そう言えるなら言いたかった。だがアンナは何も答えることができず沈黙する。その意図を汲み取ったのか使菜乃が「ありがとう」とアンナの沈黙に応えた。


「でも貴女の立場でそれをしては駄目よ。私たちは()()()なんだから」


 使菜乃が静かに息を吐く。


「アンナはホルトハウス教団の聖女で教団をまとめる側の人間。そして私はアンナたちが原理主義と呼んでいる組織の人間で、それをまとめる側にあった。私たちは憎み合わなければならない関係なのよ」


 ホルトハウス教団と原理主義。三百年前から敵対する因縁の関係。アンナと使菜乃はそれら組織を統括する立場にある。ゆえに互いに認め合ってはいけない。手を取り合ってはいけない。それは誤魔化せない事実だ。目を背けられない真実だ。だがそれでも――


「……確かに私たちは因縁の関係にある。だけど私は――」


 アンナは血に濡れた使菜乃の手を優しく握りしめて自身の想いを告げた。


「使菜乃を憎んだことなんて一度もないわ」


 微笑みの中に感情を隠してきた使菜乃。その彼女の表情に僅かな亀裂が入る。亀裂から覗いた感情は憂いか。それとも苦しみか。それはあまりに一瞬で判別できない。使菜乃がゆっくりと黒い瞳を瞬きさせて口を開く。


「……お互いに時間も限られているはず。私に訊きたいことがあるのでしょ? 私を探し出してくれたお礼よ。私に答えられることならできる限り答えるわ」


 時間が限られている。それは使菜乃にとって自身の病を意味したものであり、アンナにとって娘の拉致の件を意味したものなのだろう。使菜乃が娘の拉致に関与しているとは思えない。だがやはり情報は掴んでいるようだ。アンナは二呼吸の間を空けて尋ねた。


「原理主義は解体されたのではなかったの?」


「……ええ、十年前に貴女の手でね。少なくとも()()()()()()()()()()()そうよ」


「……それはどういう意味?」


「原理主義の意志は――私の意志は引き継がれている。私の()()()にね」


 使菜乃の娘。彼女に娘がいるなど初耳だ。そしてさらに使菜乃が言葉を続ける。


「今から三百年前――教団と原理主義の対立を決定づけた事件がある。教団に安置されていた聖女ビアンカの遺体と折れた聖剣。その二つを原理主義が盗んで隠した。私たちはその聖女の遺体と折れた聖剣から――純粋な聖女の力を有する娘たちを造り出したのよ」


「……聖女を造り出したって?」


 声を震わせるアンナに――


 使菜乃がその事実を告げる。


「聖女ビアンカのクローン。交配による汚れがない無垢な聖女。原理主義は娘たちを中心にした複数の派閥に分かれた。私たちにはもう既存の聖女は必要ないのよ」



======================



 秤谷莉愛は反射的に行動していた。赤い目を見開いて震えているだけの少女。その小柄な体を抱きしめて莉愛は地面を全力で蹴りつける。体を横に投げ出すと同時――


 莉愛の足元に三本の光の剣が突き刺さった。


「――げっ!」


 閑散とした駐車場。その地面に突き立てられた光の剣がアスファルトを軽々と切り裂く。新調した包丁でトマトを切るような切れ味。莉愛は肩から地面に着地すると少女を抱きしめたまま地面を転がった。痛みを堪えて碧い瞳を剣の出所に向ける。そこには――


 体を宙に浮かべたままこちらを睥睨する白いドレスに身を包んだセリスがいた。


「動きは中々のものね。だけれど下手に動くとこちらも加減できないわよ?」


「――っ……なんだありゃ?」


 頬にできた擦り傷を手の甲でこすりながら莉愛は舌を鳴らした。アスファルトの地面を切り裂いた光の剣。それがふっと消失して次の瞬間にはセリスの背後に移動する。地面から浮かんだ体。空中を疾走する光の剣。どれも莉愛の常識では説明できない現象だ。


「……神気装着(ドレスアップ)


