第三章 聖女セリス4
一体どれほどの時間が経過したのか。莉愛は特にきっかけもなく眠りから目覚めた。
「……んあ?」
視界がぼやけている。眼鏡がないのだろう。だが見上げている天井が何となく屋敷と違うような気がした。それとなく体をゴロゴロと左右に転がす。寝ているベッドの弾力。これも屋敷のものとは違う。どうやら自分は見知らぬ場所で眠っているようだ。寝起きの鈍重な思考で莉愛はそれを理解した。
(なんだったっけかなあ……どうしてアタシはこんなところで眠ってんだっけ?)
一度開いた瞼をまた閉じて思案する。普段以上に眠気がなかなか取れない。莉愛は心地よい眠気に揺られながら眠りにつく直前の記憶を探った。
今日は誰かと会う約束をしていたような気がする。世間的に名前の知られた有名な誰か。そうだ。聖女セリスだ。有名インフルエンサーのセリスからコラボ企画を打診されて、その話し合いのために珈琲王国という喫茶店で待ち合わせをしたのだった。
(それで……どうしたっけ?)
珈琲王国には約束通りセリスが待っていた。ネット上でしか見たことのない聖女セリス。写真加工が当然の現代において彼女はネットに存在する姿そのままだった。そして挨拶もそこそこに銀色のペンダントを見せられた。結局あれは何の意図があったのか。
(そしたら……急に……眠たくなって)
睡眠薬。セリスがそんなことを言っていたか。だからこんなにも眠いのか。莉愛はようやく納得してまた眠気に身を委ねる。意識がゆっくりと溶けていき――
「――って、眠ってん場合じゃねえ!」
莉愛は慌てて眠気を振り払うとベッドの上で上半身を起こした。
睡眠薬とはどういうことか。どうしてセリスが自分に睡眠薬など使用するのか。疑問はまだある。眠る直前に聞いたセリスの言葉。聖女についての話。セリスはネット上で聖女と呼ばれている。だがセリスが口にした聖女とはネット上のそれではない。田舎町のマイナー教団――ホルトハウス教団で祭り上げられている聖女のことだった。
「何でアイツが……教団と聖女のこと知ってんだよ?」
セリスの口振りから察するに、彼女がこのような行動に出たのは教団や聖女のことが関係しているらしい。何にせよセリスから詳しい事情を聞く必要がある。莉愛はそう考えて大きく嘆息した。するとその時――
「あ……あの……」
今にも消え入りそうなか細い声が聞こえた。
莉愛はぽかんと碧い瞳を丸くしてベッド脇に振り返った。ぼんやりとした視界。そこに人影らしきものを見つける。だが眼鏡がないため誰なのか判然としない。ジト目になって人影を睨みつける莉愛。人影が怯えるように体を震わせて何かを差し出した。
「あの……これ……眼鏡」
人影の差し出した何かを見やる。ぼやけた視界でもすでに見慣れた眼鏡。莉愛は人影から眼鏡を受け取ると、その眼鏡を手早く掛けて改めて人影を見やった。
それは幼い少女だった。見た目の年齢は十歳前半。おかっぱにした黒髪に明るい褐色の肌。少女に似つかわしくない首に巻かれた無骨な首輪。白のワンピースを着ておりスカートを丁寧に折り畳んで椅子に腰かけている。
不安げな表情で莉愛を見つめている褐色の少女。その彼女をじっと見返して莉愛は首を傾げた。見覚えのない少女だ。間違いなくそう断言できる。なぜなら――
少女の特徴的なその赤い瞳は一度見たら決して忘れないだろうからだ。
(あとお子ちゃまにしては……胸が大きいし)
ワンピースに隠れていても分かる胸元の丸い膨らみ。それを莉愛は睨みつけるように見やった。莉愛の視線が怖いのか少女が僅かに身を仰け反らせる。
「その……ご……ごめんなさい」
「あ? なんで謝んの?」
少女の唐突な謝罪に莉愛は眉をひそめる。少女が顔を俯けてボソボソと言う。
「だって……怖い顔で……睨むから」
別にそんな怖い顔で見たつもりなどなかったが。莉愛は寝ぐせのついた金髪をボリボリ掻きながら「わりいわりい」と苦笑した。
「別に怒ってるわけじゃねえんだ。そんなことより、お前って誰だ?」
「ぼ、ボクは……お姉ちゃんと一緒にこの部屋にいろって……そう言われて……」
「言われてって……誰に?」
「……セリスさんに……」
少女がたどたどしくそう答えた。少女の返答に莉愛はふと思案する。この少女もセリスにより連れてこられたということか。だとすれば一体セリスは何を考えているのか。まさか有名インフルエンサーの彼女が身代金目的で誘拐などしないと思うのだが。
「……そういやお前、名前なんての?」
「な……名前?」
少女が表情を曇らせて沈黙する。莉愛はしばし待つも少女から返答が一向に返されない。少女の不可解な態度に莉愛は「なんだよ?」と唇を尖らせた。
「どうして黙ってんだよ? もしかしてアタシから先に名乗れってことか?」
「ちが……そう……じゃなくて」
どうにも煮え切らない少女に、莉愛は再度口を開こうとした、その時――
「名乗りたくとも名乗れないのよ。だってその子には名前なんてないから」
女性の声が二人の会話に割り込んだ。
莉愛は聞き覚えのある声に振り返る。ベッドだけが置かれた簡素な部屋。窓には板が打ち付けられて容易に開けられないよう細工されている。外に出る手段は部屋にある唯一の扉だけ。その扉がいつの間にか開かれており一人の女性が立っていた。
明るいブラウンの髪に青い瞳。大人びた柔らかな笑顔。有名インフルエンサー。聖女セリス。何食わぬ顔で現れたその彼女に莉愛は碧い瞳を鋭く細めていく。
「……セリス……てめえ」
「私について来てちょうだい」
莉愛の怒りなど気にも留めず――
セリスが笑顔のまま淡々と言う。
「ホルトハウス教団が貴女に隠し続けてきた真実を教えてあげるわ」