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第三章 聖女セリス2

「きしししし。ちょろいちょろい」


 莉愛はほくそ笑むと頭に被せていた黒髪のカツラを脱いだ。過去に面白半分で買ったカツラがこのように役立つとは。莉愛はそんなことを考えつつ着ていたコートも脱いでカツラと一緒に持っていたバッグに押し込んだ。


 トイレで変装して桜井とルーカスの目を欺く。単純なやり口だが上手くいったようだ。変装状態でトイレから出ていく時は緊張したが、二人は何やら話し込んでいるようで、こちらの顔までは確認しなかったらしい。


 莉愛はバッグから分厚い眼鏡を取り出して目元に掛けた。視界がクリアとなりようやく人心地つく。コートの下に着ていた普段着のジャージ。そのポケットからスマホを取り出して莉愛はスマホ画面に周辺地図を表示した。


「さてと……本当の待ち合わせの場所は……こっちかな?」


 一人呟きながら狭い路地を進んでいく。セリスとの本来の待ち合わせ場所。それは喫茶ラフレシアから徒歩十分のところにある別の喫茶店だ。名前は珈琲王国。五十年以上前から経営しているコーヒー専門店らしい。


「……にしても、随分と人気のないところにあんだな?」


 莉愛は入り組んだ路地を進みながらそう嘆息した。これでは客足も見込めないだろう。数年前からネット情報の更新もないため、そもそも営業しているかも怪しいものだ。


「まあ待ち合わせ場所にしている時点で閉店はしてねえはずなんだが……っと?」


 莉愛は足を止めて目の前にある古びた建物を見やる。屋根に取り付けられた看板。そこに掠れた文字で書かれた珈琲王国の文字。どうやらここが目的の喫茶店らしい。


「薄暗えな。本当に営業してんのか?」


 どうも店内に照明はついてないらしい。莉愛はやや躊躇いながら店の扉に手を掛けた。軋み音を鳴らして扉が開く。鍵は掛けられていない。莉愛は少し安心して店内に入った。


 店の入口に立ち止まり店内を見渡す。カウンターとテーブル席が三つ。二十人ほど入れば満席になるだろう小さな店だ。パッと見た限り掃除はされている。だがカウンターの奥にある食器棚は空っぽで、やはり営業しているようには見えなかった。


「こっちよ」


 薄暗い店内に女性の声が鳴る。莉愛は店内の観察を止めて声に振り返った。店の奥にあるテーブル席。そこに一人の女性が座っている。明るいブラウンの髪に青い瞳。大人びた顔立ちながら人懐っこい笑顔。ネットで幾度も見たことがあるその顔は――


 聖女セリスで間違いない。


 莉愛は僅かばかり緊張しながらセリスへと近づいた。セリスが席から立ち上がり莉愛に微笑みを向ける。テーブルの前で立ち止まる莉愛にセリスが小さく会釈した。


「初めまして。セリスの名前で活動している天笠(あまがさ)芹栖(せりす)よ。本日は宜しくね」


「天笠……アンタ日本人だったのかよ?」


 陳腐な感想だが、フランス人形のようなその顔立ちに、てっきり外国人が日本で活動しているのかと考えていた。莉愛のこの言葉にセリスが「ふふ」と小さく笑う。


「出生を話すと色々複雑なんだけど、私は日本生まれの日本育ちで生粋の日本人よ。そういう貴女こそ綺麗な碧い瞳をしているわ。日本人にはあまり見られない特徴よね」


「親がドイツと日本だけど、アタシも日本生まれの日本人だよ」


 そこまで話しをして莉愛は自身の自己紹介をしていないことに気付く。


「アタシは秤谷莉愛。どうぞよろしく」


 莉愛はそう適当に挨拶を済ませると椅子に腰を下ろした。莉愛が腰を下ろしてからセリスが改めて椅子に座り直す。客が席に着いたというのに店員が現れる気配もない。莉愛は店の奥へと続いている通路を何の気なしに眺めつつセリスに尋ねた。