 近くから声が鳴らされる。莉愛はハッとして視線を腕の中に落とした。小さな声は莉愛に抱かれている赤目の少女のものだ。体を震わせながら少女がポツポツと語る。


「聖女が……聖剣を使った時の力……セリスさんが本気になっちゃった」


「聖女って……そりゃセリスが聖女だって言ってんのか?」


「その通りよ」


 背後からの声に莉愛はドキリと胸を鳴らしながら振り返る。少女に視線を移していた僅かな時間。その間にセリスがいつの間にか背後へと回り込んでいた。足音などの気配は一切ない。唖然とする莉愛。声も出せないその彼女にセリスが青い瞳を静かに細める。


「私は聖女ビアンカ様の遺体から造り出されたクローン体。その思想も肉体も一切の汚れがない無垢なる聖女。汚れた聖女である貴女より世界を導くに相応しい存在よ」


「クローン……だって?」


 聖女の伝承に悪魔。そんなオカルトに続いて今度は妙に現実的な技術。クローン。全くもって頭が混乱する。莉愛はそんなことを考えながらその場に立ち上がった。莉愛を微笑んで見つめているセリス。余裕を湛えたその彼女を莉愛はギロリと睨みつける。


「よく分かんねえけど……クローンってそんな簡単にできるものなのかよ?」


「人間のクローンも技術的には十分可能よ。生きた遺伝子さえ採取できればね。厳重に保管されていた聖女ビアンカの遺体。そこから奇跡的に遺伝子の採取に成功したのよ」


「……くそ。いっそファンタジー路線で行くなら魔法で分裂しましたぐらい言えよな」


 自分でも意味不明の毒舌を吐いて、莉愛は赤目の少女を立ち上がらせつつ尋ねる。


「聖剣の力って言ったか? 服装が変わるなんざ魔法少女ちっくで結構なことだがよ……一体どこに聖剣なんて物騒なものを隠し持ってたんだよ?」


「勘違いしているようだけど、聖剣は何も剣の形をしているとは限らないわ。聖女ビアンカが剣を使用したのは事実だけど、今は様々な聖剣が存在する。例えば()()とかね」


 セリスが首にかけているネックレス、細い鎖につながれた銀色のペンダントに触れる。


「このペンダントは聖剣の一部を加工して作られたもの。今の私はこの聖剣を加工したペンダントから力を引き出している。そのパワーとスピードは御覧の通りよ」


 アスファルトの地面を切り裂くパワー。そして一瞬にして背後に回り込むスピード。確かに常軌を逸したものだ。セリスが隠れ家から駐車場まで素早く移動できた理由も聖剣の力なのだろう。莉愛はごくりと唾を呑み込んで一歩後ずさる。


「聖剣を加工って……そんな大事なモノを加工していいのかよ?」


「聖剣の加工は昔から行われていた。その聖なる力を利用するためにね。例えば悪魔であるその子に巻かれた首輪。それも聖剣の欠片を組み込んで作られたものよ」


 莉愛の問いにセリスが赤目の少女を指差した。少女を背後に隠しながら莉愛は少女の首輪を一瞥する。少女に不釣り合いの無骨な首輪。セリスが指を下して言葉を続ける。


「悪魔の力を封じ込めるために聖剣の力を利用しているの。本来悪魔に触れられるのは聖女だけ。だけど首輪をつけている間は、その子も生き物に触れることができる」


 悪魔に触れられるのは聖女だけ。だからセリスだけは首輪を外した少女に触れることができたのか。莉愛はこれまでの疑問点を解消しつつまた一歩後ずさった。


「さすが聖女様だな。こっちの質問に何でも答えてくれるとはお優しいことだ。そんなお優しい聖女様ならアタシたちを見逃してくれちゃったりしないか?」


 悪魔の少女を背後に隠しながらさらに一歩後ずさる。都合の良いことを口にする莉愛に、セリスが「ふふ」と可笑しそうに笑った。


「ダァメ。初めから私の言うことを聞いていれば良かったのよ。私は貴女たちを救済したかった。汚れた聖女も。許されざる悪魔も。その私を裏切った貴女たちが悪いのよ」


 翼のごとく両腕を広げて――


 セリスが青い瞳を輝かせる。


「少し痛いかも知れないけど――それは罪を浄化するためのもの。我慢してね」


 莉愛は咄嗟に少女の手を掴んで走りだした。駐車場に止めていた逃走用の車。その背後に隠れる莉愛。そして直後、彼女の隠れた車の側面に三本の光の剣が突き立てられる。


「――っ……おい! ルーカス! この暴発女を何とかできねえのか!?」


 ガタガタと激しく振動する車に寒気を覚えながら、莉愛は先程から静観している銀髪の執事――ルーカス・シュベルトに声を掛けた。主たる莉愛の命令。普段ならルーカスも何かしら行動したはずだ。だがどういう訳かルーカスが表情を沈めて頭を振る。


「申し訳ありません、リア様。私では彼女を止めることができません」


「は!? な、何言ってんだよルーカス! 止められないって――どうして!?」


 ルーカスは理不尽を体現したような男だ。彼がその気になれば大抵のことを実現できるだろう。その彼が簡単に諦めるとはどういうことか。困惑する莉愛にルーカスが一礼する。


「私の性質上、彼女には逆らうことができないのです。力及ばず心苦しい限りです」


「性質上って……どういう意味だよ?」


「しかしご安心ください」


 下げていた頭を上げてルーカスが微笑む。


「リア様は歴代最高峰の聖女――アンナ・ホルトハウス・ヴァーゲ様のご息女であらせられます。アンナ様の力を継承した貴女様ならこの危機を必ずや乗り越えられましょう」


「聖女の力って――うげ!?」


 身を隠していた車が突如浮き上がる。車に突き立てられた三本の光の剣。その剣により車が持ち上げられたのだ。数百キロもの車体を軽々と持ち上げる力。それを目の前にして体を硬直させる莉愛。持ち上げられた車体が槌のごとく振り下ろされる。莉愛はハッとすると少女をまた抱きしめて体を投げだした。


 車体が地面に叩きつけられる。あっけなくグシャグシャに潰される車体。莉愛は地面を激しく転がると、すぐに身を起こそうとして地面に手をついた。その直後――


 右足の太腿に激痛が走る。


「――ぎぃ!?」


 莉愛の起こそうとした体が倒れる。これまで感じたことない激痛。額に大粒の汗が浮かべながら莉愛は右足を見やった。右足の太腿に大きなガラスの破片が突き刺さっている。どうやら地面を転がった際、車から飛び散ったガラスの欠片を踏みつけたらしい。


「――お姉ちゃん!?」


 腕に抱いていた少女が顔面を蒼白にする。こちらの怪我を心配しているのだろう。つくづく悪魔らしくない反応だ。そんなことを考えつつ莉愛は体を起こそうとする。だが足にまるで力が入らない。立ち上がることはおろか這いずることも難しそうだ。


(っくしょう……漫画じゃ傷つきながらも立ち上がるなんて……簡単そうなのによ)


 現実はそんな甘いものではないらしい。莉愛の体の下でカタカタと震えている少女。その赤い瞳には涙まで滲んでいた。莉愛の血を見て嫌な記憶でも蘇ったのかも知れない。


「さて――これで動くことはできないわね」


 背後に三本の光の剣を従えて、セリスがゆっくりと莉愛へと近づいていく。あくまで優しい微笑みを浮かべているセリス。彼女にとってこれは暴力ではない。救済なのだ。


「大丈夫だとは思うけれど……余計な横やりは入れないでね、ルーカスさん。心配しなくても殺しはしない。腕の一本ぐらい切り落とせばリアも分かってくれると思うから」


 セリスがさらりと言う。微笑みを崩さない彼女にルーカスもまたふっと微笑する。


「ええ、もちろん。先程も申し上げたように、私はリア様を信じておりますから」


「……リアの聖女の力……ね」


 セリスの微笑みが僅かに揺れる。


「あまり期待しないほうがいいわよ。彼女は所詮箱入り娘のお嬢様だから。それに彼女の潜在能力が高いと仮定して、聖剣のない彼女に何ができるというのかしら?」


 セリスの絶対的な自信。だがルーカスの微笑みは微動だにしない。僅かな動揺もなく戦況を静観している。それが気に入らなかったのかセリスの微笑みが静かに消えた。


(――二人とも……勝手なこと言いやがって)