「セリスさんよ。ちと訊きたいんだけど――」


「セリスで構わないわ。歳も近そうだしね」


 セリスの言葉に莉愛はやや困惑しながら「そうかい」と肩をすくめる。


「んじゃあアタシのことも下の名前で呼んで構わねえよ。それでセリス……この店って営業してんのか? 店員もいねえし店の中も暗えし、どうもそうは見えねえけど?」


 莉愛の質問にセリスが静かに頭を振る。


「二年前に閉店して今はもう営業していないわ。今日は知り合いの伝手でこの場所をオーナーから借りているだけ。秘密のお話をするのに最適だと思って」


「人払いするために店をまるごと借りたのかよ? 随分と羽振りの良いことだな」


「そうでもないわ」


 セリスがふっと微笑する。


「SNSに投稿する写真ひとつで何百万というお金が動くこともある。それを考えるならこの程度の出費は必要経費だとは思わない?」


「……スケールがデカすぎてピンとこねえよ。にしても二年前に閉店したにしては店の中はそんな汚れてねえのな」


「スタッフに掃除をしてもらったの。埃だらけの店で話をするのも嫌だしね」


 スタッフとはセリスの撮影をサポートしている人間のことだろう。セリスほど有名なインフルエンサーとなれば撮影から編集まで一人で行うことなどないはずだ。セリスがちらりとカウンターを一瞥して嘆息する。


「でも少しだけ残念ね。ネット情報によればこの店が提供するコーヒーはとても好評だったそうよ。ぜひとも味わってみたかったのだけど……仕方ないわね」


 セリスがそう話ながら足元に置いてあったビニール袋に手を伸ばした。怪訝に眉をひそめる莉愛。セリスがビニール袋から二本の缶を取り出してテーブルの上に置く。


「この店のコーヒーには及ばないと思うけど近くのコンビニで缶コーヒーを買っておいたの。良ければどうぞ。コーヒーが苦手なら他のソフトドリンクも用意してあるけど?」


「いや……コーヒーでいい。ありがたく貰っておくぜ」


 セリスが一本の缶コーヒーを差し出す。莉愛はセリスから缶コーヒーを受け取ると手早く開けてコーヒーを一口飲んだ。やや苦味の強いブラックコーヒー。莉愛はコーヒーをもう一口飲んで缶をテーブルに置いた。


「さてと……そんじゃあ早速コラボ企画の話し合いを始めようって行きたいところだが、その前にもう一つだけ質問してもいいか?」


「ええ、もちろん。一体何かしら?」


 穏やかに微笑んでいるセリスに莉愛はニヤリと挑発的に笑う。


「どうしてアタシ一人だけをここに呼びつけた? そもそもインストグラムの写真を見ただけで、どうして演者とは別に企画演出をしているアタシの存在に気付いたんだ?」


 セリスから送られてきたDM。そのメッセージにはコラボ企画打診の他、コラボを実現するにあたり一つの条件が記されていた。それは写真に映っている女性(さくらい)ではなく、アカウントを実質管理している人間と二人きりで直接話したいというものだった。


 一つのアカウントを多人数で共有することは珍しくない。だが企画担当と演者が別の人間であることまでは投稿した写真だけから判断はできないはず。セリスはなぜその事実に気付いたのか。莉愛はそれが気になっていた。


「……質問が二つになっているわね」


 セリスがのんびりと指摘する。彼女の呟きを莉愛は「そういやそうか」と適当に受け流した。セリスが自身の缶コーヒーをコクリと飲んで唇を舌先で舐める。


「そうね……話しても構わないのだけれど、その二つの質問に答える代わりに、まず私の質問に答えてもらえないかしら?」


「アタシに質問?」


「難しい質問じゃないわ。すぐに済むから」


 セリスがそう気楽に話して、自身が着ているワンピースの襟元に手を触れた。怪訝にセリスの動きを見つめる莉愛。セリスが首にかけていた細い鎖を指先で摘まんでワンピースの襟から銀色の物体を引っ張り出す。


「なんだそれ?」


 莉愛は眉をひそめながらセリスが服の中から取り出した銀色の物体を観察した。細い鎖につながれた小さな剣。刀身を下に向けたその形状は十字架に酷似している。細かな意匠が施されており、それが土産物屋で売られているような安物でないことは容易に知れた。セリスが細い鎖を首から外して銀色の剣を手のひらに乗せる。