 胸中で毒づきながら体を踏ん張らせる。だがやはり身動きができない。目に涙を滲ませたまま震えるだけの少女。少女の瞳に湛えられた涙が大きく膨らんでいき――


「もう……いいよ」


 少女の口から掠れた声がこぼれる。


「もう……いいよ……諦めようよ……逃げるなんて……無理だったんだよ……」


 少女が声を詰まらせながら言う。少女の言葉に四つん這いのまま沈黙する莉愛。少女が莉愛のジャージをキュッと掴んで、プルプルと小さく首を振った。


「謝ろう……謝れば……セリスさんもきっと許してくれる……言うことを聞いていれば……優しくしてくれる……それでいいよ……それで……十分だから……」


 少女の声が尻すぼみに消える。


 少女の言うことは正しい。真剣に謝罪すればセリスは矛を収めるだろう。セリスの目的は聖典による救済。自分たちが聖典に従うことを誓えばセリスも満足するはずだ。


 そしてその後は、セリスの監視下で二人とも生きていくのだろう。少女は悪魔である自覚を促されて、自分は無垢なる聖女であるセリスを信奉する。それは辛いことかも知れない。だが生きることはできる。日々の生活も不自由しないはずだ。


 どちらにせよ逃げられないのならば痛めつけられて捕まるだけだ。どうせ捕まるなら早く投降したほうがいい。傷付かないだけその方が得だ。それが賢いやり方だろう。理論的なやり方だろう。莉愛はそこまで考えて――


 その表情を皮肉に歪めた。


「……なあお前さ、花火がぶっ刺さったかき氷って見たことあるか?」


 莉愛の突拍子のない質問。不意を突かれたのか少女が「え?」と赤い瞳を丸くする。ぽかんとする少女。その表情が可笑しくて莉愛は「きしし」と笑った。


「花火がぶっ刺さったかき氷だよ。それも小さい花火じゃねえ。結構デケエんだぜ? かき氷を喰おうにも花火が邪魔で喰えねえし、花火の熱でどんどんかき氷は解けるし、何の食いもんだって思わず笑っちまったよ」


「……お姉ちゃん?」


「後はそうだな、ヘンテコな猫にも会ったな」


 疑問符を浮かべる少女を無視して莉愛は話を続けた。


「目に傷がある猫なんだけど、ちょいと捕まえてやろうかと追いかけたんだ。でもルーカスは川に落とされるわ、桜井は乳揉まれるわで、大人二人が猫一匹に悪戦苦闘だぜ? あの情けなさったら今思い返しても笑っちまう」


「……ネコ……ちゃん」


「馬鹿馬鹿しいだろ? ただ屋敷に閉じこもりっぱなしじゃ分からなかったことだ」


 少女の涙に濡れた赤い瞳。その瞳が小さく揺れている。人間ではない少女。聖女の宿敵たる悪魔。その少女を見つめて莉愛は語る。


「アタシは聖女として育てられてきた。普段は屋敷に閉じこもりっぱなし。たまに外出しても気ままに散歩できるわけでもねえ。そんな引きこもりを強制されていたアタシとしてはさ、そういう馬鹿馬鹿しいことが楽しくて仕方ねえんだよ。賢い生き方とか、理論的な生き方とか、そういうものよりも大事なんだ」


 セリスが足を止めて両腕を広げる。彼女の意志に反応して空中に浮かんでいる三本の光の剣がその先端を莉愛に向けた。それを気配で感じながらも莉愛は少女に語り掛ける。


「お前はいいのかよ? 閉じこもりっぱなしでよ。外に出ればこんな馬鹿馬鹿しいことに出会えるかも知れねえんだぜ? お前の言っていることは正しいよ。でもよ、そんな正論が馬鹿笑いできることよりも大切なのかよ?」


「……でも……ボクは……」


「悪魔――か? それならアタシも聖女だ。だが知るかよ。アタシの人生だ。我儘に生きてやる。お前だってアタシみたく馬鹿笑いしたいだろ? ならそう言えよ。何とかしてやる。これでも逃げ足には自信があんだぜ?」


 莉愛はニヤリと笑う。少女の瞳に滲んでいた涙がポロポロとこぼれ落ちていく。


「言えよ……お前はどうしたい?」


「……ボク……ボクは――」


 セリスの光の剣が放たれる。放たれた光の剣が目標に到達するまで約一秒。話をする時間などない。だが莉愛は確かに聞いていた。呼吸する間もない時間の中――


 少女が荒げたその想いを。


「ボクも――馬鹿笑いしたい!」


 この直後――


 莉愛の周りに()が膨らんだ。

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