「これは私の大切なペンダントなの。私が何よりも一番大切にしている宝物ね」


「……宝物?」


「そうね……少し気障な言葉で言うとすれば――母の形見とでも言うのかしら?」


 自分の言葉が可笑しいのか。セリスがクスクスと笑いペンダントをかざした。


「まあだけど大切なモノというはホント。肌身離さず常に持ち歩いているのだけれど、人前で見せることなんて滅多にしないわ。SNSではもちろん一度も見せたことない」


「……それが何なんだよ」


「貴女にこれをよく見てほしいの。そして感じたことを率直に教えてちょうだい」


 セリスがペンダントを莉愛に差し出す。なぜ大切なペンダントを他人に見せようとするのか。セリスの意図に困惑しながらも莉愛は差し出されたペンダントを手に取った。


 剣を模した銀色のペンダント。近くで見るとその装飾の細かさが良く分かる。やはり量産品ではないだろう。だが莉愛の分かることなどその程度のことだった。


「……この剣先……少しだけ欠けてんのな」


「ええ……先日ちょっとね。それで何か感じるものはないかしら?」


「感じるものって言われてもな」


 細い鎖を指先で摘まみながら莉愛は剣の形をしたペンダントをじっと眺める。


「別になにもねえけど。売ったら高そうだなってことぐらいで」


「売られても困るんだけどね」


 セリスがそう苦笑して――


 その青い瞳を僅かに細める。


「やはりまだ()()()()()()()()()のね。予想はしていたけど」


 セリスのポツリとした呟き。莉愛はますます困惑して首を傾げた。セリスが「質問に答えてくれてありがとう」とまた屈託のない笑顔を浮かべる。


「私の質問はこれでお終い。約束通りリアさんの――リアの質問に私も答えるわ。ただその前にそのペンダントを返してもらえる?」


「ん……あ、ああ」


 莉愛は戸惑いながらも頷く。念のためにもう一度ペンダントを確認。だがやはり何も感じるものなどない。莉愛は嘆息してセリスにペンダントを差し出し――


 ここで莉愛の全身から力が抜け落ちる。


「――な?」


 テーブルに上半身が倒れ込む。唖然とする莉愛。全身が鉛のように重い。一体何がどうなっているのか。彼女の脳裏に浮かぶ大量の疑問符。だがその疑問符がことごとく崩れて消える。強制的に思考が閉じていく。莉愛は落ちる瞼を懸命に堪えながら――


 強烈な眠気を意識した。


「薬が効いてきたのね」


 セリスが平然と呟く。莉愛は霞んでいく視界を動かしてセリスを見やった。テーブルに倒れた時に手から落としたペンダント。それをセリスが拾い上げてクスリと笑う。


「リアに渡した缶コーヒー。あれに睡眠薬を混ぜておいたの。蓋が閉まっていたから油断してしまったのか。そもそも注意すらしてないのか。どちらにせよ迂闊ね」


「す……いみん……やく?」


 なぜ自分に睡眠薬を。即座に浮上する疑問。だがそれもまた強烈な眠気に崩される。周囲の音が消えていく。雑音が取り払われた聴覚。そこにセリスの声が不気味に響く。


「質問に答える約束だったわね。どうして写真に映されている女性以外に企画している人がいると気付いたのか。それは貴女を尾行していた部下から報告を受けていたからよ。貴女が喫茶ラフレシアでインストグラムの写真を撮影しているとね」


 尾行。ドラマなどでは馴染みある言葉。だが現実で耳にすると違和感しかない。テーブルに倒れたまま動けない莉愛。その彼女を見下ろしてセリスが淡々と言葉を続ける。


「それを報告してくれた人は残念ながら死んでしまった。だけど正しきことのために命を懸けた彼はその魂がきっと救済されたはず。だから悲しんではいけないの」


 思考が鈍重で何も考えられない。セリスが一拍の間を空けてまた口を開く。


「それに投稿された写真に映されていた女性。桜井花奈は真面目な性格だと聞いているわ。その彼女があんな写真を望んで撮るとは思えない。彼女は誰かの指示に従っている。そう考えるのが自然よ。そして彼女が逆らえない人物は――聖女か或いはその後継者だけ」


 閉じかけていた意識がゾクリと震えた。聖女。その単語を口にするのはマイナー教団に毒された大人たちだけのはずだ。それなのになぜセリスがその単語を口にするのか。


「聖女アンナはそれを指示するような人ではない。何より彼女は今、過去の因縁に決着をつけるため手が離せないはず。だとすればそれを指示したのは聖女の後継者である貴女であるはず。仮に部下からの報告がなかったとしても十分予想できることよ」


「……な……んで……」


「大丈夫。心配しないでいいわ」


 セリスが優しい声で語り掛けてくる。


「私は貴女を守ってあげたいの。少なくとも貴女が聖典に従う意志があるのならね。だってそうでしょ? 貴女は汚れているかも知れない。だけど私と同じ――()()なんだから」


 莉愛の意識が落ちる直前――


 セリスが耳元でこう囁いた。


「おやすみ。歪んだ教典に縛られた哀れな聖女――リア・ホルトハウス・ヴァーゲ」


 そして直後――


 莉愛は窓ガラスの割れる音を聞いた。

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